日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

10年3月のバックナンバーです。

2009年3月7日 受難節第2主日礼拝

説教:「自分の命を買い戻す」
聖書朗読:マルコ福音書8章27節〜9章1節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われた。彼らは、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(28節)と答えた。

 主と出会い、病を癒され、悪霊を追い出された人々は、これまでとは全く違う生活を与えられた。だが、彼らは自分たちの身に起こった出来事ばかりに目を奪われ、その御業を行ったお方のことを正しく受けとめられなかった。

 これは、常に主と共に行動していた弟子たちも同じだった。主の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)との問いに、ペトロは弟子たちを代表して、即座に「あなたは、メシアです」と答えた。メシアとは、「油注がれた者」の意。当時の人々は、神の預言に示されていた、民を救うために到来するダビデの子とメシアを重ねていた面があった。

 しかし、次第にメシアのイメージは、ローマ帝国に支配されていたイスラエルを政治的に解放するリーダーへと変わっていった。ペトロのメシア理解も、実はそのようなものだったことが露見する。

 ペトロが「あなたは、メシアです」と答えた後、主は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」(31節)と弟子たちに教え始められた。しかし、彼らは、その意味を理解出来なかった。彼らにとって、「メシア=勝利者」であり、栄光を受けるべきお方に他ならなかった。だから、ペトロは、主を「わきへお連れして、いさめ始め」(32節)るのだ。

 そんなペトロに、主は「サタン、引き下がれ」(33節)と叱責された。この言葉を直訳すると、「わたしの後ろに去れ」となる。つまり、これは厳しい叱責であると同時に、主による招きの言葉でもある。この「わたしの後ろに」と同じ言葉が、漁師をだったペトロと兄弟アンデレに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(1:17)と呼びかけられた時、また、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(34節)と言われた時、主に用いられた。主は、いつでも、ただわたしに従いなさいと招いておられるのだ。

 それにもかかわらず、ペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(マタイ16:22)と言って、主の十字架を否定しようとした。彼の「あなたは、メシアです」という言葉は、この時点では、主の十字架を仰ぎ見た信仰告白ではなく、あくまでもこの世の価値観で計ったものに他ならなかった。

 主は言われた。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(35-37節)と。命とは、どんな代価を支払っても買い戻すことの出来ないもの、他の何ものをもっても置き換えることの出来ないものだ。神から与えられたこの命は、我々が自己中心的にではなく主に従って生きようとする時、初めて本当の意味で我々のものとされる。命は、我々が神との関係の中に身を置き、神のものとされることによって完成されるのだ。

 今やすべての人々に、時空を越えた永遠の事柄を統べ治めておられるお方が与えてくださる命を受ける約束がもたらされた。この永遠の命は、十字架にかかってくださった主に従うことのみによって与えられるものだから、我々は主の十字架への道に従うしかない。

 我々は、主と同じ十字架を担うことなど出来ない。それは、神の御一人子だけが担うことの出来る決定的で最終的な罪の赦しの出来事だ。主は、そんな我々を、ただ御後に従うようにと招いてくださる。ただ従うだけでよいのだ、と。

2010年3月14日 受難節第4主日礼拝

説教:「愛の絆」
聖書朗読:ローマの信徒への手紙8章35〜39節
説教者 : 上田直宏神学生

 この箇所はローマ書の中で一つのクライマックスと言える箇所である。パウロがここで特に伝えようとするのは、「誰もキリストの愛・神の愛から私たちを引き離せない」ということだと言えよう。その間には、神の愛から引き離そうとする様々な事柄が挙げられる。それだけ引き離そうとする苦難が多いということである。パウロはこれらの苦難を実際にほとんど経験したと考えられるが、彼はそれを隠さず、詩篇を引用して更に描ききろうとする。苦難を描ききり、それらがいかに力強いかを認めたうえで、パウロは、私たちが勝ち得てあまりあると宣言する。全てにおいて「勝ち得てあまりある」。決して、引き離されないという勝利である。この勝利は何によるかと言えば、愛してくださった方による。私たちは「愛された」。具体的に愛が表された。愛は、主イエスは、この世にいらした。馬槽から十字架まで、徹底的に成し遂げられた愛。私たちがどこまで行こうとも、そこは主が既に歩まれた道であり、主が共におられる道である。パウロはこの確かさ故に、主から引き離されないという勝利を確信させられてしまった。この「確信する」には他に「友達になる」という意味も含まれる。私は「友達になられてしまった」。主が友であることが何よりの確信であり、勝利につながっていると言い換えられる。

 苦難と言えば、讃美歌321番3節にも「来れ来れ、苦しみ、憂き悩みも厭わじ」と、苦難が歌われるが、苦難にあっての勝利は、作詞者のプレンティスも感じていたかもしれない。彼女が長い病床生活の中この詞を書くことができたのは、その中でこそ気づかされた主の憐れみによるのではないか。彼女にこのように綴らしめたのは、病気の治癒以上に、彼女にどこまでも伴い、また希望の火を灯し続けた神様が、支えてくださっていたことを、知ったからではないだろうか。そのことを自身の告白として、綴ったのではないか。

 パウロやプレンティスのような苦難を経験していないと思うかもしれない。しかし、苦難の中での「神ともにいます」という勝利は、私たちも経験している。この世では誰もが時に生きる困難さを感じる。また、それらが自分でなくとも近しい人に起こった時「なぜ」と問うしかない、神様の愛をどう信じてよいのかわからなくなる時がある。それらを振り返ると自分を更に責めて罪に定める時もあれば、打ちひしがれてしまう時もあったように思う。しかし、敗北で終わらず、それらを経てなお、いやその苦しみを知らなければ知ることができなかった深い主の憐れみが、確かにあったと思う。それらを経て今、ここまで来たこと。私たちが辿っているのは、当初願った道ではないかもしれないが、決して何かわからない運命に翻弄されているのではない。十字架にまで歩まれた主が絶えず共におられ、私たちを持ちこたえ、導いてこられたのである。

 パウロはこれを素直に述べた。「誰もキリストの愛から離すことができない」と。表現は何も新しくはない。しかしキリストご自身が全く新しい。私たちは行く時も来る時も、これから行く先でも、これまで味わうことのなかった主の恵みを知らされていくのだと、確信してよい。主が友でいてくださるからである。

 だから私たちは、自らでも周りの移り行くものでもなく、この確かな愛の絆を、愛してくださったお方を見ようとしたい。またその愛を伝えたいと願う。たとえ拙くとも、私たちは主を愛すると、告白したい。

2010年3月21日 受難節第5主日礼拝

説教:「わたしは自分の命を献げるために来た」
聖書朗読:マルコ福音書10章32〜45節
説教者 : 北川善也牧師

 これまで主イエスは、弟子たちに対して二度、受難の予告をされた。最初の予告の直後(8:31以下)には、弟子のペトロが主をわきに連れ出し、「主よ、そんなことがあってはなりません」といさめた。その時、主は弟子たち全員に目を向け、「サタン、引き下がれ」と厳しくお叱りになった。また、二度目の予告の後(9:30以下)には、弟子たちの中で誰が一番偉いかを巡って議論が起こった。

 主が、受難の出来事を予告されるたびに、弟子たちはトンチンカンな態度を取り続けてきた。しかし、今回弟子たちは、主から三度目の受難予告を聞き、また主の並々ならぬ表情を見て、驚き、恐れたと記されている。彼らは、ようやく主の言葉に秘められた事柄の重大性に気づいたのだろうか。特に、今回の予告において、主は初めて御自分の受難の地がエルサレムであるとはっきり特定された。いよいよ最後の時が近づいたことを強調しておられるのだ。

 主は、次のように言われた。「人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」(33〜34節)。主は、御自分の受難の出来事が、人間の悪巧みによって引き起こされると予告された。

 一方、主がこの世に来られるはるか以前に書かれた旧約・イザヤ書は、来るべき救い主の姿を次のように描いている。「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」(50:5〜6)。ここで語られていることと、主が告げられた受難予告は大変似通っている。ここには、主の御受難を引き起こした人間の悪巧みさえもが、神の計り知れない御計画のうちに含まれていることが示されている。

 このような神の御計画に触れた時、人間はうろたえ、まともに受けとめられない。三度目の受難予告も、弟子たちはやはり正しく理解出来なかった。主から「何をしてほしいのか」と問われたヤコブとヨハネは、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)と願う。彼らは、主がこの世の王座に就かれるものと勘違いしていたのだ。

 主の御受難、すなわち十字架の出来事は、人間には理解不能な神の世界の出来事に他ならない。しかし、その一方でこの出来事は、神の世界と人間の世界との境界線で起こっている。神が人間と同じ肉の姿を取ってこの世に来られたことにより、神の世界は一気に人間の世界と近づいた。人間からは決して近づくことの出来ない神の世界が、向こうから近づいて来た。それがクリスマスの出来事だ。

 しかし、神の世界が人間の世界に近づいたとはいえ、完全に同化したわけではない。それは、人間の住む世界と魚の住む世界の違いに似ている。人間の世界と魚の世界の境目、すなわち水面において二つの世界の距離はゼロだが、人間は水中で生きられないし、魚も人間の世界では生きられない。その意味で、二つの世界は接すると同時に無限のへだたりを持つ。

 神の世界と人間の世界も無限にへだたっている。だが、そのへだたりを越えて、主はこの世に来てくださった。そして今、神はそのへだたりを完全になくし、すべての人間を御自分のものとする御業を成し遂げようとしておられる。神の御子が、人間には決して乗り越えることの出来ない境界線を決定的な仕方で乗り越え、十字架にかかってくださった。こうして、神はすべての人間を御自分の御国につなぎとめてくださったのだ。これに勝る恵みは他にない。

2010年3月28日 棕櫚の主日礼拝

説教:「立て、行こう。時が来た」
聖書朗読:ルコ福音書14章32〜42節
説教者 : 北川善也牧師

 今朝与えられた御言葉の中で不思議に思うのは、主イエスが御自分の死を非常に深く恐れられたということだ。主は、ゲツセマネの園に、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴って赴かれたが、途中でひどく恐れてもだえ始め、「わたしは死ぬばかりに悲しい」(34節)と言われた。しかし、それは当然のことだった。主がこれから経験なさろうとしている死は、全く尋常ではなく、これまでも、そしてこれからも、誰一人として味わうことのない死だったからだ。

 主は初め、「この杯をわたしから取りのけてください」(36節a)と祈られた。ここで言う「杯」とは、苦難のことだ。つまり、主は十字架にかかりたくないとはっきり言われたのだ。しかし、主はそう祈りながらもそこから逃げ出さず、十字架に向かってまっすぐ進まれた。それは、神が必ず御自分を死の淵から救い出してくださることを知っていたからだ。

 それゆえ、この時の祈りは、そこから逃げ出したいという思いからのものではなく、御自分の十字架によってすべての人間の罪の赦しが成し遂げられるという神の御計画を、神との対話によって最終確認されるための祈りだったのだ。だから、主は続けてこう祈られた。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節b)。

 主が飲まんとする「杯」、それはすべての人間の一切の罪を引き受け、神の怒りと裁きをたった一人で受けて死ぬことに他ならなかった。こんな死は、神の無限の忍耐力を持っていなければ、とても耐えられるものではない。

 主は、その恐ろしい杯を最後の一滴まで飲み干すために、苦しみもだえながら壮絶な祈りを献げられた。そして、神はこの祈りに応え、主の十字架によって、すべての人間の罪の赦しが確実に成し遂げられることを示された。主の祈りは、父なる神がお与えになるすべてを受け容れ、すべてに服従し、すべてを委ねきる祈りだった。

 ところで、この間、同行していた弟子たちはどうしていたか。主から、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」(34節)と言われていたにもかかわらず、彼らは眠さに勝つことが出来なかった。主が御自分の命を十字架に献げようとしている直前においてさえ、主から目を離し、欲望のままに流されてしまう弟子たちの姿は、鏡に映った我々の姿に他ならない。我々は、自分の力で主に従うことなど到底出来ない存在なのだ。

 しかし、それでもたった一人で、父なる神に対する壮絶な祈りを終えられた主は、「立て、行こう」と弟子たちに呼びかけられた。神は、人間の弱さや限界を超えて、ただ一方的な恵みの御業として、我々を捕らえてくださる。主に目を向け続けることの出来ない我々に、「立て、行こう」と力強く呼びかけ、進むべき道をはっきりと指し示してくださる。

 弟子たちには、この先、実に不思議な神の導きが用意されていることを、我々は聖書を通して示されている。主から「目を覚ましていなさい」と言われてもそれが出来ない弟子たち、そればかりか主を三度も否認してしまうペトロを始めとする弱さの塊に過ぎない弟子たちが、この後、主の十字架の証人となり、この世のすべての人々に十字架の出来事を宣べ伝える働きへと遣わされていく。我々もその伝道の業によって主の御前に招かれた一人一人に他ならない。十字架の出来事は、我々のどうしようもない弱さを乗り越えさせ、神の御用のための働き人として立つ力をもたらす。それは、御子イエス・キリストが血の汗を滴らせつつ、我々のための執り成しの祈りを成し遂げて、十字架についてくださったからに他ならない。

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