日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

08年05月のバックナンバーです。

2008年5月4日 復活節第七主日

説教「生きた水の流れ」
聖書朗読 : ヨハネ福音書7章32〜39節
説教者 : 北川善也伝道師

 今日与えられた聖書に記されている「仮庵祭」とは、秋の収穫後に行われる祭りで、その期間中、祭司たちは毎日シロアムの池で汲んだ水を神殿に持ち帰っては祭壇に注いだという。これには「雨乞い」の意味があった。農耕民族であるイスラエルの民にとって、雨が降らないということは命に関わる大問題であり、彼らはこの祭りにおいて命の源である水を求めたのだ。

 その頃、ファリサイ派の人々は、群衆の中に主イエスを信じる者が大勢出てきたことに頭を悩ませていた。彼らが最も重んじていたのは、律法を中心とした「トーラー」であったが、それは「神の教え」を意味していた。しかし主イエスは、彼らが信じる「神の教え」に反し、何もしてはならないと定められている安息日に病人のいやしを行ったりして、彼らの心に激しい憎悪を引き起こした。確かに、律法には神の御心が示されているが、その中心にあるのは、主イエスが指摘されたように「神を愛すること」と「隣人を愛すること」に他ならない。

 主イエスは言われる。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」。人々が求めてやまない命の水の与え手は主イエス御自身に他ならない。

 イスラエルの人々は、「仮庵祭」の仮庵の中に神がおられ、契約の箱を場として神が臨在されると信じた。そして、この祭りはその神に命の水を求める祭りであった。彼らは、神殿を仮の宿とされる神にそれを求めて祭壇に水を注いだのだが、その神は今やこの世に留まられ、真の命をもたらす水の与え手となってくださっているのだ。

 主イエスは、「渇いている人」を招いてくださる。真の命の水を探し求めている人を招き、その水がどのようにして与えられるかを示してくださる。探し求める人を、主は必ず捉え、聖霊の豊かな働きによって命の水に与らせてくださる。そして、その豊かな水を受けた者は自分の渇きだけがいやされるだけではなく、その人に満たされた命の水が川のように流れ出すと告げられている。

 イスラエルの代表的な湖に、ガリラヤ湖と死海がある。この二つの湖は性質が全く異なり、前者は非常に透明度が高いが、後者は塩分で濁り文字通り死んだような状態だ。ほとんど接している二つの湖の性質がこれほどまでに違う理由は、川の流れを受けて外に流しているか否かである。死海は、川の流れを受けても溜める一方で外に流さないから、日照りを受けて塩分ばかりになってしまうのだ。

 我々は、神の祝福を受けたならば、それを受けるだけでなく隣人へと分け与えずにいられなくなる。なぜならば、主イエスを信じて、「命の水」に与る存在とされた時、我々はその命の水を放出する存在へと変えられるからだ。

2008年5月11日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教「主の賜わる平和」
聖書朗読 : ヨハネ福音書14章15〜27節
説教者 : 北川善也牧師

 「平和」は、旧約聖書の原語であるヘブライ語で「シャローム」という。これは、神によってもたらされる、あらゆる面において完全に満ち足りた状態を指す言葉だ。旧約の預言者たちは、それが現状のこの世においてではなく、終わりの日に訪れると語る。そして、イザヤはそれがメシアによってもたらされると告げている。来たるべきメシアこそ「平和の君」であり、人々が何よりも待ち望んでいたのがメシアだった。

 そのように待ち望まれた「平和の君」が、約二千年前のクリスマスにこの世へ来られたイエス・キリストである。主イエスは、神の御子でありながら、人間の姿でこの世に来られた。それは、逆説的であるが、人間が神によって与えられている「神の似像」を本当の意味で回復するために他ならなかった。主イエスは、神の御子であるがゆえ何の罪もない完全に清い存在でありながら、人間の最もむごい死刑方法である十字架刑を受けられた。主イエスは、すべての人間が一人残らず受けねばならなかった罪の報いをたった一人で引き受けて十字架にかかってくださった。そして、死からよみがえられることによって、すべての人間を暗闇から真の光の中へと導き出してくださった。こうして、主は人間の神との本来あるべき関係を回復させてくださったのだ。

 主イエスは、そのようにして、エデンの園で神に背いた時以来、神から遠ざけられていた人間が、再び神の御前に近づけるよう執り成してくださった。神と人間との正しい関係、それは我々が捧げる礼拝に他ならない。我々は、主が送られる聖霊の働きに導かれることによって、心を尽くして神に礼拝を捧げる存在へと変えられていく。

 主イエスは、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。……あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と言われ、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」と言っておられる。主は、聖霊の働きによって我々を捉え、この世に真の平和をもたらすための道具にしようとしておられる。罪深い我々が、主の平和によって捉えられ、平和を生み出す存在へと変えられていくのだ。

 洛北教会には、今日のこの礼拝の中で、洗礼、信仰告白によって教会の枝として加えられる新たな兄弟たちが与えられている。イエス・キリストという幹に我々が枝として連なり、栄養分をたっぷり受けて力強く育っていく。それが教会であり、教会に連なる者の喜びだ。こうして、我々が一体となることによって、この世に真の平和が訪れると主は教えておられる。神の御計画が成就し、世界中の人々が救いに与る時、その時こそ終わりの日に訪れる真の平和、「シャローム」の完成の時に他ならない。

2008年5月18日 三位一体主日(オール洛北礼拝)

説教「聖霊を受けなさい」
聖書朗読 : 使徒言行録2章37〜42節
説教者 : 北川善也牧師

 ペトロさんは、イエス様が十字架にかけられる前、近くの人たちから「あなたもイエス様と一緒にいましたね」と聞かれた時、三度も「そんな人は知らない」と言ってしまいました。でも、十字架の上で死なれたイエス様は、復活された後、御自分の方からペトロさんに近づき、イエス様に従っていけるようにしてくださいました。

 そして、ペトロさんはイエス様から力を与えられたので、イエス様のことを力いっぱい話せるようになりました。そして、その話を聞いて信じるようになった大勢の人たちは、ペトロさんに「わたしたちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねました。すると、ペトロさんは、「イエス様を信じることが出来たら、洗礼を受けなさい。そうしたら、神様が聖霊を与えてくださって、イエス様ともっと強くつながることが出来ます」と言いました。

 先週のペンテコステ礼拝の中で、若い三人が洗礼を受け、信仰告白をして、教会員になりました。これは、教会にとって何よりもうれしい出来事でした。教会というイエス様が幹である大きな木に、これからグングン育っていく若い枝々が加えられたからです。この三人と洗礼・信仰告白準備会をした時、「あなたはなぜ洗礼を受けるのですか」と尋ねました。すると、みんなそれぞれの思いを話してくれましたが、みんなが「きっかけを与えられたから」と言っていたのが印象的でした。わたしたちは「きっかけ」という神様からの信号を与えられ、それによって洗礼へと動き出せるようになるのです。

 わたしたちは、いつでもイエス様のことを見ていることが出来ず、時々自分勝手なことや人が嫌がるようなことをしてしまいます。わたしたちは、このような罪を持ったままでは、本当の意味で生きているとは言えないのです。でも、人間は弱いので、自分の力でその罪をなくすことが出来ません。わたしたちは、罪をなくして、イエス様としっかりつながるために洗礼を受けなければならないのです。そして、わたしたちがイエス様の方を向いて、イエス様に従っていくことが出来るように、イエス様は聖霊を与えて罪を悔い改めさせ、洗礼へと導いてくださるのです。

 洗礼を受けることによって、罪が赦され、いつでも大きな喜びの中にいられるようになる。これが、わたしたちに与えられている神様の約束です。この約束は、すべての人に与えられているのです。そして、神様は必ずみんなに「きっかけ」を与えてくださいます。それぞれに一番良い時を神様が選んで、その時が来たら教えてくださるのです。

 神様は、そうやって教会につながる人をいっぱい増やしてくださり、教会をどんどん成長させてくださいます。神様は、わたしたち一人一人の名前を呼んで、教会につながらせてくださいます。そして、わたしたちの罪を赦して、たくさんの恵みを与えてくださるのです。

2008年5月25日 聖霊降臨節第三主日

説教「永遠の命を得るため」
聖書朗読 : ヨハネ福音書3章1〜15節
説教者 : 北川善也牧師

 ニコデモは、なぜ夜になってから主イエスに会いに行ったのか。当時の人々は、夜間外出することがほとんどなかったので、人に知られず誰かに会いたい時に夜は好都合だった。彼は、主に会うのを他人に悟られたくなかったのだ。彼は、ファリサイ派というエリート集団に属し、ユダヤ人たちの議員でもあり、当時のユダヤ社会ではかなり高い地位に就いていた。そんな彼が、主の教えを受けるために出向いていくのは表向きが悪かった。

 一方、夜間の外出は、暗がりに潜む追いはぎに襲われるなどの危険をはらんでいた。しかし、彼はそれを承知の上で、主に会いたいという思いに身を任せたのだ。彼は、社会的には高い地位を得ていたが、真の喜びを知らなかった。彼は、後ろめたい気持ちで行動せねばならない闇夜のような心を自分自身の中に抱えていた。だからこそ、彼は主が放っておられる光を敏感に感じ取り、主を「ラビ」、すなわち師として認めたのだ。

 彼は主を、人生が喜びに満たされるための具体的なヒントを与えてくれる教師として捉えた。ところが、主が語られたのは、彼が期待していたような言葉ではなかった。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」。人間が、このようなことを自分の力で実現するのは不可能だ。しかし、主はこのことによってしか神の国における救いに与ることは出来ないと断言されるのだ。何でも自分の力で成し遂げてきたニコデモのような人物にとっては、この言葉が何を意味しているのか全く理解出来なかった。

 主は、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」と言われる。「肉」という語は、新約ではしばしば「罪」と同義で用いられる。つまり、神が土から創造されてすぐ罪に囚われてしまった人間は、そのままでは罪の肉をまとい続ける存在であり、この土の器が神に喜ばれる存在となるためには、「水と霊」を注ぎ込まれて生まれ変わらねばならないと言っておられるのだ。

 そして、それこそ人間が、風のように何にも捕われない真の自由を獲得する唯一の方法だと主は言われる。罪という手かせ、足かせで束縛されている人間を解放するために、主は十字架にかかってくださった。我々は、この十字架が自分のために起こった出来事だと受け容れることによって、この世における真の自由を享受出来るようになるのだ。

 「永遠の命」とは、我々がイエス・キリストと共にある時に与えられる命に他ならない。そして、それは我々の地上における命を、神の国における新しい命と結び付ける。永遠の命は、我々が必死になって勝ち取るものではなく、「すべての人間を招く」と約束してくださっている神の働きによってもたらされる。神は、聖霊の働きによって一人一人を導き、新たに生まれ変わらせてくださるのだ。

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