日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

10年2月のバックナンバーです。

2010年2月7日 降誕節第7主日礼拝

説教:「あなたの罪は赦される」
聖書朗読:マルコ福音書2章1〜12節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)という権威ある神の教えと共に、多くの病人をいやし、悪霊に取りつかれた人を解放する力強い働きを示され、その評判は瞬く間にガリラヤ地方一帯に広まった。そして、カファルナウムに戻られた主のもとには大勢の人々が押し寄せて来た。

 今やそこにいる多くの人々が、主の語られる御言葉に、これまで誰も語ったことのない神の権威を感じ取り、その御言葉を聞き続けたいと願った。だから、主の周りは、御言葉を少しでも近くで聞こうとする人々で立錐の余地もないほどになっていたのだ。

 そんなところに後からやって来た四人の男たちは、主に近づく術を失っていたが、彼らには何としても主に近づかねばならない理由があった。彼らの大切な友人が、不治の病を得て希望を失い、暗闇のどん底に沈んでいたからだ。

 彼らは祈り合い、友人のいやしが主によって成し遂げられることを確信した。そこで、彼らは友人を床に寝かせたまま担いできたのだ。しかし、まるで道路が土砂崩れによって寸断されたように、彼らの進む道はふさがれていた。

 もはや、彼らが目的の場所に赴くのは不可能としか見えなかった。しかし、それでも彼らはあきらめず、主に近づく術を祈り求めた。友人のため、心から主の御言葉を求めた彼らの祈りに答えて、神は全く新しい道を提示された。

 水平方向にしか移動することの出来ない人間に、垂直方向の道を示してくださる神が、イエス・キリストとの出会いへと導いてくださる。この世の価値観に縛られ、常識に捕らわれて動くことしか出来ない我々に、神は全く新しい上からの道を示された。この垂直次元の道によってのみ、我々は真の救い主と出会うことが出来る。

 四人の男たちは、屋根をはぎ、病める友を床に寝かせたまま、主の真上に吊り降ろした。こんな行為は、非常識でしかない。しかし、これこそが祈りによって彼らに示された道だった。だからこそ、彼らの行為は、主によって信仰の事柄として受けとめられたのだ。主は、我々の切なる祈りを聴き上げ、その祈りに必ず答えてくださる。

 しかし、そこには主を受け入れる人々がいる一方、拒む人々もいた。律法学者たちだ。当時の世の中で律法を適用する大きな力を持っていた彼らは、主が連れてこられた病人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われるのを聞いて、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(5-7節)と憤った。

 彼らは、天地万物を創造し、時空を超越して、すべてのものを統べ治めておられる神が、この世に来られ、生きて働かれるという全く新しい出来事を受け入れることが出来なかった。しかし、今や主の到来と同時に、確実に「時は満ち、神の国は近づいた」のだ。

 この出来事を換言すれば、「人の子が地上で罪を赦す権威を持って」(10節)来られたということだ。神の御心は、罪ゆえに死へと向かわざるを得ない人間を生かすことにある。主は、神の御子にしか出来ない仕方で、その御業を完全に成し遂げるために来られたのだ。

 病める友のため、主に近づこうとした四人の男たちは、神に祈り求めることによって、全く新しい主との出会いの道を与えられた。その垂直次元の道は、主の十字架の出来事によって完成された。

 我々は、その道を通ることによって、初めて真の救いに至ることが出来る。その道を通って、主と対面した者には完全な罪の赦しが与えられるのだ。主は、そのような神の絶対的な権威をもって、一人一人に決して尽きることのない大いなる恵みを与えてくださる。

2010年2月14日 降誕節第8主日礼拝

説教:「向こう岸に渡ろう」
聖書朗読:マルコ福音書4章35〜41節
説教者 : 北川善也牧師

 マルコ福音書を読み進める度に立ち止まり、見つめ直さなければならない御言葉がある。主イエスが、公生涯の歩みを始める際に語られた、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)という御言葉だ。

 罪に満ちたこの世にあって、主が来られたことにより、既に神の国は実現しつつある。だが、それはただ「近づいた」だけであって、我々はこの世で神の国の恵みの一端を先取りしているに過ぎない。

 以前あるテレビ番組にこんなコーナーがあった。一流シェフが最高級の食材を用いて料理を作るのだが、完成する前に用意された食材がいかに美味しいかをアピールするのだ。食材の小さな切れ端を一口食べた時の司会者の得も言われぬ満足げな表情を、ゲスト出演者たちが指をくわえて見つめる。そして、視聴者はいやが上にもこんな食材を使った料理がいかに美味しいかと想像を膨らませる。

 今、我々はこのように、終わりの日にその全貌を明らかにする神の国のすばらしさのほんの一端を味わっているに過ぎない。しかし、ほんの一端かも知れないが、それは確実に、やがて完成される神の国へとつながっているのだ。

 我々が生きている現実には、激しい嵐が吹き猛り、荒波が強く打ち寄せてくる。我々は、その荒波に翻弄され、進むべき方向を見失い、沈没の恐怖に怯えつつ生きている。だが、我々が決して忘れてならないのは、この世には既に主が来られ、我々をそんな状況から救い出すため、十字架にかかってくださったということだ。神の御子の命という最大の犠牲を払うことにより、神はすべての人間の救いの御業を完成してくださった。

 旧約聖書が告げているように、創造の当初から、神に背き、自分自身を神とするほどの身勝手さを持ち、隣人を傷つけながら生きてきたのが我々人間だ。そして、人間は、このような状態から自らを律して立ち直ることが出来ない。

 こんな自己中心的な人間が、神に立ち帰り、神に喜ばれる存在として生きるために、主は十字架にかかってくださった。その主が死から復活し、聖霊の働きによって我々と共にいて、「このわたしがあなたのために十字架にかかったのだから、安心して従ってきなさい」と招いてくださっている。

 主イエスが「向こう岸に渡ろう」と言い出されたのをきっかけとして、弟子たちは舟をこぎ出した。しかし、沖合までこぎ進むと、突然激しい風が吹き、大波が襲ってきたので、彼らは舟が転覆するのを恐れてパニック状態に陥った。

 この時、彼らは外の方にばかり目を奪われ、肝心なことを忘れていた。彼らの舟には主が共に乗っておられ、何よりも舟に乗って向こう岸に渡ろうと言い出したのが主御自身であったということを。主はすべてをご存知だった。だから、彼らは主に信頼し、すべてをお任せしていればよかったのだ。

 ところで、これは我々と主の間で現に起こっている出来事でもある。主は、我々と同じ舟に乗り、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけてくださっている。我々の舟、すなわち、教会は主の導きによって確実に神の国へと向かっている。

 しかしその一方で、我々の現実には激しい嵐が吹き、荒波が打ち寄せ、足元を絶えず脅かし続けている。弱い我々は、そのような現実ばかりに目を奪われ、つい神から心が離れそうになってしまう。

 だが、我々が乗り込んでいるのは、ノアの箱舟、どんな嵐でも決して沈没することのない箱舟だ。そして、何よりも重要なのは、この箱舟には主が共に乗ってくださっているということだ。だから、我々はこの箱舟に乗り続けている限り、必ず「向こう岸」にたどり着くことが出来る。主に信頼し、すべてを委ねて、神の国を目指す旅を共に進めていきたい。

2010年2月21日 受難節第1主日礼拝

説教:「救いの創始者」
聖書朗読:ヘブライ書2章5〜18節
説教者 : 北川善也牧師

 神は、いつの世にあっても御言葉をもって御自身を啓示される。かつて、旧約の時代には、預言者、祭司、王などを用いて神の御言葉が語られた。やがて、新約の時代に入り、神は御子によって御自身を示された。御子キリストが、直接神の御言葉を語り、とりわけ十字架と復活というただ一回の、決定的な救いの御業において、余すところなく神の姿を示された。

 御子は、「すべての人のために死んでくださ」(2:9)った。すなわち、全人類の贖いのために苦しみを受け、十字架によって救いを完成させてくださったのだ。神は、御子を「数々の苦しみを通して完全な者とされ」(2:10)た。「完全な者」とは、すべての人間を救うために必要なことを全部、完全に成し遂げられた方を意味する。

 「万物の目標であり源である」(10節)神は、御子を通して罪と破れに満ちた人間を「聖なる者」とし、救われた者としてくださる。だが、何の功もない人間にどうしてそんな恵みが与えられるのか。それは、真に神の御子であり、聖なるお方である主が、罪ある人間と等しい存在になられたからだ。御子は、我々が罪に汚れた土の器であることを十分御承知の上で、「一つの源から出ている」存在として、御自分の「兄弟と呼ぶことを恥」となさらなかった(11節)。そして、「血と肉を備えている」人間と等しくなるため、御自身も「また同様に、これらのもの(血と肉)を備えられ」(14節)た。

 御子が、「すべての点で兄弟たち(人間)と同じように」(17節)なられたゆえ、御子であるキリストは神と人との間に立ち、罪の只中にある人間の、神に対する執り成し手となってくださったのだ。

 人間は、神に似たものとして造られたにもかかわらず、神の御心を知ること少なく、神の御旨に背くことばかり行い続けてきた。神によって大いなる恵みを与えられていながら、聖なる生活からはほど遠い歩みをしている人間は、到底自ら神に近づくことなどできない。人間は神から遠い存在だ。

 また、すべての人間は、常に病と死の恐怖の中に置かれ、悲しみや怒りなど多くの縄目に捕らわれている。誰もがこのような弱さ、罪深さから解き放たれることを願っている。神は、そのような人間に全く新しい世界を示してくださった。いや示されただけでなく、それを与えると約束してくださったのだ。それが、御子の十字架と復活によって保証された神の国だ。神の国は、我々を「奴隷の状態」(15節)から解放する、救いが完成された世界に他ならない。

 それはあくまでも我々が待ち望んでいる世界にすぎない。しかし、同時に御子の十字架と復活によって確実に保証されているゆえ、信仰によって先取りすることを赦されている世界でもある。我々は、信仰によって、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認」(11:1)することが赦されている。そして、神の国の幻は、この世の現実と密接に関係している。

 復活されたキリストは、次のように言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18-20)。

 主が約束してくださったように、この世のすべての人々が神の国へと招かれている。そして、その招きのためにあなたがたも働きなさいと主は呼びかけておられる。この世にあまねく福音を宣べ伝える伝道の御業が、我々の教会に託されているのだ。そのような栄えある御業のために我々を用いてくださるキリストこそ、「救いの創始者」に他ならない。

2009年2月28日 受難節第2主日礼拝

説教:「神の武具を身に着けなさい」
聖書朗読:マルコ福音書3章20〜30節
   説教者 : 北川善也牧師

 「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」(20節)。多くの人々が、主のいやしを求めて集まった。しかし、その一方で主が注目を集めれば集めるほど、躓きを増していく人々もいた。それは、主の身内の者たちであり、律法学者たちだった。

 彼らは、主ととても近い関係にあった。身内の者たちは、幼い頃の可愛らしい主の様子も知っていただろうし、律法学者たちは、神の御言葉である律法に携わる仕事に就いていたから、本来神の御言葉を宣べ伝えている主の最も良き理解者たるべき人たちだった。

 だが、このように主と最も近い関係であるべき人たちが、現実には最も遠いところにいることがここに示されている。身内の者たちは、主の「気が変になっている」(21節)としか思えず、また律法学者たちは、「悪霊に取りつかれている」(22節)としか思えなかった。

 なぜ彼らは、主の行動をそのようにしか捉えられなかったのか。多くの人々は、自分の人生の目標を何とかして実現させるために時間と労力を費やそうとする。しかし、主の生き方は、そのような生き方とは全く異なっていた。それは、端的に言えば「神の御心を行う」生き方だ。皮肉なことに、主の身近にいるはずの者たちほど、主のこのような生き方を受け入れられなかった。逆に、彼らはそんな主を取り押さえようとする。そこには、主を十字架へ追いやろうとする力が見え隠れする。そして、それこそが悪霊の力なのだ。

 主御自身の示される姿が、自分の期待するイメージから外れていると感じて、それを自分好みに修正しようとしたり、ましてや主の行動の原動力が悪霊によるものであるとしか認識出来ないような人間の状況こそ罪に他ならない。

 彼ら自身の罪が、主への躓きを生み出し、主を排除したいという殺意へと導いていく。しかし、主は、御自分を受け入れないそのような人々に背を向けるのではなく面と向かって御自分を信じ、受け入れるように呼びかけられる。

 主は、「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(27節)とたとえられた。この家の主人は悪霊であり、家財道具とは、悪霊に囚われている人々のことだ。主は、ここで御自分が悪霊に囚われている人々を解放するためにやって来たことを強調しておられる。

 今や、このようにして、主が我々を悪霊の手から解放してくださる時代がやって来たのだ。人間存在を内側から破壊しようとする悪霊を縛り上げ、その力を全く及ばなくさせるために、そして、悪霊の支配を受け、うめき苦しんでいる人間を解放して御自分のものとなさるために、主は御自身のすべてを献げ尽くしてくださった。

 主は言われた。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」(28節)。このような赦しがもたらされる根拠は、主御自身が我々を解放する戦いを戦い抜き、完全な勝利を収められたことにある。我々の犯す罪、我々の冒涜、すなわち、我々が隣人を傷つけ、神を裏切る罪は自分自身で修正することが出来ない。主が言っておられる「サタンの内輪もめ」(26節)とは、実は我々自身の中で起こっている悲惨かつ切実な出来事に他ならない。そのために、我々は帰るべき家を失い、平安のうちに過ごすことが出来なくなっているのだ。

 主は、そんな我々を御自分の家である神の国に迎え、神の家族とするためにたった一人で戦ってくださった。そして、主が十字架の出来事を成し遂げられることによって、我々は悪霊から解放された。感謝すべきことに、我々は今やその救いの只中に置かれている。

バックナンバー