日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

08年11月のバックナンバーです。

2008年11月2日 オール洛北礼拝 (降誕前第8主日)

説教「見よ、それは極めて良かった!」
聖書朗読 : ローマ書 3章21〜28節
説教者 : 北川善也牧師

 イエスさまは、「男の人も女の人も、子どももお年寄りも、どこの国のどんな人でも、いつでもわたしのところに来なさい」と言ってくださった。イエスさまは、両手を広げてわたしたちを招いていてくださるが、その形は何かに似ている。「十字架」だ。

 しかし、イエスさまが両手を広げている形の十字架とは、もともとどういうものだったろうか。イエスさまは、すべての人間の罪を贖うため、十字架に釘で打たれ、血をたくさん流して死なれた。そして、お墓に入れられたが、三日目によみがえられた。

 よみがえられたイエスさまは、弟子たちに「わたしは天と地のすべてを治める力を父なる神から与えられている。そのわたしが、いつでもあなたがたと一緒にいるのだから、安心してどこまでも行き、すべての人々にわたしを信じるように伝えてきなさい」と言われた後、天に昇られた。そして今、イエスさまは、父なる神さまと一緒におられるのだ。

 イエスさまは、十字架にかかって死なれたけれども、よみがえられ、天に昇られることによって、わたしたちといつでも一緒にいてくださるようになった。そのようなことが、イエスさまが天から聖霊を送ってくださるという仕方で成し遂げられた。

 風船の中に空気が入るとプウッとふくらむように、教会にはイエスさまが送ってくださった聖霊がいっぱい詰まっている。だから、教会の中は恵みで満たされているのだ。そして、教会にいっぱい詰まっている聖霊が一人一人の上に留まって、イエスさまがいつもわたしたちと一緒におられることをわからせてくれる。

 イエスさまをわたしたちのところに送ってくださった父なる神さまは、ご自分にかたどって人間を創造された。そして、出来上がった人間を見て、「これは、とてもすばらしい!」と言って喜ばれた。人間は、神さまに似せて造られた。だから、神さまは、一番大切な御一人子イエスさまをわたしたちのところに送ってくださるほど、わたしたちを愛してくださるのだ。

 神さまが、わたしたちのことをそれほどまで大切に思い、愛してくださるのだから、わたしたちは神さまに感謝の気持ちを表さなければならない。神さまからいただいているたくさんの愛に、たくさんの恵みに、心を込めて「ありがとうございます!」という気持ちを表すためにはどうしたらよいだろうか。

 わたしたちは、そのために教会で礼拝を捧げる。その教会にはいつでもイエスさまがおられ、すぐにわたしたちを恵みで満たしてくださる。わたしたちが、神さまに感謝を表すそばから、また恵みのプレゼントが与えられる。だから、わたしたちは、神さまに感謝してもし尽くせないことになる。でも、神さまは、そのようにしてわたしたちがみんなと一緒に教会で心を合わせて礼拝をお捧げすることを、何よりも喜んでくださるのだ。

2008年11月9日 降誕前第7主日礼拝

説教「良い実を結ばせるため」
聖書朗読 : マタイ福音書 3章7〜12節
説教者 : 北川善也牧師

 洗礼者ヨハネは、人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3:2)と宣べ伝えていたが、少し後の4章17節では、これと全く同じ言葉がイエス・キリストの口を通して語られ、キリストはその言葉をきっかけにして公の活動を始められている。

 この言葉には、それゆえ特別で重要なキリスト教の教えが示されている。それは、神がすべての人間を招いておられる天の国に入れられるためには、何よりもまず「悔い改め」が必要であるということだ。キリストによる救いは、ただ(フリー)で与えられるような安価な恵みではない。人間は、自らの罪の深さを知り、その罪を悔い改めて、信仰に立ち帰らねば、真の救いに与ることが出来ないのだ。

 ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結べ」(8節)と告げているが、これはファリサイ派やサドカイ派の人々に向けられた言葉だった。彼らは、「我々の父はアブラハムだ」(9節)という決まり文句を勲章のようにしていた。彼らは、神の前に常に正しかった先祖アブラハムが受けた特別な恵みの蓄えが豊かに与えられているから、自分たちがどんなに費やしてもその恵みが尽きることはなく、しかも、その恵みゆえに、自分たちは何をしても神の救いから漏れることはないという勝手な解釈を加えていた。

 しかし、アブラハムに与えられた救いの約束が、たとえどんなに豊かだったとしても、子孫がその上であぐらをかき、好き勝手し続けていたら、反故にされてしまうのは当然だ。ヨハネは、そのような人々に対して、救いの約束を取り戻すため、自らの罪を悔い改めよと告げているのだ。

 彼は、洗礼について次のように語る。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。……その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(11節)。

 「聖霊」の原語「プネウマ」には、「息」という意味もある。創世記に記されているように、人間は神にかたどって創造され、神の息を吹き込まれることによって、命を与えられた。そのような人間は、神の御子がもたらしてくださる聖霊に与ることによって、その命を完成され、永遠の命へと導かれるのだ。

 一方、金属を精錬し、その硬さを高め、不純物を取り除く作業は、「火」で高温にすることによって行われる。これと同じように、キリストによって送られる「火」が、人間の中に入れられることによって、罪に汚れた人間がきよめられ、罪が取り去られて、神による救いの出来事が実現するのだ。

 我々が、自らの罪を悔い改めて水の洗礼を受けることにより、キリストは聖霊をもって我々に新しい命をもたらし、火によって罪の汚れをきよめてくださる。キリストは、このような決定的な仕方で人間の救いを完全なものとしてくださるのだ。

2008年11月16日 降誕前第6主日礼拝

説教「不完全の中の完全」
聖書朗読 : マタイ福音書5章38〜48節
説教者 : 北川善也牧師

「目には目を、歯には歯を」は、同害復讐の原則とも呼ばれる、共同体内における復讐の連鎖を食い止めるために生み出された掟だった。しかし、いずれにせよ暴力には暴力をもって報復することでしか人間は怒りを静める術を知らなかったのだ。

 人間は、なぜ復讐の連鎖を押しとどめることが出来ないのか。その根本には、人間の誇りの問題がある。誰も皆、誇りが傷付けられることを嫌い、もしもそれが踏みにじられそうになった時には、それを守るために必死で抵抗する。それが人間の本能だ。

 しかし、主イエスは「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(39節)と命じておられる。これは、人間の本能に逆らう命令だと言ってよい。しかも、主は「同害復讐の原則」が認められていた当時の世の中で、相手のしたいようにさせるという全く新しい価値観を示されたのだ。

 主は、続けて「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(44節)と言われた。主は、ここで神の愛について説かれているのだ。人間同士の果てしない争いは、神の愛に基づく愛の業をもって乗り越えるしかない。そして、この人間業を超えた行いは、祈ることによってしか成し遂げることが出来ない。

 旧約聖書の創世記は、人間が神の似姿として創られたと記す。しかし、あくまでも「似姿」に過ぎないのであって、人間は決して拭い去ることの出来ない罪という大きな問題を抱えた、欠陥だらけの不完全な存在なのだ。

 このような不完全な存在に、神は教会を与えてくださった。我々は、教会に身を置くことによって、どうしたら喜びに満ちた人生を送ることが出来るかという、誰もが知りたがっている問いの答えを明確に示される。それは、何よりも土から人間を造り、命の息を吹き込んでくださった命の源である神が、我々と向き合ってくださる場所が教会に他ならないからだ。

 不完全な存在である人間は、本来、他人との間に摩擦を引き起こすばかりで、人を傷付け、そのことによって自分までも傷つけるような生き方しか出来ない。そうやって、与えられた命を浪費するようにして生きている人間に対して、神は、すべてが肯定され、すべてが良しとされる命の用い方を示してくださった。我々は、罪の汚れによる不完全な姿のままで、十字架の主を信じる信仰によって贖い取られ、ただ信仰のゆえに神の子としての姿へと変えられていく幸いに与ることが出来るのだ。

 そのようにして、我々は、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る神の愛の実践者へと変えられていく。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(48節)。この主の御言葉は、不完全な我々の中で、信仰によって脈動し始め、成し遂げられていく。

2008年11月23日 収穫感謝日・謝恩日(降誕前第5主日礼拝)

説教「祝福された人たち」
聖書朗読 : マタイ福音書25章31〜46節
説教者 : 北川善也牧師

 人間は、自分が何のために生きているのかを模索しながら、さまよい歩く存在だ。教会の暦では一年間最後の主日に当たる「終末主日」を覚え、我々の命の意味について思いを馳せたい。

 先週の説教では、人間という不完全な存在の中で、いかにして完全な出来事が起こりうるのかを見た。争いの絶えない人間の現実の中に、主イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という神の愛の掟を打ち立てられた。右の頬を打たれたら左の頬を差し出すことなど出来ない我々のため、神の愛の掟を成し遂げてくださったのは、神の御子、イエス・キリスト以外の誰でもない。

 そのお方によって、罪に汚れた人間が、主と同じ神の子としての身分に与ることが出来るという驚くべき恵みが示された。主は、信仰者に「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(34節)という御言葉を与えてくださる。

 聖書は、主を信じる信仰に入ることによって、罪を抱えた人間が神の子として神の国に迎え入れられるという、本来あり得ない恵みに与ることが出来ると告げている。我々の人生の目的は、まさにこの幸いを得ることにある。我々は、主の十字架の出来事を通して、罪にまみれた人間が神の子とされるという信仰を自分のものとすることをこそ、人生最大の目標とすべきなのだ。しかも、この信仰を貫き通した者には、永遠の命までが約束されていると告げられている。これは、まさしくすべての人間が人生を賭けるべき目標に他ならない。

 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(31節以下)。ここにある「すべての国の民」は、同じマタイ福音書の最後、28章19節で復活の主が弟子たちに語られた伝道命令に含まれるのと全く同じものだ。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。……わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。主は、福音をあまねく宣べ伝え、信仰を行きわたらせて、あらゆる人々を御前に招こうとしておられる。

 これは、人間の思いからすれば、実現不可能としか思えないような内容だ。しかし主は、このような御業が神の御計画のうちに成し遂げられるとはっきり告げておられる。それゆえ、我々の教会はその実現に向けて、神の御言葉、キリストの福音を語り続けるのだ。やがて、すべての人々が神の御前に召し出され、永遠の命に与ることを赦される日が来るまで、我々の教会が伝道の御業に取り組み続けることが出来るよう祈りつつ、この礼拝からそれぞれに与えられた伝道の最前線へと赴こう。

2008年11月30日 待降節(アドベント)第1主日礼拝

説教「だから、目を覚ましていなさい」
聖書朗読 : マタイ福音書24章36〜44節
説教者 : 北川善也牧師

 クリスマスを待ち望む思いを表すのに、最もふさわしい言葉は「喜び」だろう。だが、この喜びは主イエスがお生まれになったことだけからもたらされたものではない。十字架への道をたどられた末に死んでいかれたイエス・キリストの出来事を通して、すべての人間の罪が贖われ、真の光が照らし出す場所へと導かれる究極の喜びが与えられたのだ。

 十字架において死なれた主は、墓に葬られて三日目によみがえられ、弟子たちの前に姿を現わされた後、父なる神のみもとに高く挙げられていった。我々は、この主が再び来てくださることを待ち望む信仰を告白する群れだ。

 今日与えられた新約聖書の中で注意せねばならないのは、主がノアを引き合いに出しておられるところで、我々に大洪水に巻き込まれた人々のようにならぬよう呼び掛けておられる点だ。これは、我々が日常生活の中で、ふとした瞬間に神から遠ざかってしまうことに対する警告だ。

 一方、主は40節以下で、畑にいる男や臼を引いている女を登場させ、労働や奉仕の事柄を具体的に挙げて、人間に課せられている務めに目を注いでおられる。それぞれに与えられた持ち場において、日常の歩みを重ねつつ、絶えず御言葉に耳を傾け、祈りを捧げる生活の中で主の再び来たりたもう時を待ち望むのが我々に求められている生き方なのだ。

 これは、与えられている一日一日を真剣に生きよと告げる言葉として受け取ることも出来るだろう。我々は、自分の命が何のために与えられているのかという問いと絶えず向き合いつつ、今なすべき事、果たさねばならない務めに集中していく生き方を求められている。我々は、信仰を土台とし、直面する課題と真剣に向き合うことを通して、神が将来もたらしてくださる大いなる希望に生きる存在へと変えられていくのだ。

 キリストが再び来られ、神の国の門が開かれる時、主を信じる信仰を貫き通した者たちは、永遠の命につなぎ止められ、そのような究極の恵みを与えてくださるお方との対面が赦されると告げられている。我々は、その時に向けての備えをどこでなすべきか。我々は、教会における神への礼拝を通して、終わりの日に向けて目を覚まし続ける力を与えられるのだ。

 我々は、礼拝を通して、自分がいかに神によって愛されているかを知り、神が我々のように罪深い存在さえも用いて、御自分の計画を確実に進めておられるという底知れない喜びを確かなものとさせられていく。神はそのようにして、教会で我々一人一人を捉え、この世における働きを強めてくださる。

 我々は、いつでもその時を喜んで迎えることが出来るよう、与えられている今を神に喜ばれる時とするべく、教会での礼拝を生活の中心に置きつつ、日々真剣に生きていきたい。

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