日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

09年7月のバックナンバーです。

2009年7月5日 聖霊降臨節第6主日

説教「思い悩むな」
聖書朗読 : マタイ福音書6章25〜34節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、「明日のことまで思い悩むな」(34節)と告げられた。思いわずらいの原因は、将来のことがわからない不安だ。しかし、主はこう言われた。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(26節)。すべては神の御計画のうちに進められ、我々はその中を歩まされている。人間の思いわずらいは、神の御計画に委ねきれないからだ。これは、人間の罪の問題と関係している。

 人間は、神の似姿という特別な存在として創造された。にもかかわらず、人間は神に背を向け、勝手な行動に走る。こうして人間は絶対的存在から離れ、大切な拠り所を失ってしまった。それは、砂の上に家を建てるような営みだ。一生懸命家を建てても、何かあれば簡単に崩れ去ってしまう。

 私は、大学時代にやっていたアメリカンフットボールの激しいぶつかり合いが原因で網膜剥離を患った。診察を受けた時から振動が良くないので自力歩行さえ禁じられた。また、剥離の状態がひどかったため、手術は3回にわたり、入院は4ヶ月に及んだ。その間ベッドに固定された生活は、私から生きているという実感を奪い去った。やがて、私の心は神から離れ、誰にも自分の気持ちは分からないという虚しさに包まれていった。

 そんなある日、幼い頃から一緒に教会学校に通っていた友人が一人で見舞いに来てくれた。彼は、短時間たわいのない会話を交わして帰っていったが、その時私は心が不思議にほぐれていくのを感じた。そして、一人になった時、突然こんな言葉が飛び込んできた。「お前は、『誰も自分の気持ちを分かってくれる人はいない』と言うが、それならお前は主イエスの十字架の苦しみをわかろうとしたことがあるか。お前は、自分の苦しみのために神さえ呪うが、主はたった一人でこの世のすべての人の罪を引き受け、苦しみ抜いて死んでくださった」。私は、逃げ場のない状況で突きつけられたこの言葉とただ向き合うしかなかった。そしてこの時、主が共にいて重荷を担ってくださっていることを確かに実感することが出来た。

 我々の思いわずらいは、時に信仰にまで影響を与える。しかし、そんな状況下で祈られる祈りは、たとえ愚痴や怒りであっても必ず聞かれる。そして、神は我々の思いをはるかに超えた仕方で、本当に必要なものを最もふさわしい形で与えてくださるのだ。

 そのような絶対的信頼と徹底的従順をもって神に祈り続けたのは主イエスに他ならない。主は、十字架につけられる直前ゲツセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(26:39)と祈られた。我々は、最後まで神を信頼し、すべてを委ねて十字架につかれた主の尊い犠牲によって、初めて神と向き合えた。今や、我々は主の十字架が自分のために起こった出来事と信じる信仰により、何よりも確かな土台の上に立つことを赦されている。

 だから、我々はもう思いわずらう必要などない。すべてを主に委ね、主と共に歩むことによって、我々は神の御旨に適う神の似姿を回復させられていく。主は言われた。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(33節)。来たるべき日に神の御支配が完全に成し遂げられる時、我々は約束された永遠の命を受け継ぐことが出来る。そして、その時には天にある者、地にある者が共に連なり、神と直接向き合って礼拝を行うというこれ以上ない幸いに与ることが出来る。この喜びの時を目指し、主に信頼し、すべてを委ねて共に歩みたい。

2009年7月12日 聖霊降臨節第7主日

説教「求めなさい」
聖書朗読 : マタイ福音書7章7〜12節
説教者 : 北川善也牧師

 祈りは、神と人間を結ぶホットラインだ。我々は、祈りによって神に「直通電話」をかけられる。しかし、それはあくまでも直通番号にかけるからこそつながるのであって、対象がはっきりしない祈りはホットラインとはならない。

 一方、我々はしばしばこの直通電話そのものに疑いを抱くことさえある。「祈りは本当に聞かれるのか」と。神が必ず聞いてくださるという信仰なくして、祈りはホットラインとはなり得ない。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる」(7節)。熱心に祈るなら、その祈りは必ず聞かれると主は言われた。祈りが聞かれるとはどういうことか。幼子のように、「あれがほしい、これがほしい」と願うことが一つ一つ叶えられることか。もしそうなら、神は人間が自由に操れる存在だということになる。天地万物を創造された神がそんなお方であるはずがない。

 神は全知全能であるゆえ、願い求める前から我々に必要なものはすべて御存知だ。では、我々が祈る意味はないかと言うとそうではない。祈りが、神と人間の間を直接結ぶホットラインとして存在することに大きな意味がある。

 神は、人間を御自分の似姿として造られた。神は、そんな人間との間に真の対話関係を築くことを待ち望んでおられる。だからこそ、神は我々に祈りというホットラインを与えてくださったのだ。

 人生には試練の時がある。もうこれ以上進めないとあきらめ、投げ出したくなるような場面がある。しかし、主はそんな時こそ祈りなさいと言われる。我々がパンを求めている時、神は石を与えるだろうか。神は、求める者に必ず良いものを与えられる。飢え渇きを覚えている者には、汲めども尽きぬ命の水を与えてくださる。

 神がそのようにしてくださるのは、何よりも我々を深く愛しておられるからだ。そのことは、大切な御一人子さえ惜しまずこの世に遣わしてくださったことに最も端的に現われている。神に背を向け、罪を繰り返す人間に、御自分の愛を示すため、神は愛する御子を十字架につけてさえくださった。

 主イエスの近くには、常に一番弟子ペトロがいた。彼は、主から「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(16:19)という約束まで受けていた。だが、主は十字架につけられる直前、ペトロに「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と告げられた。彼は、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(26:35)と答えたが、その後、彼は周りの人々から「あなたもあのイエスと一緒にいた」と指摘されると、「わたしはそんな人を知りません」と三度否認する(26:75)。

 このペトロのような弱さは誰もが持っている。しかし、そんな人間に注がれている神の愛がいかに大きいかを示すため、主は十字架にかかって死んでくださった。また、主は意気消沈しているペトロの前に復活の姿を現し、三度裏切りの言葉を述べた彼の口から、今度は三度信仰告白を引き出し、しっかりつなぎ止めてくださった。主は、人間には越えられない壁を乗り越え、人間の悲しみの淵、絶望の淵まで降りてきてくださる。

 我々は、不安や孤独に囚われ、暗闇にはまり込んでしまう。しかし、そんな我々に主は、「どんな時でも求め続けなさい」と言われる。泥沼の中でもがき苦しむ人間に、必ず聞かれる神とのホットラインが与えられていることを思い起せと言ってくださる。

 我々は、祈る時、聖霊の助けによって神との直接対話へと導かれていく。こうして一人ひとりを確実にとらえ、救いへと導いてくださる神の愛に全面的な信頼を置き、すべてを委ねて祈り続けたい。

2009年7月19日 聖霊降臨節第8主日

説教「砂上の楼閣」
聖書朗読 : マタイ福音書7章24〜29節
説教者 : 北川善也牧師

 マタイ5章から始まる「山上の説教」は、主イエスの言葉による救いの御業だ。今日与えられた聖書は、その締め括りの箇所となる。

 主は、この前後でいやしの奇跡を数多く行われ、いわば行いによる救いの御業を展開された。つまり、主にあっては「言葉」と「行い」は別ものではなく、互いに密接なつながりを持っているのだ。

 主が「山上の説教」を語られた時、最も近くに置かれたのは弟子たちだった。彼らが、後にはマタイ28章において、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」との命令を復活の主より受け、福音伝道の業に取り組むこととなる。こんな重大な任務を担う前に彼らがまず受けねばならなかったのは、主の教えを繰り返し近くで聞くことだった。

 主は、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」(24節)と言われたが、これらの言葉とは「山上の説教」全体のことだ。ここで主は「山上の説教」は聞くだけでなく行わねば意味がないと言われたのだ。しかも、聞いて行う者は「岩の上に自分の家を建てた賢い人に似て」おり、聞くだけで行わない者は「砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」とまで言われた。

 このたとえ話は、旧約の「ノアの洪水」物語を思い起こさせる。人間の罪のあまりのひどさに怒られた神は、義人ノアとその家族、そしてあらゆる動物ひとつがいずつ以外すべて滅ぼすことを決められた。ノアは、聞く耳をもって神の命じられた通りに箱舟を造り救われたが、聞く耳を持たなかった人々は、ことごとく大水に飲まれ滅び去っていく。人間は、いかなる時でも神の言葉を聞いて行うことを求められているのだ。

 さて、「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた」(28節)。ここで「非常に驚いた」と訳されている原語のギリシャ語は、「恐れ」あるいは「パニック状態」をも表す強い言葉だ。彼らは、なぜそんな状態に陥ったのだろうか。

 主は、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(29節)。主の教えは、神の御計画が一人一人の人間やその生活を通して実現されるということを示していた。その教えに触れた時、人々は罪深い自分の姿を顧み、このような存在さえも用いて進められる神の御計画の計り知れない不思議さに圧倒され、恐れおののくしかなくなるのだ。

 少し前の7章21節には、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」とある。主が「行う」と言われる時、それは「天の父の御心を行う」こと以外の何ものでもなかった。

 人間が真の救いに与るためには、自分に語られている御言葉を主の御声と信じ、その御言葉を行う者とならねばならない。それは換言すれば、神の御言葉そのものである主への服従だ。主に服従する者のみが、決して揺らぐことのない土台の上に立ち、永遠の命を受け継ぐことを赦される。

 しかし、我々は本来、砂上の楼閣を建てるような生き方しか出来ない存在だ。そんな我々が主に従うために与えられているのが、神の御言葉に耳を傾け、心を合わせて祈り、讃美の声を捧げる生活、すなわち礼拝生活に他ならない。主は、我々の救いの源である十字架と復活の出来事を、礼拝を通して明確に示してくださる。

 我々は、能力が優れているから神の御言葉を行えるようになるのではない。神から聖霊の賜物を与えられることによって信仰へと導かれ、神の御言葉を行う者に変えられるのだ。神は、手近な砂地の上に平気で家を建ててしまうような我々に信仰を与え、確固たる地盤の上に住まわせてくださる。

2009年7月26日 聖霊降臨節第9主日

説教「ただ、ひと言おっしゃってください」
聖書朗読 : マタイ福音書8章5〜13節
説教者 : 北川善也牧師

 当時のユダヤ人にとって、聖書が証しする真の神を知らない者はすべて「異邦人」だった。そのような人々は、神の救いから完全に漏れていると見なされ、汚れた存在として蔑まれていた。そのため、当時の社会にあってユダヤ人と異邦人の交流はごくまれだった。

 今日与えられた聖書には、ある「百人隊長」が登場する。彼は、当時強大な軍事力をもって領土拡張を続けていたローマ帝国によって各地に張り巡らされた小隊の隊長であり、傭兵として雇われた外国人、つまり異邦人だった。

 しかし、この百人隊長は、当時の社会にあってかなり異質な存在だったことがわかる。「イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、『主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます』と言った」(5節)。彼は、異邦人でありながら、家族同然の大切な部下のいやしを主に求めた。彼は確かに必死だったろうが、誰彼構わずこんな態度をとっていたのでなかったことは明らかだ。

 主が百人隊長に、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われると、彼は「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」(8節)と答えた。ここには、彼の主に対する全面的な信頼が示されている。百人隊長がどこでどのようにしてこのような信仰に至ったのかはわからないが、この時、異邦人である彼は確かに主に対して信仰を向けていた。

 それまで主によるいやしの御業は、直接手を触れることによってなされてきた。百人隊長もそれを直接見たか、誰かから伝え聞いていたはずだ。しかし、彼は主が直接触れるというこの世的なレベルを超えて、神の権威をもってその御業を成し遂げてくださるという確信を持つことが出来たのだ。

 彼は、「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます」(9節)と言った。この言葉は、百人隊長の主に対する最大級の賛辞だった。軍隊において権威を与えられた者は絶対的な力を持ち、部下はその命令に必ず従った。しかし今、彼はそんなこの世の権威をはるかに超えた神の権威を主に見出し、その栄光を讃えてこのように言い表したのだ。つまり、これは百人隊長の信仰告白に他ならなかった。

 だから、主はこれを聞いて、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」(13節)と言われた。主は、彼の信仰を全面的に受け入れ、救いの御業を実現された。こうして神の救いの範囲には、もはやユダヤ人も異邦人もなくなり、「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込」むという預言は現実となった。

 我々も、最初から主の近くに置かれていた存在ではなかった。150年前、日本に宣教師たちが上陸し、聖書を日本語に訳し、福音を宣べ伝え、教会を建てる働きに取り組むまで、我々は神を知らない異邦の民に過ぎなかった。我々は、神の憐れみによって捕えられ、滅びに至る存在から永遠の命を受け継ぐ存在へと変えられつつある。

 我々は、神を知らない者から神を知る者へ変えられるという恵みに与っているのだから、あの百人隊長がまだ神を知らない部下のために必死で祈り、行動することによって、その救いが実現されたように、我々の周りにいるまだ神と出会っていない人々のために祈り、福音を宣べ伝えるべきだ。我々が祈りつつ、信仰に基づいて行動するならば、主は必ずひとこと言ってくださる。「あなたが信じたとおりになるように」と。

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