日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

08年02月のバックナンバーです。

2008年2月3日 降誕節第六主日礼拝

説教「御言葉によって養われる」
聖書朗読 : ヨハネ福音書6章1〜15節
説教者 : 北川善也伝道師

 主イエスが山に登って語られるのを見た時、群衆はシナイ山で律法を授けられたモーセの姿を思い起こしたのではないか。彼らは、この時確かにモーセのような人物を求めていた。なぜならば、かつてモーセがイスラエルの民をエジプトから導き出したように、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれることを切に願っていたからだ。またちょうどその時、神がエジプトからイスラエルを救い出された出来事を記念する過越祭が近づいていた。つまり、彼らは折しも神がその出来事を再びもたらしてローマ帝国を撃退し、イスラエルを救い出されることを密かに願い求めている時期でもあったのだ。

 このような期待から主イエスに従って来た大勢の群衆は、疲労と空腹の極限状態に陥っていた。主は、弟子のフィリポに「どこでパンを買えばよいだろうか」と問われたが、これは人間を生かすために必要なパンをどこに探し求めるべきかという意味である。これに対してフィリポは、当時の労働者の七か月分の収入に相当するほど大量のパンなどどこにもない、すなわちお手上げだと答えるしかなかった。そして、諦めついでにもう一人の弟子アンデレが発した言葉によって、そこにある食糧が全部かき集めても子ども一人分しかないという事実が浮かび上がる。そしてそこには、男性だけで五千人、女性や子どもを合わせればその倍近い「さまよう羊たち」がいたのだ。

 「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして……」(11節)。主はこの業を通して、人間が生きていくために本当に必要な「命のパン」を与えられるのが誰かを示された。しかし、このしるしの意味は、ヨハネ福音書の最後において明らかにされるまで完全には開示されない。

 神の御一人子であり、真の救い主である主イエスが、自らの肉を裂き、血を流してくださることによって、我々は初めて罪の赦しと永遠の命に与ることが出来る。そしてそれゆえ、そのようにして与えられる「命のパン」は、神の国と深い関係を持っていると言える。しかし、群衆はそれを「預言者」によるこの世の業としてしか理解出来ない。

 主が、命を懸けて神の国に招いてくださっているにもかかわらず、我々はこの世の価値観から目をそらすことが出来ない。そればかりか、我々は主イエスをこちら側に引き寄せ、自分たちが望むこの世の王に仕立て上げようとさえする。我々が、主と真剣に向き合わず、自分勝手な解釈を続ける限り、我々は主が与えようとしておられる神の国に近づくことなど出来ない。我々は、絶えず神の御言葉と聖餐の恵みによって、主からしか受けることが出来ない「命のパン」に与り、神の国へ向けて歩み続けねばならない。

2008年2月10日 受難節第一主日礼拝

説教「悪より救い出したまえ」
聖書朗読 : マタイ福音書4章1〜11節
説教者 : 北川善也伝道師

 主は、悪魔の誘惑を受けるため、荒れ野に行かれた。その直前、主はヨハネの洗礼を受けられた。なぜ、神の子であるお方が人間と同じ洗礼を受けられたのか。それは、ヨハネの洗礼の正しさを神と人々の前で証しするためだった。しかし、それだけでなく、主はこれによって、すべての人の罪を担う苦難の僕としての道を歩む決意を示されたのだ。主が洗礼を受けられると、「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」(3:16)。この霊が、悪魔の誘惑に遭わせるため、主を荒れ野へ導くのだ。

 主が受けられた誘惑の一つは、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(3節)というものだ。しかし、主はこれを旧約の御言葉、「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)をもって退けられる。これは、元の文脈では、イスラエルの民が荒れ野で飢えた時、神への信頼を貫くことが出来ず、その信仰を回復するにはマナという天からの助けが必要だったことを記した箇所だ。しかし主は、神の民イスラエルでさえ貫くことが出来なかった信仰を、すべての民にもたらすために、まず主御自身がそれを徹底的に示し、我々を導いてくださるのだ。

 もう一つの誘惑は、神殿の屋根の端に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と煽るものだ。これとよく似た描写が、マタイ27:40以下にある。それは、十字架にかけられた主を嘲笑する言葉だ。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。……神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ」。これら人間の言葉が、悪魔のそれと酷似していることに戦慄を覚える。人間は、このようにして簡単に悪魔に心を牛耳られ、主の十字架を否定する罪に呑み込まれるのだ。

 十字架の否定は、それによって主が与えようとしている永遠の命を否定することであり、そうなれば人間を待ち受けているのは、死による滅びしかない。このように、死と滅びが支配する世界は、我々のすぐそばで口を開けているのだ。そのような罠を仕掛けて待っている悪魔の誘惑にさらされながら生きざるを得ない我々のために、まず主御自身が誘惑に立ち向かってくださった。そして、主はそれらの誘惑をことごとく乗り越え、サタンを完全に退けられた。こうして主は、我々のために勝利の道を用意してくださったのだ。我々は、レントにあって主の御受難を覚えつつ、しかしそのことによって栄光に輝く勝利の道を開いてくださった主を見失わず、共に歩んでいきたい。

2008年2月17日 受難節第二主日礼拝

説教「神の御業が現れるため」
聖書朗読 : ヨハネ福音書9章1〜12節
説教者 : 北川善也伝道師

 名もない一人の男がいた。彼は、生まれつき目が見えず、道端で物乞いをして暮らしていた。当時、このような人々は、本人か親族が犯した罪の報いとして障がいを与えられていると考えられ、そういう生活を強いられていた。彼の近くを通りかかった時、主イエスの弟子たちさえも「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と主に尋ねた。

 主は、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と答えられた。しかし主は、このように言われる前、既にこの人の歩むべき道を定め、彼を神の御栄光を現す器へと変える意志を持っておられた。

 主は、唾でこねた土をその人の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われ、彼はその通り実行して見えるようになった。主は、その人が積極的な喜びをもって生きる存在となるための力を与えられる。主の御業によって、彼は目が癒されただけでなく、全く新しい人間に生まれ変わったのだ。

 彼は、主の導きによって、人からの施しに依存する人生を捨て去り、自分の力で歩む人間に変えられた。主は、このようにして一人一人の人間を捕え導き、神の御栄光を現す働き人に変えてくださる。神は土の塵から人間を創造されたが、主は唾で土をこね、それによって新しい人間を再創造されるのだ。そして、水の洗いをもって生まれ変わらせてくださる。

 目が見えず、物乞いの生活を余儀なくされていた彼は、こうして全く新しい人間に生まれ変わり、主こそ神の御子であり、真の救い主であることを力強く証しする者とされた。しかし、彼はこの行為により、ユダヤ人の会堂から追放されてしまう。そんな彼のもとに再び主は来られ、「あなたは人の子を信じるか」とその信仰を確かめられる。

 彼が、主の姿を「見た」のはその時が初めてだった。それゆえ、彼は「その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と尋ねざるを得ない。しかし、主が「あなたが見て、話しをしているのがその人だ」と言われるや否や、彼は「主よ、信じます」と言ってひざまずき、信仰者が取るべき姿勢を取る。彼にそれが出来たのは、主に触れていただくことによって、既に真に見るべきお方をまっすぐに「見る」素地を与えられていたからだ。我々は、礼拝の場で御言葉に触れることによって、この素地を養われていく。

 そのようにして、我々が他には何も見る必要のない、真に見るべきお方として主イエスを受け入れる時、それまで辛く厳しいことばかりとしか思えなかった人生が、大きな希望の光によって包まれ、我々はその希望の中を限りない喜びをもって歩んでいく者へと変えられるのだ。

2008年2月24日 受難節第三主日礼拝

説教「永遠の命の言葉」
聖書朗読 : ヨハネ福音書6章60〜71節
説教者 : 北川善也伝道師

 今日与えられた御言葉は6章最後の部分だが、その冒頭には主イエスによる五千人の給食の奇跡が記されている。人々は、この奇跡を起こした方を自分たちの王に担ぎ上げようとしたが、それはこの方を真の救い主として受け容れたからではなかった。

 人々が、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34節)と願ったのは、欲望むき出しの求めに他ならなかった。イスラエルの人々は、ローマ帝国の属国民として、自分たちの農作物を搾取され、卑屈な立場に甘んじるしかなかった。そんな彼らは、主が奇跡の力でローマ帝国を退け、自分たちの真の支配者となってくれることを期待していたのだ。

 人間はこのように、自分の願いを叶えてくれる対象として主を捉える弱さを持っている。しかし、我々が主をそのような対象として捉えるとしたら、キリスト教は他の「ご利益宗教」と変わらないものになる。それは、自分の期待に応えてくれる限り信じるという前提での信仰であり、期待通りにならなかったらすぐ鞍替えするという程度の信仰に過ぎない。

 ひとたび主を信じ、従って来た多くの人々が、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)という反応を示す。彼らは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54節)という主の御言葉を受け容れられず、見切りを付ける。

 主は、「わたしを食べることによって救いに与りなさい」と語られた。主は、御自分が十字架に向かって歩まれた生き方そのものを我々の血とし肉とせよと言っておられるのだ。しかし、我々は十字架とは対極にある、美しく、大きく、偉大なものに心惹かれ、貧しく、汚く、惨めなものからは極力離れようとする。そんな我々に対して主は、「あなたがたも離れて行きたいか」と問いかけられる。

 主は、「あなたは自分の意志で十字架を受け容れ、そこに踏みとどまっているのではない。わたしが捕らえているから踏みとどまることが出来るのだ」と告げておられる。我々が本来持ち合わせている自分中心の価値観で計っている限り、到底主の十字架を受け容れることなど出来ない。しかし、人間の思いをはるかに越えたところで、我々は既に主によって捕らえられ、命の御言葉に与っているのだ。

 主は、「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」(63節)と言われる。主の御言葉こそ真の命の源に他ならない。しかし、それは「肉」である人間には本来理解することが出来ない。主は、そんな人間に「神の霊」を送り、命の御言葉を受け容れ、十字架の出来事を自分のものとすることが出来るように変えてくださるのだ。

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