先週の説教 -バックナンバー-
09年11月のバックナンバーです。
09年11月のバックナンバーです。
説教「人を汚すもの」
聖書朗読:マルコ福音書7章1〜23節
説教者 : 北川善也牧師
ファリサイ派は、律法の専門家として、ユダヤ社会において大きな影響力を持ち、人々の模範であることを誇りにしていた。そんな彼らが、わざわざ遠く離れたところにいる主イエスの一行を訪ねたのは、最近衆目を集めている一行のつけいる隙を探ろうとしてのことだった。しかし、そのチャンスは、意外にも早く訪れた。
当時のユダヤでは、食前に手を清めることが、「昔の人の言い伝え」によって定められていた。彼らが食前に手を洗うのは、衛生的な目的ではなく、宗教的な意味においてだった。彼らは、不浄とされているものや異邦人との接触による汚れを落とすため、必ず食前に手を清めた。彼らは、手に残った汚れがそのまま食物と一緒に体内に取り込まれると考えたのだ。
しかし、主の弟子たちの中のある者は、手を洗わぬまま食事をし始めた。ファリサイ派の人々は、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)と、ここぞとばかりに責め立てた。これに対して主は、「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ」(6節a)と、逆に諫められた。
彼らが、「杯、鉢、銅の器や寝台を洗う」(4節)理由は、汚れが器などを介してあらゆるものに伝染すると考えたからだ。人間の定めた汚れが伝染することなどあり得ないのに、彼らは外から持ち込まれた汚れが、食器だけでなく寝具まで汚染すると考えた。律法主義は、行き着くところまで行くと、このように全く意味のわからないものに成り果ててしまう。
自分たちが定めた掟に徹底的にこだわり、自らの正しさを少しも疑おうとしない人々に向かい、主はイザヤの言葉を引用して、次のように言われた。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている」(6節b)。 ここには、一見信仰深いようで、実際には神を無視し、自分の正しさを主張する身勝手な人間の姿が示されている。彼らにとって、何より大切だったのは、自力で律法を守ることであり、神の御言葉に耳を傾けることではなかった。
ところで、この出来事はどこで起きたか。主の一行がこの時活動していたのは、ガリラヤ湖畔のゲネサレトだった。この辺りは、別名「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、律法を知らずに生きる異邦人が住み着いていた。そんな地にあって、主は福音を宣べ伝えながら、罪人と食卓を共にし、重い皮膚病の人々に直接触れて癒された。神の御子にとって、神が創造されたものに汚れた存在など一つもない。主は、人間による区別を突き抜けた神の領域を生きておられるのだ。
ファリサイ派にとって、律法や「昔の人の言い伝え」は、それを守ることによって初めて神との関係に入れられる、誰もが越えねばならない垣根のようなものだった。だが、それは同時にユダヤ人と異邦人を隔てる垣根でもあった。主は、このような人間が定めた垣根は、神の掟の前にあって全く無意味であると告げられたのだ。
そして、主は自分の外側ではなく、内側に目を向けるよう強調された。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(15節)。罪の汚れとは、我々の内側深くに巣くっているものに他ならない。
説教「信仰を継ぐ者」
聖書朗読:創世記15章1〜6節
説教者 : 北川善也牧師
「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である」(1節)。いろんなことで思い悩んでいたアブラムに、神さまは言われました。
神さまが盾になってくださるということは、たとえどんなものが飛んできても、全部はじき飛ばして、決して当たらないように守ってくださるということです。だから、この言葉は、「もう何も恐がらなくてよい、あなたのことはどんな時でも必ず守る」という神さまの最高の祝福だったのです。では、なぜ神さまはこんな言葉をアブラムに言われたのでしょうか。
聖書には、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という言い方があります。これは、イスラエルの人たちが大昔の先祖であるアブラハムから始まった信仰を、何千年にもわたって大切に守り続けてきたことをみんなに思い出させるための言葉です。
ここに最初に名前が出てくることからもわかるように、アブラハムは「信仰の父」、「祝福の始め」と呼ばれ、神さまを信じる信仰の先祖とされています。こんなすごい人はわたしたちとは全然違う、特別な人だと思ってしまいます。
実際のアブラハムは、どんな人だったでしょうか。彼は、結婚していましたが、子どもが与えられず悩んでいました。また、リーダーとして、大勢の人々を安心して住める場所に導く旅をしていましたが、なかなかそういう場所を見つけられずに悩んでいました。
そんなある日、アブラハムは、神さまから「あなたの子孫を増やし、すばらしい土地を与えよう」という約束を与えられました。その時、彼はその言葉を喜んで受けとめるどころか、「あなたはわたしに何もくださらないではありませんか」と口答えをしてしまったのです。アブラハムは、決して特別なすごい力を持った人ではなく、自分の願いが叶わないとすぐにかんしゃくを起こし、文句を言ってしまうような人でした。
そんなアブラハムに、神さまはどうされたでしょうか。神さまは、彼に「外へ出て夜の空を見上げてみなさい」と呼びかけられました。空には、数え切れないほど多くの星が輝いていました。そして、神さまは、「わたしは、あなたの子孫をこの空の星のように増やそう」と言われたのです。
その時、アブラハムの心は大きく動きました。夜空に輝く星を見て、神さまが何もないところからすべてを造られ、このわたしも神さまによって造られたということに気づかされたのです。そして、今は与えられていないものだって、神さまは必ず与えてくださると信じることが出来るようになりました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)。
すべてのものを造られた神さまが約束されたことは必ず実現されると信じるのが「信仰」です。何よりもすばらしいのは、わたしたちががんばるからそのような信仰を与えられるのではなく、神さまがわたしたちを捕え、「わたしのそばにいなさい。わたしから離れてはならない」と言ってくださることによって、一人一人に信仰が与えられるということです。
神さまが、そのような信仰を与えてくださるのは、わたしたちのことを愛しておられるからに他なりません。そして、その神さまの愛とは、御自分の一人子であるイエスさまをこの世に遣わし、十字架にかけておしまいになるほど深く大きな愛なのです。
もうすぐクリスマスがやって来ます。このクリスマスは、神さまがどれほど強くわたしたちのことを愛しておられるかを示すためにイエスさまを送ってくださった出来事です。だから、クリスマスは、イエスさまの十字架と深くつながっているのです。神さまの愛の大きさを心に刻み、感謝をもってこの時を迎えたいと思います。
説教「終末のしるし」
聖書朗読:マルコ福音書13章1〜13節
説教者 : 北川善也牧師
主イエスが、エルサレム神殿の境内から立ち去ろうとした時、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(1節)と声を上げた。エルサレムの中心にそびえ立つ巨大な神殿は、別名「ヘロデの神殿」と呼ばれていた。
ローマ帝国のヘロデ大王の下、紀元前20年頃から神殿の建設は始められたが、彼一代では完成せず、80年以上の歳月を費やしてようやく彼の曾孫、ヘロデ・アグリッパ?U世の時に完成した。ローマ帝国によって造られた荘厳な神殿を、属国民であるユダヤの人々は誇りとしていた。しかし、この屈折した状況が示すように、その内側では深刻な危機が起こっていた。
以前、主が神殿の境内で商売していた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返される出来事があった。その時、主はこう言われた。「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである』。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」(11:17)。
巡礼者が捧げものの鳩を神殿外で買ってきた場合、門を通る時に検査を受ける必要があった。すると必ずと言ってよいほど欠点を指摘され、結局は神殿内の店で買い直す羽目になった。そこでは、神殿外で2羽100円の鳩が、20倍の2000円で売られており、そのような店は、何と捧げものを検査する者によって経営されていたのだ。神殿が「強盗の巣」になっているという主の指摘は図星だった。エルサレム神殿は、このようにして既に内側から崩壊し始めていた。
だから、弟子が神殿を讃えた時、主は「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(2節)と言われた。また、オリーブ山の上から神殿を眺めつつ、「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」(4節)と弟子たちが尋ねても、主はお答えにならなかった。それは既に始まっていたからだ。
代わりに告げられたのは、「キリストの名をかたる偽者の横行」、「戦争に次ぐ戦争」、「地震や飢饉などの苦難」の出来事だった。これらは、当時のユダヤの状況であるだけでなく、現代の世界でも起こり続けている現実だ。主は、「これらは産みの苦しみの始まりである」と言われた。産みの苦しみとは、新しい生命の誕生に欠かせない苦難のこと。つまり、このような理不尽としか思えないような苦難を通して新しい生命がもたらされるというのだ。主が言われる世の終わりとは、むしろ「新しい始まり」の出来事に他ならない。
我々が注目すべきなのは、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」(10節)という御言葉だ。内側から崩壊しつつある世界の現実に直面して、我々がなすべきことは、ただ黙って耐え忍ぶことではない。我々は、この世が福音で包まれ、厳しい現実が喜ばしい知らせによって圧倒される「新しい始まり」のために召されている。我々の世界には、厳しい現実が次々押し寄せてくる。しかし、この荒波は福音によって静められ、確実に新しい世界が始められつつあるのだ。
主は、「御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ24:14)と言われた。福音があまねく宣べ伝えられることによってすべての人々が救われるというのが、神の御心によって定められた御計画だ。
この御計画の完成は、主がこの世に来られたことにより、確実に近づいている。我々の現実が、神の御計画へと移し替えられていく。そんなダイナミックな福音の働きを目の前で見させていただく幸いに共に与り続けたい。
説教「エッサイの末息子」
聖書朗読:サムエル記上16章1〜13節
説教者 : 北川善也牧師
サムエルが神の命を受け、ベツレヘムに住むエッサイを訪ねたのは、BC1000年頃のことと推定される。それは、言うまでもなくキリスト降誕より千年以上前のことだ。だが、我々はサムエルの遣わされた地とそこでなされた業とが、それから千年後に成し遂げられる、神の重大な御計画を指し示していることを確かに見出す。
ユダの地ベツレヘムは、エルサレムの南方8キロに位置する小高い丘の上の、何の特徴もない小さな田舎町に過ぎず、ここで神の御計画が成し遂げられるとは誰も想像しないようなところだった。
さて、イスラエルの宗教的指導者サムエルは、神の御言葉を受け、イスラエルの王としてサウルを任命し、彼に油を注いだ。こうして、イスラエルの王制は始められたが、サウルは御言葉に従わなかったため、程なく退位させられる。
サウルを退ける時も、即位させる時同様、サムエルがそのことを本人に告げた。彼は、自らが任命したサウルに退位を告げることに大きな苦痛を覚えていたが、神はそんな彼に追い打ちをかけるように、サウルの王位継承者のところへ向かうよう告げられた。
サムエルが、ベツレヘムの町に入ろうとすると、出迎えた長老は不安そうに、「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」(4節)と尋ねた。長老は、田舎町ベツレヘムに、高名なサムエルがやって来たことに、どんな目的があるのかと訝ったのだ。
しかし、サムエルは表立ってその目的を告げることが出来なかった。彼の王位継承者捜しは難航した。神は、エッサイの息子の中に王位に就く者がいると告げられたが、そこには七人の息子たちがいた。そんな中で、彼は長男エリアブに目をつけた。エリアブは、堂々とした体格で、あのいかにも王者らしいサウルを想起させたので、これこそ神が選ばれた人物だと早合点してしまうのだ。
しかし、「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(7節)と神は言われた。その後、他の息子たちとも次々面会するが、その誰にも神の決定は下らない。そこで、サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか」(11節)。エッサイは、まさか幼い末息子は対象にならないだろうと踏んで、その場に呼んでいなかった。
神は、そこに居合わせなかった少年ダビデを選ばれた。ここには、神と人間の価値観が、根本的に異なることが示されている。人は目によって見るが、神は御心によってご覧になる。そして、神の御心は、憐れみに満ち溢れている。神は、末息子で宴席から漏れてしまうような者を捜し求め、そこにこそ憐れみを注がれるのだ。
やがてダビデは、イスラエルの最も偉大な王として名を残すだけでなく、その家系から救い主メシアが誕生するという、人間の謀をはるかに超えた栄誉にさえ与る。それは、サムエルによって油を注がれた「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」(13節)からに他ならない。ダビデは、神の選びを受けた時から、聖霊を豊かに受け、神の器として立てられていく。神は、人間をその能力や功績ではなく、ただ御自分の憐れみゆえに選び出し、御自分のものとしてくださるのだ。
そのような神の御業が最も明確に現れたのは、ベツレヘムの馬小屋という、最も貧しい場所において成し遂げられた御計画によってだ。このようにして、この世に来られたキリストにより、すべての人間に真の救いがもたらされた。
キリストは、弱く小さな土の器を、神の器としてくださるため、身を低くして来られた。その喜びを覚えるクリスマスに向け、共に心静かにこの時節を歩みたい。
説教「だから、目を覚ましていなさい」
聖書朗読:イザヤ書51章4〜11節
説教者 : 北川善也牧師
洛北教会では、主日礼拝毎に信仰告白をし続けている。我々は、なぜこのことを続けるのか。信仰の事柄を口で言い表すことによって、我々の主なる神がいかなるお方であるかが明確になり、神の御姿が明確にされればされるほど、我々の信仰は固くされていく。
「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る」(4節)。ここで「教え」と訳されているのは、「律法」とも訳せる言葉だ。律法と聞くと、人間を縛りつける掟のようなイメージを持つが、ここで言われている教えはそんなものではなく、信じるすべての者に、普遍的に与えられる「救い」のことだ。
そして、その救いの中身とは、我々が信仰告白によって言い表している事柄に他ならない。信仰告白の言葉は、聖書に基づき、神によって与えられたものであり、この言葉の中にこそ決して変わることのない救いが示されている。
「わたしは瞬く間に わたしの裁きをすべての人の光として輝かす。わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ わたしの腕は諸国の民を裁く。島々はわたしに望みをおき わたしの腕を待ち望む」(4節b〜5節)。ここには、神による救いの約束が、今やイスラエルだけでなく、すべての人々にもたらされているという恵みに満ちた告知がなされている。
パウロは次のように告げている。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」(使徒17:26〜27)。
神は、すべての人々に御自分の救いを示し、そこへ向かう道をも備えてくださった。その救いの道こそ、御子キリストに他ならない。御子は、十字架という、この世で最も残酷な死に方を自ら選び、そこへ向かって進まれた。それは、いったいなぜだったか。
我々は、神の似姿として形造られ、神の息によって命を吹き込まれた。一方、我々の現実は、昨日も今日も変わりなく、諍いの絶え間がない。人間同士が傷つけ合うことで、実は神御自身を傷つけているのだ。これこそ人間の罪に他ならない。我々は、本当なら最後までこの罪を償い続けねばならない存在だが、この罪を、御子がたった一人で担い、すべての人間を罪から解放してくださった。
罪からの解放という真の救いに与るため、我々は罪を悔い改め、洗礼を受けて、神のものとされねばならない。そして、その信仰を守り続けるためには、礼拝の場で言い表す信仰告白の言葉を自らの心に刻みつけることが欠かせない。こうして信仰を守り続ける者を、神は必ず顧みてくださる。
神によって罪赦され、永遠の命を受けている我々が、この世においてなすべきことは、真の救いの源であるキリストの福音を宣べ伝えること以外にない。
今日からクリスマスを待ち望むアドベントに入る。クリスマスは、言うまでもなく、救い主キリストがお生まれになったことを喜び祝う時だが、今やこの世のすべての人々に知らされているこの時は、伝道のため豊かに用いるよう神が備えてくださった時でもある。
伝道とは、人間の業ではない。神による救いの完成をはるかに仰ぎ見る者たちが、その一端を担わせていただける神の働きに他ならない。だからこそ、自ら伝道の御業に触れ、信仰を与えられた者たちが伝道の御業に取り組ませていただけるのだ。真の救いの喜びを知る者として、神の御計画の一端を担うことの出来る幸いを豊かに味わいつつ、共に歩みたい。