日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

09年5月のバックナンバーです。

2009年5月3日 復活節第4主日礼拝

説教「わたしは復活であり、命である」
聖書朗読 : ヨハネ福音書11章17〜27節
説教者 : 北川善也牧師

 ベタニア村に住む女性マルタは、兄弟ラザロが重篤な病に陥った時、主イエスのもとへ人を送り、すぐに来て癒してほしいと願った。しかし、主はそれからなおも2日間同じ場所に留まり続けられた。ラザロがいるベタニアから3キロほどしか離れていないところにいたにもかかわらずだ。

 この時、主が考えておられたのは、ただ一つのことだった。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(11:4)。主は、この出来事を通して神の栄光を現す御業に取り組もうとしておられたのだ。

 死は、すべての人間が例外なく逃れることの出来ないものだ。人間最大の敵は死であり、誰一人として死に打ち勝つことは出来ない。しかし、主はラザロが死にそうだという知らせを聞いた時、即座に「この病気は死で終わるものではない」と断言された。それは、死という限界を突破する御言葉であり、そこには、すべての人々にラザロと同じ救いをもたらすという壮大な意味が込められていた。

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。

 「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(ヨハネ6:40)。

 主は、このように永遠の命をもたらす約束を告げられた。それは、主御自身が永遠の命の源であるからに他ならない。我々のなすべきことは、主と向き合い、主から永遠の命を受け取ることだ。

 ラザロの死を嘆き悲しむ姉妹のところに主がようやくたどり着くと、マルタは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。この時点で、彼女は主ではなく、死という現実に目を向けていた。しかし、彼女は視線を主に向け、「あなたが神にお願いになることを何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」という信仰を言い表すことが出来た。

 この後、主はラザロを死からよみがえらせると、今度はすべての人々に彼と同じ復活の命を与えるための働きへと向かって行かれる。それこそが十字架の出来事だった。主の十字架がなければ、すべての人間の罪が赦され、永遠の命がもたらされるという約束は、実現されないままだった。

 主の十字架は、神の御子がすべての人間を救うため、父なる神に対する究極の執り成しとして成し遂げられた出来事だ。主は、十字架にはりつけにされてもなお、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られた。このように、主はそこに居合わせた者たちだけのためでなく、全世界のすべての人々のため、徹底的に執り成しの祈りをしてくださった。このような祈りは、神と決して切れない関係を持ったお方以外にはなし得ない。主は、神の御一人子として、我々のために最後の最後まで神との対話を貫き通してくださった。

 すべての人間を救いに導こうとなさる主の御意志は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25,26節)との御言葉に示されている。そして、復活の命そのものである主は、最後まで我々と共にいると約束してくださった。その主を信じることによって、我々の中に決して揺るがない土台が据えられ、その土台の上に立って平安に満ちた人生を歩むことが出来るようになる。

2009年5月10日 復活節第5主日礼拝

説教「新しい掟」
聖書朗読 : ヨハネの手紙?T 2章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 聖書は、人間が神に対して背く罪の問題を一貫して語り続ける。この罪は、誰も逃れられない重大な問題だ。一方、聖書は、このような人間の罪が、キリストの御業によって既に赦されていることを告げる。そして、これこそ聖書の中心テーマである福音の核心だ。

 しかし、ヨハネの手紙は、それで人間の罪の問題がすべて解決したわけではなく、信仰者は神の掟に従い続け、神との一致を目指さねばならないことを告げている。

 「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」(1節)。ここで「弁護者」と訳されているギリシャ語は、「仲保者」とも訳すことが出来る。「仲保者」とは、仲違いして向き合うことが出来なくなっている二人の間に立ち、その中を取り持つ存在のことだ。

 罪を抱えたままの人間が神に近づき、赦しを乞うことなど出来ないから、神との関係を修復するためには、神の方から人間に近づいてくださらなければならなかった。キリストは、神の御子でありながら罪人である人間と同じ姿でこの世に来られるという仕方で、我々に近づいてくださった。そして、十字架上で死なれる瞬間まで、すべての人間を救うため、神への執り成しをし続けてくださった。キリストは、弁護を受ける資格など全くない罪人である我々のために、自らの命をかけて弁護し抜いてくださったのだ。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(2節)。

 こうして神との関係を回復させられたのだから、我々はキリストを掟として生きねばならないと手紙は告げる。では、キリストの掟とはどんなものだろうか。キリストは、一人の律法学者から、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねられた時、「第一の掟は、これである。『……心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:28以下)と答えられた。

 キリストは、最も重要な掟として、「神に対する愛」と「隣人に対する愛」を挙げられた。これらは、古くから誰もが知っていながら、守り切ることの出来なかった掟だ。人間は、あまりにも自己中心的で、結局のところ自分自身しか愛せない。そして、本当の意味で神を愛し、隣人を愛されたのは、キリストただお一人だった。

 キリストは、この世の罪人と呼ばれる人々をこよなく愛し、誰からも顧みられることのなかった弱く孤独な人々に対して徹底的に目を注がれた。十字架につけられた時でさえ、最後の最後まで罪人の一人を救いに導かれた。キリストは、神の御子として、すべての人間を救いに導くため、十字架という究極の苦難と死をもって神の愛を我々に示してくださった。

 キリストは、こうしてまだ誰も達したことのない、また決して達し得ない愛の基準を提示された。それゆえ、キリストこそ救い主と信じる者は、この十字架を自らの愛の基準の頂点に定め、十字架をひたすら仰ぎ見て歩む。

 我々の前には、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」(8節)。「まことの光」、すなわちキリストを仰ぎ見て生きる者は、闇とは無縁な存在となり、人間の思いを越えた究極の愛によって満たされていく。こうして、一人の人間が十字架の愛によって支配されるという出来事が起こるのだ。

 キリストの愛によって支配された者たちが増し加えられ、すべての人々がキリストの愛で満たされた時、この世は真の平和で覆い尽くされる。その時、神による支配が完成し、神の国は実現する。

2009年5月17日 復活節第6主日(オール洛北礼拝)

説教「天におられるわたしたちの父」
聖書朗読 : マタイ福音書6章1〜15節
説教者 : 北川善也牧師

 ある時、イエスさまは、山の上で弟子たちに話された。そこには、弟子たちだけでなく、子どもから大人までとても大勢の人たちがいた。そのお話しの中で、イエスさまはお祈りのことも教えられた。

 毎週、教会でお祈りする「主の祈り」は、この時、イエスさまが教えられたお祈りだ。イエスさまは、お祈りの言葉を教えられる前に、お祈りする時にはどういうふうにしたらよいか教えられた。

 「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、……祈りなさい」(6節)。お祈りは、神さまとお話しすることだ。だから、イエスさまは、お祈りする時には、心の部屋の中で静かに神さまだけに向かってお話しするようにしなさいと言われた。

 「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」(7節)。昔、異邦人と呼ばれていた人たちは、たくさんの神さまを信じていたので、お祈りする時、いつも神さまの名前を全部呼んでからお祈りをした。けれども、本当の神さまはたった一人しかおられないから、長々と名前を呼ばなくてよい。そして、本当の神さまは、わたしたちの心の中身も全部ご存知だから、何度も同じ言葉を繰り返す必要もない。

 イエスさまは、このように話された後で、「こう祈りなさい」とお祈りの言葉を教えられた。

 「天にまします我らの父よ」(9節)。神さまを信じる人は、みんな神さまの子どもだから、神さまを「お父様」と呼ぶことができる。

 「ねがわくは御名をあがめさせたまえ」(9節)。すべてのものをつくられ、わたしたちを愛し、守ってくださる神さまの「御名」を、世界中の人々が心から信じてほめたたえますようにと祈る。

 「御国をきたらせたまえ」(10節)。世界中の神さまを信じる人々の心に、神さまの恵みが満ちあふれ、やがて、すべての人が神さまを信じて、この世界が神さまの御国になりますようにと祈る。

 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」(10節)。わたしたちが生活しているこの世界で、神さまのご計画通りになりますように、すべての人が神さまを信頼し、神さまのみこころに従うようになりますようにと祈る。

 「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」(11節)。わたしたちは、生きていくために必要な物をすべて神さまから与えられている。そのことに感謝し、それが自分だけでなく、世界中の人たちにも与えられますようにと祈る。

 「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」(12節)。イエスさまが、わたしたちの代わりに十字架にかかって罪の罰を受けてくださったのに、わたしたちはまだまだ悪いことをしてしまう。だから、毎日自分の罪を神さまにゆるしていただけるように、そして、わたしたちも他の人がおかしたあやまちをゆるせますようにと祈る。

 「我らをこころみにあわせず、悪より救いいだしたまえ」(13節)。悪魔は、わたしたちを神さまから離れさせようと上手に誘いかけてくる。「ちょっとぐらいなら」と油断して悪魔の誘いにのると大変だ。だから、悪魔の誘いに負けないようお守りくださいと祈る。

 このように、わたしたちは、イエスさまが教えてくださった「主の祈り」をお祈りすることで、本当の神さまとしっかりつながっていられる。それは、神さまの子どもであるイエスさまだけにわかる、父なる神さまが喜ばれる言葉だからだ。そして、神さまは、「主の祈り」を祈る人たちを、その祈りの言葉のように変わらせてくださる。だから、わたしたちは、イエスさまが教えてくださった「主の祈り」を、いつも大切にして、イエスさまについていきたい。

2009年5月24日 復活節第7主日(於・相愛幼稚園)

説教「あなたがたは証人となる」
聖書朗読 : ルカ福音書24章44〜53節
説教者 : 北川善也牧師

 復活。それは、神の御子によって、すべての人間の終着点である死が、新たな出発点に変えられた出来事だ。復活とは、神の御子でなければ、決して示すことの出来ない神の愛の完全なかたちなのだ。キリストが、復活の出来事を示されたことによって、我々は永遠の命という神の全き愛の中に置かれていることが明らかにされた。キリストは、そのようにして、何ものによっても断ち切ることの出来ない強い絆でもって神と我々と結びつけてくださった。

 キリストは、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(44節)と言われた。弟子たちは以前、御自分がどのような道を歩んで行かれるかについてキリストが語られた時、その意味を正しく理解することが出来なかった。しかし、キリストがかつて語られたことが、今や彼らの目の前ではっきりしたビジョンとして示されるに至ったのだ。

 キリストが十字架にかかり、死んで葬られた後によみがえられることによって、すべての人間の救いという神の約束が現実のものとなった。キリストは、このように大きな恵みを、十字架と復活の出来事によってもたらし、我々の奥深くまで浸透している罪を根本的に洗い清めてくださる。大切なのは、この大いなる救いの御業が、「神の御名」によって基礎づけられているということだ。

 キリストは、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:19以下)と言われた。キリストは、弟子たちに「父と子と聖霊の名」すなわち、神の御名によって洗礼を授けるよう命じられた。

 また、キリストは、「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(47節)と言われた。弟子たちが福音伝道の御業にあたる際、神の御名によって語ることが不可欠であると言われている。

 キリストは、弟子たちに御言葉を通してすべての人々の目を開いて、罪の悔い改めへと導き、洗礼を授けるよう命じられたが、その中心に絶えず据えられねばならないのは神の御名なのだ。キリストは、弟子たちを全世界への福音伝道の業につかせるにあたって、決して揺らぐことのない「神の御名」をもって送り出される。

 また、キリストは、弟子たちをそのような大切な働きのために立てられるに際して、「あなたがたはこれらのことの証人となる」(48節)と言われた。弟子たちは、それまでキリストと生活を共にしながら旅をしたが、彼らにとって何よりも大切だったのは、十字架の目撃者、そして、復活の目撃者となることに他ならなかった。そうして、彼らはいよいよキリストの証人として遣わされていくのだ。

 キリストは、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)と言われた。十字架の出来事を目撃してその場から逃げ去ったり、復活の主と出会ってもすぐに動き出せなかった弟子たちに、キリストは聖霊を送ると約束された。弱い人間の内側に働いて、神の全き愛によって養い、神の真理に目覚めさせる聖霊を与えると。

 キリストによって、そのような祝福に満ちた約束を与えられた者は、底知れない喜びに包み込まれ、神をほめたたえずにはいられなくなる。我々が、主日ごとに教会で礼拝を捧げるのは、人間の思いをはるかに超えたキリストの復活の出来事が根拠となっている。

2009年5月31日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教「あなたがたは証人となる」
聖書朗読 : 使徒言行録2章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 イエス・キリストが十字架にかかって死なれた時以来、弟子たちは一つの場所に身を寄せていた。彼らは、この出来事を受け止めきれなかっただけでなく、今度は自分たちが捕らえられ、殺されるのではないかと恐れたのだ。だから、彼らのところに、主の十字架上の死を見届け、その墓に誰よりも先に駆けつけたマグダラのマリアがやって来て、「わたしは復活された主を見ました」と告げても、彼らは家の戸に鍵をかけて閉じこもり続けるような有様だった。そんな彼らのもとに、復活された主が自ら現れてくださった。この出来事を弟子たちは心から喜んだが、主が去られるとすぐにまた戸に鍵をかけ、閉じこもってしまう。弟子たちは、復活された主にお会いしてもなお、外に出て行く勇気を持つことが出来なかった。

 しかし、主は四十日間にわたって弟子たちの前に現れ、様々な仕方で御自分が生きておられることを示し続けられた。そして、彼らに「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)と命じ、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(同8節)という重大な約束を与えられた。

 自分たちの信仰の弱さを考えれば、弟子たちにとって自分たちが世界伝道の使命を担うなどという主の約束は、想像だに出来なかった。だが、依然として外に出られない彼らは、主が命じられたようにエルサレムに留まり、救いを求めて祈り続けるしかなかった。

 そのような状況が続いていた中、五旬祭の日がやって来た、彼らが相変わらず部屋に閉じこもり祈り続けていると、突然天から轟音が聞こえ、聖霊が炎のように降って、そこにいた信徒たち一人一人の上に留まった。すると、彼らは「“霊”が語らせるままに」(2:4)、他の国々の言葉で福音を語り出した、と聖書は告げている。これは、弟子たちがこの時初めて聖霊の力を与えられて、主の教会として立ち上がらされ、力強い勢いで全世界へ向けての福音伝道を開始したことを示している。

 この聖霊は、復活し、天に昇られたイエス・キリストの霊であるがゆえに生きて働く力強い霊だ。エマオ途上の出来事(ルカ24:13以下参照)において、主が復活の姿をもって直接二人の弟子たちに近づき、その目を開かれたように、主は聖霊の働きによって、我々に復活の姿を示し続けてくださる。

 そして、この聖霊によって、我々は教会を生み出し、建てていく力を与えられる。聖霊は、教会を人間の手によって作られた単なる構造物ではなく、神がお住みになる聖なる宮としてくださる。

 何よりも、聖霊は我々一人一人のうちに住み、我々自身を新しく生まれ変わらせてくださる。我々は、聖霊に満ちた神の宮である教会に連なることによって、聖霊の賜物を豊かに受け、復活の主、キリストこそ真の救い主であるという信仰に目覚めさせられていく。

 二千年前、イエス・キリストの弟子たちの身に起こった聖霊降臨の出来事は、今もこのようにして我々が連なる教会において繰り返し起こり続けている。それゆえ、我々の教会には、聖霊の働きによって、洗礼を受け、ひたすらイエス・キリストに従う信仰に生きようとする志を与えられる人々が増し加えられていくのだ。

 聖霊の賜物によって満たされた時、我々はキリストのものとされ、キリストと共に歩む者へと変えられていく。そして、キリストは、聖霊の賜物によって、すべての人々を御自分の弟子にしてくださると約束してくださっている。

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