日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

08年04月のバックナンバーです。

2008年4月6日 復活節第三主日

説教「そこにおられる主」
聖書朗読 : ヨハネ福音書21章1〜14節
説教者 : 北川善也伝道師

 シモンは、兄弟アンデレと共に漁師としてガリラヤ湖畔で暮らしていたある日、主イエスから「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけられ、それまでの生活を捨てて従った。その後、主は彼に「ペトロ」という名を与えた。それは「岩」という意味であり、主は「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)と言われた。こうして彼は、十二弟子の中でも特別な位置を与えられ、後には初代教会の指導者として大きな働きをしていく。

 しかし、ペトロが主の弟子として歩んだのは「エリート街道」などではなく、逆に「悲惨な悪路」とでも呼んだ方がふさわしい道のりだった。主は、最高法院に引き渡される直前、彼に「あなたは、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告される。これに対して彼は、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い張るが、結果的に「そんな人のことは全く知らない」と三度にわたって主を否むのだ。

 ペトロは、主が十字架上で死なれるのを離れたところから見届け、主に従い通すことが出来なかったという挫折と共にすべての希望を失い、心に大きな闇を抱え込んだ。彼は、ガリラヤ湖での漁師生活に戻るしかなかったが、それに積極的に取り組むというより、つかの間でも心の傷を忘れたくて、ただ漠然と身体を動かすという状況だったのではないか。そして、彼の心の中を映し出すように、舟を沖に出して一晩漁をしても何の成果も上がらず、網が空っぽのまま帰ってきたのだった。

 そこに復活の主が現れ、「子たちよ、何か食べるものがあるか」と問われた。主は、「あなたがたは生きていくために本当に必要な食べ物を持っているか」と問いかけられたのだ。しかし、それに対する彼らの答えは、「ありません」という力も希望も失った短い一言のみだった。彼らは、空しさに覆われていたために、そこにおられるのが主であることすらわからなかったのだ。

 ところが、そんな彼らが主の御言葉に従った結果、驚くべき出来事が起こる。浜から程近いところで降ろした網が魚で一杯になり、それと同時に彼らの目が開かれ、そこにおられるのが主であることがはっきりわかったのだ。

 主は、彼らを「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招かれる。主は、弟子としての破れを負った彼ら、とりわけ大きな心の傷を抱えたペトロに対して、直接呼びかけてくださる。復活の主は、こうして我々が希望を失い、気力をなくしている時にこそ近づいてきてくださり、我々に必要な命のパンである主御自身を差し出してくださる。それゆえ、我々はこのパンを感謝をもって受け取り、主の慈しみ深さ、恵み深さを味わうべきなのだ。

2008年4月13日 復活節第四主日

説教「主を愛する愛」
聖書朗読 : ヨハネ福音書21章15〜25節
説教者 : 北川善也伝道師

 人間にとって、死はすべての終わりを意味する。死んだらおしまいなのだからせめて生きている間だけでも楽しもう、という思いに誰でもとらわれそうになる。しかし、人生には喜びだけでなく痛み苦しみがあり、そこから逃れることは誰も出来ない。そして、生きている間だけ楽しければ良いというのは、まるでサーカスの綱渡りが落ちて終わりにならぬよう一歩一歩恐々進むのと同じように、いつ訪れるかわからぬ死に絶えず恐れおののきながら続けられる空しさを伴う生き方だ。

 主が十字架の上で死なれた時以来、弟子たちは希望を失い、死の恐れに震えながら生きていた。そして、彼らが絶望の淵で、空しく成果の上がらない漁を続けるような生活しか出来なかった時、彼らの前に主が現れ、空っぽの網を魚で満たすと同時に、空しさに覆われていた彼らの心を真の喜びで満たしてくださった。

 しかし、そこに復活の主との喜ばしい再会を果たしながら、なお心の底から喜べない男がいた。真の命の喜びにあふれた主との食事を終え、他の弟子たちが立ち去った後もペトロだけが取り残されるようにそこにいたのだ。彼の心に刻まれた傷は、それほど深かった。

 ペトロは、主が十字架刑を言い渡される最高法院へ連行される直前、主から「あなたは、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と宣告された。しかし、彼は、「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い張った。けれども、彼は結果的に「そんな人のことは全く知らない」と三度にわたって主を否むのだ。そしてその瞬間、かつては自分ほど主との距離が近い者はいないと確信していた彼が、最も遠いところに離れ去ってしまった。

 しかし、そんな彼の目の前に主は再び来てくださり、「わたしを愛しているか」と問いかけられる。三度主を知らないと言ったペトロに対して、三度「わたしを愛し、わたしの羊を飼いなさい」と主は繰り返された。このように主は暖かく包み込むようにして、「あなたがどんなに弱く、どんなにわたしを見捨てようとも、わたしはあなたを愛し、決して見捨てない。わたしはいつでもあなたと共にいる」といういつくしみ深さを示してくださる。

 主のこのような愛によって、ペトロは主が常に共にいてくださることを確信し、歩むべき道に復帰することが出来た。そして主は、「わたしの羊を飼いなさい」と呼びかけ、与えられた賜物を主のために用いる生き方へと彼を送り出されるのだ。主は、我々一人一人のことをも捕らえ、「わたしに従いなさい」と導いてくださっている。主の御声に聞き、罪赦された喜びを真に自分のものとするために洗礼を受け、信仰を告白し、そこからこの喜びをあまねく宣べ伝える、光栄ある務めへと共に遣わされていきたい。

2008年4月20日 復活節第五主日

説教「恐れずたゆまず」
聖書朗読 : ヨハネ福音書15章18〜27節
説教者 : 北川善也伝道師

 洗礼者ヨハネは、主イエスに洗礼を授けた時、「"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と証している。それに先立ち、ヨハネは荒れ野で生活しながらユダヤ地方一帯からやって来た大勢の人々に洗礼を授けていた。その中には、後に主イエスと激しく対立するファリサイ派やサドカイ派の人々も含まれていた。彼らは、ヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉に反応したのだった。それは、終わりの日が近いということであり、彼らはそれを神が天変地異をこの世に起し、人々をふるいにかける恐ろしい審きの日と理解していた。それで、慌てて「悔い改め」ようとしたのだ。

 神は、人間を神の似姿として造り、御自分の対話相手にしようとされた。しかし、人間はすぐに神を裏切り、神に背を向け、自ら遠ざかって行く。これは、我々とは何の関係もない出来事ではなく、現在の我々が置かれている状況に他ならないのだ。我々は、この罪という根本的な問題を解決しなければ、いつまでも神の怒りに身を震わせながら生き続けねばならず、真の救いに与ることなど出来ない。

 我々の内側に深くこびりついている、自分の力では決して拭い去れない罪の汚れを、主が十字架にかかることによって完全に取り去ってくださった。我々は、この主を信じる信仰に入れられることによって、終わりの日にやって来る審きの座を恐れ、死の恐怖におののきつつ過ごす必要など全くなくなるのだ。なぜなら、この信仰によって、終わりの日にもたらされるのは「滅び」ではなく「永遠の命」であるという恵みに満ちた確信を与えられるからだ。

 それゆえ我々が目を向けるべきお方は、主イエス以外におられないのだ。主は、この世に生を受けた人間の命に本来の意味を取り戻させるために、「わたしがあなたがたを世から選び出す」(ヨハネ15:19)と言われる。我々の命に本来与えられている意味とは、神によって創造された時の神の似姿を取り戻し、神と正しく向き合って対話する関係を回復することに他ならない。

 主は、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである」(ヨハネ15:26)と言われた。父なる神が、真理を自分のものとするために必要な聖霊を我々に送ってくださるのだ。疑い深く罪深い人間に、神が御一人子の十字架の出来事を通して、罪の赦しと永遠の命を与えてくださっていることを悟らせるため、神は聖霊を送ってくださる。我々は、この聖霊を豊かに受けて、共に究極の恵み、至上の喜びに与ろう。

2008年4月27日 復活節第六主日

説教「勝利者イエス・キリスト」
聖書朗読 : ヨハネ福音書16章25〜33節
説教者 : 北川善也伝道師

 我々は洗礼を受けた瞬間、何か劇的な変化を与えられるわけではない。外見的には、洗礼前も後も普通の人間であることに何ら変わりはない。しかし、我々は洗礼を受けることによって、主イエスがいつでも共にいてくださるという福音の中心的な事柄を、より鮮明に見ることが出来るようになる。洗礼によって、主が我々の中に入ってきてくださり、御自分のものとしてくださるからだ。

 しかし、我々はそれで問題をすべて解決出来たわけではない。主によって捉えられた後も、我々が誘惑に満ちたこの世で生きていることに何ら変わりはない。洗礼を受け、キリストを信じる信仰を告白しただけで、この世の荒波を簡単に乗り越えていくことなど出来ない。

 主は、この世で御自分に与えられた御業に取り組み始める前、ヨハネから洗礼を受けられた。すると、主の上に神の霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉があった。主は、父なる神が送られた聖霊によって強められ、その後、荒れ野で四十日間にわたり悪魔から受けられた誘惑をすべて退け、「ただ神の御言葉に従い、神のみに仕える」道を示された。

 父なる神は、御自分と人間との本来あるべき関係がこのような関係であることを示されるために、御子をこの世に遣わしてくださったのだ。すなわち、我々は聖霊を求めて祈り続け、それを受けなければ、神との本来あるべき関係を維持することが出来ないのであり、主は聖霊を受ける方法を身をもって示してくださったのだ。

 我々は、神への祈りを、祈りそのものを教えてくださった主イエスの御名によって祈る。それは、このお方こそ、この世のあらゆる誘惑に打ち勝ち、十字架における死から復活して、死という終着点を突破してくださった唯一人のお方に他ならないからだ。死を突破してくださったお方が、神と人間とをつなぎ止めてくださっている。これほど信頼できる拠り所は他にない。神の御子が、死に勝利されたことによって、初めて人間の限界に突破口が開かれ、神と人間との関係が回復されたのだ。

 病、戦争、貧困など、数え切れないほどの否定的な出来事がこの世を覆い、我々を疲弊させ続けるようにしか思えない現実が、確かに我々の目の前にある。そして、我々は猛烈な勢いをもって迫り来るこの現実に呑み込まれ、力も希望も失ってしまいそうになる。しかし、死に勝利された主は、命の輝きを失いそうになっている者たちにどこまでも寄り添い、命の輝きを取り戻させてくださるのだ。

 我々の主が、既にこの世を、人間を滅びへと導こうとするあらゆる否定的な事柄を完全に支配し、すべての否定的な勢力に勝利してくださっている。それゆえ、主は言われるのだ。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。

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