日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

10年5月のバックナンバーです。

2010年5月2日 復活節第5主日

説教:「主イエスによって愛の実を結ぶ」
聖書朗読:ヨハネ福音書15章1〜11節
説教者 : 北川善也牧師

 ぶどうの実の付き方はとても不思議だ。一本の太い木から四方八方に広がった枝の先に実る。枝は、たった一本の木から網の目のように生え広がり、幹から枝々に栄養分が送られて行って、その先にたくさんの実が付くのだ。

 主イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(5節)と言われた。我々は、ぶどうの木である主の枝であり、主イエスにつながっているならば、豊かに実を結ぶことが出来るというのだ。それでは、主イエスから離れてしまったらどうなるのか。

 ぶどう狩りに行くと、木の幹から断絶した枝の先に枯れ果てて萎びてしまった実を見つける。それと同じように、我々も主から離れてしまうと命の力を失うことになるというのだ。しかし、しっかりと主につながっているならば、いつでも豊かな栄養を与えられ、たわわに実を結ぶことが出来ると言われている。我々が主から受ける栄養とはどんなものだろうか。

 ヨハネ福音書は、その冒頭において、イエス・キリストが「神の御言葉」としてこの世に来られたと告げている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(1:1-4)と。

 我々は、神の御言葉そのものである主イエスに与ることによって、命を新しくされると言われている。我々は、主を信じ、神の御言葉である主イエス御自身を自分の中に受け入れることによって、永遠の命をもたらされるのだ。

 主によってもたらされる永遠の命は、主の十字架の出来事によって完成された。十字架にかかる必要などどこにもなかった完全な存在である神の御子が十字架にかかってくださることにより、我々が自分の内側に抱え込んでいる自己中心的で身勝手な罪、また神に背き、自分自身を神とするような罪の汚れがことごとくぬぐい去られ、清められて神のものとされた。

 主イエスは、さらに十字架における死に打ち勝って、死から復活を遂げられた。この出来事によって永遠の命を勝ち取られた主は、その命をすべての人々に与えるという約束までもたらしてくださった。その約束が神の御子による確固たるものであるがゆえに、死はもはや我々にとってまったく恐れる必要のないものとなったのだ。

 復活された主イエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18-20)と言われた。永遠の命の源である主は、いつでも我々のすぐ近くに一緒にいてくださるのだ。

 そのようなお方が、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」という力強い約束の言葉を与えてくださる。イエス・キリストは、復活そのものであり、命そのものであるお方だ。その主が、決して我々を見捨てることなく、いつでも一緒にいてくださるというのだから、我々にはもはや恐れるものなど何もない。我々は、信仰によって何ものにも揺るがせられることのない固い土台の上に据えられ、その上を何も恐れず歩んでいくことを赦されているのだ。

2010年5月9日 復活節第6主日

説教:「再び来られるキリストを待ち望む」
聖書朗読:ヨハネ福音書16章12〜24節
説教者 : 北川善也牧師

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。……言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:1-5)。この世は暗闇であり、本質的に光を知らない。それゆえ、真の光として来られた神の御子、主イエスを受け入れることが出来なかった。

 主は、弟子たちと最後の晩餐を共にし、彼らの足を洗われた。そして、弟子の一人、ユダの裏切りが予告され、彼は夜の闇に消えていった。その後、別の弟子、ペトロが三度主を否む出来事を予告されると、主は弟子たちに向かって、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(14:1)という御言葉をもって長い説教を語り始められた。

 弟子たちは、心騒がせる以外ないような状況に身を置いていた。これまで絶えず行動を共にし、親密な関係の中で生きてきた彼らと主の間に、今や裏切りと別れの冷たい空気が漂いつつあったのだ。

 しかし、そのような状況にあって、主は弟子たちを「この上なく愛し抜かれ」(13:1)、彼らが互いに愛し合い、仕え合うことを掟として示された。このような主の愛は、十字架において決定的な仕方で示されるのだが、今の彼らにはその愛を理解出来なかった。

 「光を理解しなかった暗闇」は、自らの闇を保ち続けるため、光を抹殺しようとする。暗闇にわずかでも光が差し込めば、たちまち闇が失われてしまうからだ。確かに、この世は、光である主を十字架にかけて殺してしまう。そうして、この世は自ら絶望の闇を一層深めていく。しかし主は、そんな世にあって、弟子たちがいずれ子を産む妊婦のような喜びに与るだろうと言われた。「子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(21節b)と。

 悲しみや苦しみが喜びに変わるのは、主が再び来られ、共にいてくださるようになるからに他ならない。そして、その喜びは誰も奪い去ることが出来ない。なぜなら、復活された主は、「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されたからだ。永遠の命を勝ち取られた主が我々の喜びの源なのだ。

 主は、また次のように言われた。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(16節)。主は、十字架の死によってこの世を去られるが、復活を遂げられる。その先には、聖霊降臨の出来事をもたらしてくださる。主は、この世から消え去ったままではなく、再び来られ、その後二度と御不在にはならないと約束してくださった。

 主は、「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない」(23節a)とも言われた。「その日」とは、神による救いの御業が完全な形で実現される終わりの日に他ならない。その日には、すべての人が救いの御業を目の前で見ることになるから、誰もそのことについて尋ねる必要がないのだ。

 我々は、主の御言葉によって、既に神の救いの御業が完成した神の国の幻を示されている。終わりの日を待ち望みつつ、既にその前味を味わう幸いに与っている。

 主は言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。……願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(23b-24節)。今や、聖霊によって絶えず我々と共におられる主が、我々の執り成し手となってくださった。それゆえ、我々は、人生の旅路において、何も恐れることなく、喜びに満たされて、神の国を仰ぎつつ歩んでいくことが出来るのだ。

2010年5月16日 オール洛北礼拝(復活節第7主日)

説教:「イエスさまのお祈り」
聖書朗読:ヨハネ福音書17章1〜5節
説教者 : 北川善也牧師

 人間は、神さまに似せて造られました。神さまは、そんな人間が御自分の方を向き、御声に聞き従うことを求めておられます。

 神さまは、人間同士が傷つけ合っているのをご覧になると、御自分が傷つけられているような気持ちになると思います。でも、わたしたちはそのような行いをやめるどころか、いつも同じことばかり繰り返してしまいます。

 そうやって神さまを傷つけ、神さまに背いて生きることを「罪」と言います。人間は、誰もが罪を抱えており、どう頑張っても自分で罪をなくすことは出来ません。

 そんな人間は、広い海に浮んだ小舟のようです。想像してみてください。わたしたちは手こぎ舟に乗って、どこにも陸地の見えない大海原にいます。手こぎ舟は、静かな海の上なら順調に進めますが、波が大きいとうまくこげず、思うように進めません。そんな舟が、広い海の真ん中で、突然嵐に襲われたらどうなるでしょう。

 わたしたちが、神さまを忘れ、自分勝手な生き方をしている時が、まさに嵐の時なのです。そのままでいたら、わたしたちは嵐に飲まれて沈んでしまいます。

 でも、神さまは、そんなわたしたちの舟にイエスさまを送ってくださいました。イエスさまは、わたしたちの舟に乗り込んで何をしてくださったでしょうか。嵐でも舟が沈まないこぎ方を教えてくださったでしょうか。それとも、舟が沈んでも助かるための浮き輪を用意してくださったでしょうか。

 イエスさまは、思いもよらない方法でわたしたちを助けてくださいました。イエスさまは、海から嵐そのものを消されたのです。どうやって消されたのでしょうか。この嵐は、そもそもわたしたちの罪がもとになっています。だから、嵐を消すには、わたしたちの罪がなくならなければなりません。でも、わたしたちは自分でそれをなくすことが出来ないのです。

 今日読まれた聖書に、イエスさまのお祈りが書かれていました。イエスさまは、最初に「お父さま、いよいよ時がきました」と祈られました。どんな時が来たのでしょうか。それはイエスさまが十字架におかかりになる時です。

 イエスさまは続けて、「わたしが十字架にかかることで、神さまの栄光を輝かせてください」と祈られました。十字架というのは、とても惨めで苦しい死に方です。そんな十字架が、どうして神さまの栄光を輝かせるのでしょうか。

 わたしたちは、十字架によってイエスさまが本当に神さまの子どもであることを知りました。イエスさまは、十字架の上で死なれましたが、お墓にほうむられて三日目に復活されました。イエスさまは、死んで終わるのではなく、死んでもその先がある永遠の命を勝ち取られました。死からの復活は、イエスさまが神さまの子どもだからこそなしとげられたのです。

 こうして、イエスさまが永遠の命を受けられることによって、神さまの栄光が輝くようになりました。それだけでなく、イエスさまは、その永遠の命をすべての人に与える力をお持ちでした。イエスさまは、すべての人を愛しておられますから、みんなが永遠の命を受け、神さまの子どもになることを望んでおられます。わたしたちは、イエスさまが十字架にかかってくださることによって、罪を帳消しにされ、永遠の命を受ける神さまの子どもとされたのです。

 広い海の真ん中で嵐にあい、いつ沈没するかわからなかったわたしたちの舟に、イエスさまが乗り込んでくださいました。そして、わたしたちにはどうすることも出来ない嵐を、十字架によって完全に静めてくださいました。だから、わたしたちは、何も恐れず、安心してイエスさまと一緒に舟の旅を続けることが出来るのです。

2010年5月23日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教:「誰もがキリストの恵みを語り出す」
聖書朗読:使徒言行録2章1〜13節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは弟子たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使1:8)と言って昇天された。

 その後、彼らはひたすら祈りつつ、その約束が成就する時を待ち続けた。すると、ついに熱心な祈りを献げていた彼ら一人一人の上に、聖霊が降ってきたのだ。

 主イエスと共にいる時には、御言葉の光に照らされ、光の中で生きる喜びを知ることが出来た弟子たちだったが、主が天に昇られた今、彼らは真の光を失い、この世の闇に溶け込みつつあった。しかし主は、かつて彼らに「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われた御言葉を、聖霊を送ることによって成し遂げられた。

 弟子たちは、既に一つの共同体を形成し、教会としての基礎を整えつつあった。しかし、そこにはなお決定的なものが欠けていた。天地創造において、神は人を形づくられたが、神の息を吹き入れられることにより初めて人は生きる者となった(創2:7)。同じように、教会が命を受けるためには、聖霊を注がれる必要があったのだ。

 聖霊降臨によって、この世における神の救いの歴史は新しい段階に入った。弟子たちは、聖霊の力に満たされて立ち上がり、暗闇に逆戻りする力を振り切って、主イエスが十字架の死から復活されたことを力強く証しし始めた。

 ここに「新しい神の民」としての教会が誕生したのだ。初代の教会は、聖霊の力を豊かに受け、生き生きと伝道する群れだった。そして、そこでは聖霊の働きによって、「イエスは主である」という信仰告白が生み出されていった。

 また、初代教会に招かれたのは限られた人たちだけではなかった。それまで「異邦人」と呼ばれ、同席することなど考えられなかったあらゆる人々に等しく福音は宣べ伝えられた。彼らは「"霊"が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」(4節)とあるが、聖霊は、福音を世界中に広めてゆく計り知れない力を持っている。

 彼らが聖霊を受けて語り出した福音の内容とは、神の御子がすべての人を救うため十字架にかかって死なれ、永遠の命をもたらすためによみがえられたということに他ならない。教会は、厳しい迫害を乗り越えてこの福音の灯を守り続け、新しい教会を次々と生み出していった。そして、祈りと礼拝を守り続ける教会には新たな信仰者が増し加えられていった。

 その結果、まさに地の果てである日本にも福音が伝えられ、神の民が起こされた。我々の洛北教会も、熱心に祈り、正しい福音に固く立つことによって、百年以上にわたる歩みを守り導かれてきた。

 日本伝道の歴史を振り返る時、いつでもそこに信仰の先達の祈りと奉仕が豊かに献げられてきたことを思い起こす。心を合わせて熱心に祈る人々が、聖霊に満たされ、立ち上がるところには、絶えず伝道の進展がもたらされてきた。

 この営みは、これからも決して途切れることなく続けられ、終わりの日に向けて確実に神の民が広がってゆく幻が示されている。主なる神は、この国にも確かに聖霊を送り、聖霊による御支配のもとに神の民を確実に増し加え、キリストの御体を完成へと向けて着実に成長させてくださっている。

 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」(使2:17)。聖霊に満たされた神の民は大いなる幻と豊かな夢に生きることが出来る。広がりゆく神の民に召されている者として、我々も心を合わせて熱心に祈りつつ、良き実の結ばれる日が来ることを共に待ち望みたい。

2010年5月30日 三位一体主日

説教:「主イエスによって神の子とされる」
聖書朗読:ローマ書8章12〜17節
説教者 : 北川善也牧師

 聖書は、神から必死で逃れ、自分の力で生きようとする人間の姿を描き出す。神が初めに創造されたアダムとエバしかり、人類最初の殺人を犯して逃亡するカインしかりだ。その中でもとりわけ印象的なのは、ヨナの物語だ。

 ヨナは、神からニネベの町での宣教命令を受けるが、それを拒み、神に背いて別の町に向かおうとする。彼が乗り込んだ船は大嵐に遭い沈みそうになる。同乗者たちは、この災難をもたらした者を探し出すためくじ引きをするが、そのくじはヨナに当たる。彼は観念して、人々に自分を海に投げ込ませると、荒れ狂っていた海は静まった。一方、神はヨナを魚に呑み込ませ、その命を守られた。魚の腹の中で、ヨナは信仰に目覚め、神に従う者へと変えられてゆく。

 このヨナの物語は、魚に呑まれた後の神への立ち帰りが重要なのだが、その前の必死で神から逃れようとするヨナの姿は我が身に迫るものがある。聖書は、必死で神に抗う人間の姿と、そんな哀れな小羊のようにさまよう人間に目を注ぎ、御言葉をもって捉え、悔い改めに導き、立ち帰りを与えてくださる神の姿を告げている。

 人間は、どこまでも身勝手で自己中心的な存在だ。人間は、自分の力で自由を獲得し、安らぎを手に入れることが出来ると錯覚しているのだ。だからこの世は、自分の力に頼って生きることが美徳であるかのように教え、また求める。しかし、我々はそのような生き方によって真の希望を持ち、決して揺らぐことのない土台の上に立ち続けることが出来るだろうか。

 人間には、自分の力では絶対に越えることの出来ない限界がある。だから、自分の力に頼って生きる者は限界に直面した時、敗北感と虚しさのどん底に陥ってゆく。人間の究極の限界は「死」だ。

 パウロは言う。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」(13節)。自分の力に頼って生きる生き方には限界があり、それはどんなに頑張っても乗り越えることが出来ない。死という究極の限界によって、誰もがそれ以上先に進むことの出来ない終わりを迎える。パウロは、そのような生き方を「奴隷のようだ」と言うのだ。

 しかし、イエス・キリストを信じる者は、その限界を突き抜けてゆくことが出来る。神の御子である主が、すべての人間を信仰によって神の子とし、永遠の命を与えて神の国へと導いてくださるからだ。人間は、信仰によって肉に従って生きる奴隷生活から解放され、真の自由に入れられてゆく。

 主イエスは、我々と同じ肉の姿をとってこの世に来られたが、それは人間の究極の限界、すなわち死を経験し、それを打ち破るために他ならなかった。自分の力に頼って生きるしかないと思い込んでいる人間は、死んだらすべてが終わりになる虚しい終点を見据えて歩むしかない。しかし神は、そんな人間を憐れみ、真の希望と喜びに生きる者とするため、御子を十字架につけてくださった。

 主イエスは、神の御子として、すべての人間を愛するがゆえ十字架にかかり、最後の最後まで父なる神に執り成しの祈りを献げてくださった。だからこそ、我々は罪赦され、神との本来あるべき関係を完全に回復することが出来たのだ。十字架の出来事によって、我々は既にあらゆる限界を突破し、奴隷の立場から解放されている。

 それゆえ、我々にとって何よりも重要なのは、主イエスを信じる信仰により、神の子とされ、神の国を継ぐ者とされることだ。神は、すべての人間が神の子とされることを望み、信仰へと招いておられる。そして、教会はすべての人間を救いに導く働きのために立てられた神の器に他ならない。

バックナンバー