日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

08年08月のバックナンバーです。

2008年7月6日 聖霊降臨節第9主日

説教「舟が目指す地」
聖書朗読 : ヨハネ福音書6章16〜21節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスが、ベトサイダで五千人の人々に食事を分け与える奇跡を行われた後、弟子たちはガリラヤ湖の北東岸から舟に乗り、直線距離にして5キロほど離れた北西岸の町カファルナウムに向かおうとしていた。

 しかしこの時、主は弟子たちと共におられなかった。過越祭のために屠られた犠牲の子羊から流れ出る夥しい血と、それを焼き尽くすために燃え上がる炎によって気分を高揚させ、五千人の給食の出来事によってさらに興奮を高めた人々は、主を王に祭り上げようとした。人々のこのような状況は、この後起こる人々が主を十字架へと追いやる出来事を思い起こさせる。主は、このような人々から離れ、一人山に向かわれた。弟子たちにはカファルナウムで落ち合うと伝えておかれたのだろう。

 弟子たちにとって、舟でガリラヤ湖を渡るのは何でもないことだったはずだ。彼らは、かつてこの湖で魚を捕ることを生業としていた。一方、この湖には山おろしの突風が吹き、天候が変わりやすいということも彼らはよく知っていた。しかも、時は夕刻を過ぎ、既に暗くなり始めていた。舟を操ることに慣れていた彼らでも、暗闇の中を漕ぎ進むのはさすがに不安であった。

 沖へ出ると、闇は一層深くなり、主が共におられないことによる不安は増大した。彼らは、主が共におられないところに容赦なく闇の勢力が襲いかかってくることを肌で感じ、恐怖に打ちひしがれた。その時、突然強い風が吹き、湖が荒れ始める。人間が真の光を失い、不安に囚われている時、すぐに動揺が襲うのだ。

 しかし、強風吹きつける暗闇の中で、自分たちの居場所を完全に見失った彼らが死を意識し始めた時、突然主が湖の上を歩いて舟に近づいて来られた。主は、愛する者たちを絶えず見守り、救いを求める声に耳を傾けてくださる。

 誰よりも主を信じていると言ってよいはずの弟子たちの信仰さえ、漆黒の闇と吹きつける荒波によって打ち消されそうになる。それは、自分たちの限界に直面したからだ。しかし、主はそんな限界を、十字架に向かって行かれる力で突き破り、乗り越えさせてくださる。人間の力では限界を来してしまうような時にこそ、主はまさに命がけで道を備え、全き救いの御手を差し伸べてくださるのだ。

 彼らは、主の御声を聞いて平静を取り戻し、信仰に立ち帰ることが出来た。主のみを見つめ、主の御声に耳を傾けることによって、彼らは何ものをも恐れない勇気とこの上ない安心感を与えられた。そして、主を舟に迎えようとして初めて目を転じた時、そこは既に目指していた地だった。

 主に目を注ぎ、主の御声に耳を傾ける時、我々は目指すべきところに確実に導かれていく。それゆえ、我々を絶えず見守り、祈りに応えてくださるイエス・キリストから決して離れずに、この世の歩みを進めていきたい。

2008年7月13日 聖霊降臨節第10主日

説教「主イエスを捜し求めて」
聖書朗読 : ヨハネ福音書6章22〜27節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスが、五千人以上の人々に食事を分け与える奇跡を行われた時、そこに居合わせた人々は、このお方を自分たちの王に祭り上げようと動き始めた。主は、人々のそのような動きを察知され、彼らに取り囲まれて身動きが取れなくなる前に一人で山に入って行かれた。それとほぼ同じタイミングで、弟子たちは舟に乗り、カファルナウムへ向けて漕ぎ出した。そして、そこには奇跡による興奮の冷めやらぬ群衆だけが取り残された。

 人々は、奇跡の業によって人間が生きていくために必要な食べ物を与えてくださるお方を知った。そして、このお方と一緒にいれば、これから先、食べ物のことで困ることはないと考えたのだ。それゆえ、主がその場からいなくなると、人々は必死で捜し出そうとするのだ。

 夜の捜索をあきらめ、山で体をくっつけ合うようにして眠る彼らは、迷える羊たちのようだったろう。翌朝、人々は弟子たちがガリラヤ湖畔から舟に乗って出かけたことに気づき、彼らの後を追えばきっと主に会えると考えた。そして、小舟に乗り込んで、彼らが向かったと思われるカファルナウムに向けて漕ぎ出したのだ。

 カファルナウムに着くと、彼らはすぐに主を見つけ出すが、主は彼らが御自身を捜し求めている理由を「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言い当てられる。そして、「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と告げられる。これは、すべてにおいて主を信頼し、信仰に生きることを勧めておられる主の言葉だ。

 主は、人間がパンなくして生きられないことをよくご存知の上でこのように言われた。それは、主が弟子たちに教えられた「主の祈り」を思い起こせばわかる。ここで四番目に祈られているのは、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りだ。主は、我々が祈る時、人間的な欲求を願うことをも赦してくださっている。それは、主が人間という土の器の底の底までにも目を注ぎ、この器を徹底的に恵みで満たそうとしてくださるからだ。

 そして、その上で主は人間に「真のパン」を与えようとしてくださる。主と出会い、主というパンを受けた時、人間は肉体的な飢えを含めた、すべての面において豊かな恵みで満たされる。それは、神の御一人子である主が、信じる者に永遠の命をもたらしてくださるということだ。

 我々は、イエス・キリストにつながっていなければ、このような新しい生き方へと導かれていくことは出来ない。しかし、主は罪深い我々にもかかわらず、決して捨て置かれず、我々の前まで近づいてくださり、真の命をもたらすパンである御自身のお姿を指し示してくださる。

2008年7月20日 聖霊降臨節第11主日

説教「天から降って来たパン」
聖書朗読 : ヨハネ福音書6章41〜59節
説教者 : 北川善也牧師

 人間の判断は、あくまでも自分の認識が基準であり、時に人間は地球が自分中心に回っていると思い込むほどの傲慢さを持つ。主イエスは、そんな人間に対して「つぶやくのはやめなさい」と言って、人間の認識力をはるかに超えた言葉を語り始められる。それゆえ、主が御自分のことを「命のパン」であると説かれても、人々はその意味を理解出来ず、逆に無理解を深めていく。

 主が、「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」(32節)と言われた時、人々はそれを表面的に受け止め、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言った。彼らは、主が五千人の人々に食事を分け与えたように、いつでもすぐ食糧を提供してくれるという意味でそのように言われたのだと理解した。

 主は、御自分の説かれる「パン」がどういうものかを35節以下でさらに詳しく説明されるが、主が「わたしは天から降って来たパンである」と言われると、人々は「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」とつぶやき始める。罪深い人間にとって、福音はあまりにも純粋で眩しすぎるため、まともに受け止められず、目をそらそうとしてしまうのだ。

 しかし、主が告げられる福音にこそ、我々の救いがどのようにしてもたらされるかが明確に示されている。主がなさった五千人の給食の奇跡、そして、ここで語られている主の御言葉は、御自身の十字架における死によって、真の命がすべての人間に分け与えられることを指し示している。だが、人々は「天から降って来た」という主の言葉につまずいてしまうのだ。人間が自分の価値観で計ろうとする時、主の言葉はつまずきの言葉となる。

 しかし、主は言われる。「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(44節)。人間は、自分の意志で主を受け入れるのではなく、神が与えてくださる聖霊の働きによって信じられるようになる。「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る」(45節)と言われているとおりだ。

 神の御言葉そのものである主イエスという「天から降って来たパン」に与ることによって、人間は永遠の命をもたらされる。それは、あたかも肉を食べ、血を飲むようにして、主を我々の最も奥深くで受け止めることを意味する。

 このような恵みが、我々の努力や能力によってではなく、神の一方的な恵みとして与えられるのだ。主は、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(ルカ11:9)と言われた。主の御言葉を求め、主との交わりのうちにとどまろうとする者には、必ず永遠の命がもたらされる。このようにして与えられる罪からの解放、真の自由によって、共に恵みと喜びに満ち溢れた人生を歩みたい。

2008年7月27日 聖霊降臨節第12主日

説教「世に打ち勝つ勝利」
聖書朗読 : ヨハネ福音書7章1〜17節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスの兄弟たちは、仮庵祭で大勢の人が集まっているエルサレムで奇跡を起こし、自分がどんな力を持っているか示すよう主に迫った。彼らは、自分の兄弟が有名になることを望んでいたのだ。彼らも、主の業を表面的にしか捉えられなかった。大切なのは、主の業の一つ一つがどんなにすごいかではなく、その業をなさるのがどんなお方であるかを正しく理解することだ。

 主は、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」(5:36)と言われた。主の業は、それらをひとかたまりのものとして捉えた時に初めて意味あるものとなる。それは、クリスマスの出来事に始まり、御受難の末に十字架上で死なれた出来事、そして復活の出来事へと至るその全生涯を表す。すなわち、主は御自分の存在そのものを「業」と言っておられるのだ。そして、その業によってもたらされたのが、すべての人間に対する救いの完成だ。

 しかしこの時、主は「わたしの時はまだ来ていない」と言われた。「時」の元のギリシャ語は「カイロス」だが、これは延々と伸びていく線としての時間ではなく、ある特定の点としての時間を意味する。また「時は来ていない」の直訳は、「時は満ちていない」となる。つまり、主の決定的な時はまだ充分に満たされていないのだ。主の決定的な時、それは十字架の出来事に他ならない。 だが主は続けて、「しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」と言われた。これは、主からの大きな挑戦の言葉だ。なぜならば、主は「決定的な時」がまだ来ていない時点において、十字架の出来事を受け入れよと決断を迫っておられるからだ。我々は、主の十字架が自分のために起こった出来事であることを受け入れる決断を求められている。見たことも触れたこともないものを受け入れられない我々が、主から大きな挑戦を受けているのだ。

 主は、次のように言われた。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」(6:35以下参照)。主の十字架の意味はここにある。

 主は、我々が扉を閉じた暗闇の中にいる存在であることをよくご存知だ。そんな我々が、鍵を閉めて閉じこもっているところまで主は近づいて扉を叩き、我々が扉を開くのを待っておられる。我々には、そのようにして主の十字架の出来事を自分自身の事柄として受け入れる「時」が与えられる。暗闇に迷い込んでいる我々を真の救いに導くため、扉を叩いてくださる主に応えて心の内にお迎えし、救いの確信に満ちた喜び溢れる人生を共に歩みたい。

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