日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

10年4月のバックナンバーです。

2010年4月4日 復活祭礼拝(イースター)

説教:「復活―そこでいったい何が起きたのか」
聖書朗読:イザヤ書42章10〜16節・マルコ福音書16章1〜8節
説教者 : 北川善也牧師

 マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの三人は、主イエスの十字架の出来事を一部始終見届け、そこから立ち去ることが出来ぬほどの衝撃に打ちのめされた。一方、主と常に行動を共にしていた12人の弟子たちは、主が十字架につけられるや否や一人残らずそこから逃げ去った。

 主が十字架上で息を引き取られた日の翌日は、何もしてはならないと定められた安息日だった。主を墓に葬ったところで日没となり、血みどろの亡骸を清めることは誰にも出来なかった。それゆえ、三人の女性たちは、安息日が終わるとすぐに香油を買いに走り、「朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」(2節)のだ。

 マルコ福音書では、この少し前に主がベタニアという小さな村である女性から香油を注がれた出来事が記されている。主がシモンという重い皮膚病を患っていた人の家で食事をなさっていると、「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油を主イエスの頭に注ぎかけた」(14:3)。周りの人々は、彼女の常識外れな行動を見て、「なぜこんなに香油を無駄使いしたのか」と厳しくとがめた。しかし主は、「するままにさせておきなさい。……わたしに良いことをしてくれたのだ。……この人は……前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」(14:6-8)と言って、彼女の行いを祝福された。

 彼女の行為と、今、埋葬された主の御遺体を香油で清めようとしている三人の女性たちの姿は重なるものがある。しかし、この三人の場合は、主に喜ばれるためというより、空しい存在となった主の亡骸を清めるぐらいしか自分たちに出来ることはないという思いからの行動だったのではないか。

 ところが、墓にたどり着いた彼女たちは、驚くべき出来事に立ち会う。墓穴をしっかり封じていた巨大な石が既に退かされていたのだ。さらに、彼女たちが墓の中に入ると、そこに白く長い衣を着た若者がいた。彼は、普通の若者ではなかった。彼が着ていた「白く長い衣」は、かつて山上で主イエスの姿が「真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白く」(マルコ9:2以下)変貌された時と同じ色だった。彼は、神の御使いに他ならなかった。

 天使は、「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(7節)と告げた。マルコ福音書の冒頭で、主がこの世における活動を開始し、弟子たちを召し出されたガリラヤの名が再び挙げられた。十字架の死から復活された主は、弟子たちを最初に出会ったその場所に再び招いておられる。しかも、そのことを告げる大切な働きは、弟子の誰かにではなく、最後まで十字架に向き合った女性たちに与えられた。

 この後、彼女たちも確かに「墓を出て逃げ去った」(8節)。しかし、彼女たちが背を向けたのは、主にではなく空虚な墓に対してだった。つまり、彼女たちは、「正気を失う」ほどの恐怖に襲われながらも、身体がガリラヤに向かって動き出すのを止められなかったのだ。主の復活の出来事は、人間にそのような力をもたらす。こうして、自分たちには主の空しい亡骸を清めることぐらいしかできないと思っていた女性たちが、復活の出来事を最初に告げ知らせる重要な働きへと遣わされていく。

 我々も今、復活の出来事をどう受けとめるか問いかけられている。主御自身が、我々に向かってボールを投げておられる。主は、ガリラヤという異邦の地で福音を宣べ伝えるため、今も生きて働いておられるのだ。我々の日常生活の場であるガリラヤにおいて。

2010年4月11日 復活節第2主日

説教:「イエスの釘跡を見た人たち」
聖書朗読:ヨハネ福音書20章19〜29節
説教者 : 北川善也牧師

 「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(19節)。彼らは、主イエスと常に行動を共にしていながら、最後まで主を正しく認識することが出来なかった。彼らは、他の群衆同様、主がこれまでに示してこられた数々の奇跡の力をもって、ローマ帝国に対する革命を起こし、イスラエルを自分たちのものとして取り返してくれることを期待していたのだ。

 弟子たちが主に対して抱いた期待は、真の救い主としてこの世に来られたお方がなさろうとしている働きとは全くかけ離れたものだった。だから、この世における働きを期待していたお方が十字架上で息絶えた今、彼らは希望を失い、ローマの官憲による迫害が及ぶのを恐れて、鍵をかけた家の中に閉じこもるしかなかったのだ。

 しかし、復活された主は、そんな彼らから離れ去るのではなく、御自分の方から近づいて来られた。家にも心にも鍵をかけていた彼らの前に現れた主は、「あなたがたに平和があるように」と言われた。これが復活された主の第一声であり、この御言葉こそ主が弟子たちに命じようとしている重要な働きの根拠に他ならなかった。

 主は、彼らをこれから全世界に神の福音を宣べ伝える働きに遣わそうとしておられるのだが、その福音によってもたらされる「主の平和」は、文字通り神の御子以外の誰も実現することが出来ない。「あなたがたに平和があるように」という言葉は、真の福音をもたらすのは、御自分以外におられないという主の宣言だったのだ。

 次いで、主は弟子たちに御自分の手とわき腹をお見せになった。主は、このようにして、復活された御体が、十字架の上で釘付けにされた死の出来事と密接に結びついていることを彼らの目に焼き付け、心に刻みつけようとなさった。

 しかし、逆に言えば、主が御自分の体を見せて、「まさしくわたしだ」と強調しなければ、弟子たちは復活の出来事を受け入れられなかったということでもある。

 そんな彼らに主は、「『……父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』」(21-22節)。弟子たちは、主によって聖霊の助けを与えられることによって、ようやく復活の出来事を確信することが出来るように変えられていく。

 深く愛していた主を失った衝撃に打ちひしがれていた弟子たちは、このようにして自ら近づき、聖霊を送ってくださる主御自身によって、自信と信仰を回復させられた。それだけでなく、復活の主による聖霊は、罪の赦しによる悔い改めを得させる力を彼らにもたらしていく。人間が罪から赦されるという出来事は、神の御子が十字架にかかり、復活してくださらなければ決して起こらなかった。

 そして、復活された主は、時空を超えて、御自身が打ち立てられた罪の赦しと永遠の命という真にして最大の救いの出来事を、福音の御言葉に載せて世界の隅々にまで運んでくださるのだ。

 「あなたがたに平和があるように」。これは、我々すべての人間に向けて語られている主の御言葉だ。主は、トマスに語りかけられたように、復活の出来事を「見て信じる」のでなく、「見なくても信じることが出来る」ようになりなさいと我々を招いておられる。

 今や、この世における我々の命は、神の国の永遠の命と固く結ばれている。ならば、日々新しくされているこの命を主のために用いることを最大の喜びとしたい。御計画のうちに、一人一人に御言葉を語り、一人一人を御自分のものとし、豊かに用いてくださる主にすべてを委ね、信仰による大いなる希望をもって共に歩み出そう。

2010年4月18日 復活節第3主日

説教:「キリストの命がもたらす唯一の救い」
聖書朗読:ヨハネ福音書10章7〜18節
説教者 : 北川善也牧師

 羊という動物は、方向音痴なので一匹になるとどちらに向かって進めばよいかわからなくなる。また、素早く走れないので簡単に肉食動物に捕らえられてしまう。それゆえ、羊は群れになり、囲いの中で守られ、羊飼いに養われなければ生きていけないのだ。

 主イエスは御自分を、羊を守る囲いの門にたとえられた。これは、羊飼いが羊に近づくための門であると共に、羊が真の救いに導かれるための唯一の門だ。主は、すべての人間を救いに導くための門となり、御自分を通れば必ず溢れんばかりの豊かな命に与ることが出来ると約束してくださった。

 ここには、自分の力で罪の泥沼から抜け出すことの出来ない人間が、神の一方的な恵みにより、罪赦され、この上ない恵みの中に入れられるというイメージが明確に示されている。主を信じ、その門を通る者には、必要としているすべてがいつまでも豊かに与えられることが告げられているのだ。

 さらに、主は御自分を「良い羊飼い」にたとえられた。羊飼いには様々な仕事があるが、ここで主が最も強調しているのは、「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)ことだ。これは、主がすべての人間のために成し遂げられた十字架の出来事を指している。

 この行為は、一見完全な敗北のように映る。だが、敗北と見えた十字架の死は、主が託された羊の群れを最後まで守り抜くための真の愛の行為であり、完全な勝利の出来事に他ならなかったのだ。

 「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(10節)と主は言われた。良い羊飼いである主は、御自分の羊が命を豊かに受けるために自らの命を献げてくださった。

 主は、この世の罪と戦い抜くために命を献げられた。この戦いは、この世から完全に罪を取り去る、神でしか戦えない戦いだった。主は、この戦いに命を懸けて完全な勝利を収められたゆえ、永遠の命を受けて復活を遂げられた。

 主は言われた。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(14節)と。ここで言う「知る」とは、相手の全存在を無条件に受け入れるということだ。それは、相手のことを自分と同じように愛していなければ成し得ない行為だ。主は、一匹一匹の羊を「知って」くださることによって、御自分と羊の命を固く一つに結び合わせてくださるのだ。

 このような神の愛を注がれた時、その愛を受けた者の内側からは、抑えきれない喜びが湧き上がってくる。そして主は、この神の愛を「囲いに入っていないほかの羊」にも注ごうとなさる。キリストの福音は、隔てを越えて全世界へと広がりゆく力を持っている。

 しかも主は、「ほかの羊もいる」と言われた時、「(既に)持っている」という言葉を使われた。まだ福音に触れていない人々も、神の御計画のうちに既に主のものとされているというのだ。主は、すべての羊が、いずれ必ず御自分と出会うことになると断言された。

 主の御心には、野山をさまよう羊たちを心から憐れみ、羊を一匹残らず救い出すという神の愛が炎のように燃えている。このような神の愛が、世界中のすべての人々に対して向けられているのだ

 「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)。主の愛の深さ、広さに気付き、主の招きに応えて御後に従う者たちが、主の牧の羊として一つの群れ、教会へと形作られていく。

 教会は、主の招きによって形成される。この主の招きを告げる働きが、主の牧の羊とされた者たちに託されているのだ。主は、御自分の羊を用いて、救いの御業を世界に広める伝道の働きを進めていかれる。主の御委託に応え、共々に主の御業を担いつつ歩みたい。

2010年4月25日 復活節第4主日

説教:「いつもわたしたちと共におられるイエス」
聖書朗読:ヨハネ福音書13章31〜35節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)という新しい掟をもたらされた。

 ユダが出て行くと、主は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」(31節)と言われた。この言葉は、ユダの裏切りによって始まる十字架の出来事すべてが神の御計画のうちにあることを示している。

 御子が十字架にかかることによって、すべての人間の救いの出来事が完成されようとしていた。これは、天地万物を創造された全知全能の神が、初めから計画しておられた出来事に他ならなかった。

 しかし、神の御計画のうちに定められた栄光の出来事が、人間の目には栄光とは正反対のものにしか映らなかった。十字架にはりつけにされ、さらしものとなって死んでゆく主の姿は、人間には敗北としか受けとめられないのだ。

 ローマ兵たちは、主の惨めな姿を見て、着ている服をはぎ取り、茨の冠をかぶせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って侮辱した。周りにいた人々も、「本当に神の子なら自分を救ってみろ」と罵った。

 しかし、主は十字架の出来事によって、そんな人間の罪をも完全に取り除いてくださった。この出来事ゆえに、人間は罪による空しさ、息苦しさを抱えて歩む必要がなくなった。それは、主が人間の罪を十字架にはりつけにし、御自分の命もろとも完全に滅ぼしてくださったからに他ならない。

 主は、こうしてもたらされる御自分の栄光が、父なる神の栄光につながると言われた。それは、十字架の出来事によってすべての人間を救いに導くことこそ、神の本質的かつ最終的な目的だからだ。

 今日の聖書箇所には、「栄光」という言葉が四回出てくる。この「栄光」には、元々「評価」とも訳される原語が使われている。主は、この世において神を冒涜する憎むべき存在という評価を受けて十字架へと追いやられるが、人間の理解をはるかに超えて、この出来事が神の栄光を現わすものとされるのだ。

 神の栄光は、死に至るまで神の御心に従順に従い、地上の全生涯を通して神の真理を世に示された主によって明確に現わされた。このような行為は、神の御子であるお方にしか成し遂げられない。

 我々は、神の評価より人間の評価を求めてしまう。そのことを、主の弟子たちが身をもって示している。一番弟子であるペトロは、いち早く「あなたこそ救い主、メシアです」と信仰告白し、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)とまで宣言したが、その主の裁判の最中、周りの人々から「あなたもイエスと一緒にいた」と詰め寄られると、「わたしはあの人を知らない」と三度にわたって否んでしまう。彼だけでなく、12弟子の中の誰一人として主の十字架を見届けた者はいなかった。

 そんないつまでも人間の評価から離れられない彼らだからこそ、主は「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を与えられたのだ。主はこの掟を、自ら彼らの足を洗うことによって示された。神の評価を求めず人間の評価を求める土の器が、御心に適う神の器とされるため、互いに愛し合い、仕え合う姿を身をもって示されたのだ。

 主が告げられたこの掟は、シンプルだが、神の愛によらねば全う出来ない。主は、人々が十字架を見上げ、神の愛によって生かされているところ、すなわち、キリストの御体なる教会においてこの掟が全うされると告げられた。

 「新しいイスラエル」と呼ばれるこの共同体において、神は絶えず御自分の民を新たに生み出し、救いの恵みで満たしてくださる。教会において一人一人に御言葉を注ぎ、神の愛に基づいて互いに愛し合う者とさせてくださるのだ。

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