先週の説教 -バックナンバー-
09年3月のバックナンバーです。
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説教「誘惑する者」
聖書朗読 : マタイ福音書4章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師
「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた」(1節)。あたかも、主が自らサタンの誘惑を受けに行かれたような描写だ。この直前の、主がヨハネから洗礼を受けられる場面も不思議な感じを与える。ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」であり、罪に染まった人間には必要不可欠だが、罪なき神の御子になぜ必要だったのか。
御子が洗礼を受けられた時、聖霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なる神の御声が響いた。こうして三位一体の神による救いの御業が本格的に開始され、最初にサタンの誘惑を受けられるのだ。ここには、罪の問題がいかに深刻であり、神がそこから人間を救い出すことを何より大切に考えておられることが示されている。
この時、主が最初に受けられたのは「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」(3節)という誘惑だった。人間は、空腹を覚えると我慢できずすぐ食物を求めるが、食物に限らず人間はいかにして自分の欲求を満たすかを常に考え、そのためなら何でもするような自己中心的存在だ。それゆえ、この誘惑は人間が最も陥りやすい落し穴と言える。
しかし、主はこの誘惑を、旧約聖書・申命記の御言葉をもって退けられた。これは元の文脈では、イスラエルの民が荒れ野をさまよい、飢えによって神への信仰を貫けなくなった時、天からの食物・マナが必要だった出来事を背景に持つ御言葉だ。主は、これに新しい意味を与えられた。それは、欲望を退けて、信仰を貫く生き方を成し遂げ、すべての人間をその生き方へと導かれるのは主御自身であるということだ。主は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節)と言われたが、我々は神の御言葉そのものである主に従うことによってそのような生き方を可能とされるのだ。
主は次に、神殿の屋根の端に立たされ、神の子ならここから飛び降りてみよと迫られた。これは、十字架にかけられた主を人々が嘲笑する場面を彷彿とさせる。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27:40以下)。こんな悪魔的な言葉を人間が語っていることに戦慄を覚える。ここに、人間がいかに簡単にサタンに心を支配され、主の十字架を否定しようとするかが現れている。
しかし、人間はこんなあからさまな仕方でだけ十字架を否定するのではない。マタイ16:23以下で、主が十字架の出来事を予告した時、弟子のペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめた。この時、彼の中から無意識のうちに、主を押さえ込み、自分自身が神になろうとする身勝手さが顔を覗かせたのだ。それゆえ、主は「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と厳しくお叱りになる。
人間は、絶えず自分を神のように高め、十字架を否定しようとする誘惑にさらされている。十字架を否定することは、主が与えようとしておられる永遠の命を拒否することだ。だから、その時人間は死によって支配され、それこそサタンの思う壺になる。
主は、我々を屈服させようと目論むサタンの誘惑、そして、その結果として我々を待ち受けている終着点である死と戦い、それらをことごとく乗り越えてくださった。主は、この世においてまず始めにサタンを打ち負かし、人間の弱点を完全に克服してくださった。それゆえ、我々は主イエス・キリストに従うことによって、サタンの誘惑を乗り越え、完全なる勝利の道、永遠の命へと導かれていくのだ。
説教「悪と戦うキリスト」
聖書朗読 : マタイ福音書12章22〜32節
説教者 : 北川善也牧師
主イエスのもとに連れてこられた人は、「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない」状態だった(22節)。主はすぐにいやされるが、この様子を見守っていた人々の反応は大きく分かれる。多くの群衆は驚き、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った(23節)。これは、「この人は救い主メシアではないか」という意味だ。
一方、ファリサイ派の人々は、群衆がこのお方を救い主として受け入れようとしている思いを打ち砕こうとして、主の力の源を悪霊と断定する。これに対して主は、「サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか」と言われた(26節)。悪霊は、悪霊同士争って自分自身を滅ぼすような真似はしない。悪霊は、賢くしぶとく生き延びる知恵と力を持っている。悪霊はそのように強力な存在だが、神の御子によって簡単に追い出された。
マタイ4章で、主は40日間にわたり悪魔の誘惑にさらされたが、次から次へと繰り出される誘惑をことごとく乗り越え、悪魔を退けられた。主は、悪魔を完膚無きまでに打ちのめし、完全な勝利を治められたお方だからこそ、悪霊に苦しめられている人間を簡単に解放することがお出来になるのだ。
そして主は、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20-21)と言われたが、このような勝利者の到来と同時にこの世において神の国は既に開始されているのだ。
しかし、未だこの世は神の義で満たされていない。我々は、神の国が既に始められたが、未だ完成していない時代を生きている。それゆえ、我々は神の国が完成される時まで信仰を守り抜く戦いを続けねばならない。神の義が満たされていない時代に、悪魔はペトロに対して行ったと同様、我々を巧妙に誘惑し、永遠の命の源である主を否認させようとするからだ。
神の国は、主の到来と共に開始されたが、主が十字架と復活の後、天に昇られたため未完の状態だ。しかし、主は御自分が再びこの世に来られる時、神の国を完全な形で実現すると約束された。完全なる勝利者が再臨される時、悪魔は滅び去り、我々は罪の捕囚から完全に解放される。そして、約束の、乳と蜜が流れる地である神の国へと導き入れられるのだ。
罪に満ちた困難な時代にあって、弱い土の器である我々が信仰の戦いを戦い抜くため、主は世の終わりまで共にいると約束してくださった。その出来事は、主が土の器である我々に聖霊を豊かに注ぎ込み、信仰の器へと生まれ変わらせることによって実現される。
説教「十字架を背負って主に従う」
聖書朗読 : マタイ福音書16章13〜28節
説教者 : 北川善也牧師
死の問題に囚われ、暗闇の中で怯えつつ生きる人間から見ると、主イエスは死を完全に払拭し、永遠の命の源となられた生命力に満ち溢れたお方だ。だから、病人をいやし、食物を分け与える主の姿に触れた人々は、そこにいるだけで生命力を回復する感覚を与えられたはずだ。そうして、このお方に従えば何か必ず良いことがあると確信した大勢の群衆が、主と共に旅するようになる。
そんなある時、主は弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられた。彼らは口々に、「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と言い出した。これらは皆、神の御言葉を人々に告げる預言者としての役目を与えられた聖書の登場人物だ。主に従ってきた人々は、このお方を預言者の一人として捉えていたのだ。
続いて、主は弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(15節)と尋ねられた。この質問を受けた瞬間、ペトロはこれがありきたりな問いではないことに気づいた。そして、答えとして彼の口から飛び出したのは、彼自身の言葉を越えた「言葉」だった。彼は、主に対して、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答える。それは、「あなたこそ真の救い主です」という信仰告白だった。
主は、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)と言って、大いに祝福された。そしてその後、主はこの人間の口による信仰告白を通して、御自分の栄光をこの世においてどのように現わされるかを示されるのだ。
ペトロの信仰告白の後、主は「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われた。こうして、初めて教会誕生の約束がもたらされた。ここには、教会が信仰告白によって建てられることが明示されている。そしてそれゆえ、我々の教会は信仰告白をし続けるのだ。聖書は、そのようにして建てられる教会がキリストの御体であると証しする。我々は、信仰告白によってキリストの御体に連なっていく。
しかし、ペトロは不思議なことに、そのような信仰告白の直後につまずきを経験する。主が御自分の十字架の出来事を予告された時、彼は「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(22節)といさめる。彼は、無意識のうちに主を押さえ込み、自分が神になろうとする傲慢さを覗かせた。それは、主の十字架を否定することにつながる思いだった。それゆえ、主はペトロに向かって、「サタン、引き下がれ」(23節)と厳しくお叱りになる。
しかし、この言葉には、サタンに対して「退け」と言われた時とは異なり、「わたしに従いなさい」というニュアンスが含まれる。信仰告白したばかりの、まだサタンの付け入る隙だらけのペトロに、主は目を覚ましてわたしに従いなさいと力強く呼びかけられる。
彼はこの時のみならず、この後何度も信仰の危機に直面する。主から、鶏が鳴く前に三度主を知らないと言うことを予告された出来事は、その中でも最大のものだ。これほどの危機を経験し、そのため一旦聖書の表舞台から姿を消してしまうペトロが主によって見出され、信仰の危機を脱していく。彼が、何度も危うい目に遭いながら、主に従い続けることが出来たのは、主の御前で信仰告白の言葉を引き出されるという決定的な出来事があったからに他ならない。
我々は、聖霊の導きによって、主イエスこそメシアであると告白し、従い行く道を与えられる。そのようにして、主が我々の十字架(弱さ)を担ってくださっていることに気付かされ、我々も主の十字架を担う信仰へと導かれていく。
説教「主イエスの誉れと栄光」
聖書朗読 : マタイ福音書17章1〜13節
説教者 : 北川善也牧師
聖書は、唐突に「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」(2節)場面から始まる。すると、そこにモーセとエリヤが現れ、主は彼らと語り始められた。この出来事は、限られた弟子たちだけの前、しかも高い山の上という非日常的場所で起こった。目撃した彼らは、天空に引き上げられるような不思議な感覚を覚えたに違いない。モーセは紀元前1300年頃、エリヤは同800年頃に活動した人物だから、この様子は幻としか言いようがない。この出来事は何を示しているのだろうか。
モーセは神からイスラエルの民に与えられた契約の言葉、「十戒」を受け取った、律法の書を表す人物であり、エリヤは偶像礼拝を糾弾し、命を狙われながらも神の言葉を語り続けた、預言の書を表す人物だ。つまり、この二人が共にいることで、大きく分けて律法と預言から成り立っている旧約聖書そのものが示されているのだ。
聖書全体における旧約の位置づけは、暁の時間帯、すなわち、神の国を待ち望み、民をそこへと導く働きだ。そして今、旧約を代表する二人が現れ、そこに主が加わられたことによって、いよいよ朝日が昇る時、神の国が確実に近づいたことが示されているのだ。
主は、「新しい契約」を携えて来られた旧約の律法を成就する方であると同時に、旧約の預言の言葉が指し示している方だ。この不思議な出来事が起こるやいなや、光り輝く雲が降りてきて、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神の御声が響いたことが、そのことを何よりも明確に証ししている。
主が、この世で活動を始めるにあたって最初になさったのは洗礼を受けることだった(4:13以下)。主が、罪人である人間と同じ洗礼を受けられることによって、神の救いの御業がこの世において開始された。そしてその時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神の御声が響いた。これは、先の神の御声と全く同じだ。この言葉によって、神御自身が主こそ神の御子であり、救いの御業を実現させる方に他ならないということを確証されたのだ。
ところで、直前の箇所において、主の一番弟子であるペトロは、主から「あなたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられた時、即座に「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた(16:13以下)。それまで大勢の人々が、主のなさった数々の奇蹟を見て主に従ってきたが、彼らは主をこれまで出てきた多くの預言者の一人としてしか捉えられなかった。そんな中にあって、ペトロは弟子であったとは言え、初めて主こそ神の御子であり、真の救い主であるという信仰をはっきり言い表したのだ。
彼の信仰告白を聞かれた主は、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われた。人間が主こそ神の御子であると認識出来るのは、人間の判断能力によってではなく、神からの聖霊の賜物によってなのだ。神は、このようにして一人一人の人間を捉え、信仰へと導いていかれる。何よりもそれは、神御自身が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と言って、我々の前に主を与えてくださることによって成し遂げられた。そのような神の御子が我々と共にいて、信仰告白の言葉を引き出してくださるのだ。
主は、弟子たちがおののきつつ伏している時、近づいて手を触れ、「起きなさい。恐れることはない」と声をかけられた。主は、人間が神を信じられず、神に近づきがたいと思っている時、自らこちらへ近づいて来てくださり、信じることが出来るよう具体的に働きかけてくださる。我々に近づき、触れてくださることによって、主は我々の恐れ、疑い、迷いを取り去り、信じさせてくださるのだ。
説教「自分の命を捧げるために来た」
聖書朗読 : マタイ福音書20章20〜28節
説教者 : 北川善也牧師
主イエスの弟子、ヤコブとヨハネは、母親と共に主に同行していた。ある時、母親は主の御前で「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)と願った。
彼女の願いは、他の弟子たちを出し抜いて息子たちを高い地位に就かせたいという名誉欲だった。息子たちへの愛情を制御出来ず、穏やかではない心理状態に陥っている母親の姿がここにある。
だが、これは母親のみならず人間誰もが陥りやすい状況だ。彼女は、「主が王座に着く時」と言ったが、これは主がこの世の政治的権力者となることを想定しての言葉だ。主は、この直前の箇所で、御自分が歩まれる苦難と十字架の道を予告されたが、彼女はその意味を正しく理解出来なかった。彼女は、主がエルサレムに入城するや否やこの世の支配を開始し、イスラエル民族の立場を回復してくれると思い込んだのだ。これは彼女だけでなく、主の同行者皆が持っていた共通の思いだった。
このような母の願いを聞いた主は、息子たちに向かって、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」(22節)と尋ねられた。彼らは迷わず「できます」と答えたが、この時彼らは主の言われた「杯」が何を意味しているか全くわかっていなかった。
マタイ27章以下には、十字架の出来事が克明に記されている。そこにいた群衆の中には、「ゼベダイの子らの母」(27:56)も含まれていた。彼女は、この時ようやく主が言われた「杯」の意味を理解し、それが自分の想像とかけ離れていたことに気付いたはずだ。
その後、伝道者として活動したヤコブは、ユダヤの王、ヘロデ・アグリッパによって処刑される。兄弟ヨハネも殉教を遂げたと伝えられている。主の杯を飲むとは、主と同じ苦難の道を歩むことを意味していたのだ。彼らは、主から「わたしの杯を飲むことができるか」と問われた時、躊躇なく「できる」と答えたが、主が捕らえられるや否や彼らが逃げ去ったことを我々は知っている。
彼らが、そのような態度を取ることを主は知っておられた。しかし、主はそれより先に「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と言われた。弟子たちは、主に対する裏切りという罪の局地、最大の破れを経験した後で、悔い改めを与えられ、立ち帰りへと導かれていった。それは、神の愛によって定められた神の御計画に他ならなかったのだ。
主は、十字架を通して人間に対する究極の愛を示してくださった。自分だけの特別な位置を求め、支配者になりたがる人間に対して、主は徹底的に他者へ向ける愛、隣人愛を示された。
主は、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(26,27節)と言われた。主は、弟子たちに対して、徹底的に隣人愛を貫く生き方を説かれたが、エゴの固まりである人間が、このような神の愛に生きることなど不可能だ。
主は、続けて言われた。「人の子がきたのは、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」(28節、口語訳)。ここに、主の十字架の意味がはっきりと語られている。神の御子、イエス・キリストの十字架は、人間のエゴを取り除き、人間の命が創造の当初に与えられていた本来の輝きを取り戻すために成し遂げられた。だから、十字架は神の愛の「極み」なのだ。朽ちていくべき存在である人間は、この究極の神の愛を自分のものとして受けとめることにより、永遠の命に与ることが出来るのだ。