日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

10年1月のバックナンバーです。

2010年1月3日 新年礼拝(降誕節第2主日)

説教:「心を変えて新たにせよ」
聖書朗読:ローマ書12章1〜8節
説教者 : 北川善也牧師

 本年の教会標語「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマ12:1b)は、本来その後に続く「これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と繋げて読まれねばならない。

 我々にとって「礼拝」とは何か。その答えをスッと答えられなくとも心配する必要はない。礼拝について頭で知っているより、それを守ることを体で知っていることの方がはるかに大切だからだ。

 というのも、我々が礼拝に連なっているのは自分の意志によってではないからだ。我々を礼拝の場へと赴かせるのは、我々の意志ではなく、聖霊の働きだ。信仰告白にあるように、「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信ずる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう」のであり、「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集い」なのだ。

 神の一方的な恵みとして、我々に信仰が与えられ、神の子とされる。我々の行為の見返りとしてこのような恵みが与えられるのではない。だから、我々は神に対して最大級の感謝をもって応答するために、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」るのだ。自分をいけにえとして献げるとは、自分のすべてを献げること、命を献げることだ。

 では、どうやって神に命を献げるのか。御子イエス・キリストは、すべての人間を救うため、十字架にかかることによって御自分の命をこの世に献げてくださった。
 主は、ある律法学者から最も重要な掟は何かと問われた時、次のように答えられた。「第一の掟は、これである。『…心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:28-34)。

 つまり、大切なのは、自分のためではなく、自分以外のために生きるということなのだ。そのような生き方を通して、我々は神のために生きる存在とされていく。

 神によって形づくられ、命を与えられた我々が、徹底的に神の器となり、すべてを献げ尽くすことを求められている。我々は、自分のためでなく、隣人を生かすために生きることにより、神に喜ばれる存在となることが出来るのだ。

 多くの人々は、自分を生かすためだけに生きている。しかし、パウロは言う。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(2節)。

 「心を新たにする」とはどういう意味か。パウロは、他の手紙の中で次のように語っている。「…わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。…大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6:14-15)。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(IIコリント5:17)。

 「心を新たにする」とは、古い自分を捨て、新しく造りかえられるということだ。十字架の出来事によって、今や古い時代は終わりを告げ、新しい時代が到来している。そして、我々は主イエスによって完成された救いに与っている。だから、もう後ろのものを振り返らず、ひたすら主の道をまっすぐに見据えて歩めばよいのだ。

 我々は、洗礼によって新しい存在に造りかえられる。その時、聖霊の働きによって、我々の中に新しい命が注ぎ込まれる。このようにして新しくされた人間は、この世の限りある命において神を礼拝するのみならず、終わりの日に永遠の神の御国に迎えられ、神と対面しつつ礼拝する者とされる。

2010年1月10日 オール洛北礼拝(降誕節第3主日)

説教:「イエスさまの洗礼」
聖書朗読:マルコ福音書1章9〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 マルコ福音書の中で最初にイエスさまが出てくるのは、イエスさまが大きくなって洗礼を受けられる時です。わたしたちは、イエスさまがクリスマスに神さまの子どもとしてお生まれになったことを知っていますが、ここにはイエスさまがお生まれになった時のことが書かれていないので、まだイエスさまが神さまの子どもかどうかはわからないままです。

 けれども、イエスさまがヨハネから洗礼を受けた時、とても不思議なことが起こりました。イエスさまが洗礼を受けるとすぐ天から聖霊が降り、「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの声が聞こえたのです。こんなことが起こったのは、イエスさまが神さまの子どもで、いよいよイエスさまが大切な働きをなさる時が来たからでした。

 この世の人たちはみんな、神さまのことを大切に思わず、自分だけ良ければそれでいいと思っていました。そういう人たちに向かって、ヨハネは「あなたたちは、自分のことだけ考えるのではなく、神さまの方を向き、神さまに従って歩みなさい」と大声で叫びました。その声を聞いて、それまで神さまのことを大切にしていなかった人たちが、「神さま、ごめんなさい。これからは神さまに従って生きていきます」という気持ちになり、悔い改めのしるしとしてヨハネから洗礼を受けたのです。

 人間は、誰でも自分のことばかり大切にしようと考えます。周りにいる人たちのことよりも、自分のことを先に考えてしまいます。それだけでなく、わたしたちに命を与え、いつも数え切れないほど多くの恵みを与えてくださる、すべてのものを造られた神さまのことを忘れてしまいます。そういう人間が、ちゃんと神さまの方を向いて生きていくためには、洗礼を受けることが必要なのです。

 でも、神さまの子どもであるイエスさまが、神さまのことを忘れてしまうはずなどありません。それでは、どうしてイエスさまは洗礼を受けられたのでしょうか。

 聖書に書いてあるように、イエスさまが洗礼をお受けになるとすぐに天から聖霊が降り、神さまの声が聞こえてきました。こういうことが起こったのは、それまでヨハネという人間が授けていた洗礼が、イエスさまが受けられたことによって神さまが直接授けてくださるものに変わったというしるしでもありました。この時から、洗礼はイエスさまのお名前によって行われるようになりました。だから、洗礼が行われる時には、イエスさまの時と同じようにいつも聖霊が降り、神さまの御言葉が語られるようになったのです。誰でも洗礼を受ける時、神さまから「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言っていただき、神さまの子どもにしていただくことが出来るようになったのです。

 ついこの前のクリスマス礼拝の中で洗礼式が行われ、3人の人たちが洗礼・信仰告白をしました。この時、みんなが心から喜び、礼拝堂の中はとても熱くなりました。どうしてみんながそんなに喜び、熱くなったのかと言えば、誰かが洗礼を受けることで、教会には神さまの家族が新しく増えるからです。教会で洗礼を受けることによって、その人と神さまとの間には絶対に切れない関係が与えられます。それは、イエスさまが洗礼を受けられた時に、降ってきた聖霊と神さまの御言葉によって結ばれる何よりも強い関係です。イエスさまは、このようにして、誰もが神さまの子どもにしていただく方法を示してくださいました。

 みんなが神さまの家族になる日が早く来るようにお祈りしましょう。子どもも大人もみんなが、いつかイエスさまが受けられたのと同じ洗礼を受け、神さまと決して切れることのない関係を与えられることを心から願っています。

2010年1月17日 降誕節第4主日礼拝

説教:「時は満ち、神の国は近づいた」
聖書朗読:マルコ福音書1章14〜20節
説教者 : 北川善也牧師

 マルコ福音書は、「神の子イエス・キリストの福音の初め」によって幕を開ける。それは、次のようにして始められた。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(14-15節)。

 ガリラヤは、具体的な地名ではなく、パレスチナ北部、ガリラヤ湖西岸一帯を指す地域の名称だから、この時、主がどんな所を歩いていたかはイメージしにくい。ただ一つはっきりしているのは、そこが異邦人、すなわち真の神を知らぬ人々が暮らす土地だったことだ。それゆえ、彼らは真の光を知らず暗闇にとどまり、真の命を知らず死の陰にたたずんでいた。

 主は、誰かが来るのを待つのではなく、御自分の方から神を知らぬ人々の所に出向かれた。自ら罪を悔い改めない人々を探し求め、福音を告げられた。こうして、今や福音そのものであるお方が共にいてくださる時代が到来した。主が共におられるということは、そこが神の国であるということだ。

   

 しかし、ここで気をつけねばならないのは、主はあくまでも「神の国は近づいた」としか言っておられないことだ。我々は、「近づく」ものを「待つ」しかない存在だ。ある神学者は次のようにたとえた。「神の国を待ち望む我々は、岸壁で船の到着を待っている人に似ている。岸壁の端ギリギリに立ち、船を待っている。自分から船に近づけるわけではない。焦がれる思いで船を待つ。だからといって、船の進みを少しでも速くできるわけではない。我々の方からは1ミリたりとも近づくことは出来ない。船の方が、一方的にこちらに近づいてくるだけだ」。

 人間の行いとは全く関係なく、主はこの世に来てくださった。つまり、主による「神の国は近づいた」という宣言は、主の一方的な招きの言葉であり、「悔い改めよ」という命令は、喜んでその招きに応えよと呼びかける言葉なのだ。

 「我々が悔い改める」のではない。「悔い改め」と訳されるヘブライ語シューブには、「180度転回する」という意味がある。つまり、悔い改めとは、心の向きを変えて主に立ち帰ることだ。こんなことは、我々の力では到底なし得ない。

 主から唐突に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)と呼びかけられた漁師の兄弟たちは、「すぐに網を捨てて」、また「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して」従った。彼らは、自分の仕事のみならず、生活を中断させられた。彼らには、主をお迎えする準備など全く出来ていなかったのだ。しかし、主は人間が準備万端整えてお迎えするようなところに来られるのではない。ここに示されているのは、神からの一方的な呼びかけによって変えられていく人間の姿だ。

 旧約聖書・エレミヤ書には、次のように記されている。「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に わたしはあなたを聖別し 諸国民の預言者として立てた』」(1:4-5)。神は、一人の人間を、この世にまだ存在していない時から(!)、神の必然性をもって捕らえておられる。そうして、神がお決めになったことに人間は従うしかないのだ。漁師たちが、すべてを捨てて主に従ったのは、それが人間の思いを越えた神の必然だったからに他ならない。

 神の福音は、一人一人を巻き込み、根本的に変革していく底知れない力を持っている。我々は、主の呼びかけとして与えられる福音の御言葉にすぐさま応答し、今年の教会標語に掲げられた御言葉のように、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」つつ、主に従っていきたい。

2010年1月24日 降誕節第5主日礼拝

説教:「権威ある新しい教え」
聖書朗読:マルコ福音書1章21〜28節
説教者 : 北川善也牧師

 旧約聖書・創世記には、神が「光あれ」と言われると光が起こり、「水の間に大空があって、水と水とを分けよ」と言われるとその通りになって、神の御言葉そのものが力をもって働き、天地万物が創造された様子が記されている。

 一方、新約聖書・ヨハネ福音書は、主が神の御言葉としてこの世に来られたと告げる。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1:1-2)。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(1:14)。主御自身が、権威ある神の御言葉なのだ。

 主は、安息日にカファルナウムの会堂へ赴き、人々の前で旧約聖書を紐解いて神の教えを語られた。すると、それを聞いた人々は、その教えが律法学者のようではなく、「権威ある者」としての教えであることに大いに驚いた。

 律法学者には派閥グループがあり、彼らはそれぞれの派閥の伝統を重んじるあまり、自分たちの教えの根拠を聖書そのものよりも先輩たちの教えに置くようになっていた。そんな律法学者の教えは、救いとは逆の、人々を縛りつける手かせ足かせでしかなかった。

 これに対して、主の教えは、聖書が人間の救いを指し示す命の書物であることを明確に証ししていた。主が、聖書を開いて教えられると、そこには神の国のビジョンがはっきりと示されるのだ。

 そこに、「汚れた霊に取りつかれた男」がやって来た。彼は、オカルト映画の「悪魔憑き」のような状態というより、何が何でも絶対に神など信じないという頑なな心を持つ人だったのではないか。

 いずれにせよ、彼にとって主は天敵に他ならなかった。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」(24節)。彼は、主こそ神の御子であると直感的に感じ取り、その教えを決して受け入れまいとして、体を硬直させ、徹底的にあらがった。

 しかし、抵抗むなしく、主の御言葉によって彼の凝り固まっていた心は瞬時に解きほぐされ、従わざるを得ない状態にさせられた。主は、ガリラヤ湖畔で漁師たちの生活を一変させたように、汚れた霊に取りつかれた男の生活をも御言葉によって一変させられた。

 主は、御言葉をもってあらゆる人間を瞬時に捕らえ、癒しへと導かれる。主は、「人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)と言われたが、主が神の権威によって行われる癒しの御業は、神が天地創造の時に発揮されたのと同じエネルギーを持っている。主は、権威ある神の御言葉をもって我々に触れ、我々を御自分のものとしてくださる。そして、我々の目を本当に見るべき一点へと向けさせてくださる。

 主が、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という御言葉によって福音宣教を開始されると、多くの病人が癒され、多くの人々が悪霊から解放された。それは、主が来られることによって、この世において神の国が開始されたからだ。主のおられる所が神の国なのだ。そして、それこそが聖書の告げる「インマヌエル」(神は我々と共におられる)の出来事に他ならない。

 我々は、その救いの只中に置かれている。救いの源である神の御言葉に触れることによって主御自身と出会い、癒され、神の国そのものを体験することが赦されている。我々が、この世にありながら御言葉を通して神の国を示されるのは、最後まで信仰を貫き、神の国に用意されている食卓へ着くよう、神からの招きを受けているからだ。主の権威ある新しい教え、すなわち神の御言葉こそ我々に与えられている最高の恵みだ。

2010年1月31日 降誕節第6主日礼拝

説教:「聞く耳のある者は聞きなさい」
聖書朗読:マルコ福音書4章1〜9節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスが、神の国の福音を宣べ伝え、多くの病人や悪霊に取りつかれた人たちを癒すことによって、大勢の群衆が主に従うようになった。一方、律法学者たちにとって、主のこのような活動は人心を惑わすものとしか見えず、目障りで仕方なかった。主の福音伝道によって、人々は、主を神の御子と信じて従う者と主を受け入れないばかりかこの世から消し去ろうとする者とに二分されていった。

  そんな状況下で、主はおびただしい群衆を前にして、「よく聞きなさい」と叫ばれた。主は、決して人々を二分したままでよいなどとは思っておられず、すべての人々が悔い改めて神に立ち帰り、神の国に入れられることを心から願って、皆に呼びかけられるのだ。

 主は、生ける神の御言葉としてこの世に来られ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、神の国の到来を告知された。しかし、この福音の出来事は、この世の視点から見た場合には、小さくささやかな種にしか過ぎなかった。

 主は、他に並ぶもののない栄光に輝く神の御一人子でありながら、最も小さき存在としてこの世に来られた。ベツレヘムの馬小屋という、最も低く、最も目立たない場所でお生まれになった主の御生涯は、ひたすらいと小さき者たちと共なる歩みだった。

 主は、自ら苦難の道を選んで歩まれた。神の御子であるお方が、経験しなくてもよいはずの苦しみを経験し、かからなくてもよいはずの十字架にかかってくださることによって、すべての人間に真の救いの道が開かれた。

  主の十字架の出来事によって、我々は罪から解放され、自己中心的な生き方ではなく、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」として歩む、大いなる恵みと希望を与えられた。主は、そのような恵みと希望の出来事そのものである神の国の只中に我々を招くため、この世に来てくださったのだ。

 これこそ福音に他ならない。しかし、我々は主の御言葉に耳を傾けない限り、この福音を自分のものとすることができない。だからこそ、福音を受け入れる我々側の状態が問われることになる。

 主が語られたたとえ話の「種を蒔かれた土地」は、福音を与えられた我々の状態を示している。我々は、アスファルトで固められた土地のような心、荒れ地のような心、茨の張った土地のような心の持ち主であり、与えられた福音を正しく受けとめる力など持っていない。しかし、主はそのような土地が、実り豊かな良い土地に変えられてゆくと告げておられる。

 どんな土地にも、もともと種は存在しない。土地は、種を外から蒔かれることによって、初めて実りを与えられる。一方、種は種で自分だけで成長することはできない。種は、まず地面に落ち、土地の養分を吸収することによって芽生え、育って実を結ぶ。神の御言葉は、確かにそれ自体が実を結ぶ力を持っている。しかし、御言葉は、我々の応答がなければ、芽生え、育つことはないのだ。

 そもそも、このたとえ話に出てくる種を蒔く人は、実らぬ種があることなど想定していないかのように、あらゆる土地に種を蒔き続ける。主は、我々を良い土地と信じて、種を蒔いてくださる。たとえ荒れ地であっても、茨が張っていようとも、そこに必ず実が結ぶと信じて、種を蒔いてくださる。

 そして、主は福音の種を蒔かれたすべての人々が、神の国の完成する終わりの日に、大いなる収穫に与ることを約束してくださった。我々は、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた主の御声に耳を向け、主の十字架と復活によって建てられた神の国に入れられる日の幻を仰ぎ見つつ、与えられた福音の種を決して無駄にせず、着実に成長させてゆきたい。

バックナンバー