日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

08年08月のバックナンバーです。

2008年8月3日 聖霊降臨節第12主日

説教「隠されていた神の知恵」
聖書朗読 : ヨハネ福音書7章40〜52節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは大勢の人々の前で、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7:37以下)と言われた。この言葉を聞いたある人々は、この方こそメシアだと考えた。当時の人々はメシアを強く待望し、聖書のメシア預言を熱心に調べ、暗記していたのだ。

 一方、別の人々は、同じくメシアを待望していたにもかかわらず、ガリラヤから出て来て突然人々の前に立ち、話し始めた方がメシアであるということを否定するための材料を聖書から引き出そうと躍起になった。しかし、そもそも聖書が指し示しているのは主御自身であるから、聖書によってこの方を否定することなど出来ない。それゆえ、彼らはその明確な証拠を聖書から見出せず、むしろ自分たちの仲間内の対立を深めていく。

 その頃、31節以下において祭司長たちとファリサイ派の人々が、主を捕らえるために遣わしていた下役たちが戻ってきた。送り出した人々は、彼らに「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と問い質すが、彼らは「今まで、あの人のように話した人はいません」という予想もしない返事をした。この答えは、主の教えがいかに大きな影響力を持っていたかを示している。

 ファリサイ派の人々は、群衆を指導する立場にある自分たちの下役がそんな男を信じることなどあり得ないと決めつけるが、そこにファリサイ派の指導者であると共に議員でもある、社会的に高い地位に就いていたニコデモが現れ、主を弁護する発言をした。実は、彼は以前3章で登場した時、他の人々に見られないよう夜遅くに主のもとを尋ね、その教えを求める行動を取っていたのだ。

 ファリサイ派の価値観は、律法を知っているか否かという一点のみに置かれていた。それゆえ、彼らは自分たちの知識を絶対化し、「律法を知らないこの群衆は、呪われている」(49節)と言って、群衆を軽蔑していた。しかし、人間の知識は決して絶対的ではない。ニコデモはそのことに気づき、主に会って教えを受けるという謙虚さと行動力を与えられた。彼は、自分の能力だけに価値を置く、内側に閉じ籠った生き方をやめ、主との出会いを求めて外に出て行く生き方を選び取ることによって主への理解を深めていく。そのようにして、彼の信仰は確かなものとされ、この先最後まで主の御後に従って歩み続けていくことになる。

 ニコデモは、自分の魂の渇きを癒してくれるのは主以外におられないということを悟ることが出来た。我々は、魂の渇きを自分の力で癒すことは出来ない。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(37節)と言ってくださる主のみが我々の魂の渇きを根本的に癒し、再び渇くことがないよう充分に潤してくださるのだ。

2008年8月31日 聖霊降臨節第17主日

説教「羊はその声を聞き分ける」
聖書朗読 : ヨハネ福音書10章1〜6節
説教者 : 北川善也牧師

 この夏の宇治キャンプでは、「よいサマリア人」のたとえ話を扱った。それは、ある律法の専門家が主イエスに「永遠の命を得るためにはどうしたらよいか」と質問する場面から始まる。主が彼に、「律法には何と書いてあるか」と問い返すと、彼は即座に「『……思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えた。彼は、模範解答を知っていたのだ。しかし、主は彼の正解を認められた後、「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われた。この言葉に彼はうろたえる。なぜなら、彼はそれを「実行する」ことなど全く考えていなかったからだ。それゆえ、彼は「隣人」という言葉の意味さえ知らなかった。そんな律法の専門家に主が話されたのがこのたとえ話だ。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。この問いには、誰もが簡単に答えられるだろう。しかし、これと同じようにせよと言われた時、誰もがこれほどの愛の業を躊躇なく実行に移せるだろうか。

 人間は本来、神を愛し、隣人を愛するという掟が何よりも大切なことを知っているはずなのだ。だが、我々はそれを実行することが出来ない。それは、罪の働きが我々を蝕んでいるからに他ならない。我々の愛の行為は、罪の力によって封じ込められている。我々は、それゆえ本来「永遠の命」を受けられず、死ですべてが終わりとなる行き止まりに向かって進んでいくしかないのだ。

 しかし、神は人間をそんな状態のまま放ってはおかれなかった。神は、我々を導く大牧者である御子イエス・キリストをこの世にお遣わしくださり、我々の救いを完全なものとするために、御子の十字架における死という大きな代償を払ってくださった。この十字架の主を信じ、受け入れることによって、罪深いこの我々が神の愛の掟に立ち帰ることが出来るようになるのだ。我々は、自分の力では到底達成することの出来ない愛の掟を、自分の中に主をお迎えし、主が我々の中で生きて働いてくださることによって、それを成し遂げる存在へと変えられていく。

 そのために、主は大切な事柄を我々に与えてくださった。それは「祈り」だ。主は、我々が祈り求めるならば、聖霊の働きによって信仰を与え、そこに留まらせることを約束してくださった。また、我々の弱さを助け導くために、主は聖礼典を制定してくださった。洗礼によって、我々はキリストを身に着け、洗礼を受けた者たちが与る聖餐によって、我々はその確信を深め続けていくことが出来る。

 我々は今、主の呼びかけにお応えしている。我々は、呼びかけておられるお方の御声を聞き取ったからこそ教会に連なっているのだ。我々は、ますます主の御声に耳を傾けて主をお迎えし、我々のうちに留まり続けていただこう。

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