日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

08年03月のバックナンバーです。

2008年3月2日 受難節第四主日礼拝

説教「香油の香りで満たされた家」
聖書朗読 : ヨハネ福音書12章1〜8節
説教者 : 北川善也伝道師

主イエスは、マリアとマルタの姉妹から、病のため瀕死の状態にある兄弟ラザロの癒しを頼まれるが、主が彼のもとに到着された時、既に彼が葬られてから四日過ぎており、そこには死という取り返しのつかない現実を前にして嘆き悲しむ姉妹の姿があった。

 彼女たちがどんなに手を尽くしても、ラザロの死を食い止めることは出来なかった。家族を失った時、人間を襲うのは、もっと何かなしえたのではないかという痛切な思いだ。死は、そのようにして人間に限界というものを否応なく突きつけてくる。人間の限界である死、しかしその死を主が破られたのだ。

 ラザロの復活の出来事の後、主は彼の家に招かれ、マルタがふるまう食事を皆と共にしておられた。「そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」(3節a)。

 彼女が注いだ香油は、通常の場合、潤いを保ったり、良い香りを付けるための化粧品として用いられたが、特別なケースとして、死者を葬る際その全身に塗るためにも用いられた。この時、彼女は無論、前者の意味でそれを用いたのだが、無意識のうちに後者の機能をも働かせたのだ。彼女は、人間の思いを超えた不思議な仕方で、主の特別な時を指し示す役割を果たした。彼女がそれをなし得たのは、主が自ら苦しみを担われ、御自分の命を捧げる歩みをなさろうとしている御決意を、兄弟ラザロを復活させるという、主の徹底的な愛の御業の中に見出したからだ。主は、人間を死という限界にとどまらせず、十字架の道を進まれることによって、死が終わりではないことを明確に示し、人間が永遠の命へと至る道を切り開いてくださった。

 そして、それほどまでに大きな恵みをもたらされたマリアであるがゆえに、彼女はあり余る持ち物の中から少しずつではなく、持っているすべてを一度に捧げ尽くして感謝を表したのだ。主は、別の聖書箇所で彼女のことを、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(マルコ14:9)と言われた。彼女の行為によって、その家は香油の香りでいっぱいになったと記されているが、彼女は家中をよい香りで満たしただけでなく、誰もが忘れることの出来ない信仰告白のあり方を示したのだ。

 我々も、マリアのように、自分が主のためになし得ることがどんなことなのかを知り、それを実行に移したい。主によって捉えられ、永遠の命へと至る道を指し示された我々は、それぞれに与えられている賜物を活かして神の御栄光を現すために出来ることとはいったい何なのかということを絶えず祈り求めつつ、共に歩んでいきたい。

2008年3月9日 教会創立100周年記念・特別伝道礼拝(受難節第五主日)

説教「土の器が輝く時」
聖書朗読 : Uコリント書4:7〜11、16〜18
説教者 : 市川忠彦先生(大和キリスト教会牧師)

 「人の心は病苦をも忍ぶ、しかし心の痛むときは、だれがそれに耐えようか」(箴言18:14、口語訳)。人間の心は、悩み苦しみに耐える強さを持っているが、人生の歩みの中で様々な問題に耐えてきた心は痛んでいる。人間の心はもろさを抱えているのだ。

 森有正の著書『土の器に』の中に、「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っている。醜い考えがあり、また秘密の考えがある。しかし、人間はそこでしか神と出会うことができない」という言葉がある。我々は、自分の行動や考えに大きな影響を与えている、人には見せたくない内側の部分を直視すべきだ。なぜなら、我々はそこでしか神と出会えないからだ。

 クリスマスの出来事は、まず先に人を迎え入れる「客間」ではなく、逆に隠しておきたいような「馬小屋」でひっそりと起こった。人間の中の、少しは見栄えのする部分は、既にこの世的な事柄で埋め尽くされ、そこに大切な方をお迎えする余地はない。残されているのは、見られたくないドロドロした部分だけだ。しかし、御子はそこに来てくださった。

 人間の最も大切な部分は、内側の奥深くにあり、人間はそれを土台にしている。神は、その部分にしっかり目を止め、そこに御子を送ってくださった。人間の大切な部分がおろそかにされ、その上に立っている存在そのものが崩壊してしまわないためだ。

 神は、たった一人のかけがえのない存在として我々を造られた。そして、我々が生きている今日という日もたった一度きりだ。二度とやってこない今日を大切に生きるために、我々はしっかりした土台の上に立たねばならない。

 パウロは、自分のことを「土の器」であると自覚していた。キリストと出会う前の彼は、この世の肩書きだけは立派だが、中身は空っぽの存在だった。その虚しい器を今や、神が真の宝で満たしてくださっている。そして、それこそが本物の強さであると彼は知ったのだ。十字架にかかってくださった主イエスこそ唯一の、真の宝だと。だからこそ、彼は「我々は落胆しない」と叫ぶように告白するのだ。

 我々は、キリストの体の一部分であるにもかかわらず、勝手にそこから離れ、消え去ろうとする存在だ。しかも、勝手に離れておきながら、自分はたった一人で悩み苦しみの中にあると思っているのが我々なのだ。しかし、実際には神がいつも我々と共に苦しんでくださっている。それも、御一人子を十字架にかけるほどの中途半端ではない思いをもって。そして、何としても御自分のもとに戻るようにと我々に呼び掛けておられる。このようにして、すべての人々に例外なく与えられているのが神の愛なのだ。

2008年3月16日 棕櫚の主日

説教「見よ、あなたの王が来る」
聖書朗読 : ヨハネ福音書18章1〜14節
説教者 : 北川善也伝道師

 主イエスが弟子たちと共に赴かれた園をある聖書注解者は、「主の一行がエルサレム滞在中、自由に出入り出来るよう、ある裕福な市民が私有のオリーブ農園の門の鍵を与えた」と想像力豊かに描写する。もしこれに近い状況だったとすれば、この園は主の一行にとって休息を取るために訪れる貴重な安らぎの場所だったということになる。

 しかし、主は御自分の命に危険が迫り、絶えず誰かにつけ狙われているという緊張感が高まっている時期に、誰にも発見されたくないその安らぎの場へ堂々と赴かれたのだ。主がこのように、「最後の砦」とも言えるような場所を明け渡す行動を取られたことから、この世で果たすべき業の仕上げに向かおうとされる主の並々ならぬ御決意を思わせられる。

 そこにユダが引き連れてきた兵士の一隊は、ローマの一軍団であり、その数は五百人近かった。たった一人を捕らえるために、なぜこんなにも大勢の軍隊が派遣されたのか。相手は、武装して抵抗してくるかもしれない。また、大勢の群衆と結束して膨大な勢力になっているかもしれない。それゆえ、彼らは「松明やともし火や武器を手にして」そのグループのアジトとおぼしき場所に向かったのだ。

 しかし、目的地にたどり着いた彼らは、予想を覆す状況を目にする。岩陰などに潜伏していると思っていた主イエスが自ら進み出て、「誰を探しているのか」と尋ねられたのだ。ところが、彼らは主の顔を知らなかった。主は、この時黙って逃げ去ることも出来たのだ。しかし主は、彼らに「わたしである」と答えられた。

 兵士たちは、「袋の鼠」を追い詰めた猫の立場のはずだった。しかし、たった一人の主を前にして、この世の力を象徴するような完全武装した兵士たちが、その力を全く行使することが出来ない。にもかかわらず、主は自ら進み出て捕われの身となられるのだ。ここに、主が自ら十字架を選び取られたということがはっきりと示されている。

 主は、十字架という父なる神が与えられた「杯」を飲み干す道を選ばれた。主は、ここにおいて父なる神の御計画を徹頭徹尾貫き通されたのだ。主が、十字架上で最後に語られた「成し遂げられた」という言葉は、主の勝利宣言だ。

 こうして、主は完全なる勝利を治め、すべての人間の罪を贖い、永遠の命をもたらすという神の約束を成就された。それゆえ、主はすべての人間の王となられた。しかもそれは、ろばの背に乗り、身を低くしてやって来られた王であり、自ら手ぬぐいを腰にまとい、弟子たちの足を洗われる王だ。主が、そこまで我々に近づき、いや我々より低くなって徹底的に神の愛で覆ってくださるゆえ、我々は何も恐れずに、すべてをお委ねして歩むことが出来るのだ。

2008年3月23日 復活祭礼拝(イースター)

説教「なぜ泣いているのか」
聖書朗読 : ヨハネ福音書20章1〜18節
説教者 : 北川善也伝道師

 主イエスは、何のためこの世に来られたのか。人々の前で神の子としての圧倒的な力を見せつけるためだったろうか。いや、その全く逆である。最も低く小さな者となり、十字架によってこの世の命を終えるために主は来られた。しかし、神の子がこのような死に方をなさる必然性がいったいどこにあるというのか。我々の希望はどうなってしまうのか。

 四つの福音書は、いずれも克明に主の死の場面を記録している。そのこと自体が、すべての人間に例外なく訪れ、すべての人間にとって恐れの対象である死という出来事が神の子の上にさえ起こったという衝撃の強さを表している。十字架は、人間が考えうる最も残酷な刑と言われる。それは、誰もが隠しておきたい、そっと迎えたい最期の時である死を万人の目の前にさらされる刑だからだ。

 その時、主が十字架にかけられ、血をしたたらせながら力をなくしていかれるのを見守っていた信仰者たちは、神の子であるお方がこのように自分たちの目の前で死んでいかれる厳然たる現実を突きつけられ、言葉に出来ないほどの衝撃を受けたはずだ。主の十字架における死。それは、主に唯一の希望を置いていた者たちにとって、完膚無きまでに叩きのめされ、希望が完全に打ち砕かれた瞬間だった。

 主が十字架上で息を引き取られたのは金曜日であり、翌日は誰も何もしてはならないと定められた安息日だった。主に従った者たちは、主の御遺体を十字架から取り降ろしてもらい、急いで墓に運んだが、そこで日が沈んでしまい、それ以上のことは出来なかった。日没後の長い一日を、彼らはどんな思いで過ごしただろうか。

 その一人だったマグダラのマリアは、安息日が明けた途端にたった一人で主の墓へと向かった。しかし、そこで彼女が見たのは、墓穴をふさいでいた大きな石がどけられ、主の遺体がなくなり、埋葬する時に包んだ亜麻布だけが残されているという驚くべき状況だった。彼女は、墓の前から動けず、そこに立ち尽くして泣くしかなかった。

 しかし、マリアがいつまで空になった墓の方を向いて泣いていても、何の新しい展望も彼女に起こりはしなかった。それどころか、そのような空しい行為によって彼女にもたらされるのは、より深い悲しみと、より大きな心の傷ばかりだった。空虚なものの前に立ち続け、時間を費やしても、失われたものが戻ってこないだけでなく、逆にその空しさに生命力を吸い取られていくばかりだ。

 主は、そのような空虚な場所にはおられない。マリアが、空の墓を見つめ、死という現実に直面して絶望の只中にいた時、復活された主は既に彼女に寄り添っておられた。けれども、主がおられるのは、彼女が向いている空しい墓の中ではないから、彼女はそのままでは主とまみえることは出来ない。思い出にすがりつき、ただ泣くしかないマリアを、復活の主が自ら近づき、振り向かせてくださるのだ。こうして、彼女は死ではなく、真の命と希望の方向に振り向くことが出来た。そして、それによって彼女は、弟子たちに「わたしは主を見ました」と力強く告げ知らせる、主の復活の最初の証言者となることが出来たのだ。

 人間は、自分の殻の中に閉じこもり、進むべき方向を見失ってしまう弱さを持っている。誰もが心の中に暗闇を抱えている。それゆえ、人間はそのままでは自分の生命力をその暗闇に吸い取られていくばかりなのだ。

 しかし、命の本当の意味を見失い、生命力を弱らせていく一方である我々のところに、主が自ら近づいてきてくださり、180度の転換を与えてくださった。その転換を引き起こすのが、主の復活なのだ。闇から光へ。悲しみから喜びへ。絶望から希望へ。死から命へ。人間を、あらゆる否定的な領域から神の領域へと引き戻すのが、主の復活だ。

 主の復活は、人間が抱えている空虚な暗闇を、死に打ち勝たれた主の輝かしい勝利の光で隅々まで照らし出し、真の命の喜びで満たしてくださる。そして、その出来事を通して、それまで暗闇しか知らなかった人間に180度の転換をもたらし、「光の子」としてくださるのだ。

 そのような復活の主が、絶えず我々のそばにいて、尽きることのない絶対的な希望へと導いてくださる。我々を勝利の光で照らし出し、真の命の喜びで満たしてくださる主がおられる方向を振り向く信仰が一人一人に与えられ、その信仰が主によって絶えず成長させられて、一人一人のうちにいつまでも灯し続けられることを心から願う。

2008年3月30日 復活節第二主日

説教「あなたがたに平和があるように」
聖書朗読 : ヨハネ福音書20章19〜31節
説教者 : 北川善也伝道師

 安息日の翌朝、墓から主イエスの御遺体が消え去り、それを最初に発見したマグダラのマリアがうろたえ、泣きながら立ち尽くしているしかなかったところに、復活の主はその姿を現された。同じ日の夕方、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」が、そこに驚くべき出来事が起こった。

 弟子たちは、主が十字架上で息を引き取られたのを見届けた。それを現実の出来事として、目前で見せつけられた彼らは、すべての人間にとっての終着点である死に、神の御子さえも行き着かれたという衝撃に打ちのめされ、夢も希望も完全に失って、家の中に閉じこもっているしかなくなったのだ。しかし、そんな彼らのもとに、復活の主が御自分の方から近づいて来てくださった。

 彼らの中に立たれた主は、「手とわき腹をお見せになった」。十字架の死を見せつけられたのと同じように、目前で主が御自身の復活を示されなければ、彼らはそれを受け入れられなかった。しかし、彼らにはそれでも不十分だったのだ。彼らは、主によって聖霊の助けを与えられることなしに復活を信じられなかった。復活の信仰を、人間の能力だけで得ることは困難だが、主が送ってくださる聖霊によってそれはもたらされる。

 トマスは、他の弟子たちが、十字架上で死なれた主が復活されたのを見たと言うのを聞いても、「私は、その手に釘の後を見て、この指をそこに入れてみなければ、そして、この手をそのわき腹に入れてみなければ決して信じない」と言って認めなかった。後日、彼が他の弟子たちと共に鍵をかけた家の中にいると、そこに突然主が現れ、「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われた。主は、人間が自分の目で見なければ信じられない弱さを抱えていることをよくご存知でそのようになさったのだ。

 弟子たちは、主が目の前に現れ、聖霊を与えてくださることによって復活を信じ、そこからさらに、人々に「罪の赦しによる悔い改めを得させる」力を与えられた。罪の赦しは、主の復活なしにあり得なかった。それは、神の御一人子であるお方だけが、神と人間との間に入って執り成すことの出来る唯一の存在に他ならないからだ。このお方が、死に打ち勝ち、永遠の命の初穂となってくださった。

 主の復活によって成し遂げられた罪の赦しと永遠の命という究極の福音を宣べ伝える業が、復活の主が目の前に現れ、聖霊を送られた弟子たちによって、今まさに始められようとしている。主は、「あなたがたに平和があるように」という言葉をもって、その活動を始められた。主は、聖霊を通して我々に復活信仰を与え、それによって罪の赦しを得させ、この世を真の平和で覆い尽くしてくださるのだ。

バックナンバー