日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

09年8月のバックナンバーです。

2009年8月2日 聖霊降臨節第10主日

説教「罪人を招くため」
聖書朗読 : マタイ福音書9章9〜13節
説教者 : 北川善也牧師

 マタイは、見知らぬ相手から、突然「わたしに従いなさい」(9節)と呼びかけられた。未知の相手から突然このように呼びかけられた時、人は誰でも「固まってしまう」はずだ。しかし、マタイが示した反応はそうではなかった。

 主イエスの唐突な呼びかけの場面は他にも見られる。ガリラヤ湖で漁師をしていた二人の兄弟ペトロとアンデレ、また、別の二人兄弟ヤコブとヨハネの前に現れた主は、やはり突然「わたしに従いなさい」(4:19)と呼びかけられた。

 これらの場面に共通するのは、主に呼びかけられた者たちの反応だ。漁師の兄弟たちもマタイも、主から呼びかけられるやいなや、それまでの人生をあっさり捨て去り、主に従っていく。

 マタイは徴税人だった。徴税人とは、ローマ帝国支配下の属州において、割り当てられた地域の「徴税権」を持った人のことだ。当時、帝国の領土は膨大で、政府がきめ細かく徴税出来ないため、この仕事を一般人に請け負わせる仕組みを考えたのだ。「徴税権」を手にした者は、担当地域の住民から法外な税を取り立てても咎められなかった。彼らは、前払いで購入した「徴税権」の費用を早く取り戻そうとして規定以上の税を取り立て、もとを取った後もそのまま取り立てを続け、私腹を肥やす者がほとんどだった。しかし、徴税人が嫌われた最大の理由は、彼らが外国政府に仕え、異邦人と頻繁に接触して汚れを身に帯びた存在と見なされたからだった。

 当時のユダヤ人社会で汚れた者と見なされたのは、徴税人だけではなかった。主が最初にいやされた重い皮膚病(8:1以下)は、本人もしくは先祖の犯した罪が原因と考えられていた。また、続く箇所には百人隊長の部下、すなわち異邦人に対するいやしの出来事が記されている。異邦人は神を知らぬ汚れた存在と見なされ、ユダヤ人は彼らに近づこうとしなかった。「重い皮膚病」の人も「異邦人」も、当時は罪人と見なされていた。

 「罪」とは、いったい何なのだろうか。罪は、我々にとって大変身近な問題だ。我々は、法に反するような罪は犯さないかも知れぬが、言葉と行いと思いにおいて絶えず罪を犯しつつ生きている。この意味において、ユダヤ人を含め罪を免れる者は一人もいない。

 聖書は、このような罪人を待ち受けているのは、滅び以外の何ものでもないと告げる。小さな罪の積み重ねがそうさせるのではない。人間の罪の大本は、神に対する裏切りだ。人間は、神の似姿として造られ、神の息を吹き込まれて命の営みを開始した。にもかかわらず、創造主である神に平気で背き、裏切り続けるのが人間だ。

 そんな人間が、より身近にいる自分の隣人に愛を向けられないのは当然だ。我々が隣人から盗み、隣人を殺してしまうのは、神と向き合わず、神に礼を尽くそうとしない態度に根本的な原因がある。

 神は、そんな人間を救いへと導くため、ただ一つの、しかし最も確かな道を用意してくださった。その道こそイエス・キリストに他ならない。主は、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(12節以下)と言われた。主は、罪人を滅ぶままにせず、救いへ導くため、この世に来てくださったのだ。主は、どこまでも出かけて行き、罪人を捜し求めてくださる。99匹の羊を待たせておいて、たった1匹の羊を見出してくださるのが主だ。

 そして、その主によって「わたしに従いなさい」と呼びかけられた者は、マタイのように主の旅の同行者へと変えられていく。罪人一人一人に近づき、呼びかけ、この喜ばしき旅路へと招いてくださる主を信じ、共に従って行こう。

2009年8月9日 聖霊降臨節第11主日

説教「主イエスの家族とされる」
聖書朗読 :マルコ福音書3章31〜35節
説教者 : 長谷川尚三執事

<イエス様の家族>
大工の子であるイエス様が、偉い律法学者のように振る舞って、大勢の群集に教えておられました。30歳になるまでのイエス様は、ひたすら両親に仕え、弟たちの面倒を見ていたと言われています。そういうイエス様のことしか知らない家族は、この偉そうに振る舞っているイエス様のうわさを聞いて、取り押さえにやってきたのです。

<モーセの十戒>
父・母・兄弟姉妹に関して、旧約聖書のモーセの十戒の5つ目に<父と母とを敬え>が記されています。ここで言う「父と母」は、聖書では、「親は神を指している」ということです。別の言い方をしますと、「あなたがたは、自分の肉親である父・母を敬うように、主なる神を敬え」ということです。

 そこで、この十戒の「神様がなされる親の務め」と、「私たち人間の親の務め」を対比してみますと、よく似ている部分があります。

 「神様は、どんな時でも、わたしたちを受け入れ、守り、命をかけて愛してくださる」と同時に「私たちが正しい道を歩み、信仰を得させていただく教育者」でもあります。

 それに対して、私たち人間の親も、子どもに対して「どんな時でも受け入れ、愛し、命をかけて守り」ます。そして、私たち人間である親の最大の務めというのは、「唯一の、まことの神を敬い、信頼し、愛すべきことを、自分の子どもに教える」こと、つまり「子どもが正しい道を歩み、将来信仰告白するに至らせる指導者・教育者である」ことが求められています。

 教会でもしばしば話題になります。それは「信仰の継承」ということでもあるのです。そういう意味からしますと、「父と母を敬え」という戒めは、「父なる神様を敬う戒め」と同時に、「私たち人間である親への戒め」でもあるのです。

 <家族の真意>
 「家族」というのは、私たちは一般的に、「父、母がいて子がいて、あるいはおじいさんおばあさんがいて同じ屋根の下で一緒に住んでいる」そういう様を思い描きます。人間同士の、横の関係が密接で、家族の結束があり、また温かい家庭の交わりがある場であります。

 しかし、この家族の横の関係が、どんなに強いものであったとしても、それが「イエス様のみ言葉を聴いて行う」という縦の関係、つまり神と人間の関係に優先したり、それを否定したりする時、それは真理に逆らい、神に逆らう関係となります。

 イエス様は「家族」についての根源的なことを言われました。それは、「血のつながり、肉のつながりを超えて、それは神のことばが先行し、これを聴く一人ひとりがこれに応えてみことばを行う時、その一人ひとりは、イエス様の兄弟として、姉妹として、また母としてイエスキリストにつながって共同体を作っていく」ということです。

 先週の説教で、「説教を語るとき、『罪』を抜きにして語ることはできません」とありましたが、この「家族」についても、アダムとエバの物語から始まる「罪」「原罪」と大きな関係があります。

 人間は、罪を犯した結果、本当の意味での家族や家庭を失ってしまいました。しかし、神様のみことばを聴く者が、教会に集うことにより、イエスキリストの十字架による贖いによってゆるされた「神の家族」として生きることがゆるされました。それは、イエスキリストを信じる信仰を持つ者が集うところの家族であり家庭であるのです。

<私たちのあり方>
 神様は、「人のゆえに地をのろわない」と言われました。これは「人の罪を赦す」ということです。

 神様は、この「人間の罪とそれに対する無力さ」に、決して失望されることなく、御子イエスキリストをこの世に送ってくださいました。

 「神様に、そしてイエスキリストの十字架によって赦された者である。」このことを覚え、信じて生きる者でありたいと思います。

 私たちは、聖書のみ言葉をものさしにして考え、判断し、また理解しようとする時、神様はそのような私たちを喜んでくださるでしょう。
イエス様が天に上がられる前に「私はもう一度来る」と言われました。そのことを信じて、そして私たちは「主イエスキリストの家族としていただいた」ものとして生きていく者でありたいと思います。

2009年8月16日 聖霊降臨節第12主日

説教「語り続けよ」
聖書朗読 :エレミヤ書20章7〜9節
     マタイ福音書10章16〜25節
説教者 : 中西和樹執事

 福音書は初代教会の残した信仰の砦である。我々は、目の前でイエス様の言葉を聞いている弟子として、また、迫害と戦いの中にある初代教会の一員として、そして、この洛北教会に集い日本の社会に暮らすキリスト者として、この言葉を聞かねばならない。

 マタイ10:16以下には、迫害と伝道の妨害が予告されるとともに、そのどんな場面にも父なる神が共に居て下さることが約束されている。「わたしはあなたがたを遣わす」というはなむけの言葉に続いて、「それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」と言われる。実際、初代教会の信徒たちは伝統的なユダヤ社会で、イエスを十字架に追いやった人々の中で、異端者のレッテルを貼られながら伝道した。そして捕まえられて、反対者に申し開きをしなければならなくなったときには、「イエスこそ聖書に預言されたメシアである。キリストは私の罪のために十字架で死に、三日目によみがえられた。」と証しせざるを得なかった。イエスの十字架も、復活の噂も耳にしている人々の中で、自分がそのイエスを救い主と信じると言い表すことは、自分の全存在を賭けた決死の告白であった。しかし、その全身全霊を賭けた告白が用いられて、事実多くのキリスト者が起こされていった。そこでは実に「あなたがたの中で語ってくださる、父の霊」が雄弁に語られたのである。

 エレミヤはその生涯にわたって偽りの預言者と対決した。ユダ王国の滅亡を王や国民の期待に反して預言せざるを得なかったエレミヤは、神の言葉とそれを語らせまいとする力との緊張の中で、しばしば自身の意図に反して、神の言葉のみに頼って歩まざるを得なかった。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。」コリントで意気消沈するパウロに語られた言葉である。使徒パウロでさえ、ダマスコ途上での劇的な回心から、そのままキリストの強力な使者になったわけではない。バルナバが彼をわざわざ探し出して異邦人伝道に連れて行かなかったなら、パウロ書簡の一巻さえ記されなかったかも知れない。人間的な悩みや弱さを超えて、主は一人一人を用い、その御心を実現される。

 「語り続けよ」という主の命令に自分はどう応えるのか、真剣に考えるほど逡巡(しゅんじゅん)せざるを得ない。しかし主は既に私たちを救いに入れて、すべてを備えておられる。「恐れるな」と「わたしはあなたと共にいる」は分離不可能な言葉である。「黙っているな」とは、主から受けた恵みを自分から消すなということ。パウロがテサロニケに送った「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という言葉は「聖霊の働きを消さないように」と続く。誰をも説き伏せる雄弁を求められているのではない。与えられた恵みを証しする機会に、ことさらに口をつぐんでしまわないように。どこに立たされたとしても、語るべき言葉を必ず与えるから、恐れず、たゆまず、十字架の恵みを証しすれば良い。私たちもこの社会へ主から遣わされている。毎週の礼拝を守るという教会の業は、ことさらに大きな飛躍には見えないかも知れないが、世の中へ遣わされた群れの大切な証しであり、それこそが、聖霊の働きを消さないことである。

2009年8月23日 聖霊降臨節第13主日

説教「主を見逃さない」
聖書朗読 :マタイ福音書12章43〜50節
説教者 : 安本教博執事

 「共観福音書」と呼ばれているマタイ、マルコ、ルカによる福音書の3つの福音書で、まず、最初に書かれたマルコによる福音書の「マルコ」は信仰熱心な両親のもとで育ち、ルカはギリシャ人を両親に持つ勉強熱心な医者であった。マタイはイエスさまの弟子になる前は、あのザアカイと同じ徴税人でありました。(ヨハネは漁師出身) このマタイは3福音書の中に登場しています。マルコ、ルカによる福音書では レビという名前で出てきます。イエス様の弟子になってからマタイと名前を名乗るようになったので、マタイによる福音書では、マタイという名で登場しています。「レビ」と言う名前は、12部族の「レビ族」にちなんでつけられた名前で、「結ぶ」という意味であり、「マタイ」とは「神の賜物」という意味です。3福音書の中でマタイによる福音書にだけ、「イエス・キリストの系図」が書かれており、イエス様をキリスト(救い主)であり、イスラエルの王の資格を持つダビデの末裔と示しされ、パレスチナに住むユダヤ人キリスト教徒を対象に書かれたと考えられています。この時代、徴税人は大変嫌われ者で、嫌われ者のありとあらゆる言葉を浴びせられていました。12章43〜45節「汚れた霊が戻って来る」、46〜50節「イエスの母、兄弟」、この二つの話には共通点があります。

 イエス様の「母や兄弟」たちは、イエス様が何をしているのか知らないので、「命を狙われて危険がせまっている。もう、こんなことは止めて私たちと一緒に家に帰ろう。」と言いに来たかも知れません。イエス様は、救い主として、いろんなところで、多くの人々を癒し、病気を治す奇跡を行っていました。この時はまだ、このようなことを知らずにいた母や兄弟たちは、群衆の中に入らず、外に立っていました。「外に立っている」ということは、イエス様とある距離を置いて、イエス様と違う世界に居るということです。イエス様が救い主としてこの世に遣わされ、伝道活動をされているということを知らないまま、イエス様のことを理解せず、ただ遠くから眺めているだけでした。弟子たちや群衆は、イエス様のことをイエス様の母や兄弟たちよりも早く、イエス様を「救い主」と知ったのです。母と兄弟たちは「主が来た」ことを見逃していました。

 「汚れた霊が戻って来る」 このイエス様のお話は、たとえ話のようでもあり、現実の話でもあります。人を苦しめ、苦しめることのよって人を神様から離れさせ、神様を信じなくさせるのが「汚れた霊」「悪霊」です。砂漠というところは、何にも無く、休む処もないので、「悪霊」は戻ってきました。「悪霊」が戻ると、そこは出て行く前よりも綺麗に掃除されていました。奇麗に掃除されていたのは、何も「悪霊」を迎え入れる為ではなく、大切な人、それは「主」を迎え入れる為であった筈です。何故、空き家になっていたのか? 空き家になっていたから、「悪霊」は勝手に、自由に入っていきました。綺麗に掃除され、整理整頓してあったのは、「主」を迎える為であった筈です。「主」を迎え入れ、そこに「主」が居れば、「悪霊」は勝手に入り込むことは出来なかったでしょう。では、どうしてこの人は「主」を迎え入れることが出来なかったのか。旧約聖書に約束されている自分たちユダヤ人の救い主は、立派な身なりをしたキリスト・ダビデの子を想像していました。ナザレの大工の息子がダビデの末裔である「救い主」とは思いませんでした。真実を見ることができなかったのです。だから、この大切なときに「主」を見逃しました。私たちは常に真実を見ることによって「主を見逃さない」ように心がけましょう。

2009年8月30日 聖霊降臨節第14主日

説教「正しい人々は太陽のように輝く」
聖書朗読 :マタイ福音書13章24〜43節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、多くのたとえを用いて、誰も見たことのない「神の国」について説明された。このように様々なたとえで神の国を語ることが出来るのは、主が神の御子であり、神の国についてすべてご存じであるからに他ならない。

 今日のところで、主はまず「毒麦」のたとえを話された。聖書は、主がこの世に来られた時から神の国が近づいたことを明確に告げている。しかし、それはあくまでも「近づいた」に過ぎないのであって、神の国の完全な到来は未だ成し遂げられていない。この不完全な現実にあって、サタンがこの世を混乱に陥れ、破滅させようと目論んでいる。我々は、このような状況にあって、サタンの及ぼす影響力に対してどのように対処すべきかを問われている。

 この問いに対して、主は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」(29-30節)と言われる。主は、神の御子として神の時を生き、まっすぐに終わりの時を見据えておられる。そのような視点から、いよいよ神の国が完成する時に毒麦がどのような状態になっているか、それまで待つようにと言われるのだ。終わりの日まで、主の救いの御業はひたすら遂行される。しかも、それは神の御計画として着実に進めていかれるのだから、毒麦が毒麦のままで終わるかどうかは誰にもわからない。

 主は、罪人と見なされ、社会から締め出されていた人々を何の分け隔てもせず、むしろ積極的に招いて交わりを持たれた。このことに示されているように、主は罪人を招き、御自分へと立ち帰らせるため、この世に来てくださった。また、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:19)と命じておられるように、主はすべての人々の救いを計画しておられる。

 次に、主は神の国を「からし種」にたとえられた。ケシ粒程の小さな種が、鳥が巣を作るほど大きな木になるという。「空の鳥」とは、まだ主に出会っていない人々のことと理解してよいだろう。ここには、小さなキリスト者の群れが、人間の思いを超えて、神の御計画のうちに大きな群れへと成長させられていく幻が示されている。

 続く「パン種」のたとえは、何を示しているだろう。イスラエルの人々が、出エジプトの出来事を覚え、神の救いに感謝を捧げる過越祭において、彼らは「パン種」を入れないパンを食べる。それは、「パン種」が神聖な時期に口にしてはならない汚れた物質と見なされているからだ。

 主は、安息日に病人をいやす行為などをたびたび行った結果、神を冒涜する者として律法学者たちから攻撃を受け、やがて過越祭の食事に出されるパンから「パン種」が取り除かれるように、この世から排除される道を歩まれた。主は、こうして神の御子の命という他の何物にも代えられない最も尊い犠牲によって、すべての人々のための救いの道を開かれた。

 我々には、イエス・キリストという「パン種」が与えられている。我々は、このお方と出会うことによって豊かな恵みを膨らませることが出来るのだ。しかも、この「パン種」は、こちらから捜し求める以前に向こうの方からやって来て、我々一人一人のうちに染み渡るように入ってきてくださる。

 主が「パン種」として我々の中に入り込み、「発酵」を起こすことによって、我々は造り変えられる。そのようにして、すべての人間が罪の赦しを与えられ、神の国へと招かれている。我々は、神の御前に立ち、神の光をいっぱいに受けるよう促されている。「そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く」(43節)のだ。

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