日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

09年1月のバックナンバーです。

2009年1月4日 新年礼拝(降誕節第2主日)

説教「恵みの御業は永遠に続く」(2009年教会標語より)
聖書朗読 : 詩編 111編1〜10節
説教者 : 北川善也牧師

 今年の教会標語として与えられたのは、詩編111編3節、「主の成し遂げられることは栄え輝き 恵みの御業は永遠に続く」だ。伝道第二世紀の歩みを始めた我々は、昨日も今日も変わりなく注がれる神による恵みの大きさとそれに対する感謝の気持ちを忘れぬよう、この御言葉を心に刻みつけたい。

 また、2009年はプロテスタント日本伝道150年にあたる。まだキリスト教禁止令が続く困難の中、来日した米国人宣教師たちによって日本に福音の種がもたらされた。この種が枯れることなく成長させられたことを感謝すると共に、この永遠に続く神の御業の一端を我々が担っていく決意を新たにしたい。

 111編は、神の御業を讃える詩だ。1節で「正しい人々」と訳されているのは、人間の行いや考えが正しいという意味ではなく、「神に対してまっすぐな人々」という意味だ。つまり、正しい人々とは、真の神のみを探し求める人々を指す。そして、主の御業、成し遂げられること、恵みの御業、驚くべき御業など、111編全体にちりばめられた神の御業を表す言葉はすべて、エジプトの補囚となったイスラエルに対する神の救済の出来事を示す。イスラエルにとって出エジプトは、民全体を救いに導くと約束してくださった神の契約の実現を意味していた。

 それゆえ、イスラエルの民は救いの御業を実現してくださった神を、3節のような最大級の讃辞をもって讃えるのだ。そして、このように神の御業に目を向ける者たちが、「驚くべき御業を記念するよう定められ」ていく(4節)。これは、人々が礼拝共同体として形成されていくということだ。

 我々は罪に染まりきっているから、そのままでは神の御前に立つことなど出来ない。神の御前に立てないということは、神との関係が断絶しているということであり、それは神の救いから程遠いということだ。しかし、我々は出エジプトの出来事に、罪を繰り返すイスラエルを、神がいかに忍耐強く、また憐れみ深く導かれたかを見る。神は、飢えに苦しむ御自分の民に「糧を与え」(5節)、「諸国の嗣業を御自分の民にお与えにな」り(6節)、「御自分の民に贖いを送」ってくださる(9節)。

 特に、最後の「贖い」は、身代金を払って身請けするという意味の言葉だ。神はこのような贖いを、罪に満ちた存在に「送る」というのだ。神が送ってくださった「贖い」とは、御子イエス・キリストに他ならない。神は、このようにかけがえのない代価を支払って、すべての人間を罪から解放してくださった。

 これほどまでに大きな恵みを受けているがゆえ、我々は礼拝を永遠に続けなければならない。「主を畏れることは知恵の初め。これを行う人はすぐれた思慮を得る。主の賛美は永遠に続く」(10節)とうたわれているように。神は、礼拝を通して、我々に「思慮」、すなわち信仰を増し加えてくださる。

2009年1月11日 降誕節第3主日礼拝

説教「わたしの心に適う者」(2009年教会標語より)
聖書朗読 : マタイ福音書3章13〜17節
説教者 : 北川善也牧師

 3章13節は、主イエスが唐突に洗礼者ヨハネのところに現れた場面から始まる。マタイ福音書は、その少し前に「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて」(3:1)と記し、今日の箇所で再び同様の言い回しを用いている。この前置きのない唐突さがかえって、ヨハネが洗礼者として世に出、主と出会い、主に洗礼を授けるという一連の行動が、すべて神の御計画のうちにあったことを如実に示している。

 しかし、それでもなお疑問は残る。ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と告げながら、人々に洗礼を授けていた。これは、罪人を悔い改めに導く洗礼である。全く罪のない神の子であるお方が、なぜ悔い改めの洗礼を受けなければならなかったのか。

 3章14〜15節を見てほしい。ここで、主が言われた「正しいこと」は、「義」とも訳しうる。ここで、「義」がどのようなことを表しているか聖書全体を俯瞰してみると、それは「神の正しい支配」を意味し、これこそすべての人間の救いの根拠に他ならない。そして、聖書は旧新約を通じて、人間が神の御旨に従うことによって、この「神の義」が実現すると告げ続けているのだ。

 イエス・キリストは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(11:28)と言われた。その休息は、主御自身が「柔和で謙遜な者だから」こそもたらされるという。誰よりも神の御子であるお方がへりくだって、神の御旨を徹底的に成し遂げられたからこそ、すべての人間に対する真の平安が約束されたのだ。

 それゆえ、神が御子をそのように大きな御業へと向かわせることを御旨としておられたしるしが示された。主が洗礼を受けられると「天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」(16節)。その瞬間、天が一気に近づいた。そして、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(17節)という天からの御声によって、いよいよ神の国がこの世において現実化し始めたのだ。これらの出来事は、主のみが神の御旨にかなう神の御一人子であることを明確に指し示している。

 主は神の御子でありながら、ヨハネの洗礼を受けるという行為において、御自分をすべての人々と同列に置かれた。主は、このようにして罪人に他ならない人間が洗礼を受けることによって新しい歩みを始めるのが「正しいこと」、すなわち神の御旨にかなう道であることを明確に示してくださった。

 何よりも、神の御子が洗礼を受け、我々と同じ立場に身を置いてくださらなければ、罪人である我々が義とされることなど決してあり得なかった。主は、このようにして我々の弱さを徹底的に担ってくださったのだ。主は、十字架という弱さ、愚かさの極みにまで向かって行かれるが、この十字架によってこそ神の御旨が完全な形で成し遂げられたのだ。

 教会は、神の御子であるイエス・キリスト御自身が神の深い御旨を示すために受けられた洗礼を最も大切な聖礼典とする。そして、教会はすべての人々がこの洗礼を受け、神の子とされる幻を仰ぎ見つつ、伝道の業に取り組み続けるのだ。

2008年1月18日 降誕節第4主日礼拝

説教「神による召し」
聖書朗読 : マタイ福音書4章18〜25節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、「悔い改めよ」(4:17)と命じられる。悔い改めとは、旧約以来聖書が繰り返し告げている主なる神への立ち帰りの姿勢を示す言葉だ。しかし、人間は簡単に悔い改めることが出来ない。罪が、人間の内側奥深くにとぐろを巻いて留まり、そこには誰も手が付けられないからだ。では、主は一体どのようにして人間を悔い改めさせようとなさるのか。

 私は学生時代、ある友人と自分がどういう仕事に就きたいかをよく話し合った。彼は、金融関係の仕事に就いて大きなお金を動かしたいと言っていた。ある日、牧師である彼の父親と話をする機会があった。牧師は、「私が息子に『お前が人間をとる漁師になってくれたらうれしいんだがなあ』と言ったら、息子は『俺は人間をとる漁師ではなく、金をとる漁師になる』なんて言うんだよ」と嘆いていた。彼は、第一志望の大手証券会社に入社し、たまに会うと楽しそうに仕事の話をしてくれた。やがて、私も就職して地方に赴任し、互いにほとんど会うこともなくなってしばらくすると彼から一通のハガキが届いた。会社を辞めて神学校に入学すると言う。願っていた仕事に就くことの出来た彼が、なぜきっぱり辞めてしまったのか。しかも、よりによって一番なりたくないと公言してはばからなかった父親と同じ道にどうして進もうとするのか。その時の私には全く理解出来なかった。

 それから10年以上過ぎ、私も牧師の道を選んだ。なぜ自分にそのような思いが与えられたのか考えるといくつかの事柄が浮かんでくるが、どれも決定的なものに思えず、自分の中でもすっきりしない。誰かに「なぜ牧師の道を選んだのか」と尋ねられても、理路整然と説明することは不可能だ。学生時代の友人が、何の説明もなく牧師になるとだけ告げるハガキをくれた時の心境がようやく私にもわかった。これは、自分の内側から湧き起こったものではなく、外側から唐突に与えられたものなので説明のしようがないのだ。神は、人間の思いを超えた仕方で一人の人間に悔い改めを迫り、一瞬のうちにその生き方さえ変えてしまう。

 主は、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、漁師の兄弟、ペトロとアンデレが網を打っているのをご覧になって、おもむろに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。すると彼らはすぐに網を捨てて従った。次に声をかけられた兄弟、ヤコブとヨハネも同様だった。ここには、彼らの感情を表す言葉は一切省かれているが、彼らは主の御言葉によって一瞬のうちに悔い改めをもたらされ、回心へと導かれたのだろう。

 主が言われた「悔い改めよ。天の国は近づいた」を直訳的に訳すと、「悔い改めよ。なぜなら天の国が近づいたのだから」となる。「…そうすれば…」ではなく、「…なぜなら…」なのだ。人間が悔い改めることによって神の国が来るのではない。神の御子イエス・キリストがこの世に来られ、救いの御業を開始されたことによって、神の国は既に始まりつつある。だから、我々は自分の罪を速やかに悔い改め、既に始まっている神の国に入るための備えをせねばならない。神は、そんな我々一人一人にふさわしい時を備えてくださり、一人一人と向き合って呼び掛けてくださり、信仰の道へと導いてくださるのだ。

 主は、十字架によって救いの源がどこにあるかをはっきり示してくださった。我々の救いは、今や主の十字架によって確かなものとされている。そして、その何よりも確実な救い主がいつでも「わたしについて来なさい」と呼び掛けていてくださるのだ。これはもうこの御声に従うしかないではないか。

2009年1月25日 降誕節第5主日礼拝

説教「死の陰に射し込む光」
聖書朗読 : イザヤ書8章23節b〜9章6節
説教者 : 北川善也牧師

 ガリラヤは、もともとイスラエルの一部だったが辺境の地ということで軽んじられていた。やがて、そこはアッシリアの属領となり、多くの異邦人が移り住んで異教の神々を導入し、「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるようになる。しかし、イザヤはそのように軽んじられ、危機的な状況に陥っているガリラヤとそこに住むいと小さき人々に神の栄光が与えられるという力強い救いの約束を告げる。

 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。それは、あたかも野宿する旅人が長く不安な夜を過ごした後、日の出を迎えて大きな安堵を与えられるような、暗闇をさまよう人々に大いなる平安がもたらされる様を告げている。中でもとりわけ大きな希望と共に語られているのは、「ひとりのみどりご」が与えられる預言だ。これは、7章14節以下の「インマヌエル(神我らと共にいます)」預言と相まって、救いの成就を明確かつ具体的に告げている。

 このみどりごの名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。これらは、この世の王に対する称号のレベルを超えて、神の支配が地上にどのような形で実現されるかを指し示している。「驚くべき指導者」とは、御自分の計画を全世界規模で推進し成し遂げる王を指す。また、「力ある神」とはこの王が神の御業を成し遂げる力を持っていることを指す。「永遠の父」とは、当時短期間で頻繁に王が入れ替わっていたイスラエルにおいて、長期にわたって安定的に、しかも公正で慈しみ深く統治する王を指す。

 最後に挙げられているのは、「平和の君」だ。「平和」は、ヘブライ語の「シャローム」であり、その意味は単に戦争がない状態ということだけではない。創世記が告げるように、すべてのものを創造された神がその一つ一つをご覧になって「これはすばらしい」と言われた状態、すなわち、全被造物が秩序を保った健全な状態にあり、それぞれが与えられている本分をしっかり認識していることをシャロームと呼ぶのだ。

 神の御子に帰されたこれらの称号が示しているのは、人間の罪によって引き起こされる争いや荒廃のため、平和とは程遠い状態に置かれている世界の歴史が、この王によって大きく転換されるということだ。

 この預言は、すべてその通りに成し遂げられた。それは、ベツレヘムの馬小屋で生まれ、その後ガリラヤで福音伝道を開始されることで公生涯に入られたイエス・キリストによって進められていく。主は、ガリラヤのいと小さき人々を最初に訪ね、真の命に至る御言葉をもたらされた。救いに飢え渇いていた人々は、こうして決して尽きることのない命の水に与ることが出来た。

 マタイ福音書の最後で、復活された主は弟子たちに「ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」との伝言を告げられた。彼らはこれを聞いてガリラヤへ赴き、そこで復活の主との再会を果たす。そして、彼らはそこで主の伝道命令を受けて世界の果てまで遣わされていく。

 福音伝道は、ガリラヤから始められた。それゆえ、教会の原点はガリラヤだと言える。ガリラヤのいと小さき人々を救った福音が、今やすべての人々を救うため全世界に向けて宣べ伝えられている。暗闇の中で大いなる光を求めているすべての人々への救いの御業が開始されたガリラヤは、すべての人々にとって決して忘れることなく立ち帰るべき場所でもある。我々にとってのガリラヤである教会にいつでも立ち帰り、そこから御言葉に押し出されてそれぞれの持ち場へと遣わされていこうではないか。

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