先週の説教 -バックナンバー-
09年10月のバックナンバーです。
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説教「ふさわしい報酬」
聖書朗読 :マタイ福音書20章1〜16節
説教者 : 北川善也牧師
このたとえ話の中で語られているような状況は現実にはあり得ない。12時間働いた者も1時間しか働かなかった者も、全く同じ報酬を受け取るという。雇用主が誰にいくら払おうが自由かも知れないが、もし実際にこんなことが起こったら、人々は労働意欲を失い、不平不満を噴出させるだろう。
主イエスは、まさにそのような反応が起こるのを期待して、このたとえ話を話された。主は、いくつもたとえ話をされたが、どれも単純にわかりやすい話ではなく、それを聞いた人々が心動かされ、その意味内容を深く考えさせることを狙ったものばかりだ。
このたとえ話の直前において、弟子のペトロは主に「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(19:27)と問うた。彼の目的は、自らの喜びを満たすことに他ならなかったのだ。
まさに、これこそすべての人間が逃れることの出来ない罪の問題だ。しかし、主はそんなペトロの質問を無視せず、逆にこの質問を真正面から捉えて答えられた。それが、このたとえ話だ。
主は、たとえ話の冒頭で、ぶどう園の主人が、労働者を雇うために何度も出かけていったと語られた。主人は、働き人を大勢必要としている。彼は、一人で仕事をやり遂げようとはせず、大勢と共に働くことを求めているのだ。
また、大勢の働き人が必要であるということは、そこにはなすべきことが多くあるということだ。そして、同労者が大勢いるのだから、そこで働く人々は決して孤独ではない。しかも、そこでは雇われた者たちだけでなく、主人も一緒になって働くというのだ。
主は、このたとえ話によって、我々が主の御用に召されていることを示された。そして、その働きの場とは、神が我々に生きよと命じられた世界全体なのだ。主は、この世が御自分の働き人で満たされることを望んでおられる。
しかし、見落としてならないのは、主のための働きには、我々の方から勝手に出向くことが出来ないということだ。主が、そのために我々を探し求め、召し出してくださる。しかもこの召しは、人それぞれ、別々の仕方で与えられる。誰もが人生の朝早くに召されるわけではない。昼過ぎに召される人もいれば、夕方になってようやく召される人もいる。また、若い時に召された人には若い人なりの働きがあるが、年を経てから召された人にもその人でしかなし得ない働きが必ず用意されているのだ。
我々は、自分の人生という時計が今何時を指しているのか知り得ない。自分があと何時間働けるのかは誰にもわからない。しかし、主はそんなことには構わず、すべての人々に対して「わたしのために働きなさい」と呼びかけておられる。主は、我々が何も生み出さぬまま、ただ立ちつくす存在とはしておかれない。必ず御用のために召し、一人一人の賜物に応じた働きの場を提供してくださる。
主は、我々の価値観をはるかに超えた仕方で、すべての人々を救い出すという約束を実現された。それが十字架の出来事だ。主は、十字架にかかり、すべての人々を救うため、この世に来られた。しかし、この出来事は、容易に受け入れられるものではない。
だが、主の十字架は確かに成し遂げられ、神の国はすべての人々のものとされた。このたとえ話に示されている、誰に対しても等しく支払われる報酬とは、神の国に他ならない。我々は、この救いの約束を先に与えられている。先に聞いた者は、まだ聞いていない人々に、それを告げ知らせるという大切な役割を与えられている。主は、このようにしてすべての人々を救いへと導いてくださるのだ。
説教「神からのたまもの」
聖書朗読 :マタイ福音書25章14〜30節
説教者 : 北川善也牧師
我々は、神によって愛され、神の豊かな恵みに与っている。地球上の68億人を超える人間は、一人として同じではない。すべての人間に異なる個性が与えられ、その人特有の賜物を輝かせている。
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(創世記1:27)。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(同2:7)。
神に似せて造られ、神の息を受けることで命をもたらされたすべての人間に賜物が与えられている。しかし、そのことに気づき、付与された賜物を本当に活かしている人はどれほどいるだろうか。
我々は、自分の目で直に自分を見ることは出来ない。我々が鏡や写真で見る自分は虚像に過ぎない。このことは、我々がいかに自分自身のことを知らないかを表しているように思う。自分を見ることの出来ない我々は、他人ばかりに目を向け、その結果、他人の賜物を羨むばかりで、自分に与えられている賜物を忘れてしまう。
主イエスは、「タラントン」のたとえ話をされた。タラントンという貨幣単位を、我々の価値観で大まかに換算すると、1タラントンで6千万円、5タラントンでは3億円もの巨額に達する。現代の我々でも驚くような額だから、ましてや当時の人々はこれをあり得ない話としてしか聞けなかっただろう。主は、いくらたとえ話と言えども、なぜこんな極端なたとえを語られたのだろうか。それは、人間がいかに大きな賜物を神から預けられているかを示すためだ。
我々の賜物とは、神からの預かりものに他ならない。そして、その賜物を豊かに用いた者が、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(21、23節)という祝福を受けるのだ。
ここで注目したいのは、忠実であったことの報いとして、より「多くのものを管理させ」られるということだ。主人の眼に適った者は、自分の賜物を活かすことで、さらに多くの務めを与えられ、それに取り組むことによって、より一層賜物を輝かしていくのだ。
また、5タラントンも2タラントンも、僕らが全く同じ報いを受けたことは、金額の大小ではなく、託された賜物をどう活用するかが大切であることを示している。
だが、1タラントンの僕はどうだったか。5タラントンや2タラントンと比べると少なく見えるかも知れないが、彼が託された賜物はそれ自体決して小さなものではない。しかし、彼はそれを活用しようとせず、地中に埋めて、その価値を無に等しくしてしまった。
我々は、この主人、すなわち、神がなぜこんなに豊かな賜物を我々に与えてくださるのか、その理由を知った時、決して無駄にすることなど出来なくなるはずだ。神は、御自分が造られた一人一人をこよなく愛し、そのために痛みをもって最も大切な御子の命さえ我々に与えてくださった。我々には、御子の十字架によって、罪の赦しに基づく完全な自由がもたらされた。我々は、この自由の基である神の犠牲に感謝をもって応えるため、神から与えられている賜物を豊かに用いねばならないのだ。
我々が最後に問われるのは、自分に託された賜物をいかに用いて生きたかということだ。我々に与えられている賜物を最も輝かせる生き方とは、主の十字架に従って歩むことに他ならない。我々が、そのような歩みを通して神からの賜物を豊かに用いて生きた時、主は、「忠実な良い僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ」と言って、神の国に迎え入れてくださる。これ以上の喜びは他にない。
説教「金持ちの青年の行方」
聖書朗読:マタイ福音書19章16〜26節
説教者 : 小林眞先生(遠州教会牧師)
ある青年がいた。彼は、地位にも財産にも恵まれ、人生に何一つ不自由していなかった。しかし、彼はそんな生活にも限界を覚えていく中で、永遠という事柄に関心を持った。そして、永遠との関わりを持つためにはどうすればよいかを主イエスに尋ねた。
主は彼に、「命を得たいのなら、掟(十戒)を守りなさい」と答えられた。すると、彼は、「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」と言った。彼は、自分の生活に自信があった。そして、自分の行いによって、永遠の命に至る道、すなわち、神の救いを得ることが出来ると思っていたのだ。当時、長寿や財産は、神の祝福のしるしと考えられていたので、財産家の彼は、既に永遠の命を約束された人物と見なされ、人々の羨望の的だった。
だが、そんな生活をしながら、彼には100%救われるという確信がなく、不安を抱いていた。だから、彼は主のもとを訪ねたのだ。そんな青年に主は、財産を捨てなさいと言われた。それを聞いた彼は、悲しみながら立ち去っていく。どうして彼は捨てられなかったのか。彼が地上の財産にこだわり続けたのは、それこそが永遠の命の担保と考えたからだ。そして、彼にとっての財産とは、自分自身の業や徳に他ならない。
つまり、彼は本当の意味で掟を守ってはいなかったということになる。たとえば、「殺すな」という戒めは、人を殺していないから守ったと言えるだろうか。消極的な面ではそうかも知れない。だが、この戒めを積極的に捉えるなら、それは人を「生かす」ことによって初めて守られたことになる。自分が救いに与り、永遠の命を約束されているなら、その命を他人にも与えようとしているか。それが問われる。青年が「わたしは戒めを守っている」と言う時、それは消極的な意味でだ。この守り方は、ただ自分の誉れ、自分の満足を増やすような守り方に過ぎない。
彼は、自分は救われているというところで止まっていた。主は、そんな彼に、自分の満足を捨てなさいと告げられたのだ。しかし、彼は自分のためだけに生きる、すなわち、自分が「主」になる生き方を捨てられなかった。
まもなくアドベントを迎える。この四週間は何のためにあるのか。それは、自分中心の生き方を捨て、自分ではなくキリストこそ主であると告白する準備をするためだ。我々は、それが出来て初めて主の御降誕を祝うことが出来るようになる。クリスマスは、自分が「主」ではないことを心から喜んで告白する時だ。しかし、自分中心の我々にそのような喜び方はなかなか出来ない。だからこそ、アドベントが必要なのだ。
「それは人間に出来ることではないが、神は何でも出来る」(26節)。これは、神は救いのためならどんなことでもなさる、という意味の言葉だ。人間は、自分で救いの条件を作ることなど出来ない。それが出来るのは神のみであり、そのために遣わされたのが神の御一人子イエス・キリストだ。
人間は、自分自身の業によって神を喜ばせ、満足させることなど出来ない。もし、我々がそんなことを目指しているとしたら、それは明らかな間違いだ。90点は合格だが、50点は失格などと信仰に点数を付けるような人間的見方は、神から見たら全く無意味だ。
そもそも、人間には100点満点を取ることなど出来ない。だからこそ、この世に神の御子が遣わされ、すべての人間のために十字架にかかってくださったのだ。永遠の命の確かさは、主の十字架によって、既に見えないところで保証されている。そして、人間の力に頼る生き方が消え去ったところに、神の力が顕わになるのだ。
説教「人はこうして生きる」
聖書朗読:創世記2章4b〜9節、15〜25節
説教者 : 北川善也牧師
今日与えられた聖書には、神によって創造された人間の本来あるべき姿が示されている。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(7節)。土の塵で造られたという表現には、人間の持つ、海辺の砂で作られた城のようにもろいイメージが如実に示されている。
しかし、そんな存在が神の息によって初めて命の脈を打ち、生き生きした存在として活動し始める。吹けば飛ぶような土の器が、ただ神の息によってのみ支えられ、生きることを赦されている。これが聖書の示す人間観だ。
このような人間のもろさ、はかなさは何を表しているのか。人間は、神によって生かされているという事実を認めようとせず、すべての主導権が自分にあるかのようにして生きようとする。そんな生き方こそ、人間の弱さの表れであり、罪の根源に他ならない。
人間が自己中心的に生きようとする時にこそ、人間の弱さは最も色濃く表れる。我々が、本当に強くなるためには、それと正反対の生き方を選ばねばならない。それは、創造主である神を絶えず見上げ、このお方に信頼し、すべてを委ねて生きる生き方だ。そうして、初めて人間は土の器から神の器へと変えていただくことが出来る。
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(1:27)。神が、人間を御自分に似たものとして造られたということは、人間が本来神と対話をする存在であることを求められているということであり、神はそのような存在を、いついかなる時でも徹底的に愛し抜いてくださるのだ。
その愛の表れとして、神は人間に助け手を与えてくださった。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(18節)。ここで、「彼に合う」と訳されているのは、「向かい合う」という意味の原語だ。自分と真正面から向き合い、共に悲しみ、共に喜び、苦しみさえも共にして、祈りによってつながっている、そんな助け手が神によって与えられる。
「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(25節)。裸というのは、人間の最も無防備な姿だ。そんな状態でも彼らは何も感じなかったという。これは、すべてをさらしても平気なほど相手を信頼している状態を示している。つまり、お互いが相手に良い部分だけでなく、見せたくない部分さえも見せ、それでもなお相手を受け入れていくという生き方だ。これは、夫婦関係だけを指し示しているものではない。教会の交わりにおいて与えられている人間関係もこういうものだ。
しかし、人間は自己中心的な欲求を抑えられず、神から離れようとする。だから、人間は常に神との関係に破れを抱え、また人間関係においても失敗の連続である。創造主を忘れ、人間関係を揺るがし、孤立を深める我々がなすべきことは何か。我々が孤独である時、人間関係に破れを覚えている時、その時こそ神と向き合い、人間の本来あるべき姿にリセットされることを祈り求めねばならない。
繰り返すが、神は御自分の似姿として造られた人間に対して、いつでもその愛を最大限に示してくださる。神は、最も愛する御一人子キリストを我々のもとに遣わされた。その御子は、我々が神とつながり続けるため、自らの命を十字架に捧げてくださった。
神は、その愛ゆえに、土の塵から造られた人間に命の息を吹き入れてくださった。それと同じように、神は御子の十字架を通して我々を教会につなぎ、命の御言葉を注ぎ、聖霊で満たしてくださる。こうして、一人一人に与えられている命は、本来の輝きを回復し、神の栄光を現す者とされていく。