先週の説教 -バックナンバー-
10年7月のバックナンバーです。
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説教:「思いわずらうな。主イエスが共におられる」
聖書朗読:マルコ福音書8章14〜21節
説教者 : 北川善也牧師
主イエスは、弟子たちに「まだ悟らないのか」(21節)と言われた。主は、これをどんな心境で語られたろう。呆れ果て言い捨てるようにか、あるいは怒りを爆発させてか。
「まだ悟らないのか」とは、確かに厳しい言葉だ。しかし、主は御自分が愛してやまない弟子たちが必ず悟ると信じておられるからこそ、これほどまでにも言葉を重ねて戒めをお与えになったのだ。
8章冒頭は、主が4千人に食事を分け与えた奇跡を伝える。5つのパンと2匹の魚を5千人に分けられた時同様、主はここでも「パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった」(6節)。
主は弟子たちを介して人々を恵みと祝福に満ちた食事へと招かれた。つまりこの食卓は、まず弟子たち自身が主の招きに応え、主に対して心を開かねば始められないのだ。主がどなたであるかを、彼らが悟らずして人々に証しをし、招くことなど到底出来ないからだ。
弟子たちが悟るべきこと、それはこの御方こそ神の御子であり、旧約が指し示すメシアであるということに他ならない。そして、何より大切なのは、4千人の給食が指し示しているのが、これから主がおかかりになる十字架の出来事であるということだ。主が十字架の上で血を流し、肉を裂かれることにより、すべての人間を救いに導くという神の約束が成し遂げられた。主御自ら招いてくださる食事は、まさにこの救いの出来事を指し示している。ただし、この食事は聖餐とは言えない。聖餐は、「主の晩餐」とも呼ばれるように、最後の晩餐によって指し示される。
我々はこの出来事を通して、神による救いの恵みを示されている。それも我々が必死で探し求めることによってではなく、主の方から一方的に近づき、この世の暗闇に囚われている我々を真の光で照らしてくださることによって、救いの約束が与えられるのだ。
弟子たちは、舟でだいぶ沖へ漕ぎ出してから持参したパンが一つであることに気づいた。そして彼らは、主の「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(15節)という言葉をきっかけにして動揺しだす。
この言葉は、弟子たちが宗教的権威や政治的権力などを求めぬよう戒めるものだった。つまり彼らは、この世のものではなく神の恵みに目を向けるよう教えられているのに、逆にパンが一つしかないという目先の事柄に囚われて、一層動揺を深めてしまうのだ。
その時、彼らが本当に目を向けるべきだったのは、舟に同乗しておられる主に他ならなかった。彼らは、共におられる主にすべてを委ね、尋ね求める謙虚さを持つべきだった。だが、主から命のパンを二度も受け取り、何ものにも代えがたい神の豊かな恵みを味わい知ったはずの彼らがそのことをいとも簡単に忘れてしまうのだ。
しかし、そんな彼らに、主は何度も呼びかけ、諭してくださる。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(17-18節)と。
注目すべきは、主がそのように教えてくださる場所と方法だ。主は、離れた所からではなく、同じ舟の上で彼らに教えられた。また、彼らは一つのパンしかなかったことによって言い争いを始めるが、主はその一つのパンで彼らを豊かに養い、満ち足らせてくださる。
我々は、主の聖餐によって、弱さゆえすぐ忘れそうになる神の恵みの豊かさを味わい、心に刻み付けていただく。この恵みによって、我々は罪赦され、真の命を生きる者とされる。いつでも教会という箱舟には主が共に乗っておられ、我々のすぐそばで神の豊かな恵みを与え続けてくださるのだ。
説教:「真理をもたらすキリスト」
聖書朗読:マルコ福音書8章22〜26節
説教者 : 北川善也牧師
主イエスと絶えず行動を共にし、最も近くでその御業を目撃し、語られる御言葉を聞いていた弟子たちだったにもかかわらず、彼らは主がどのような御方であるかを正しく受け止められなかった。
さて、そんな主の一行がベトサイダの町に着くと、人々が主のもとに一人の盲人を連れて来て、触れていやしてほしいと願った。主はすぐその願いに応えられたが、この時のいやし方は他の場合と異なっていた。主は、「盲人の……目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて」(23節)いやされた。
これは、おそらく見なければ信じられない弟子たちのためだろう。主は、頑なでなかなか信じられない彼らを信じる者とするために、あえて目に見える形で、しかも段階を踏んでいやされたのだ。
ところで、かつて主は5つのパンと2匹の魚で5千人の人々を満腹にさせられ、その後7つのパンで4千人を満腹にさせられた。弟子たちは、これらの奇跡を最も近くで目撃し、自らその食事に与った。こんな奇跡の出来事を体験した彼らは、すぐに主を証しする者として立てられていっただろうか。
彼らは、相変わらず主を正しく理解できないままだった。この後、主は彼らに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになる。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」と答える彼らに、主が「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とお尋ねになると、即座にペトロは「あなたは、メシアです」と答えた(8章27節以下)。これは、最古の信仰告白とも言われる、主について短くかつ的確に言い表した言葉だ。しかし、この時ペトロが捉えていた「メシア」像と主御自身が示そうとされたメシアの姿には決定的な開きがあった。
主が御自分の十字架の死と復活の出来事を予告された時、ペトロは主をわきへお連れしていさめた。彼は、主が奇跡の力をもってローマ帝国の支配を終わらせ、ダビデ・ソロモン時代の栄華を極めたイスラエルを回復してくれると信じていた。だから、彼は「メシア」が十字架にかかって死ぬなどという話を聞きたくもなかったのだ(8章31節以下)。つまり、ペトロの告白は、言葉の上では正しかったが、内容においては誤りだった。
弟子たちは、すぐそばにいる主のことがよく見えていなかった。盲人は、主に触れていただくことによっていやされたが、最初に触れられた段階では、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」(24節)と言うように完全に見えるようにはならなかった。このように、主の真の姿はなかなかはっきりと見えてこない。
主は、盲人に「何か見えるか」とお尋ねになった。この問いは、主が弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねられた問いと重なる。また、おぼろげに何か見えるまで回復したものの、まだ完全には見えない男の姿は、「あなたは、メシアです」と告白しながら、主の本当の姿を理解していない弟子たちの姿と重なる。
しかし、主はそのままにしておかず、「もう一度両手をその目に当て」(25節)て、はっきりと見えるようにさせてくださる。盲人の目は、主に触れていただくことによって確かに開かれた。こうして彼は暗闇の世界から光の世界へと主に伴われて歩み出すことが出来た。
弟子たちはこの後、復活の主と出会い、主が送ってくださる聖霊を受けることによって、ようやく主を正しく理解し、復活の証人として力強く立ち上がっていく。これは、すべての人々が主と出会い、主を自分の中にお迎えするという幻でもある。このようにして主が真の光をもってこの世を満たしてくださる時を共に祈り求めたい。
説教:「信仰の叫び」
聖書朗読:マルコ福音書9章14〜29節
説教者 : 北川善也牧師
今日与えられた聖書に登場する父親が自分の息子を心から愛していたことは、聖書の記述からもはっきりわかる。彼の息子は、「霊に取りつかれて、ものが言えない」上、「所かまわず地面に引き倒され」、「口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまう」状態だった。父親は、息子を必死で守り、彼の命をここまで何とか繋ぎ止めてきたのだ(22節)。
そんな父親に主イエスが来られたという情報が届いた。父親は、何とかしてほしいという一心で息子を連れて行ったが、そこに主は不在であり、弟子たちしかいなかった。そして結局、弟子たちは息子をいやすことが出来なかった。
この様子を見ていた律法学者たちはほくそ笑んだ。彼らは、弟子たちにいやしの業を成し遂げる力がないのを見て安心した。しかし、安心したのは律法学者たちだけではなかった。こともあろうに弟子たち自身もそうだったのだ。
彼らには、この父親と息子に対して真剣に向き合う愛が欠けていた。それゆえ、息子のいやしを神に対して真剣に求める祈りが欠けていたのだ。しかも、彼らは、主が戻ってこられた今、自分たちは責任を逃れ、すべてを主御一人に押しつけて安心するに至ってしまった。つまり、彼らにはそもそも弟子としての自覚が欠けていた。
そんな欠けの多い弟子たちを見て主は言われた。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」(19節)。
人間は、自分に信仰のないことを、主の御言葉によって知らされる。主は、神の御言葉としてこの世に来られ、暗闇の中にとどまっている人間を照らし出し、信仰に目覚めさせてくださるのだ。
主は、「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれたが、真の救いの光である神の御言葉は嘆きの言葉にとどまることはない。主はすぐに続けて、「その子をわたしのところに連れて来なさい」という招きの言葉を告げられた。
主は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)という宣言と共に公生涯を開始された。この御言葉は、主がこの世に来られることにより、神の国が確実に近づいたことを告げている。主がこの世に来られたのは、十字架にかかって死んでくださるためだった。神の御子の死というこれ以上ない代償によって、すべての人間の罪が完全に贖い取られ、神の子とされる赦しの出来事が成し遂げられたのだ。こうして主によって成し遂げられた十字架という究極の出来事により、今や圧倒的な力で神の国が引き寄せられているのだ。
「その子をわたしのところに連れて来なさい」という主の招きに与った父親は、主に「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)と恐る恐る願った。「信仰のない時代」に生きる父親には、主に対する完全な信頼がまだ生まれていなかった。
そんな父親に対して、主は次のように言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(23節)。主は、「何でもできる」救いの源である福音の光をもって「信仰のない時代」の暗闇を刺し貫き、我々を照らし出して、信仰へと導いてくださる。
このようにして、信仰のない人間が「信じる者には何でもできる」と語りうる唯一の御方の招きを受け、主の御前に立たされるという恵みの出来事がここに示されている。この招きを受けたからこそ、父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」という信仰の叫びを発することが出来た。
「インマヌエル」である主、イエス・キリストは、いつも我々と共にいて、「信仰のない時代」を生きる我々の歩みを、真の救いに至る道へと絶えず導いてくださる。
説教:「いと小さき者に向けられる主イエスの愛」
聖書朗読:マルコ福音書9章33〜41節
説教者 : 北川善也牧師
主イエスは、いつでも自分が一番でありたいと願う人間の身勝手さをよく知っておられた。そして、弟子たちでさえ、主を十字架につける側に立つか、主と共に歩み続けるかは紙一重であることを主はご存知だった。そんな彼らに対し、主は噛んで含めるように、何度も神の真理を語り聞かせられた。
ここにおいて熱い口調で一方的に語っておられる主は、まさに神の御言葉が姿を取って立ち上がり、こちらに向かって来るような力強さを感じさせる。ヨハネ福音書が告げるように、主は人間に真の救いをもたらす神の御言葉としてこの世に来られたのだ。
だから、後は御言葉に与る人間がそれをどう聞き取るかにかかっている。身勝手な存在として生き続けるのか、それとも創造当初のように、神に似た者としての自分を回復する道を選ぶのか、人間の生き方そのものが問われている。
さて、マルコ福音書において、主の公生涯は洗礼をもって開始された。そして、主は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)の宣言と共に12弟子を選び、その周囲に次々と群衆が集まるという仕方で信仰共同体が形成されていく。神の国は、洗礼によって始められ、弟子たちはそれを拡大するための福音宣教へと遣わされていく。弟子たちは、なかなか主を正しく理解出来ず、過ちを繰り返すが、主はそんな彼らを見捨てることなく、何度でも根気強く教え導かれる。
こうした背景に心を留めつつ、今日与えられた箇所に記された「主が子供を抱き上げられる」場面を、続く「主が子供を祝福される」場面(10:13以下)と合わせて注意深く読み進めてみたい。
ここで「子供を抱き上げる」と訳されているギリシャ語は、新約にたった2回、それもこの子供に関する2つの記事のみに用いられており、10章16節によればそれは子供の祝福を指し示す言葉だ。つまり、主の受洗に重点を置くマルコは、「子供を抱き上げ、手を置く」という行為によって、洗礼を想起させようとしているのだ。
ギリシャ・ローマ世界では、子供が生まれるとまず父親の足下に置かれ、父親がその子を抱き上げて認知しなければ、その子は捨てられたという。一方、アラム語の「子供」という言葉には、「しもべ」の意味もあり、ギリシャ語の「子供」は、『70人訳』のイザヤ書53:2における「苦難の僕」を表す言葉として用いられている。
これらの事柄からも、当時の社会にあって子供は全く価値を見出されない存在だったということがわかる。だからこそ、子供たちは弱く小さな貧しい存在として、本当の助けを必要としていた。主は、この世において価値を見出されることのない子供のような存在を、洗礼によって真の命を生きる共同体の中心に迎え入れられるのだ。
さて、続く38〜41節は、弟子たちの知らないところにも主の名による共同体が存在していたことの客観的な報告記事だ。主が子供を通して示されたことがこの出来事にも反映しているなら、そこには洗礼によって信仰共同体に加えられる新しい弟子たちを守らねばならないとの教えが見えてくる。
主はこの後、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(10:45)と言われた。これこそすべての人に洗礼の大切さを示し、すべての人の先頭に立って神の国の門を開いてくださる御方が歩まれた道のりに他ならない。
このような御言葉の種を蒔かれた人間が、十字架と復活という神の御子による救いの出来事を受け入れる者とされていく。そうして信仰によって目を開かれた時、我々は洗礼を受け、十字架に向かって進まれる主に従っていくのだ。