日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

09年9月のバックナンバーです。

2009年9月6日 聖霊降臨節第15主日【振起日】

説教「新しいものと古いもの」
聖書朗読 :マタイ福音書13章44〜52節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、すべての人々を御自分の民として立ち帰らせるため、この世に来られた。主は、すべての人々を御自分の弟子にしようとしておられる。主は、そのために様々なたとえを用いて、神の国のビジョンを示された。

 44節で、神の国は、「隠された宝」として描かれている。当時、かの地では、宝を保管する際、壺に入れ、土中に埋めて隠した。彼らは、その場所を誰にも教えなかったので、持ち主が突然死んでしまったりすると、その宝は誰かが偶然発見するまで忘れ去られた。

 ある雇われ農夫が、畑に埋められた宝を掘り当てる。これは、彼が一生懸命働いたことへの対価でも、彼の能力が優れていたことによる手柄でもない。その場所は、たまたま雇い主によって彼に割り当てられた畑に過ぎないのだ。つまり、このたとえ話は、「宝」が人間の努力や能力によって獲得するようなものではなく、自分たちが生かされている人生の只中に現に存在することを示している。

 主は、ファリサイ派の人々に「神の国はいつ来るのか」と問われた時、「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と答えられた(ルカ17:20以下)。これは、神の国が既に、主の到来によってこの世にもたらされているという意味だ。

 しかし、我々は自力で神の国を見出し、獲得することは出来ない。それは、主と出会い、主の十字架によって自らの罪が赦されていることに気づかされた時、初めて見出される。そして、ひとたびこの宝の価値を知ったならば、誰もがすべてを手放してでもそれを手に入れたいと願うようになる。

 主は、すべてを捨て去り、十字架にかかることによって、あらゆる人間に罪の赦しを得させてくださった。我々は、この約束に入れられるため、主に倣ってすべてを捨てる信仰を求められている。しかし、弱い我々は、すべてを捨て去るどころか、生きている限り罪から離れることすら出来ない。

 主は、すべての人間に訪れる終わりの日の厳しい裁きを示すたとえをもって締めくくられた。しかし、我々はその後の主の言葉にこそ目を向けたい。「『あなたがたは、これらのことがみな分かったか』。弟子たちは、『分かりました』と言った。そこで、イエスは言われた。『だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている』」(51-52節)。

 主によって弟子とされたのは、漁師らごく普通の人々だった。そんな弟子の兄弟ヤコブとヨハネに、主は示されるということだ。また、「自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人」は、自分の中に新約聖書と旧約聖書を持っている人を暗示する。つまり、聖書の御言葉に聞く耳を持つ人こそ、そのような人なのだ。

 我々は、主の弟子となり、いついかなる時にも主の御言葉に聞き従うことによって、何よりも大切な神の国を理解するだけでなく、神の国を受け継ぐ者とされる。

2009年9月13日 聖霊降臨節第16主日

説教「わたしもその中にいる」
聖書朗読 :マタイ福音書18章10〜20節
説教者 : 北川善也牧師

 10節以下には、百匹を養う羊飼いが出てくる。彼にとって、この百匹はどれも大切なはずだ。だが彼は、その中の1匹が迷い出た時、他のすべてを置き去りにして探しに行く。このやり方は、常識外れと言わざるを得ない。迷い出た1匹をあきらめ、残った99匹を守ろうとするのが人間の常識だ。

 主イエスは、人間の常識を突破して、神の愛を貫かれた。人間は、小さな存在を切り捨て、多数に追従しようとする。しかし、主はたった一人の小さな存在を、どこまでも徹底的に探し求められる。

 主が、迷い出たたった一人の小さな存在に最後まで目を注がれるのは、このお方がすべての人間を救うために来られた神の御一人子であるからに他ならない。

 さて、今日の聖書箇所は、前後半で全く別のテーマが語られているように見え、なぜこの二つの教えが並べられているのか不自然にさえ思われる。しかし、この後半部分にも、たった一人の存在を決しておろそかにされない主の愛が示されている。ここで触れられているのは、17節にあるように、教会における状況だ。ここでは、信仰によって結ばれた神の家族が、互いに配慮し、責任を持って関わり合うべきことが語られている。

 これは、単なる問題解決のマニュアルなどではなく、ある兄弟が罪を犯したケースがモデルとして提示されているのだ。ここには、罪を犯した者を冷遇せず、しっかり向き合い熱心に忠告すべきこと、そして、感情的に裁かず、愛と寛容の心をもって悔い改めへと導くべきであるという、キリストの体なる教会がなすべき執り成しの業が具体的に示されている。

 しかし、「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(17節b)とも言われている。異邦人とは、罪を抱えたまま滅びに向かって突き進むしかない人々の代名詞だ。つまり、何度も忠告を試みた上で、最後に教会の忠告をも聞き入れないなら、その者は滅びるしかないと告げているのだ。だが、罪を犯し、悔い改めに至らない者は切り捨てられるという結論であれば、その前の「迷い出た羊」のたとえで語られた、たった一人をも見捨てず救いに導くという主の教えは一体どうなるのか。

 先ほどの裁きの言葉は、最後に教会が行う忠告さえ聞かない者は滅びると告げていた。つまり、逆に言えば、教会がこの世における最終最後の裁きの場であるということだ。教会には、それだけ大きな力と責任が託されているのだ。しかし、この力と責任は、当然ながら人間によるものではない。

 「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18節)。これは、教会に告げられた言葉だ。教会は、神が御自分の愛の業を実現するため、この世に造られた神の器だ。それゆえ、教会には聖霊が豊かに注がれ、教会が「地上でつなぐことは、天上でもつながれ」、教会が「地上で解くことは、天上でも解かれる」という奇跡が成し遂げられるのだ。

 主は、「2人または3人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(20節)と言われた。これは、人々がキリストの主権下に集まるなら、それがどんなに小さな群れだろうとも、主が御自分の体なる教会としてくださるということだ。

 主は、最も小さな存在に対して、どこまでも目を注ぎ、愛をもって御自分へと立ち帰らせてくださる。そうして集められた主の御体なる教会における祈りは、主の執り成しによって聞き上げられ、人間の常識を越えた仕方で必ず成し遂げられるのだ。これは、何と慰めに満ちた約束だろうか。

2009年9月20日 聖霊降臨節第17主日

説教「果てには御手」
聖書朗読 :ローマ書7章14〜25節
説教者 : 上田直宏神学生

 パウロの手紙で他に類を見ない程ここでは「私は、私は」と強調して、パウロ自身の惨めさが叫ばれている。しかし彼だけでなく、これは私たちがこの世で経験する嘆きでもある。

 ここにたびたび登場する「私」がくせものである。「私が」と強調することによって、神様のためにと思いながら、いつの間にか自分を誇り始めてしまう。このことを宗教改革者ルターは、人間の、神に敵対する最後の敵が、自分の中にある私の誠実さ、私の真面目さ、私の正しさだと言った。私が勝ち取った救いではないのに、私がそのようであることが救いの鍵を握り始める。このように「私が、私が…」と、とどまることなく自分を主張していく中で、「私の」に続く何かを私のものとして誇る限り、人は決して心休まることがない。

 パウロは、自らで立とうとする故にその無力さから、その赦されがたい私自身に絶望し、とても自分自身を認めることができなかったのではないか。そのために24節で彼は「私はなんと惨めな人間なのか!」と、絶望の叫びを上げる。自分で自分を救うことなどできないことを改めて知る。

 しかし、パウロの嘆きは嘆きで終わらない。「私」だけしか登場しなかった世界になお呼びかける声があり、肩を支える手がある。私が嘆きの果てだと思ったところには、なお主の憐れみの御手が届いていた。いや、果てまで嘆かれたのは、この主ただお一人だった。十字架の上で私たちに代って、私たちのいかなる苦しみよりも苦しみ抜かれ、叫ばれた嘆きである。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と、ただ一人見捨てられる必要のない御方が、見捨てられた者として嘆きの声を上げられた。この主だからこそ、私たち人間の困窮をきわみまで、知っていてくださる。知っていてくださるだけでなく悲しみも苦悩も共に経験してくださる。この御方の御手により私たちはずっと支えられていた。代わりに果てまで嘆かれ、十字架にくぎ打たれた御手に。しかしその御手は、同時に戸を叩いて、私たちが戸を開くのを待つ、復活のキリストの手。共に喜び、食事をしようと願うキリストの御手でもある。共に嘆かれるイエス様だからこそ、あなたに嘆いてほしくない。喜んでいてほしいと願っておられる。パウロはこのイエス・キリストに出会った。そして嘆きの果てだと思った自分がなお、赦され、用いられていることを、愛されていることを繰り返し、知っていったのではないか。パウロは確かに心から罪を嘆いたが、キリストがもっと深いところで嘆かれていた。それを知った時、自分の全てだと思っていた嘆きは小さくなり、嘆きは突然に感謝へと変わるのかもしれない。

 ひたすら「わたし」を強調して来たパウロが、「私たちの主」と、「わたし」から、「私たち」の主へと変わる。もはや力も弱さも、私のものではない。「私の」ものとしていたすべてが主のものである時、はじめてこの「私が」から解放されるのだろう。

 主が十字架におかかりになってまで担ってくださったゆえに、主のものである私たちは、自分の力でいたずらに強くなり、いつも倒れないでいる信仰でなく、倒れても嘆いてもよい信仰を与えられる。しかし、その嘆きと涙は必ず喜びへと変えられる、そのようにパウロは確信した。罪深い者がその罪をも覆う主の憐れみを知る。多く赦されるから、多く愛することを知っていくのだろう。

 この憐れみの内に置かれている故に、私たちは自らの惨めさも愛の乏しさも顧みず、大胆に共に、告白できる。「私は主を愛する。生涯わたしは主を呼ぼう」と。そして、それだけにとどまらず「全地よ、歌え」と、多くの人々と共に主を讃美したいと願うのである。

2009年9月27日 召天者記念礼拝(聖霊降臨節第18主日)

説教「永遠の命を得るために」
聖書朗読 :ヨハネ福音書3章1〜17節
説教者 : 北川善也牧師

 ニコデモは、「ファリサイ派に属するユダヤ人たちの議員」だった(1節)。ファリサイ派は、人々に律法のことを教える指導的役割を担っていた。彼は、そのような立場にありながら、政治的な権力まで兼ね備えた、いわば押しも押されぬエリートだった。

 そんな彼がなぜ、夜に主イエスのもとを訪ねたのだろうか。当時夜は照明もなく大変暗かったので、人々は基本的に夜の外出を避けた。だから、逆に誰にも知られたくない相手と会うためには、夜ほど好都合の時はなかった。エリートであるニコデモは、主から教えを受けるため、白昼堂々と出向くことなど出来なかったのだ。

 彼は、恐らく「カナの婚礼」(2:1以下)の奇跡を見るか聞くかしたのだろう。そして、この奇跡が神の御業であると直感的に感じ取り、何とかしてこの奇跡を行ったお方に直接会いたいと思った。なぜなら、彼は何でも出来るエリートと思われていたが、実は心の中に大きな闇を抱えていたからだ。

 ニコデモは、そのような闇を抱えていたからこそ、主の御業の中に真の光を見たのだ。それゆえ、彼は主に対して、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)と言った。これは、エリートである彼からすれば、最大級の賞賛だった。しかし、彼は主を生きていくために必要なヒントを与えてくれる「一教師」としか捉えられなかった。

 それに対して主は、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と言われた。ここで、「新たに」と訳されている元の語には「上から」という意味もある。上とは、神がおられるところに他ならない。つまり、主は「上からの神の御業によって、霊的に生まれ変わらねば…」と言われたのだ。しかし、こんなことは人間の努力や能力によって出来るようなことではない。

 ニコデモは、この意表をついた言葉に対し、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)などと見当外れの答えをする。彼は、救いの「ヒント」を求めてはいたが、それによって自分の力で救いを得ようとしていたのだ。彼は、律法学者としての、また政治家としての成功を自分の能力によって手中に納めていた。だから、彼は自分自身の救いさえも必ず自分自身の力でつかみ取ることが出来ると信じていたのだ。

 主は、「肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(6節)と言われた。この「肉」という語は、しばしば「罪」と同じ意味で用いられる。つまり、創造当初から罪そのものであった人間が、罪から解放され、本当の自由を手に入れるためには、「水と霊によって」新しく生まれねばならないと言われているのだ。

 人間は、自分の力で罪から自由になることは出来ない。しかし、人間に出来ないことも神には出来る。御子キリストは、人間を罪から解放するため十字架にかかってくださった。我々は、この出来事を信仰をもって受け入れることにより、「永遠の命」という完全な自由に与ることが出来る。

 永遠の命とは、我々が主と共にあることによって与えられる命に他ならない。そして、それが我々の地上の命を、神の国における新しい命に結び付ける。それは、我々が努力して勝ち取るものではなく、すべての人間の救いを約束してくださった神の聖霊によって、我々の中で生まれるのだ。神は、聖霊の働きによって、我々一人一人を捉え、信仰を与え、新しい命を生きる者とさせてくださる。

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