先週の説教 -バックナンバー-
09年4月のバックナンバーです。
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説教「本当に、この人は神の子だった」
聖書朗読 : 哀歌5章15〜22節
マタイ福音書27章32〜56節
説教者 : 北川善也牧師
主イエスが十字架につけられると、「昼の12時に、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」(45節)。この時、主の死によって暗黒が全地を覆ったのは、この世に終末的な出来事が一気に近づいたというしるしだ。主の死によって、今や人間の罪に対する終わりの日の裁きが開始されたのだ。
しかしこの時、主は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(46節)と叫ばれた。これは、まるで主が十字架上での苦痛に耐えきれず弱音を吐いているか、最後の最後になって神を信頼出来なくなってしまったかのように聞こえる言葉だ。我々は、この言葉をいったいどのように受けとめるべきだろうか。
罪に対する裁きは、本来罪人であるすべての人間が例外なく受けなければならないものだ。それにもかかわらず、我々の代わりに何の罪もない完全なお方である神の御一人子が、十字架において、その裁きをたった一人で受けてくださった。本当は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫びは我々自身が叫んでいたはずなのだ。しかし、主はこのようにして我々が担うべき罪の報いを一身に背負い、我々の代わりに神の怒りをたった一人で受けとめ、神から見捨てられるという最大の絶望までも一人きりで経験してくださった。
主が、神の御子にしか出来ない、これほどまでに大きな犠牲の出来事を成し遂げてくださったからこそ、我々は決して揺らぐことのない大いなる希望に与ることが出来た。主は、神の御子でありながら、罪深い我々を救いに導くため、我々に代わって神から見捨てられる道を選ばれた。しかもその上、主は十字架という深い絶望の淵からも、決して「わが神、わが神」と呼ばわることをやめられなかった。絶望の極みにあっても神に信頼し、神を呼び続けられたのだ。このように、最後の最後まで神とつながり続けられたのは、このお方が神の御子であったからに他ならない。それゆえ、今や我々は、たとえどんなに絶望的な状況下に置かれても、なお望みを抱いて生きていくことが出来る。なぜなら、どんな状況にあっても、我々は主の十字架によって神と確実に結びつけられているからだ。
主が十字架上で息を引き取られた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」た(51節以下)。当時、神殿の幕の内側に入ることは、大祭司が年に一度、すべての人の罪を贖ういけにえを備えるためだけにしか赦されていなかった。今、その神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、神と人間との間にあった垣根が完全に取り払われた。神と人間の間が隔てられていた理由は、人間の罪以外の何ものでもない。我々は、その罪を主の十字架によって取り去っていただいたからこそ、神との正しい関係を回復することが出来たのだ。
十字架の出来事で我々が忘れてならないのは、主がそこで徹底的に祈られたということだ。主は、弟子たちと共にいる時も、ゲツセマネの園に赴かれた時も、そして十字架につけられた時も、絶え間なく祈り続けられた。神の御子が、最後の最後まで我々のために執り成しの祈りをしてくださったからこそ、罪人である我々が神の子とされるという大いなる恵みの御業が成し遂げられたのだ。
主は、十字架上で「わが神、わが神」と叫ぶことによって弱音を吐かれたのではなく、神に対する信頼を貫き通されたのだ。我々は、ここに真の神の御子の姿を見出し、このお方が祈ってくださることによって我々の救いが成し遂げられたことを知る。そして、何よりもこの主の姿から、我々は自分たちの信仰のあり方をも示されている。それは、いついかなる時でも神の御名を呼び、神を慕い求める生き方に他ならない。
説教「あの方は死者の中から復活された」
聖書朗読 : イザヤ書12章1〜6節、マタイ福音書28章1〜10節
説教者 : 北川善也牧師
主の弟子たちは皆、主こそ神の御子であると信じたからこそ、何があっても、いつまでも、どこまでも主に従うという力強い信仰告白をして、「弟子」となった。しかし、主が自ら予告しておられたように、主の十字架の出来事がやがて現実的になってくると、彼らの信仰は一斉に揺らぎ始める。
彼らは、主がその気になれば逃げ出せたはずなのに、何もせず簡単に捕らえられ、十字架への道を歩んで行かれるのを目の前で見ると、信仰が疑いに変わり、主のもとから離れ去っていく。彼らにとって、自分たちと同じように死んでしまう、命に限界のある存在など神の子ではなく、求めていた対象ではなかった。彼らは、このお方が決して死なない神の子であり、偉大なる革命家だと信じたからこそ行動を共にしていたのだ。
彼らが何よりも恐れていたのは、「死」だった。人間は、誰もが死から逃れたいと願っている。だから、彼らは以前死者をよみがえらせる奇跡を起こしたこのお方こそ不死なる神の子だと信じた。しかし、このお方が十字架という死に直結する道を進まれることが明らかになった時、つまり、どこにも死から逃れる道などないとあきらめざるを得なくなった時、彼らは死を凝視しつつ、虚しくその場を立ち去るしかなくなる。
主が十字架の上で死なれ、墓に葬られた翌々日の早朝、そこにいたのは弟子たちではなく十字架の出来事を最期まで見届けた婦人たちだった。その時、突然大地震が起こり、天使たちが現れて言った。「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」。主を信じ抜き、どこまでも主に従い続ける者たちに主は御自身の栄光を現される。
主の復活の知らせは、彼女たちを「恐れながらも大いに喜」ばせた。死は人間に恐れを抱かせるが、復活の出来事は死への恐れをはるかに凌駕する大いなる喜びをもたらす。その喜びの源である主が、彼女たちの前に現れて「おはよう」と言われた。ここは以前、「平安あれ」(口語訳)、「安かれ」(文語訳)と訳されていた箇所だ。主は彼女たちに「安心して心の底から喜びなさい」と告げられたのだ。
主が告げられる喜び、それは死に打ち勝ち、永遠の命によって立ち上がられたお方のみが告げうる恵みに満ちた喜びだ。今や、わたしは墓の中にはいない。わたしは、死を打ち破って永遠の命を受けたのだ。だから安心しなさい。そして大いに喜びなさい。わたしを信じ、わたしに従う者にはわたしが受けた永遠の命を与えよう。主はそのように告げてくださった。
死の恐怖に囚われている人間に、本当の喜びはやって来ない。死が目の前に立ちふさがっている限り、人間は真の平安を味わうことなどできない。しかし、今や死に勝利し、死の壁を打ち破られたお方が我々に「平安あれ」と呼びかけてくださっているのだ。
そして、主は次のように言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」。復活された主と出会い、死の恐怖から解放され、永遠の命を生きる喜びで満たされた婦人たちは、その喜びを人々に語る者へと変えられていく。そして、彼女たちの言葉を通して、新しく復活の主と出会う者たちが起こされていくのだ。
我々が主の復活を告げ知らせる働きに用いられる時、我々の中で永遠の命を生きる喜びは一層深められ、隣人と共にその喜びを分かち合いながら生きていく平安に満ちた人生が開かれていく。そのようにして、主による「平安あれ」という呼びかけは、我々の日常生活の中で具体的に実現していく。
説教「喜び楽しみ、喜び踊れ」
聖書朗読 : マタイ福音書28章11〜15節
説教者 : 北川善也牧師
ここに出てくる番兵たちは、十字架上で死なれた主イエスが葬られた墓を見張るよう、祭司長たちとファリサイ派の人々から命じられていた。彼らが警戒していたのは、主の弟子たちが遺体を盗み出し、主が復活したと言いふらして、人々を惑わすことだった。しかし、ここで彼らの全く想定していない出来事が起こる。主の弟子たちではなく、よりによって自分たちが送り込んだ番兵たちの口を通して主の復活が報告されたのだ。
マタイ27章62節以下に、番兵たちが墓でどのような経験をしたのかが記されている。彼らは、主が葬られたその時からずっと、墓穴の前に大きな石で封印をしてしっかりと見張っていた。三日目の明け方、マグダラのマリアたちが墓を見にやって来ると、大地震が起こり、主の天使が封印されていた石をわきへ転がしてその上に座った。見張りを続けていた番兵たちもその光景を目撃し、恐ろしさのあまり震え上がって、死人のようになったと聖書は告げている。
彼らは、逃げ帰るようにエルサレムへ戻り、墓で起こった出来事の一部始終を祭司長たちに報告した。祭司長たちは、異常なほどおびえきっている番兵たちがこんな話を他の人々に言いふらすことがないよう、彼らに多額の金を与え、自分たちが居眠りしている間に弟子たちがやって来て遺体を盗んだと言わせることにしたのだ。
ここで思い出すのは、弟子の一人、イスカリオテのユダが、主の居場所を教える約束をして銀貨30枚を受け取ったことだ。今、この番兵たちも、同じように金を受け取って、偽証の約束をした。人々は、自分たちの現実的な欲求を満たす金によって主を売り渡し、十字架につけて殺した。そして、今度も主の復活の出来事を金によって帳消しにしようとする。
ここには、人間のどうしようもない罪深さが表われていると同時に、人間が本質的に自分の欲望を満たすことを優先し、そのためなら平気で真理を打ち消す陰謀を企てる存在であることが示されている。しかし、不思議なことに、このような人間の陰謀さえも用いられて、主の復活の出来事は、誰も止めることの出来ない流れとなって人々に告げ広められていく。
復活の出来事は、番兵たちにとって、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようにな」ってしまう衝撃力を持っていた。もっと大きく言えば、その衝撃はそれまで人々が神を礼拝する日と定めていた安息日が、この出来事の起こった日、すなわち、日曜日に変わってしまったことに端的に表われている。しかし、それでも、主の復活は誰もが簡単に受け入れられるような出来事ではなかった。
では、どうしてこの出来事は、二千年以上にもわたって語り継がれてきたのだろうか。それは、この出来事が人間の理解力をはるかに超えていたにもかかわらず、人々の心の奥深くに入り込み、大いなる希望の源となり続けてきたからに他ならない。誰も逃れることの出来ない死を打ち破ったお方が確かにおられ、人々の前に現れてくださった。主の復活は、決して揺らぐことなく、我々の現実の只中にしっかりと据えられている。
だから、主の復活の出来事は、我々の理解力などを越えて、神の一方的な恵みとして我々の中に飛び込んでくるのだ。そして、主の復活を信仰をもって受け入れた時、何ものにも代えがたい恵みと平安のうちに歩む人生が与えられる。何よりも、その信仰によって、我々は主の復活の命、永遠の命に与ることが出来るようになるのだ。そのようにして、我々一人一人をとらえて、死という思い煩いを取り去り、豊かな平安で覆い尽くしてくださるイエス・キリストに感謝しつつ共に歩みたい。
説教「あなたがたの命であるキリスト」
聖書朗読 : コロサイ書3章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師
真の神を知らない異邦の民であったコロサイの人々が、今やキリストの福音に触れ、神に愛される民となりつつある。パウロによる手紙の書き出しには、そのような得も言われぬ感動が満ち溢れている。しかし、少し進んで、今日与えられた箇所に目を向けてみると、そこには喜びというより怒りに近い言葉が語られている。
当時、コロサイに建てられたばかりの教会は、目覚ましい成長を遂げるという喜ばしさと共に、キリスト教に異教の要素が混ざり込みつつあるという危機的状況に直面していた。パウロは、そんなコロサイ教会の信徒たちを、もう一度彼らが最初に聞いたキリストの福音の原点に立ち帰らせる必要に迫られていたのだ。
パウロは、彼らに「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのだから、上にあるものを求めなさい」(1節)と語りかける。ここで言われている「復活」とは、洗礼のことを指しており、何よりも彼らに必要だったのは洗礼に込められた重要な意味を思い起すことに他ならなかった。
初代教会で行われていた洗礼は、全身を水につけて行う「浸礼」だった。そこには、古い人間が水に浸かって死に、再び水から上がった時には新しい命を与えられるという意味がある。こうして新しい命を与えられた者は、生まれ変わって完全にキリストのものとされ、この世において新しい視野を持って歩み始めるのだ。
「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」(4節)。信仰をもって生まれ変わった者の命は、キリストの命とされるのだ。そして、キリストの命とは、十字架の命に他ならない。神の御子キリストが払ってくださった、とてつもなく大きな犠牲の命によって、信仰者は永遠の命につながれ、地上の事柄から完全に自由にされて、神の国に入れられていく。
しかし、信仰者となった人間も、この世における誘惑の中で生き続けねばならないことに変わりはない。そして、そのような状況の中で生きていくということは、信仰によってキリストのものとされた人間が、罪の奴隷状態に逆戻りする危険を十分にはらんでいる。
人間が罪の虜となった時、そこには、最も深刻な罪である偶像崇拝が姿を現す。人間は、自分勝手な願いを何でも聞いてくれる神を求め、そのために自分の都合に合わせた神々を次々と造り上げていく。人間は、それほどまでに欲深い存在であり、偶像崇拝の本質は人間のどん欲さに他ならない。
人間は、本来そのように欲望の赴くままに生きようとする存在であり、それゆえ真の神に背を向け、自分の思い通りになる物質に過ぎない存在を神として拝もうとするのだ。だが、それは「神の似姿」として造られた人間の姿を最も空しくさせる行いであり、人間がそのように空しい存在となることを、神は何よりも悲しまれる。
人間が、神を悲しませる存在から喜ばれる存在へと変えられるためには、古い自分に死んで、新しい命を生き直さねばならない。我々は、そのために洗礼を受け、神のものとしていただくのだ。神は、洗礼と信仰告白によって、罪に染まった人間という存在を根本的に造りかえてくださる。
そして、神はそのようにして造りかえられた存在の新しさを、聖餐の恵みを通して維持させてくださる。神は、祝福をもって我々に洗礼を授け、豊かな恵みのうちに聖餐に与らせて、その信仰を絶えず成長させてくださるのだ。我々は、この聖礼典に与ることにより、神が創造の初めに人間を造られた時の、「神の似姿」を回復し、神の子として成長させられていく。