日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

09年12月のバックナンバーです。

2009年12月6日 教会創立記念礼拝(待降節第2主日)

説教「神への立ち帰り」
聖書朗読:エレミヤ書36章1〜10節
説教者 : 北川善也牧師

 我々は、野に咲く花を見るようなことからも大きな喜びを得ることが出来る。しかし、日常生活の中に溢れるストレスが、そのようなゆとりを我々から奪い去る。

 こんなストレスを積み重ねる一方の生活を続けていれば、我々は希望を失い、暗闇をさまよい歩くようになる。そして、そのような歩みの行き着く先は、これ以上先に進めないデッド・エンド、すなわち死という終着点だ。我々に必要なのは、死を突破する何よりも確かな救いを見出し、そこに身を委ねることに他ならない。

 我々を根本的に、そして永続的に癒し慰められるのは神以外におられない。なぜなら、我々は神によって形づくられ、神の息によって命を吹き込まれた存在だからだ。だが、人間は弱いから、自分の力で存在を確認出来ない神を信頼し続けることが出来ない。

 そんな我々に、神は御姿を示す確かな道を用意してくださった。神の御言葉によって、我々は神が確かにおられ、共に歩んでいてくださるという確信を与えられる。こうして、我々は真の癒しと慰めに与ることが出来るのだ。

 エレミヤは、20歳にもならぬ頃、突然神によって召され、神の御言葉を告げる働きにつくよう命じられた。その時、神は彼にこう言われた。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた」(1:5)。神は、彼自身の自覚とは無関係に、はるか先から彼を選んでおられた。彼は恐れおののきつつ、こう答えるしかなかった。「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」(1:6)。この時、彼は謙遜ではなく、本当に青二才の自分がそんな重大な役目を担えるはずがないと逃げ出したかったのだ。ところが、神は続けてこう言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」(1:7-8)。神は、エレミヤを、彼の能力によってではなく、神の御言葉によって立ち上がらせた。

 こうして、エレミヤは「イスラエルの立ち帰り」を告げ始めた。「立ち帰り」(36:3)の元の言葉には、「180度の方向転換」という意味がある。神に背を向け、ひたすら罪に向かって突き進むイスラエルに対し、神は立ち止まり、向き直るよう語りかけられる。

 しかし、このように重大な神の御言葉を告げ続けねばならない時、エレミヤは神殿に入ることを禁じられ、大勢の人々に御言葉を伝えられなくなってしまった。そこで彼は、バルクに自分が語る神の御言葉を巻物に記させ、それを持って神殿に行き、人々の前で読み聞かせるよう頼んだのだ。

 注目すべき点は、預言者の口を通してではなく、巻物に記された文字を朗読するという仕方で神の御言葉が告げられ始めたことだ。しかし、そのようにして御言葉に触れた者たちは、そこに立ち現れた「神の御言葉」に恐れおののく。

 こうして預言者の時代は終わり、記された神の御言葉が我々に直接語りかける時代が到来した。神の御言葉は、すべての人間を救うと決断された神の確固たる御意志ゆえに聖書となり、聖霊の働きによって絶えることなく守り続けられてきた。そして、歴史を越え、人間の謀をはるかに超えて、全世界に向けて宣べ伝えられていく。

 我々は、神の御言葉ゆえに、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされず(?Uコリ4:8)、立ち続けることが出来るのだ。我々を生かし、支え、導くのは、神の御言葉に他ならない。

2009年12月13日 待降節第3主日礼拝

説教「神の言葉はとこしえに立つ」
聖書朗読:イザヤ書40章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 我々は、救い主を待望しているだろうか。人間は、身勝手さゆえ、簡単に神に背を向け、神から離れようとする。イスラエルの歴史は、まさにそのような歩みだった。

 しかし、救い主は、我々がどうあろうと必ずやって来られる。その時は、決して偶然でも、人間の都合によってでもなく、神の御計画に定められた出来事としてやって来る。だからこそ、神が一人一人に最もふさわしい時を定め、救い主との出会いを与えてくださると信じることが出来るのだ。

 我々は、天地創造以来、神が人間を救済するという御意志を持ち続けてこられたことを旧約聖書を通して示されている。イザヤ書において、神は「慰めよ、わたしの民を慰めよ」(1節)と告げておられる。これは、イスラエルの背きの罪をすべて赦し、真の救いを約束するという、神の絶大な慰めだ。彼らは、これほど大きな救いに与るため、神に対して何をしただろうか。いや、彼らは神に評価されるようなことは何一つしていない。彼らは、未だに神への背きの罪を悔い改めず、神の裁きとしてもたらされたバビロン帝国によるエルサレムの破壊と、民全体が捕囚として連れ去られるという悲惨な状況の只中に置かれていた。つまり、この慰めは、彼らにとって現実のものではなかったのだ。

 しかし、神はそんなイスラエルに対してこう言われた。「彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と」(2節)。神が彼らにこのような試練が与えられたのは、無論彼らの罪ゆえだが、その試練を取り除かれるのも神御自身に他ならない。神は、人間を裁くことではなく、救いに導くことを目指しておられるのだ。

 だから、すぐに救いの幻が示される。「主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(3-4節)。荒涼とした荒れ野のように、虚しさしか存在しないところに慰め主が訪れ、すさみ切った罪の谷底に、その罪を消し去るお方がやって来られる。これは、まさに人間の現実に神の救いがもたらされるという大いなる恵みの御言葉だ。

 「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ」(6節)と言われるように、人間はもろく壊れやすい存在だ。しかし、このような土の器に過ぎない人間が、神によって新しい存在へと変えられていくというのだ。

 「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(8節)。我々が、壊れやすい弱い存在であることに変わりはない。しかし、その我々の現実に神が関わり、我々の歩みを神の御計画へと移し替えてくださる。とこしえに立つ神の御言葉によって、土の器に命の水が豊かに注がれ、みずみずしくしなやかな神の器として生かされていくのだ。

 「高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ」(9節)。こうして、今や神のグッド・ニュースである福音がすべての人々に向けて告げられている。

 「御子は我ら罪人の救いのために人となり、十字架にかかり、ひとたび己を全きいけにえとして神に捧げ、我らの贖いとなりたまえり」。信仰告白に言い表された救いの御業は、神の御子、イエス・キリストによって成し遂げられた。このお方こそ、我々の命の源たる救い主に他ならない。真の救いを告げる福音が我々にもたらされたクリスマスを共に待ち望み、大いなる喜びを分かち合いたい。

2009年12月20日 降誕祭(クリスマス)礼拝

説教「恵みの良い知らせ」
聖書朗読:イザヤ書52章7〜15節、ヨハネ福音書1章1〜14節
説教者 : 北川善也牧師

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)。主イエスは、ベツレヘムの貧しい馬小屋でお生まれになった。主は、誰も行きたくない最も低いところで生まれ、貧しさの只中から歩みを始められた。ここに、神の愛が余すところなく示されている。主は、誰一人見捨てることなく、すべての人々を救いへと導くために来てくださった。

 主は、どのようにしてすべての人々の救済を実現してくださっただろうか。「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる」(イザヤ52:13)。旧約聖書は、主の十字架の出来事を、その御降誕から遡ること500年以上前、既に指し示していた。そして、そこには真の救い主が高貴な姿ではなく、貧しく低い姿で来られることも予告されていた。

 何の罪もない清い神の御子として、馬小屋の飼い葉桶の中で生まれたお方が、十字架という最も重い罪人の受けるべき刑罰を受けて死んでいかれるのだ。この出来事は、深く大きな罪の問題を抱えたすべての人々を救うという神の約束が成し遂げられるためになくてはならないものだった。

 人間の罪とは何か。人間は、いつでも高いところを目指し、他人より少しでも偉くなりたいと願う。これは、まだ罪とは言えない段階だ。しかし、罪の問題の深刻さは、その近くにある。人間は、自分の力で何でも出来、神さえも越えられると考え、容易に神から離れていく存在なのだ。

 神を神とも思わず、神に背いて歩もうとする人間を軌道修正し、神との正しい関係を回復させるために主は来られた。主は、その御業を高いところではなく、最も低いところで成し遂げられた。高みばかり目指す人間の代わりに、主御自身が低くなり、十字架にかかることによって、すべての人間を神とつながらせてくださった。

 自分の力で何でも出来るとうそぶく我々の人生は、決して明るいところを歩いている時ばかりではない。真っ暗闇に入り込み、どちらに向かって進めばよいのかわからなくなってしまうことが必ずある。そんな我々は、恐れを知らず、無謀にも海図もコンパスも持たずに大海原へとこぎ出した一艘の小舟のようだ。どちらを向いても足元を安定させる陸地は見えず、荒波の立つ海の真っ只中に置かれた時、人間は根底から自信を失い、生きる気力を無くしていく。

 しかし、こんな時、船乗りたちは、不動の北極星を見上げ、自分の居場所を割り出し、どちらに向かえばよいかを計算する。我々人間は、大海原の只中で進むべき方向を見失っているが、視線を一点に定めれば、そこには決して揺らぐことのない、何よりも確かな道しるべが備えられている。我々は、イエス・キリストに従うことにより、自分が今どこに立っており、どこに向かって進めばよいかを知ることが出来るようになる。

 主は、闇の中に輝く光として来てくださった。主は、皆が寝静まった真夜中、馬小屋の飼い葉桶の中でお生まれになった。この出来事を最初に知ったのは、孤独な寒い夜、野宿をしていた羊飼いたちだった。彼らは、まぶしい光に照らされて、主がお生まれになったという「恵みの良い知らせ」を聞いた。また、東方の博士たちが夜空を見上げていると、不思議に明るく光る星が「恵みの良い知らせ」を告げて輝いた。暗闇をさまよっていた人々が、何よりも確かな光に照らされて歩み出し、救い主との出会いを与えられていくのだ。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(ヨハネ1:14)。これこそ、すべての人々に与えられたクリスマスの恵みに他ならない。

2009年12月27日 降誕節第1主日礼拝

説教「救い主の生まれる場所」
聖書朗読:マタイ福音書2章1〜12節
説教者 : 北川善也牧師

 ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス・キリストのもとを最初に訪ねたのは、「東の博士たち」だった。当時、ユダヤ東方の異邦の地において、占星術の学者はエリートであり、インテリだった。そして、「ユダヤ人の王としてお生まれになる方」を待望するユダヤ人たちがローマ帝国の発展と共に各地へ広がっていたので、異邦人の学者たちもそのお方の存在を知り、探し求めていたのだ。このように、異邦人さえもが「ユダヤ人の王」を訪ねてきたことは、この時、実際の王座に就いていたヘロデにとって大変な脅威となった。彼は本来、王座に就くにはふさわしい人間ではなかったが、ローマ皇帝に取り入ることによって、王としての称号を手に入れていた。だから、もし「本物」が現れたら、彼は居場所を失うことになるかも知れないのだ。

 お生まれになった主イエスを、この先待ち受けているのは、十字架の出来事であるが、主は十字架につけられる直前、ローマ総督ピラトから「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問された時、「わたしの国は、この世には属していない」と答えられた。そして、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネ18:37)と宣言された。

 ヘロデは、このようなお方をこの世の価値観でしか捉えることが出来なかった。そのため、平然と「メシア殺し」を実行に移そうとするのだ。そして、彼が呼び集めた祭司長や律法学者たちも、ヘロデの悪だくみを知りながら、メシアがどこで生まれることになっているか旧約聖書を調べて彼に荷担する。彼らは、主イエスが「メシア」であると捉えることまでは出来たのに、なぜ平気で殺すことを考えるのだろうか。当時、ユダヤの民衆に対して多大な影響を与える特権を手中に収めていた彼らは、主イエスではなく、ヘロデをこの世の王として君臨させ続けることによって現在の自分たちの立場を守り続けようとしたのだ。

 一方、東方からやって来た占星術の学者たちはどうだったか。彼らは、メシアについての知識はわずかしか持ち合わせていなかったが、王や祭司長、律法学者たちよりもはるかに強くメシアを待望していた。異邦人である彼らが、最も大切な宝物をメシアに捧げるために携えていたことからも、その思いはひしひしと伝わってくる。

 そんな彼らのひたむきさが、誰にでも等しく見えるはずの夜空の無数の星の中に、ひときわ明るく輝く希望の星を見出させたのだ。そして、彼らはその星を見失わず、その星に導かれて、主イエスを礼拝する者として歩んでいく。

 我々を取り巻く環境は様々だが、皆それぞれ目の前には厳しい現実が立ちはだかっている。そんな状況の中にあって、我々はこの世の価値観に囚われ、知らず知らずのうちにその枠の中でがんじがらめにされてしまっている。我々は、このような状態のままでいたら、神から与えられている命を輝かすことが出来ない。我々の命は、希望の源である主イエスを見出し、このお方を全身全霊を込めて礼拝するために与えられている。

 だからこそ、主の栄光はすべての人々の上で等しく輝いているのだ。それを求めていない時には気づくことが出来ないかもしれないが、意識的にせよ無意識的にせよ、我々の命を本来あるべき姿で輝かせることを望んでいる人は、夜空にひときわ明るく輝く希望の星を示され、その星に導かれて、命の源であり、真の救い主であるお方との出会いを与えられるのだ。

 主は、暗闇の中で救いを求めている人に、一筋の光を示してくださる。この光の方に向かって進み、光の中に入れられることを望む者には、イエス・キリストによる真の救いが用意されている。

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