先週の説教 -バックナンバー-
08年10月のバックナンバーです。
08年10月のバックナンバーです。
説教「主イエスのなさったこと」
聖書朗読 : ヨハネ福音書11章45〜54節
説教者 : 北川善也牧師
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(11:25)。ラザロをよみがえらせる際、主イエスが語られたこの御言葉には、すべての人々を永遠の命に導き入れようとする圧倒的な力が満ち溢れている。
人間は、創造の初めから神との関係に破れ、また、それによって隣人との関係にも破れている。そんな暗闇の中にいる人間に対して、神は新しい生き方を示し、その道を歩むことによって永遠の命を与えると約束してくださった。神は、信仰によって我々の消え去るはずのない罪を贖い、御自身と我々との関係を回復させ、究極の喜びへと導いてくださる。
「わたしを信じる者は、死んでも生きる」という主の御言葉は、イエス・キリストがもたらされた十字架による救いの出来事を指し示している。我々は、たとえこの世において死を経験したとしても、その、本来は終着点であったはずの死が、信仰ゆえに十字架の出来事がターニング・ポイントとなって出発点に変わり、そこから永遠の命に至るという驚くべき、そして、喜びに満ちた約束を与えられている。
「主イエスのなさったこと」。それは、十字架の出来事に他ならない。そして、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という主の御言葉は、信仰者が本質的な意味では罪の結果としての死、滅びを経験することがないという意味だ。つまり、キリスト者は、主の十字架と復活によって「死」という人類最大の難問を既に乗り越えさせていただいているのだ。それゆえ、我々にはこの世において恐れるべきものはもはや何もない。
主を信じる者には、本来、罪に満ちた人間に備わっていない永遠の命がもたらされる。それは、キリストの十字架という歴史上の出来事によって、これ以上ない確かさでもって保証されている。そして、神は一人一人にこの出来事を受け入れる信仰を授けてくださる。この信仰によって、人間は神の領域である永遠の命に与ることが出来るようになるのだ。
今日の礼拝招詞、「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」(ヘブライ9:15)の中に、終わりの日に主がもたらしてくださる希望の内容が端的に示されている。キリスト者には、この「新しい契約」を通して神の国が約束されているのだ。
すべての人々が、最後に辿り着くよう示されている終わりの日の恵みと神の国の豊かさを仰ぎ見つつ、我々はこの世においてイエス・キリストにお従いする道を最後まで歩み続け、多くの人々に対する福音伝道の業に取り組んでいきたい。
説教「人生の寂しさのただ中で」
聖書朗読 : イザヤ書56章3〜5節
使徒言行録8章26〜40
説教者 : 中野実先生(東京神学大学准教授)
キリストの教会の歩みはつねに平坦ではない。しかし、使徒言行録によると、教会が本当の力を発揮したのは、迫害や分裂というような試練、逆境の中であった。そんな厳しい教会の状況のただ中で、神から用いられた伝道者がフィリポである。ある日、神はフィリポに一つの命令を与えた。「ここをたって南へ向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」。そこは寂しい道、人間と出会うことは期待できない荒涼とした場所である。しかしここに信仰者の重要な使命がある。誰もが確認できる所に神の業を見るのではなく、誰も見ようとしない所に神の業を発見する使命である。
そこでフィリポはエチオピアの女王カンダケの高官であり、宦官であった人物に出会う。彼は一方で女王に仕える高官として名誉を手にしていたが、他方、身体に欠陥を持つ存在としてさげすみの対象でもあった。彼はユダヤ教徒ではなく、異邦人である。何かのきっかけによって聖書の中に真実があると信じて、求道を始めていた。聖書を通して、自分のような宦官ですら、必ず神の民の一員に加えてもらえるとの希望を与えられ、思い切って遠いエルサレムへの巡礼の旅を試みた。しかし彼の期待は落胆へと変わった。実際のエルサレムの神殿に彼の場所はなかった。彼のように身体に欠陥を持つ者は神殿に入ることすら許されない。大きな屈辱を感じ、落胆の只中でエチオピアへと戻る途上にあった。
フィリポは、そんな彼にイザヤ書53章から説き起こして、イエス・キリストの福音について語る。「天地の創造者である神は、預言者イザヤが言うように、今あなたのような異邦人を、宦官を神の民として招いている。しかし大事なこととして覚えてほしいのは、あなたが神の民として加えられるのは、エルサレムの神殿によってではなく、十字架の苦しみを通して、栄光のうちに入られたイエス・キリストによってである。イエス・キリストこそ、多くの苦しみ、矛盾の中であえいでいる私たちを救いへと導くために、ご自身も苦しみを味わわれた方である」。このフィリポのメッセージは宦官に本当の希望を与えた。
私たちも人生の歩みの中で、惨めさ、挫折、苦しみ、悲しみを経験する。しかし、その只中に神の御子イエス・キリストが入ってきてくださり、私たちのために新しい道を切り開いてくださった。それによって、私たちも宦官のように、神の民の一員として迎えていただける。主イエス・キリストを通して私たちもまた神の民に加えられている。その恵みの事実を示すしるしが私たちの洗礼である。人生の寂しさのただ中で、主イエス・キリストは私たちと出会ってくださる。その光栄を感じつつ、主とともに歩む日々を今日から始めよう。
説教「後ろのものを忘れて」
聖書朗読 : フィリピ書3章7〜21節
説教者 : 北川善也牧師
キリスト者とは、究極の楽天家だ。どんな時でも前向きでいられるからだ。この底抜けの前向きさは、天地万物の創造主である神によってもたらされるものであり、それゆえに決して浮ついたものなどではなく、何よりも確かな拠り所を持っている。
今日与えられたフィリピ書が書かれた時、パウロはローマの獄中にいたと言われる。獄中で絶えず監視の目にさらされ、不自由な生活を送っていたであろう彼が、なぜ「喜びの手紙」とも呼ばれるこれほど前向きな手紙をしたためる心境に至ったのか。そこには、我々の想像をはるかに超えるような困難があり、彼は厳しい忍耐を強いられていたはずだ。
我々は、ほんの少し前までパウロ自身がキリスト者を捕える仕事に関わっていたことを思い起こす。彼は、ユダヤ人のエリートとして必要充分な条件を兼ね備えていた。彼は、恵まれた才能を生かしてファリサイ派の中心的な位置に着いてもいた。彼は、こうした誇りを人生の柱として生きていたのだ。
そんなパウロの身に、人生の一大転機が訪れる。キリスト者を迫害するためダマスコへと向かう途上で、衝撃的な仕方で主イエスとの出会いが与えられるのだ。この出来事によって、彼は憎悪の迫害者から一転して、愛の福音伝道者へと変えられていく。そして、フィリピをはじめとする未知の広域伝道の旅に人生の残りすべてを捧げていくのだ。
パウロは、神を憎み、神に逆らう者の先頭に立ち、神から最も遠いところにいた。しかし、神はそんな「放蕩息子」であった彼をこそ御自分の器として選び、一大転機を与えて御自分のもとへと引き寄せられる。その時、彼はこの世の価値観を捨て去って、ただキリストによる恵みのみに視点を移し、そのすばらしさを宣べ伝える存在へと変えられていくのだ。そして、彼は何よりもそのようにしてキリストに従うことによって、「神の義」に与ることが出来るということを示されるのだ。
信仰による義は、神が創造のはじめに備えられた、神との本来あるべき関係へと人間を回復させる。このようにして神との対話関係を取り戻すことによって、人間は初めて真の平安に包まれる。この平安は、終わりの日に完成する神の国の希望を指し示している。それゆえ、我々が今、この世において与えられるキリストの平安もその希望を反射して光り輝いているのだ。
「しかし、わたしたちの本国は天にあります」(20節)。だからこそ、我々は神の国に向けて全力を集中させねばならない。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走」(13〜14節)っていくのだ。しかも、我々はこのレースをたった一人で続けるのではない。神の家族という礼拝共同体が、共に手を取り合いつつ走っていくのだ。
説教「わたしを見出し、生かしてくださる神」
聖書朗読 : マタイ福音書10章28〜33節
説教者 : 北川善也牧師
日本のプロテスタント伝道が宣教師たちによって本格的に開始されて来年で150年、カトリックの宣教師ザビエルが来日して460年だ。日本に初めてやってきた宣教師たちは、言葉の壁や八百万の神に囲まれた日本固有の文化の中で大苦戦したはずだ。しかも、カトリック伝来から少し経った頃、日本は鎖国に入り、「キリシタン禁令」が下される。
このような状況下で、宣教師たちがもし日本伝道をあきらめていたら、我々の教会は今日ここに存在せず、キリスト者の数も今とは比較にならぬほど少なかっただろう。我々の教会は、命懸けでキリストに従い、粘り強く苦難を乗り越え、御言葉を語り続けてきた人々の働きを通して受け継がれてきた。たとえどんな状況であっても、神はその時にふさわしい器を立て、伝道の働きを進めてくださる。
教会の歴史は、聖書に基づく正しい福音信仰に固く立ち続けた信仰の先達によって、丁寧に、そして慎重に積み上げてこられた。それゆえ、我々はこの福音を決しておろそかにしてはならないし、次世代にしっかり受け継がねばならない。
第36回教団総会では、「教団・公同教会としての一致と連帯」が主題に掲げられた。これは、教団が真の「一致と連帯」にほど遠い状態にあることをも示している。その最も重大な問題として、「未受洗者への配餐」がある。一部に、「なぜ聖餐は受洗者しか与れないのか。差別ではないか」と叫ぶ人々がいるのだ。
受洗者のみが与る聖餐は、聖書が告げる福音を正しく受け止めるならば、ごく自然に受容できるはずであり、正統的な信仰を受け継ぐあらゆる教派が、このようにして聖餐を守り続けてきた。聖餐とは、信仰を確かなものとされ、キリストの十字架と復活とによって、罪の赦しと永遠の命を与えられたという確信に至っていなければ与る意味のないものだ。つまり、聖餐の豊かな恵みを味わい知るためには、すべての人に開かれた洗礼によって信仰を固くすることから始めなければならない。
正しい福音からの逸脱は、現在の教団という限られた世界だけの問題ではない。教会の歴史は、当初からそのような誘惑との闘いの歴史だった。人間は、よりわかりやすく、従いやすい教えを求める。また、受け入れにくい教えをすぐ自分本位に変えようとする。信仰に至っていながら、なおもそこから簡単にそれそうになってしまう我々に対して、主は「わたしは道であり、真理であり、命である」と力強く語りかけてくださる。
我々は、このような神によって見出され、生かされている。それゆえ、この世のあらゆる試みを乗り越え、いつでも信仰を正しく言い表すことが出来るよう、そしてこの世の闘いを闘い抜き、最後まで主に従うことが出来るよう共に祈り続けよう。