先週の説教 -バックナンバー-
08年06月のバックナンバーです。
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説教「だから、わたしは喜びで満たされている」
聖書朗読 : ヨハネ福音書3章22〜36節
説教者 : 北川善也牧師
今日与えられた聖書箇所は、主イエスを指し示す役割を与えられた洗礼者ヨハネが、主御自身とこの世において交差する特別な瞬間を記している。ヨハネはアイノンという地で洗礼活動を行い、弟子たちを集めて一つのグループを形成していた。彼は、そこで弟子たちから「ラビ」、すなわち先生と呼ばれていた。一方、先週与えられた聖書には、ニコデモが主イエスのことを、やはり「ラビ」と呼びかけていたと記されていた。
人間の目には、真の救い主の見分けが付かないのだ。だから、ヨハネの弟子たちは、「あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」と言って、主イエスの方に人が集まり始めたことを妬み、憤慨していた。しかし、ヨハネ本人にとって、これは何よりも喜ぶべきことだった。彼が以前荒れ野で、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」と告げていた方が確かに来られ、活動を開始されたからだ。そして、主イエスが姿を現し、御業を示し始められたということは、彼の役目が終わったことを意味していた。
ヨハネは、自分を花婿の介添え人にたとえてその思いを語る。ユダヤの婚礼では、花婿の介添え人が花嫁と共に花婿の到来を待った。そして、花婿が無事に辿り着いたのを見届けた時、介添え人は二人を引き合わせるという大切な役目を終えたことを喜んでその場を去った。ヨハネは、主イエスが人々のもとに来られるのを彼らと共に待ちつつ、彼らがこのお方と正しく出会えるよう導いてきた。そして、今まさにヨハネが待ち望んでいた出来事が現実になりつつあるのを見て、彼は喜びで満たされたのだ。
それゆえヨハネは、主の御栄光を全力で証しする。「上から来られる方」(31節)とは、主が天から来られ、地上のすべてのものに勝っておられることを指している。一方、「地から出る者」(同)は、すべての人間に当てはまる言葉であり、人間は「地に属する者」に他ならない。このように、本来「天と地」というかけ離れたところにいる存在同士であるため、主イエスが語っておられることを、人間はそのままの状態では受け入れられないのだ。
我々は、主の御言葉を自分に向けられている言葉として受け止めるために、「グローブ」のような道具を必要とする。それが聖霊であり、我々を主の投げられたボールに気づかせ、受け止める構えを取らせてくれる。我々には、主の十字架によって自分の罪が赦されたことを信じ、受け止めることが出来るように聖霊が与えられるのだ。その働きによって、主を信じて新しく生まれ変わる時、我々は永遠の命、すなわち神の国へと入れられる。我々は、そうして主こそが「道であり、真理であり、命である」ことを信じ、受け入れることによって、真の喜びで満たされるのだ。
説教「主よ、その水をください」
聖書朗読 : ヨハネ福音書4章5〜26節
説教者 : 北川善也牧師
主イエスは、ガリラヤ地方で伝道を始められたが、それ以外のところにも積極的に出て行かれた。ヨハネ福音書は、その様子を躍動的に描き出す。だが、主が赴かれたところには、ユダヤの価値観が通用しない異邦世界も含まれており、サマリアはそのような場所の一つだった。
主は、最も日差しが強い酷暑の時間帯にサマリアの井戸端にたどり着き、休んでおられた。しかし当時、集落単位に一つずつしかなかった貴重な水源である井戸には、よそ者が好き勝手に水を汲み上げたりしないよう、水を汲み出す道具が据え付けられてはいなかった。
そこに一人の女性がやってきた。だが、彼女が誰も外出しない時を見計らって水を汲みに来たのには理由があった。彼女は、罪人として共同体の中で村八分の状況に置かれていたのだ。そんな彼女は、少しでも人と出会うのを避けようとして、初対面の主イエスにも防御的な態度を取る。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。
主イエスは、心の奥に深い傷を負った彼女との対面の時を、あらかじめ備えておられたのだ。主は、彼女が持ちたくても持つことの出来なかった一対一の対話関係に入り、彼女にリハビリテーションの機会を与えられた。彼女は、真の愛に飢え渇いていた。しかし、彼女はその飢え渇きを根本的に癒すことが出来ないこの世の価値観しか知らず、依然としてそれに縛られ続けていた。それゆえ、彼女は絶望しかないような現実を生きるしかなかったのだ。そこに主が来られ、彼女の抱えていた暗闇を突き破り、真の光をもたらされた。こうして、彼女は立ち直る機会を与えられ、隣人愛を取り戻していく。
しかし彼女は、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と告白した。彼女は、救い主の到来は信じていたが、まだ自分の目の前におられるのがその方であるとは受け止められなかったのだ。主は、そんな彼女に、「あなたを罪から解放し、真の自由を与えるのはこのわたしである」と告げられた。自力で気づくことの出来ない人間に対して、主は自ら近づいて目の前に立ち、気づかせてくださるのだ。
主は、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。そして、『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:28以下)と言われた。主は、「生きた水」を携えて、自ら我々の方に近づいてきてくださる。我々は、主が与えてくださるその水を受け取るだけでよいのだ。そうして、我々が「生きた水」に与り、新しい命に生かされる時、我々は神を愛する愛に立ち帰り、隣人を愛する愛に生きる道を歩むことが出来るようになる。
説教「永遠の命に至る実」
聖書朗読 : ヨハネ福音書4章27〜42節
説教者 : 北川善也牧師
サマリアの女は、それまでの罪深い生き方ゆえに共同体の中で爪弾きにされていた。主イエスは、そんな暗闇の中にいる彼女のもとに訪ねられることを、あらかじめ計画しておられた。それは、彼女自身の人生を新しくさせるためだけでなく、彼女を通してある大きな計画を進めようとしておられたからだ。
サマリア人にとって、集落にたった一つしかない井戸から湧き出る水は、自分たちの命を左右する何よりも大切なものだった。しかし、サマリアの女は生きていくために必要な水を求めてやってきた場所で主と出会い、真の命をもたらす生きた水の存在を知ることになるのだ。
主は、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4:13-14)と言われた。これは、主がこれから向かおうとしておられる十字架の出来事を指し示す言葉に他ならない。主は、十字架上で死を迎えられる直前にひとこと「渇く」と言われ、ヨハネ福音書は「こうして、聖書の言葉が実現した」(19:28)と告げている。我々は、主が十字架上で渇いてくださることによって、主が流してくださった命の水を受け取ることが出来た。
サマリアの女は、主の言われる水がそのように重大な意味を持っていることを示され、それを信仰の事柄として受け止めることが出来た。しかも主は、貝のように閉じていた彼女の心を開くため自ら彼女に近づき、目の前に立って一対一の対話関係に入ることによって、彼女を信仰へと導かれたのだ。
しかし、主はそれだけでなく、信仰者とされた彼女をすぐに人々のところへ遣わし、主の到来を告げ知らせる伝道者として用いられるのだ。社会的には完全にドロップアウトしていた彼女を、主はあえて選び、お立てになった。それは、彼女のような存在が主によって与えられた豊かな恵みを生き生きと語り出すことによって、真の救いをもたらすお方がはっきり指し示されるために他ならなかった。
主は、人間の思いをはるかに超えた仕方で、主の証人をお立てになる。罪のどん底でもがいている、人生に破れ去った存在にさえ目を注ぎ、その人間を罪の姿そのままに救いへと導き、さらにその救いの出来事を大胆に語る存在へと生まれ変わらせてくださるのだ。
主がサマリアの女を証し人として立てられることによって、サマリアの町には多くの信仰者が生み出されていく。主は、彼女が歩んできたそれまでの罪に染まった生き方さえも、主を証しするために必要な賜物として用いられた。我々もイエス・キリストから受け取っている恵みの豊かさを、与えられている賜物を用いて大胆に証しする者とならせていただきたい。
説教「あなたの神、主のもとへ」
聖書朗読 : ヨハネ福音書4章43〜54節
説教者 : 北川善也牧師
主は異邦の地ガリラヤに入られたが、この地の多くの人々は過越祭でエルサレムに行った時、「イエスがなさったことをすべて見ていた」(45節)。そして、そこで行われた「しるし」を見て、主を信じるようになっていた。
「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。……イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(2:24-25)。ヨハネ福音書は、十二弟子の一人である疑い深いトマスを始めとする様々な人々の発言や行動を通して、人間が自分の感覚を何よりも信頼し、それを通して理解出来る事柄しか受け入れようとしない頑なな存在であることを浮き彫りにしていく。
主はガリラヤのカナに来られた。以前、主が水をぶどう酒に変える奇跡を行われた場所だ。それゆえ、人々は主が再び来られたと聞いて、また奇跡が行われるのではと期待していた。そこに、カファルナウムに住む王の役人がやって来た。彼の息子は、命に関わる重い病に罹っていたので、数々の奇跡を行ってこられた主に癒していただこうと考えて、必死の思いで駆けつけていた。
役人が、息子がいるカファルナウムまで今すぐ来てほしいと懇願すると、主は意外な言葉を返された。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」。これは、そこに居合わせたすべての人々に対して向けられた、目に見えるこの世の価値観しか受け入れようとしない人間に対する厳しい言葉だ。
彼は、なおも「主よ、子供が死なないうちにおいでください」と懇願するが、主が「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と言われると、その言葉を即座に受け入れ帰って行く。彼がそのように出来たのは、主が御言葉という生きた水を彼の心の奥深くまで注ぎ込んで、彼の中にあった見える事柄しか受け入れようとしない思いを封じ込め、人間の弱さの上に固く立つ信仰をもたらされたからだ。
彼は、主が「あなたの息子は生きる」と言われた言葉そのものを信じ、受け入れることが出来た。この言葉の中にこそ信仰の本質が示されている。主の御言葉は、生きた水となって我々のうちに浸透し、血となり、肉となるのだ。
役人の男は、主の御言葉をそのまま受け入れることによって信仰に固く立つことが出来た。そして、その信仰が息子の病を癒し、その息子を信仰へと導いていく。そればかりか彼の家族はこぞって信仰者へと変えられていくのだ。主は一人の信仰者をお立てになり、その人間による証しの言葉を通して、さらに新しい信仰者を増し加えられる。
信仰は、御言葉を通して受け継がれる。そこでは、人間の思いを超えて、主御自身が神の言葉として力を発揮してくださるのだ。主は、心の奥底から救いを呼び求める一人一人の声に耳を傾け、その存在をしっかり捉えて、限りない愛をもって信仰による救いへと導いてくださる。
説教「主の愛のまなざしに押し出されて」
聖書朗読 : イザヤ書40章10〜11節 マタイ福音書9章35〜38節
説教者 : 市川忠彦先生(大和キリスト教会牧師)
キリスト教2000年の歴史の中で、伝道・教育・愛の三つの業は変わることなく続けられてきた。教会の業から始められたミッションスクールや社会福祉事業は数多くある。しかし、何よりも大切なのは教会の伝道の歴史だ。
キリストの御身体として建てられた教会は、主御自身がなさった伝道にこだわり続けてきた。だが、我々が行っている伝道の業は、貧弱なものと言わざるを得ない。プロテスタント教会は、150年の歴史の中で飛躍的に成長することが出来なかった。それが教会の現状だ。
我々は、今こそ主が何をなさったのか真剣に見直さなければならない。主は、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」(35節)と記されている。主は、真の羊飼いとして、命を削るようにして、徹底的に救いの御業に取り組まれたのだ。
それはなぜだったか。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(36節)からだ。人間は、真の羊飼いを知らずに弱り果てている。しかも、知らないだけでなく、拒絶さえするから問題は深刻なのだ。
そういう人間に対する伝道は、それゆえ形ばかりになされてもダメだ。主がなさったように、それは徹底的になされなければならない。
主は、人間を「深く憐れまれた」。この言葉の原語は、「はらわたが差し込むようにキリキリ痛む」という意味を持つ。この痛みは主の十字架へと通じており、この主の思い、祈りによって我々は生かされているのだ。
石川啄木は、「我が村に 初めてイエス・クリストの 道を説きたる 若き女かな」と詠ったが、これは我が祖母のことだ。また、エンジニアであった祖父は、キリスト者となって教育の業に方向転換し、下鴨に幼稚園を開いた。この二人は、まだ見ぬ孫の中から一人は牧師が現れるよう熱心に祈ったという。私は、自分の歩みのためにこんな祈りがなされていたことを後に知り、言葉を失った。そして、祈りが必ず聞かれることを身をもって知った。
主は、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(38節)と言われた。我々の伝道への献身は、何よりも主が羊飼いとして来てくださったことによって支えられ、促される。そして、主の十字架によって救われた我々がこの身を差し出していくのだ。
本日はそのことを思って、感謝と決意を献げる日である。牧師が立てられるために祈られた祈りがあり、今もそれはあるはずだ。そして、洛北教会が祈ってきた祈りがこういう形で叶えられた。そのことに感謝し、新たな献身の思いを、牧師も教会も共に主にお献げしたい。