日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

09年6月のバックナンバーです。

2009年6月7日 三位一体主日

説教「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」
聖書朗読 : マタイ福音書11章25〜30節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、幼子のような者に信仰の奥義が示されると言われた。「幼子のような者」とはどのような人のことだろうか。

 マルコ福音書で、主は「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(10:13-16)と言われた。

 主がこのように言われたのは、おそらく次のような意味においてだ。一つは、大人にすがり付かねば生きていけない存在であることを自覚している子どものように、神に無条件で依存し、すべてを委ねる態度を持つということ、もう一つは、親から与えられた乳を、「これは飲んではならぬものかも知れない」などと疑うことなく素直に飲み込む子どものように、全面的な信頼をもって神に従うということだ。主は、そのようにして神と向き合わねば、信仰の奥義は示されないと告げられた。

 マタイ福音書は、律法の専門家として民を指導する立場にあったファリサイ派の人々が主を受け入れられない様子を克明に描き出す。彼らは、主が罪人や病人たちばかり相手にするのを見て、尊敬の念を抱くことが出来なかった。

 しかし、主はそのような人々の中に子どものような信頼と純真さを見出された。罪人や病人たちは、世の中において捨て置かれた存在であり、真の愛に飢え渇いていた。主は、このような人々に対して徹底的に目を向け、愛を注がれた。

 我々は、弱い人々に徹底的に愛を注がれたこのお方に神を見る。我々は、知的能力を動員することによってではなく、ただ主に注目することで神を知る者とされる。

 主は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(28節)と言われた。主は、我々にとって必要不可欠でありながら、自分の力では決して見出せないものを確実にもたらしてくださる。それは、罪の赦しと永遠の命に他ならない。

 しかし、主はこのように大いなる恵みを無条件にお与えにはならない。主は、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(29節)と言われた。軛を負うとは、農機具を引くため2頭の家畜の首が固定されることであり、服従を意味する。

 だが、主はこの「軛」を招きの言葉として用いられた。主は、「わたしの軛は負いやすい」(30節)と言われる。「負いやすい」の原語は、「体によく合っている」とも訳すことの出来るギリシャ語だ。軛は、家畜一頭一頭に合わせて造られる。自分の体にぴったり合った軛を付けることによって、家畜は肉体を痛めず、また直接農機具を負わされるよりはるかに楽に仕事をすることが出来るという。

 ここに、主が「軛」という言葉を使われた真意がある。本来、神に背く自己中心的な人間は、そのままで神の恵みに与ることは出来ない。罪に染まった人間は、神に立ち帰るまで、この世の重荷をまともに抱えて生きねばならない。

 主は、「わたしの荷は軽い」(30節)と言われた。それは、荷が軽くて運びやすくなるという意味ではなく、荷をあたかも自分の体の一部のように感じるという意味だ。しかも、それは主の軛を負うことによって実現するという。主が「わたしの軛を負いなさい」と言われる時、その軛は主が共に担ってくださるということなのだ。

 主は、究極の軛である十字架をたった一人で担ってくださった。十字架の出来事によって、我々は初めて神との正しい関係を回復することが出来た。それゆえ、我々は主の十字架を見上げつつ、主と共に歩むことによって、この世の重荷を軽くされ、平安の内に憩わせていただけるようになる。

2009年6月14日 聖霊降臨節第3主日

説教「立ち帰って、生きよ」
聖書朗読 : エゼキエル書18章21〜32節
説教者 : 北川善也牧師

 現在、水曜の聖書研究・祈祷会ではエレミヤ書を通読している。預言者エレミヤは、イスラエルの民が神に立ち帰らぬなら恐ろしい裁きが待ち受けていると繰り返し告げる。だが、民は信仰に立ち帰るどころかエレミヤの口を封じようとさえする。彼らは、こうして滅びに向かって突き進んでいく。

 今日与えられたのは、エレミヤとほぼ同時期に活動したエゼキエルによる預言の書だ。彼の時代、北イスラエルは失われ、残された南ユダも壊滅状態に陥っていた。ユダの王はことごとくバビロンの傀儡として立てられ、民は奴隷としてバビロンに連れ去られた。

 南ユダは、最後まで「神の都」エルサレムを擁し、民は自分たちが必ず神によって守られるという確信を持ち続けた。それゆえ、エレミヤやエゼキエルのような預言者が「罪を悔い改めて、真の神に立ち帰れ」と告げても意に介さず、それまでとまったく変わらぬ生活を送り続けた。その結果、神の裁きとして起こっているのがバビロン捕囚の出来事なのだ。だが、彼らはこれを自分たちの罪の帰結として受けとめることが出来ない。そもそも、彼らには「罪」とは何かさえわかっていないのだ。

 バビロン捕囚に直面したイスラエルの民は、自分たちが受けているこの苦しみは、先祖が犯した罪の報いだと考えた。彼らにとって、罪は自分たちの問題ではなく、遠い過去の出来事に過ぎなかった。これに対してエゼキエルは、神の掟に従って歩む者は必ず生き、それに反して歩む者は必ず死ぬ(21〜24節)と主張した。つまり、彼は罪が過去の問題ではなく、現在の自分たちと深く関わる問題だと言っているのだ。ここで言われている「生きる」や「死ぬ」は、肉体的な生死ではなく、罪を悔い改め、神に立ち帰って永遠の命に至る道を歩むか、そうせず罪の暗闇を歩み続けるかということだ。

 23節には、「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」と記されている。主なる神は、この世のすべての人が罪を悔い改め、永遠の命を生きることを心から望んでおられる。

 ルカ福音書において、主イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、100匹の羊を持っている人がいて、その1匹を見失ったとすれば、99匹を野原に残して、見失った1匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(15:1-7)。主は、たった一人も漏れることなく、すべての人が悔い改め、救いに与ることを求めておられる。

 我々は、神との正しい関係を回復するため神の赦しを受けねばならない。そこで、「犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出」すこと(31節)が必要となる。我々は、自らの罪を悔い改めることによって、神との関係を回復するために必要な新しい心と新しい霊を与えられる。我々は、これらを受けることによって、神の子として歩み出すことが出来るようになるのだ。

 何よりも、我々罪人を神へと立ち帰らせるため、御子イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、罪の赦しを得させる犠牲の子羊となってくださった。主の十字架こそ、神の赦しの源泉に他ならない。だからこそ、我々は主の十字架を見上げ、自らの罪を悔い改めつつ、この身を神に喜ばれる神の栄光を現す器へと生まれ変わらせていただくことをひたすら祈り求めねばならない。このようにして、キリストと共に歩む者を、神は必ず顧み、聖霊の助けをもって豊かに守り導いてくださる。

2009年6月21日 聖霊降臨節第4主日

説教「あなたがたは地の塩、世の光である」
聖書朗読 : マタイ福音書5章13〜16節
説教者 : 北川善也牧師

 我々は、自分の額を流れる汗が口に入った時、また指を切って出た血を舐めた時、しょっぱさを感じる。我々が汗をかき、血を流すことによって、自分の体内に塩分が含まれていることを知るというのは、何かとても象徴的だ。

 しかし、主は続けて次のように言われた。「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(13節b)。人間の体内から塩気がなくなるとは、先程のイメージから連想すれば死を意味することになる。死ねば人間は空しい物体と化す、誰もがそのように考える。しかし、主は、死んで終わりになるような生き方ではなく、永遠の命という大いなる希望に向かって生きよと告げられた。

 続いて主は、「あなたがたは世の光である」(14節)と言われた。本当の暗闇は、「お先真っ暗」と言うほどに、ただただ人間に不安と恐れを抱かせる。しかし、そのような暗闇に、ほんのわずかでも射し込む光があれば、人間は絶大な力を与えられる。光は、暗闇を照らし出し、人々に希望を与える存在だ。主が「あなたがたは世の光である」と言われる時、そこにはあなたがたは世の中に出ていき、人々の希望となる灯火を掲げるような働きを担うべきであるとの意味が込められているのだ。

 主は、「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われた。決して、「地の塩、世の光になれ」と命令されたのではなく、主は既にあなたがたはそのような存在であると断言されたのだ。

 「あなたがたは、この世において塩や光の働きをする存在だ」と主は言われた。我々がそのような存在とされるのは、主が十字架にかかって血潮を流してくださったからに他ならない。主がこの世において流しきってくださった血潮によって、我々の罪は贖われた。この出来事がなければ、我々は死んですべてが終わりになってしまう空しい存在に過ぎなかったのだ。主は、十字架の出来事によって神の愛を完成された。そして、我々に死の先へと突き抜けていく永遠の命と神の愛に充ち満ちている神の国を示してくださった。

 我々はそのようなお方によって、「あなたがたは地の塩、世の光である」と呼びかけられている。塩というのは、大きな鍋にたったひとつまみ入れただけでも、隠し味としての効果を十分に発揮する。また、塩で煮詰めたり、つけ込んだりすれば食料品の腐敗を防ぐことが出来る。イエス・キリストによって捉えられた者は、それぞれに与えられた賜物を携えて世の中に出ていき、このような塩の効き目、光の働きを発揮することが出来るようになる。確かに我々一人ひとりは、弱く小さな存在かも知れない。しかし、塩はほんのわずかでも十分な効果を発揮し、光はどんなに弱くても暗闇の中で大きな希望を生み出すのだ。

 我々のような存在が、そのような働きを担うことの出来る根拠は、イエス・キリストという大いなる希望の光によって照らし出されているからに他ならない。我々は、主による真の光を受けることによって、この世においてその光を反射して輝かすことが出来る。

2009年6月28日 聖霊降臨節第5主日

説教「あなたがたが豊かになるため」
聖書朗読 : ?Uコリント書8章1〜15節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、十字架にかかって死なれ、墓に葬られてから三日目に復活され、弟子たちの前に再び姿を現された。その主から「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)と命じられ、彼らは祈りつつその時を待った。

 主が天に上げられた後、彼らの群れはすぐに数を増し、120人程の共同体となった。その彼らが一箇所に身を寄せ祈っていると、突然聖霊降臨という驚くべき出来事が起こった。彼らは口々に他国の言葉で話し始めたが、こうして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)との主の約束は成就されていくのだ。

 この出来事によって、彼らは一つの信仰共同体として確立する。これが教会の始まりだ。彼らは、「皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り…」(使徒2:44-47)生活した。その頃、この共同体は優に3000人を越えていた。やがて彼らは、このままエルサレムに留まり共同生活を続けようとする人々と外国伝道に出かけていこうとする人々に分かれていく。後者の中心的な役割を担ったのが使徒パウロだった。

 今日与えられた聖書には、パウロが外国伝道に取り組むことによって設立された「マケドニア州の諸教会」(1節)の様子が記されている。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」(2節)とある。

 このような喜びは、いったいどうしてもたらされたのだろうか。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(9節)。神の御一人子であるお方が馬小屋で生まれてくださった。このキリストの貧しさは、十字架にかかって死ぬことによって完成された。神の御子がすべての人間を救うためこの世に来られ、すべてを捧げ尽くしてくださったのだ。

 さて、「マケドニア州の諸教会」が、窮乏に陥っていた初代教会のエルサレム教会のため募金することなど困難なのは誰が見ても明らかだった。だから、パウロも彼らにそれを頼もうとは思わなかった。ところが、貧しさの極地にある彼らが、自らエルサレム教会のため「慈善の業と奉仕」に参加させてほしいと願い出たという。

 彼らは、貧しさという現実ではなく、キリストによる恵みの大きさに目を向け、自分たちが全体教会のために出来ることが何かを真剣に祈り求めた。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」(?Tコリ12:4-6)。

 我々は、それぞれに与えられている賜物を生かして主に仕えることを求められている。だから、我々は何よりも御言葉に触れ、心を合わせて祈る礼拝生活を中心に置き、主が何を求めておられるのか正しく聞き取る備えを欠かしてはならない。「(わたしたちが)進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです」(12節)。我々が、与えられている賜物を、献身の志をもってお捧げすることを主は待っておられる。

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