日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

08年09月のバックナンバーです。

2008年9月7日 聖霊降臨節第18主日

説教「信仰の確かさ」
聖書朗読 : ヨハネ福音書10章22〜30節
説教者 : 北川善也牧師

 人間は、この世の事象によって心を揺さぶられながら生きる存在だ。それゆえ、人間は確かな心の拠り所を絶えず求め続ける。だが、我々にはそれが示されている。暗闇の中をさまよい歩く羊の群れである我々に、主は信仰という決して揺らぐことのない土台を与えてくださった。信仰によって、我々は真の平安を手に入れ、何も恐れずこの世の旅路を歩むことが出来るようになる。ところで、この信仰はどのようにしてもたらされるのか。

 7章以降の背景は、エルサレムで秋に行なわれる「仮庵祭」だった。主イエスは、この時期に大勢のユダヤ人たちの前で語り始められた。やがて季節は変わり、今や冬の祭り「ハヌカー」が行なわれる時期になっていた。だが、時を経ても、主を認めようとしない人々のかたくなさは変わらぬどころか一層深まっていた。
 ある意味で、彼らの信仰心は篤かった。しかし、それは律法を忠実に守ることによって貫かれる信仰だった。だから、彼らは律法を知らぬ庶民を軽蔑していた。彼らにとって、信仰とは個人の能力によって大きく左右され、人間がその質を判断出来るようなものだったのだ。

 主に対して、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)と命じたのも、彼らのそのような思いから出た言葉だった。何よりも、この言葉には救い主よりも自分たちを上に置く傲慢さが明白に表れている。これは、我々の中にもある思いだ。我々は、自分で何でも獲得することが出来、救いに至る信仰さえ自分の力で手に入れたかのような思い違いをする。しかし、我々は罪に満ちた存在だから、自分の力で救いを勝ち取ることなど決して出来ないのだ。信仰とは、神が一方的に与えてくださる賜物に他ならない。

 主は、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(27節)と言われた。我々の能力が高いから主の御声を聞き分けられるのではない。主が前もって知っていてくださるからこそ、我々は一人一人名前を呼ばれて神の御前に召し出されるのだ。

 我々が与る聖餐は、神が恵みをもて我々を選び、罪を赦して義としてくださったその確かさを一層固くするため、主によって定められた聖礼典だ。これに与ることが出来るのは、我々が優れているからでも何でもない。むしろ逆で、すぐに救いの恵みを忘れ、身勝手に振る舞う我々の弱さ、罪深さゆえに、主は十字架の出来事を我々に繰り返し味わい知らせるため聖餐を制定してくださったのだ。

 我々は、このようにして、神の一方的な恵みによって信仰を与えられ、キリストの御身体に連ならせていただいている。人となってこの世に来てくださった神の御子が、大いなる御恵みをもって我々に近づき、信仰という最も大切な賜物を与えてくださることに感謝しつつ共に歩みたい。

2008年9月14日 聖霊降臨節第19主日

説教「わたしは神の子である」
聖書朗読 : ヨハネ福音書10章31〜42節
説教者 : 北川善也牧師

 「わたしが命のパンである」(6:35)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは羊の門である」(10:9)、「わたしは良い羊飼いである」(10:11)。これらの御言葉を通して、主イエスは御自分がどのような存在であるかを話された。しかし、御言葉は、聞く人によって「信仰の言葉」にも「つまずきの言葉」にもなりうる。ヨハネ福音書が繰り返し告げているのは、まさにこの問題だ。

 実際ユダヤ人たちは、これらの御言葉を聞く度に主への憎しみを深めていった。それは、主の御言葉と彼らの信仰が相容れないものだったからだ。彼らの信仰とは、ひたすら律法を守ることによって貫かれるものだった。

 律法は、イスラエルを絶えず守り、捕囚から導き出された神が、モーセを通して民全体に与えられた「十戒」が元になっている。律法は、神と民との契約の言葉なのだ。だが、時を経るに従い、彼らはそのことを忘れ、ただ律法を字面通りに守ることだけを目標とするようになる。

 主イエスは、そんな彼らに対して、御自分が神と人間との契約を完成するために遣わされた神の一人子であり、永遠の命の与え手であることを明言された。彼らは、その御言葉を聞いて、ますます主への憎悪を深め、律法に従って石打ち刑に処すべく動き始めるのだ。
 しかし、「律法」は神の御言葉であり、それは神が人間を罪から救い出す御計画を着実に進められ、神の御子がそれを完成することを告げているという最も重要なことを彼らは忘れていた。「律法」、すなわち聖書が徹頭徹尾指し示しているのは、イエス・キリストに他ならない。

 そして今、そのお方御自身が、「わたしは神の子である。それゆえ、わたしと父とは一つである」と言っておられる。主が、神の御子でありながら、十字架というとてつもなく大きな代償を払ってくださったからこそ、我々は罪という手かせ足かせを外され、真の自由をもたらされた。「律法」は、このようにして初めて完成されたのだ。
 我々は、誰もが担い切れない重荷を負い、この世の掟に縛られて疲れ果てている。その上、エネルギーを補給するすべさえ知らないのだ。このままでは、我々は真の喜びを知ることなく、足取り重く歩み続けていくしかない。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)。

このような究極の平安をもたらしてくださるのは、イエス・キリスト以外にはおられない。そして、何よりも真の救い主は、我々が捜し求めるよりもはるか以前から我々の隣に来られ、疲れ果て、希望を失いかけている我々がそちらに顔を向ける時をずっと待っておられるのだ。

2008年9月21日 聖霊降臨節第20主日

説教「キリストの光に照らされて歩く」
聖書朗読 : ヨハネ福音書11章1〜16節
説教者 : 北川善也牧師

 「この病気は死で終わるものではない」(4節)。主イエスは、ラザロの病いの報に接して、このように言われた。ラザロは、これ以上先に進むことの出来ない死という暗黒に落ちる寸前だった。しかし、「これは神の栄光のためである」(同)と主は言われる。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。主がこの世に来られたのは、何よりも父なる神が愛しておられるこの世の人々に永遠の命を得させるためだった。

 主がこの世において示された御業や御言葉は、すべて神の愛の表現に他ならなかった。主は、父なる神と一体であるゆえに、すべてのものを創造された神と全く同じ視点でご覧になった。だからこそ、主は父なる神が創られたすべての人間を徹底的に愛してくださるのだ。

 そして、主は今そのような神の愛のあり方を、ラザロを通してはっきり示そうとしておられる。だが、主は「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された」(6節)。これは、どういうことだろうか。

 主は、愛してやまなかったラザロを通して、神の愛が完成される時の幻を示す決意をなさったのだ。主は、そのために彼の深刻な状況を知らされてから二日後、つまり、彼の死が確定的となってから動き出されるのだ。

 一方で、主はユダヤの知識階級である律法学者やファリサイ派の人々の憎悪を深めていた。彼らは、目の前で自分が神の子であるなどと言う存在を見過ごしに出来なかった。だから、彼らは主を捕らえ、石で撃ち殺そうとする。しかし、実はこれさえも神の御計画の一部だったのだ。

 そんな恐ろしい経験をしたばかりの主御自身が、再び同じ場所に向かおうとされる。ここにおいて、我々は既に主の御受難が始まっていることを知る。主がこれから会いに行こうとしておられるラザロは、死の床に着いている。主は、「死」に向かって進み行こうとしておられるのだ。

 主がこのような歩みを進められる根拠は、「神の愛」に他ならない。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(11節)。主は、ラザロを我が友と呼ばれ、互いに向き合う関係を確立しようとしてくださる。人間は、本来神と向き合うことの出来ない存在だが、神の御子がその不可能を可能にしてくださるのだ。

 主は、このようにして友となってくださる相手を徹底的に愛し抜いてくださる。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(15:13)。これほどまでに大きな自己犠牲の愛を示してくださるのが、神の御一人子、イエス・キリストなのだ。そして、御自身が十字架において死に勝利を収められるがゆえに、主ははっきりと「この病気は死で終わるものではない」と宣言されるのだ。

2008年9月28日 召天者記念礼拝 (聖霊降臨節第21主日)

説教「信仰の法則」
聖書朗読 : ローマ書3章21〜28節
説教者 : 北川善也牧師

 来年2009年は、プロテスタント・キリスト教が日本伝道を本格的に開始して150年目の記念すべき年だ。この出来事は、日本の政治的・文化的歴史とも深く関連し、近代日本が形成される上で大変重要な働きをしてきた。

 そのプロテスタント教会は、聖書の御言葉を何よりも大切にしてきたが、今日の聖書箇所には、その中でも特に大切な信仰の根幹となる内容が記されている。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(23節)がそれだ。

 しかし、我々はその恵みに触れる前に、人間の罪の問題を避ける訳にはいかない。聖書は、神が御自分に似せて人間を創られたと告げている。神は、人間を御自分の対話相手として創られた。それゆえ、人間は神への応答を求められ、その手段として契約の言葉、「律法」を与えられたのだ。だが、人間は正しく「律法」を守ることが出来ない。律法によって神とつながろうとする時、人間は自分の力で神を引き寄せるような錯覚を起こし、自分中心の思いに陥るからだ。人間は、絶対的存在に誠をもって目を向けず、自己中心に溺れる罪を根源的に抱える。

 「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(21節)。ここで「義」と訳されているギリシア語が持っているのは、日本語にあるような「正しさ」ではなく、「神とのあるべき関係」という意味だ。つまり、「義」とは、もはや人間の力ではどうにもならない罪の問題を解決するため、神が一方的に与えてくださる救いの働きを指すのだ。

 与えてくださる救いの働きを指すのだ。
 我々は、「もういいよ。水に流すから」という許し方をする。しかし、これでは現状は何も変わらず、ただごまかしているだけに過ぎない。我々の罪はあまりにも大きいから、簡単に「水に流して」いただくことなど出来ないのだ。神は、忘れ去るような表面的な仕方ではなく、もっと徹底的、根本的な仕方で人間の罪を拭い去ってくださった。

 神は、御子をこの世に遣わされ、そのお方を十字架にかけてくださることによって、すべての人間の罪を洗い清めてくださった。我々は、この贖いの業、すなわち神の御子が「血を流して」くださることを通して、神との本来あるべき正しい関係、「義」を取り戻すことが出来たのだ。

 「キリスト教会の歴史の中には、主イエス・キリストの福音の『いのち』が継承され、伝承されている。どのような激しい、変動や迫害や障害があったとしても、教会は主キリストの体であって『キリストのいのち』が連綿として生きて働き続けている。キリストの教会は永遠に存在する。そして、人々の『からだ』と『魂』とを復活させつつ、救いに導きたもう」(洛北教会第5代牧師・壷井正夫)。

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