日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

09年2月のバックナンバーです。

2009年2月1日 降誕節第6主日礼拝

説教「見よ、わたしはあなたと共にいる」
聖書朗読 : 創世記28章10〜22節
説教者 : 北川善也牧師

 アブラハムの息子イサクとリベカの間に与えられた双子の男子、エサウとヤコブ。彼らは、母の胎内にいた時から争い始め、やがて成長すると弟ヤコブが兄エサウから長子の権利をだまし取ったので、兄は弟に殺意を抱く。弟は、兄から逃れるため孤独な旅を続けるが、その途中で野宿している時に幻を与えられた。

 「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており」、「神の御使いたちがそれを上ったり下ったりして」いた(12節)。そして、神の御言葉があった。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える」(13節b)。しかし、彼は兄から命をつけ狙われているため、どこにも留まり続けられない状態だった。

 だが神は、「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(15節)と言われた。この時、ヤコブは「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(16節b)と告白しているように、初めて神の御臨在に触れ、信仰告白をする(17節)。

 しかし、ヤコブの信仰は、この時点ではまだ不十分だった。彼は、神の祝福を受けた後、次のように言う。「(もしも)主がわたしの神となられるなら……すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます」(20b-22節)。彼は、神に対して条件付きでしか従うと言えないのだ。

 ヤコブは、イスラエル民族を名実共に代表する人物だから、普通なら彼は神を畏れる英雄として描かれるはずだ。しかし、聖書は彼の欠点を包み隠さず、等身大の人間として描き出す。こんなにも自己中心的で欲深い男が、神の民イスラエルの祖として立てられていくことに驚きさえ覚える。しかし神は、確かに彼を選び、神の御計画を進めるための道具として導かれるのだ。

 新約のヨハネ福音書1章43節以下に、主イエスがナタナエルを弟子にする場面がある。彼は、先に弟子となった友人フィリポから主のことを聞いても信じられない。しかし、彼は主と初対面した時、主が自分のすべてを知り尽くしていることに驚き、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)と即座に信仰告白する。すると主は、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われた。

 この御言葉は、今日の聖書箇所と密接に結びついている。ヤコブが見た夢は、神の民に与えられる地上の神の家が、神の国に通ずる天の門となるという幻だった。そして、今や主イエスがすべての人々を神と向き合わせる家となり、神の国に導き入れる門となってくださったことが告げられているのだ。

 我々は、既に主によって神の国の先触れとしての恵みを豊かに受けている。このような恵みに与っている我々は、神に対する感謝を欠かせない。しかし、だからといって、神は我々がヤコブのように神に対する駆け引きの条件のようにして差し出す捧げ物を求めてはおられない。神は、何よりもヤコブの存在そのものを求められた。神は、この後ヤコブと直接組み合い、高慢な彼をくじき、彼の全身全霊を神に向き直らせた。神は、人間がそのようになることを求めておられるのだ。神は、我々が心を低くし、持てる賜物を精一杯お捧げすることを喜んでくださる。我々は、互いに献身の志をもって、生活そのものを神にお捧げしつつ信仰の歩みを進めていきたい。

2009年2月8日 降誕節第7主日礼拝

説教「大いに喜びなさい」
聖書朗読 : マタイ福音書5章1〜12節
説教者 : 北川善也牧師

 ここには「幸い」を告げられる人々のパターンが9つ列挙されているが、主はどんな状態を「幸い」と捉えておられたのだろうか。「幸い」の原語には、「神の好意による祝福」という意味がある。主は、神がその人に好意を持たれるがゆえに与えられる祝福という、この上なく豊かな恵みについて告げておられるのだ。

 主が最初に語られたのは、「心の貧しい人々」に対する「幸い」だった。それは、霊的な危機に瀕している人々のことを指す。4章23節以下には、主が「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる地域を巡回し、伝道活動をされた様子が記されている。そして主は、そこに集まった「ありとあらゆる病気や患い」に悩まされていた人々をことごとく癒された。「山上の説教」は、そのような人々が大勢従ってくるのをご覧になった主が、山に登って始められた。マタイ福音書は、ここ以外にも主がこのような人々に対して特別な関心を払う場面を多く記している。決してあってはならないことだが、当時このような人々は汚れた存在と見なされ、社会の底辺に置かれていた。そして、彼らがそのような目に遭っているのは、神に背いた罪のゆえと考えられていた。こうして彼らは生きる気力を奪われ、霊的な危機に瀕していたのだ。主は、彼らに対して「天の国はその人たちのものである」と宣言された。

 ところで当時、イスラエルの人々は「幸いである」という言葉を聞いた時、どんな思いを抱いただろうか。というのも、この言い回しは、彼らが最も大切にしていた旧約聖書に多用されていたからだ。旧約において「幸い」が語られる場合、先に述べたように、その与え手は神以外におられないという大前提がある。「幸い」は、人間が神を信じ、神を畏れることによって初めて与えられるものであり、それこそが神と人間との最も基本的な関係なのだ。

 それゆえ、彼らは山上で「幸い」を告げる言葉を語り始めたこのお方こそ、旧約の預言者たちが指し示してきた神の御子、救い主であることを実感したはずだ。そして、主がこのように告げておられる今こそ、旧約の預言が成就する時であるという確信を与えられ、喜びに満たされたことだろう。

 しかし、「幸い」を告げられている対象は、あまりにもはっきりし過ぎている。そのため、この言葉は自分たちのような罪人に向けられているものなのか疑念を持たざるを得なくなる。8節の「心の清い人々」への呼び掛けなど特にそうだ。ここに出てくる「心」とは、「霊」すなわち創造の始めに神が人間の最深部に吹き込まれた、人間の営みをつかさどっているものを指している。つまり、「心の清い」と言うことによって、主は人間に本来与えられている霊的な賜物を回復し、活かすことを求めておられるのだ。

 「幸い」とは、人間には到底実現不可能な事柄を、神が御子イエス・キリストを通して初めてもたらされたものだ。神が人間の只中に来られ、人間の目で見、人間の情で感じ、人間の心で考えるという出来事が主によって初めてなされた。神は、そのようにして我々の弱さ、罪深さに対してどこまでも寄り添い、深い憐れみのうちに置いてくださる。

 神は、罪を根深く抱え持つ我々の中に御一人子を送り、我々を本来あるべき神との正しい関係へと導かれる。そして、すべての罪人が義なる者へと変えられることによってこの世に平和が満ち溢れ、神の国がもたらされるという終わりの日の幻が与えられた。このようにして、我々を捕え、御自分の器として造りかえてくださる主を仰ぎ見つつ、平和を実現する者としての歩みを共に進めたい。

2009年2月15日 降誕節第8主日礼拝

説教「すべての人のために遣わされたキリスト」
聖書朗読 : マタイ福音書15章21〜28節
説教者 : 北川善也牧師

 この聖書箇所には、悪霊に取りつかれた娘の癒しを懇願する異邦人の女性に対して、即座に対応しないばかりか拒絶と受け取れるような言葉さえも告げる主イエスの様子が記されている。彼女は、「主よ」と呼び掛け、必死に懇願するが、主はそれを最初は沈黙によって、二度目は彼女を追い払うよう勧める弟子たちの提案に促されて、そして三度目はたとえを用いた厳しい言葉によって拒絶しているようにも感じられる。

 主は、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)と言われたが、そこにはどんな意味が込められていたのか。その鍵は、彼女が主に対して呼び掛けた「主よ、ダビデの子よ」という言葉にある。

 ダビデとは、イスラエルの王の名であり、旧約聖書はダビデの家系から救い主が誕生することを預言し続けてきた。それゆえ、イスラエルの民、すなわちユダヤ民族はダビデの名に特別な思いを持っていた。しかし、今ここで「主よ、ダビデの子よ」と呼び掛けているのは異邦人の女性だ。彼女は、本来イスラエルの民には数えられない。彼女は、どんな心境で主をイスラエルの王の名で呼んだのか。

 彼女のこの呼び掛けは、主イエスこそ真の救い主であるという信仰告白に他ならなかった。彼女は、主がすべての人のために遣わされたメシアであるという信仰を与えられ、その信仰ゆえに民族の垣根を越えて主に救いを求めたのだ。だから、主がここで言われた「イスラエル」は、特定の民族を指す呼称ではもはやなかった。この時、主は創造主なる神を信じるすべての人々を指す呼称として「イスラエル」と言われたのだ。

 彼女がひれ伏して、「主よ、どうかお助けください」と言った時、主はなおも「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)というたとえで厳しく答えられた。主がこのたとえによって示されたのは、子供と小犬の食べ物が異なるという当然のことだ。ユダヤ民族は旧約聖書を与えられ、創造主なる神を知っていた。一方、異邦人は創造主を礼拝する習慣すら持ち合わせていなかった。このような信仰的背景を持っていない異邦人である彼女の信仰告白が、その場限りの御利益宗教的信仰ではないかということを主は確認されたのだ。

 すると、彼女は「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)と答えた。彼女は真の神を知らなかったが、主と出会い、このお方こそ神の御子なるキリストであるという確かな信仰を与えられ、その信仰によって突き動かされたのだ。

 彼女は、「自分は確かに異邦人ですが、真の神を信じる信仰に与ることが出来ました」と自らの信仰を力強く、明確に告白することが出来た。そして、彼女の信仰告白を聞かれた主は、その信仰を真正面から受けとめ、彼女の祈りを聞き上げられた。その時、彼女が切に祈り求めていた娘の癒しは成し遂げられた。

 150年前、まだ「キリシタン禁令」の高札が掲げられていた日本に、救いを求める切なる声を聞き上げられた神は、米国人宣教師を送り込み、その働きを通して福音を届けてくださった。神は、異邦の民である日本人を捉え、復活された主が弟子たちに向かって「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と言われたように、「新しいイスラエル」の群れに加えようとしてくださっている。

 その御計画は、150年間を経て着実に進められている。我々は、先達によって大切に受け継がれてきたこの信仰をしっかりと守り、新たな信仰者を教会に増し加えるため伝道の業に取り組み続けよう。この戦いは、神の国が完成される時まで続けねばならない厳しい戦いだが、最後には輝ける勝利が約束されている。

2009年2月22日 降誕節第9主日礼拝

説教「安心しなさい。わたしだ。」
聖書朗読 : マタイ福音書14章22〜33節
説教者 : 北川善也牧師

 2月19日(火)、亀岡の御自宅で植垣節也兄の信仰告白式が執行された。節也兄は、一昨年大腿部骨折という大怪我をされ歩行困難なため、私は引越前の御住居に何度か伺い、節也兄と共に聖書を読み、信仰告白に向けての学びの時を過ごした。

 その時、節也兄が話してくださった大変印象深い彼の兄上についての話がある。兄上は、戦争で外地に赴かれたが、彼はクリスチャンであることを隠さなかったため、部隊内でいじめを受けたそうだ。彼は、上官らから「おい、キリスト!」と呼ばれていたらしい。しかし、彼はいつでも何食わぬ顔で「はい!」と元気よく答えていたので、そのうち肝の据わった人物だと思われたのか、一目置かれるようになったという。戦争から帰還した際、節也兄が「大変な目に遭ったんじゃないか」と尋ねると、兄上はこの話をした後、「何とかなるものだよ」と無邪気に答えたそうだ。兄上が、まさにキリストの名によって守られたことを覚える。

 兄上からこの話を聞いた当時の節也兄は、そこまでして信仰を貫き通した彼の心境を理解することが出来なかったという。しかし今、80年以上の歳月を経て、節也兄の中で幼き日にキリストの名によって授けられた洗礼が実を結び、開花する時が与えられたのだ。神の大いなるくすしき御業に畏れを覚えずにはおれない。

 我々は、この世において不安を抱えつつ生きている。そして、その不安を忘れるため別のことに没頭したり、全く違うことを考えて紛らわそうとする。そうして現実に不安の種が消えるわけではないのに、そうやってあたかも何の問題もないかのように振る舞う。しかし、それは本当に不安を取り去ることの出来た人間の姿ではない。

 今日の聖書に登場した主イエスの弟子たちは、そんな人間の姿を映し出している。彼らは、主と共に歩むこの上ない喜びの中に入れられていたはずだ。しかし、そんな彼らが主のもとを離れた途端、一気に不安の波に呑み込まれていく。元漁師を含む弟子たちにとって、ガリラヤ湖の舟旅など取るに足りないものだったはずだ。だが、すっかり手なずけたつもりの現実の只中で、彼らは荒波に巻き込まれ、我を失うほどのパニックに陥る。その時、彼らは最も大切な存在から目を離していることに気づいていなかった。彼らは、世の荒波ばかりに目を奪われ、あれほど愛し慕いまつっていた主の姿を完全に見失っていたのだ。

 主は、そんな彼らに御自ら近づき、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と呼び掛けてくださる。すると、ペトロは安心して水の上を歩き出すが、再び主から目をそらし、世の荒波に呑み込まれてしまう。しかし、「主よ、助けてください」と叫ぶ彼に、主はすぐ手を差し伸べ、捉えられる。

 弟子たちが、主を忘れて荒波の中でパニックに陥っていた時、また、ペトロが主から目をそらして荒波に呑まれそうになった時、実は彼らが気づいていなかっただけで、いついかなる時も主は彼らの「すぐ」そばにおられたのだ。彼らが、主から目をそらし、自分の力だけで生きていこうとしていた時にも、主は彼らから片時も離れず見守っておられた。その事実に気づかされた時、彼らは「本当に、あなたは神の子です」との信仰告白を引き出されていく。

 植垣兄の兄上が戦地に赴かれた時も、主が絶えず共に歩まれたように、我々が置かれているこの世の歩みにあって、主は絶えず一人一人と共に歩んでくださっている。それゆえ、世の荒波も主にあって祝福に満ちた平安な歩みとされるのだ。そして、それに気づかされた時、我々は信仰告白へと導かれる。

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