日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

08年12月のバックナンバーです。

2008年12月7日 教会創立101周年記念礼拝(待降節第2主日礼拝)

説教「わたしたちの背きの罪」
聖書朗読 : イザヤ書59章12〜20節
     マタイ福音書13章53〜58節
説教者 : 北川善也牧師

 先週、思いがけない一本の電話をいただいた。洛北教会初代牧師、大宮季貞先生の曾孫に当たる方からだった。曾祖父の資料を見せてほしいというその方の来訪を私は待ち受けた。もちろん、お会いした日の三日後が洛北教会の創立記念日であることなど彼は知るよしもない。このように絶妙のタイミングで、これまでつながりが途絶えていた初代牧師の子孫の方と直接お会いする機会を与えられたことに、不思議な神の導きを覚えずにはいられなかった。

 大宮牧師は、1890(明治23)年、25歳の時に「北越伝道は北越人自ら当たるべし」との持論を打ち立て、新潟の諸教会で延べ10年間牧会された後、恩師ラーネッド宣教師の招きを受け京都に戻られた。今日与えられた主イエスの御言葉、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(マタイ13:57)とは逆に、状況をよく知った者が地元で伝道するのがよいと考え、故郷の人々に福音を宣べ伝えていた彼に、京都で伝道せよとの声が届くのだ。彼が、按手を受け、牧師として地域の伝道に本格的に取り組むのは、実はこの京都での働きにおいてであった。

 もともと「人前で弁の立つ人ではなく、むしろ控え目で地道の人であり、それだけに文筆の人としてねばり強く、コツコツと執筆に励む人だった」と言われる彼に、その後自分がどのような歩みをすることになるかなど想像も出来なかったはずだ。ラーネッド宅での聖書講義が発展し、今出川教会として自主・独立の気運が高まった時、そこには後に教会創立者となる13名がいた。その中に大宮夫妻と長女・百合子姉も含まれていたが、この時、彼は主にラーネッドの執筆活動を手伝う、まだ按手を受けていない伝道者に過ぎなかった。その彼が立てられていくのだ。

 来年2009年は、プロテスタント日本伝道が本格的に開始されて150年目の記念すべき年だ。その最初の宣教師たちも、日本固有の文化や言語の中で何度も苦汁をなめたはずだ。だが、彼らはそのような悪条件を聖霊の助けによって乗り越え、福音伝道に取り組み続けた。それが途絶えることなく、現代にまで受け継がれていることは驚くべき神の御業としか言い得ない。

 「西では主の御名を畏れ 東では主の栄光を畏れる。……主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると 主は言われる」(イザヤ59:19-20)。ここには、神の国にあらゆる人々を迎え入れるため、神が全地に向けて御言葉を発信されるという大いなる幻が示されている。

 神は、いついかなる時にも我々に御言葉を与えてくださる。そして、究極の御言葉として我々に与えられたのがイエス・キリストだ。我々は、このお方によって、神と向き合う、本来あるべき正しい関係を回復させていただくことが出来たのだ。

2008年12月14日 待降節第3主日礼拝

説教「誰を待っているのか」
聖書朗読 : 士師記13章2〜14節
     マタイ福音書11章2〜19節
説教者 : 北川善也牧師

 貧しさに打ちひしがれ、大きな不安を抱えて暗闇の中を歩んでいたユダヤの人々は、救い主の到来を心底待ち望んでいた。そして、洗礼者ヨハネこそその方なのではないかと考えるようになっていく。しかし、ヨハネは「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」(ルカ3:16)と告げて、はっきりと主イエスを指し示し、神の御子の偉大さを認識していた。

 しかし、今日の聖書箇所では、ヨハネが主を正しく理解していたのか訝しくなるような言動を取っている。この時、彼は荒れ野での伝道に取り組みつつ、領主ヘロデの悪事を暴き立てたため捕えられていた。このような状況下で、主が数々の奇跡を行なっていることを聞いた時、彼は主に「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」(3節)と疑いつつ尋ねるのだ。

 ヨハネは、迫害によって信仰の危機に瀕していた。そんな彼に対して、主は旧約を引用して福音の力を明確に示される。「目の見えない人は見え……死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(5節)。これは、ユダヤの人々が長年にわたって希望を見出し続けてきた御言葉だ。主は、御自分がこの御言葉を成し遂げるため、この世に来られたことを宣言される。その上で、「わたしにつまずかない人は幸いである」(6節)と言われるのだ。

 2節の「キリストのなさったこと」とは、これまで主がなさった山上の説教(5〜7章)と数々の奇跡(8〜9章)を指している。そして、聖書はこのような御業を行う方こそ救い主であると告げている。なぜなら、病める人々、貧しい人々に対する救いの御業が開始されたということは、そのような人々を迎え入れると告げられている神の国が近づきつつあることを示しており、神の国をもたらすお方こそ救い主に他ならないからだ。

 ところが、主に先立って人々に福音を告げる役目を与えられたヨハネに今、危機が訪れている。牢の中という自由が利かない状況にあって、主のなさった出来事を直接見ることが出来ないため、このお方を指し示してきたはずの彼自身が信仰を揺るがされてしまうのだ。そんな彼に対して、主は力強い御言葉を送られる。主は、信仰者が弱さを覚えている時にこそ、聖霊の働きをもって御言葉を与え、その歩みを支えてくださる。

 我々の人生は、決して平坦ではない。しかし、いついかなる時でも我々と共に歩んでくださり、とりわけ危機に瀕している時に寄り添って信仰を増し加え、支え導いてくださる御言葉そのものであるお方がイエス・キリストに他ならない。それゆえ、我々はこのお方にすべてを委ね、御言葉によって生かされる喜びをもって人生の歩みを進めていくことが出来るのだ。

2008年12月21日 降誕祭《クリスマス》礼拝

説教「彼こそ、まさしく平和である」
聖書朗読 : イザヤ書7章10〜14節
     マタイ福音書1章18〜23節
説教者 : 北川善也牧師

 「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ7:14b)。これは、イスラエル(南ユダ)が外国の攻撃を受けつつあった時、イザヤが国王アハズに語った預言だ。アハズは、イスラエルが生き延びるため外国との融和政策を取ろうとするが、それは異教の神々を受け入れる危険と隣り合わせだった。神への信仰と人間の謀のどちらを取るのか、アハズに決断を迫る場面で「インマヌエル」(神われらと共にいます)の名が告げられる。

 マタイ福音書には、救い主としてお生まれになる方の名前の由来が記されている。マリアの婚約相手ヨセフは、婚前に彼女が身ごもったことを知り、事が表沙汰にならぬうち密かに縁を切ろうとした。その時、彼に天使が現れ、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(1:20b)と告げる。

 律法は、婚前の女性が身ごもり、相手の男性が結婚を止めた場合、女性を姦淫罪と見なして石打ち刑で殺すことを定めていた。しかし、彼は天使に告げられた言葉を受け止め、彼女と結婚して与えられた子どもを育てる決意を固める。その時、示された名が「イエス」(神は救いである)だった。

 イスラエルの重大局面に際して、アハズ王が神を受け入れるか否かの決断を迫られた時、「インマヌエル」の名が告げられ、またヨセフは婚約者が身ごもったのは聖霊の働きによるという天使の言葉を受け入れるか否かの決断を迫られた時、「イエス」の名を告げられる。

 救い主の名として与えられた「神われらと共にいます」と「神は救いである」は、人間に決断を迫る言葉なのだ。その決断とは、生ける神を受け入れるか否かというものであり、この出来事こそキリストの誕生、すなわちクリスマスに他ならない。

 だが、クリスマスは本来単純な喜びだけで受け入れられる出来事ではない。なぜなら神は、人間のどん底に御子をお遣わしになったからだ。神の御子は、馬小屋という低い場所でお生まれになり、やがて十字架というこの世の最も低い場所へと向かわれる。そして、そこで究極のどん底である死に至るのだ。

 しかし、キリストの出来事は死で終わりになったわけではない。主は、すべての人間の終着点である死を突破して、永遠の命を受け、高さの極みである父なる神のみもとに帰られた。その主が今、我々に聖霊を送り、いついかなる時でも共にいてくださるのだ。それが、「インマヌエル」であり、「イエス」であるお方だ。クリスマスに来てくださった主が「我々と共にいてくださる」のを信じることによって、我々は「神による救い」、すなわち罪の赦しと永遠の命に与ることが出来る。

2008年12月28日 歳末礼拝(降誕節第1主日)

説教「主の栄光はあなたの上に輝く」
聖書朗読 : マタイ福音書 2章1〜12節
説教者 : 北川善也牧師

 ベツレヘムでお生まれになった主イエスのもとへ最初に訪れたのは、「東の博士たち」だった。ユダヤ東方、異邦の地において、占星術の学者はエリートであり、インテリだった。当時、「ユダヤ人の王としてお生まれになる方」を待望するユダヤ人たちがローマ帝国の発展と共に各地へ広がっていたので、東の博士たちもそのお方の存在を知り、探し求めるようになったのだ。このことは、ユダヤの王ヘロデにとり大きな脅威となる。ローマ皇帝に取り入って、「ユダヤの王」の称号を手に入れた彼は、もし「本物」が現れたら自分の居場所がなくなってしまうのだから、彼が恐れるのは無理もなかったのだ。

 主イエスは、この先において十字架につけられる直前、ローマ総督ピラトから「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問された時、「わたしの国は、この世には属していない」と答えられた。そして、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と続けられた。

 そのようなお方を地上の価値観でしか捉えられなかったゆえ、ヘロデは「メシア殺し」を企むのだ。そして、彼が呼び集めた祭司長や律法学者たちも、ヘロデの企みを察しつつ、メシアがどこで生まれることになっているか聖書の預言を調べて協力する。彼らは主イエスをメシアと捉えるところまで至ったのに、どうして殺そうとするのだろうか。民衆に多大な影響を及ぼすような特権を手にしていた彼らは、主イエスではなく、この世の王であるヘロデに従うことによって現在の立場を守り続けようとしたのだ。

 一方、東方からやって来た占星術の学者たちは、メシアについての知識はわずかしか持っていなかったが、祭司長や律法学者たちよりもはるかに強くメシアを求めていた。彼らが、最も大切な宝物をメシアに捧げるため携えていたことから、その思いが伝わってくる。彼らのそのひたむきさが、誰にでも等しく見える夜空の無数の星の中に希望の星を見出させたのだ。そして、彼らはその星を見失わず、その星に導かれて、主イエスを最初に礼拝する者とされる。


 我々を取り巻く環境は様々で、皆それぞれの目の前に厳しい現実が立ちはだかっている。そんな状況の中にあって、我々はこの世の価値観に囚われ、知らず知らずのうちにその枠の中でがんじがらめになっている。我々は、そのような状態のままで命を輝かせることは出来ない。我々に与えられている命を全身全霊を込めて注ぎ出すべき対象は、希望の源である主イエス以外にはおられない。

 主の栄光は、誰の上にも等しく輝いている。全く違う方向を向いていたり、それを求めていない時には気づくことが出来ないが、救い主を心から待ち望んでいる人に対して、主は必ず希望の星を差し向け、その星によって御自分のところへと導いてくださるのだ。
 我々が、主イエスこそ自分にとっての救い主であることを受け入れた時、我々もあの東の博士たちのように希望の星に導かれ、正しい道を迷うことなく進んでいくことが出来るようになる。

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