日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

10年6月のバックナンバーです。

2010年6月6日 聖霊降臨節第3主日

説教:「キリストの御名によって大胆に語る」
聖書朗読:使徒言行録4章13〜31節
説教者 : 北川善也牧師

 二千年前のエルサレムで起こった聖霊降臨の出来事によって、主イエスの弟子たちは立ち上がり、主の十字架と復活の出来事を証しし始めた。その中でも、特にペトロの説教は大変力強かった。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった」(使徒2:41)。

 こうして始められた新しい共同体の生活は、以下のようなものだった。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(2:44-47)。

 さて、この共同体のリーダーであるペトロとヨハネが、ある日、神殿の境内で施しを受けていた、生まれながらに足の不自由な男をいやした(3:1-10参照)。そしてペトロは、この出来事に驚き集まってきた大勢の人々の前でも復活の主を力強く証しした。こうして、着実に勢いをつけていくキリスト者の群れを目にして、律法主義者たちは恐れを募らせていく。

 「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。……しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった」(4:1-4)。彼らを拘束しても、信徒たちは収まるどころかますます増え広がっていった。

 人々は、彼らの大胆な話しぶりに驚く。彼らが何も恐れず、何ものにも囚われないで自由に話したからだ。しかも「無学な普通の人」である彼らが、聖書を各所から引用しつつ、神による救いの出来事を豊かに語る様子は、誰が見ても不思議に思わざるを得なかった。

 我々は、弟子たちの誰一人として、最後まで主イエスに従い抜くことが出来なかったのを思い起こす。しかし、十字架上で死なれた主が墓の中から復活され、御自ら彼らのところにやって来られることによって、彼らは大きく変えられてゆく。以後彼らは、誰もが主イエスと共に歩んでいると認めざるを得ないほど、しっかりと主に結びついて生きるようになった。

 主イエスは、かつて約束された。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)と。復活された主は天に昇り、聖霊によって我々と共にいてくださるようになった。そして、我々は聖霊の導きに従い、御言葉と聖餐の恵みに与ることによって、すなわち主の御体なる教会に連なり礼拝を守ることによってキリストと固く結び合わされる。

 弟子たちを釈放する際、律法主義者たちは「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないように」と命じるが、弟子たちは「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(4:19-20)と答える。「見たこと、聞いたこと」とは、彼らが体験した復活の主との出会いに他ならない。死を打ち破り、永遠の命を勝ち取られた主によって彼らに送られた命に充ち満ちた聖霊の躍動は、彼らを立ち止まらせてはおかない。

 今、我々にもそれと同じ聖霊がもたらされ、教会へと招いておられる。聖霊の働きによって、復活の主が我々と出会い、我々を生まれ変わらせ、我々を復活の証人として遣わしてくださるのだ。

2010年6月13日 聖霊降臨節第4主日(花の日)

説教:「主イエスがしてくださったこと」
聖書朗読:マルコ福音書5章1〜20節
説教者 : 北川善也牧師

 人間には、隙さえあれば神に背を向けようとする本性がある。そうして人間は神の似姿として造られたことを忘れ、神から離れて好き勝手しようとする欲望へと突き進む。人間は、このようにして「悪霊」に囚われ、暗闇に陥ってゆく。この世は、無数の悪霊がはびこり、闇に覆われているのだ。

 ある日、主イエスは湖岸の町、ゲラサに赴かれた。ゲラサは、異教の地、デカポリスに属しており、そこで暮らす人々は真の神を知らぬまま生きていた。この町には、墓場を住まいとする一人の男がいた。彼は一般の人たちから隔離され、共同体の外で暮らすことを余儀なくされていた。それは、彼に悪霊が取りついていたからだ。彼は、墓場という死の領域に身を置き、暗闇の中で生きていたのだ。

 そんな男が死の陰を引きずって自分たちのところに近づくことがないよう、人々は彼を足かせや鎖で墓場に縛りつけていた。しかし、彼は悪霊の力により、そんな障害をものともせずに暴れ回った。罪と死の圧倒的勢力である悪霊を、たった一人の男に負わせておくことなど到底不可能だった。なぜなら、罪の結果としてもたらされる死は、すべての人間が免れることの出来ない問題だからだ。

 主が舟から上がられるとすぐに悪霊に取りつかれた男がやって来て「主イエスを迎えた」(2節、新改訳)。墓場を住まいとする死の陰を負った男が、自ら主のもとに近づいていった。神の似姿に造られ、神の息を吹き込まれて命を受けた人間は、本質的に命の源である神を探し求める存在なのだ。

 だが一方、闇に魅入られた人間は悪霊から逃れられず、それゆえ死の陰から抜け出すことが出来ない。悪霊に取りつかれた男は主を出迎えるが、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と大声で叫ぶ(6-7節)。暗闇の勢力である悪霊は、まばゆく輝く神の御子を受け入れることが出来ない。

 「レギオン」(軍団)と名乗る悪霊は、主の命令によって二千匹ほどの豚の群れに乗り移り、湖になだれ込んで滅び去る。ここで注目すべき点は、主がこの男から「悪霊を引き離した」という事実だ。人間がどうあがいても離れられない罪と死の勢力から引き離す力を持っておられるのは神のみだ。

 かくて墓場を住みかとしていた男が正気を取り戻し、きちんと服を着て居住まいを正すに至った。ルカ福音書によれば、彼が居住まいを正して座ったのは、「主の足元」だった。彼の人生は、その時から大きく変わった。主がゲラサを去ろうとした時、彼はこの先も同行させてほしいと願い出た。彼は、自分を死の闇から命の光へと移しかえた御言葉をいつも近くで聴いていたいと願ったのだ。

 だが、意外にも主はそれをお許しにならなかった。むしろ、彼に家族のもとへ帰るよう命じられた。主は、彼を家族伝道のために遣わされるのだ。彼は、それまで家族ばかりか社会から隔離され、墓場で叫び、徘徊し、自分自身を傷つける闇のような日々を送っていた。しかし彼は、そんな日々を過去のものとし、全く新しい、主が命じられる喜びに満ちた働きへと遣わされてゆく。しかも彼は、デカポリス地方一帯、すなわち異邦人全体に対する最初の伝道者として立てられ、「主イエスが自分にしてくださったこと」を力強く人々に宣べ伝えてゆくのだ。

 主がゲラサに来られたのは、汚れた霊に取りつかれ、人間性を喪失し、獣のような生活をしていたこの男を救うためだった。たった一人の救いを通して、主は大勢の異邦人を救いに導く御計画を進めていかれるのだ。このような御業は、死を打ち破り、永遠の命を勝ち取られた神の御子、イエス・キリスト以外にはなし得ない。

2010年6月20日 聖霊降臨節第5主日

説教:「キリストの御名によって祈る」
聖書朗読:ローマ書8章18〜30節
説教者 : 北川善也牧師

 「空の空、空の空、いっさいは空である」(伝道1:2、口語訳)と旧約時代の人が告白するように、我々は自分がいかにはかない存在であり、いったい何のために生きているのかわからなくなるような状況に置かれた時、祈る言葉を失ってしまう。これは、祈る対象を見失っているのと同じ状況だ。

 パウロは、神によって造られた全被造物が、今現在、空しさを味わい、うめき苦しんでいると告げる。彼は、神に造られた存在を悲観的に捉えているように見える。しかし続けて、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(18節)と言う。なぜ現在が苦しみの時なのかと言えば、それは悪霊の働きが未だ収まっていないからだ。

 さらにパウロは、「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます」(19節)と言う。主イエスが再び来られる時、すなわち終わりの日に、「神の子供たちの栄光に輝く自由」が人間だけでなく、自然界にも与えられると言うのだ。つまり、生けるものすべてにとっての終着点である死を超えて、全被造物が「滅びへの隷属から解放され」(21節)るという約束がここに示されているのだ。

 しかし、それはあくまでも将来の約束であり、現時点においてすべてのものは依然として「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(22節)。だが、神の似姿として造られた人間は、そのような状況にありつつも全被造物に先立って、栄光に与るための「"霊"の初穂をいただいている」(23節)。

 「"霊"の初穂をいただく」ことによって、信仰者は終わりの日における神の国の栄光の前味を味わうことが出来る。確かに、その日が来るまで、被造物は深刻なうめき苦しみを味わわねばならないかも知れない。しかし、そこには他の何ものにも優る「栄光の自由」という大きな希望がある。信仰者は、神の国の希望によってこそ、うめき苦しみに満ちたこの世の歩みを耐えることが出来るのだ。

 信仰者は、地上をさすらいつつ天上に生き、「悲しんでいるようであるが、常に喜んで」いる(Uコリ6:10)存在だ。現在の試練や困難の向こうに、完成された神の国をはるかに仰ぎ見つつ進む、それがキリスト者に赦されている恵みに満ちた歩みに他ならない。

 そのような信仰をもたらす聖霊は、祈る言葉を失ってしまった人間の口に祈りの言葉をもたらすと言われている。自分が何を祈るべきかわからなくなるほど、祈りにおいて不完全である人間は、聖霊の働きによって「言葉に表せない切なるうめきをもって」祈りの言葉をもたらされ、その祈りは必ず神に聞き入れられるのだ。

 この後の讃美歌には、次のように歌われている。「祈りは口より出で来ずとも、まことの思いのひらめくなり。祈りは心の底にひそみ、隠るる炎の燃え立つなり」(308番1節)。心の奥底にひそむ炎のような我々の切なる祈りが、聖霊によって引き出され、それを神が必ず聞き上げてくださるのだ。これは何という恵みだろうか。

 我々の周囲には、「空の空、空の空、いっさいは空である」という空しさが取り巻いている。しかし、我々はこのようにして聖霊の助けによって祈りをもって神と向き合うことにより、そんな空しさを乗り越えさせていただくことが出来る。それは、我々に送られる聖霊が、神の御一人子、イエス・キリストの執り成しの祈りによって、父なる神のみもとから送り出されたものだからに他ならない。

 この聖霊の働きにより、我々は終わりの日の大いなる希望に与り、ただうめくしかないような言葉にならない切なる祈りをも聞き上げられて、神の御前に堂々と進み出ることを赦されているのだ。

2010年6月27日 聖霊降臨節第6主日

説教:「主イエスの復活が証言される場所」
聖書朗読:使徒言行録13章13〜25節
説教者 : 北川善也牧師

 今日の聖書箇所において、使徒パウロは「ケリュグマ」の説教をしている。ケリュグマとは福音の核心のことだが、それは、@ナザレ人イエスはダビデの子孫であり、A旧約聖書に預言されているキリストであり、B神によって遣わされ、C人々の罪の贖いのために十字架上で死なれ、D三日目によみがえり、E神の子として神の右に挙げられ、F審判者、救済者として再臨される、ということだ。

 ここには、パウロによる第一回伝道旅行の様子と彼の異邦人に対する最初の説教が記されているが、ここで想起したいのは使徒言行録9章に記された彼の回心前の姿だ。パウロは、誰よりも厳格に律法を遵守し、また人々にもそれを守らせようとしたファリサイ派の中心人物であり、特に彼は律法違犯者と見なされたキリスト者迫害の急先鋒に立っていた。

 そんなパウロが、ダマスコのキリスト者迫害に向かう途中、突然衝撃的な光を受け、全くの無力とされる。彼がその光の中で出会ったのは、復活の主イエスに他ならなかった。彼は、十字架以前に主とお会いすることはなかったが、ダマスコ途上で確かに主と出会い、主の御言葉を受けて、その後の人生を大きく変えられてゆく。

 こうしてパウロは、それまで敵視していたキリストの福音伝道者として立てられ、さらにかつて忌み嫌っていた異邦人への伝道に向かう。なぜ彼が異邦人を忌み嫌ったかと言えば、異邦人が律法の定める食物規定に違犯する汚れた存在と見なされていたからだ。しかし、あの日、主と出会い、律法よりもずっと大切な信仰によって目を開かれた彼は、そのような「隔ての壁」を乗り越えてゆくのだ。

 パウロは、人間の救いは「イエスこそ救い主」という信仰によってのみ与えられると信じ、それゆえ信仰以外の何ものも不必要と考えるようになった。以前は、何よりも律法、すなわちこの世の事柄を大切にしていた彼にこれほどの変化をもたらしたのは、神の御力以外の何ものでもない。

 異邦の地、アンティオキアに着いて最初の安息日に、パウロ一行は「会堂に入って席に着いた」(14節)。そして、パウロは会衆一同の前で説教するよう依頼される。

 「パウロは立ち上がり、手で人々を制して」、堂々と語り始めた。そして、「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」(16節)と言って、ユダヤ人と異邦人とに呼びかけつつ、「この民イスラエルの神は…」と語り続けた。彼は、そこにいるすべての人々を一つの民と見なした。つまり、この世のすべての人間が一つの民とされる幻を見ながら語り出したのだ。

 このようにしてパウロは、キリストの福音を宣べ伝え始めた。特に27節以下でケリュグマが語られている。「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」。パウロをここまで力強く語らせるのは、もはや彼の力ではない。彼は、ダマスコ途上で生まれ変わったのだ。彼は聖霊に満たされ、誰にも止められない力によって押し出されて異邦人伝道へと突き進んでゆく。

 神の福音、キリストによる救いの出来事は、このように底知れない力を持って我々に迫り来る。この福音が力衰え、消え果てていくことなど決してあり得ない。

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