日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

10年8月のバックナンバーです。

2010年8月1日 聖霊降臨節第11主日

説教:「わたしたちの平和」
聖書朗読:エフェソ書2章11〜22節
説教者 : 田中 顕執事

 日本基督教団の行事歴では、8月第1週の主日は平和主日とされ、特別な思いで平和を願い、祈り、思いを新たにしようとして来た。

 今、教会学校の成人科では旧約の学びをしている。創世記12章のアブラハムの召命から始まり、ヨハネ黙示録に至る旧・新約聖書に示された長い物語を、教案誌のテキスト研究執筆者、上田光正先生は、「救済史」と呼んでおられる。神がすべての人を救おうとされる、愛と憐れみの物語だと言っておられる。そして今も神の救済史は続いているのである。だから、我々は、どれほど世が混乱していようとも、心に不安を抱えていてもなお、御心のなること、つまり主の平和を祈りたいと思う。

 では、主の平和はどのようにして実現されていくのか。エフェソ書2章14節には、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」と書かれている。パウロらの異邦人伝道によって建てられた教会の内では、ユダヤ教から改宗した人とユダヤ教の下地を持たないいわゆる異邦人と言われる人が共に礼拝を守っていた。そのような教会の、特に異邦人の信徒に向け、パウロは「実にキリストは私たちの平和です」と言っている。

 キリストの平和は、キリストが十字架で死なれることによって、主の教会において共に一つの体として、神からの和解に与ることにより赦され、神との平和を頂き、その恵みの上に、お互いの間の敵意という中垣を取り除かれることだとパウロは語っている。キリストが実現して下さる真の平和は、私の平和ではなく、対立していた我々の間の平和のことなのだ。

 主の平和は、教会を通して、共に神との和解に与ることによって、隔てが解かれ共に礼拝する群れとして広げられて行くと語っていると思う。これが、主が平和を実現して下さる仕方である。私たちの教会も初代の教会から続く救済の歴史の中に置かれていることを忘れてはならないと思う。

 改めて問う。主の平和とは何だろうか?神の愛と憐れみとして与えられた、御子イエス・キリストの十字架の死、そして復活が、我々の罪を贖い、赦し、神と和解させ、神との平和をもたらして下さったことだろう。神との正しい関係の回復、義の回復とも言えるし、主が聖霊を通して、共に居て下さることとも言えると思う。また、終りの日への希望とも言える。

 しかし、主の十字架と簡単に言ってしまうが、そこには御子イエス・キリストのどれほどの痛みと苦しみがあったことだろう。罪のない御子が、罪人以外の何者でもない私の身代わりとして十字架に付き、苦しんで下さった。しかも、その痛みと苦しみを通して、我々の罪を赦して下さったのだ。自らの罪に対する主の痛みと赦しを真に知り、主の平和を頂いた群れは、赦された者として他者の痛みと他者を許すことを知り、主の和解を分かち合う群れへと変えられて行くのだろう。

 自分の弱さや愚かさを引きずりながら、それでも聖霊に導かれて教会へやって来て、繰り返し、繰り返し十字架のもとに立たされ「私たち」という仲間と共に御言葉と聖餐に与り、また主に在る群れの交わりを受けることで、この十字架に現されている神の重い真実に触れた時、神の赦し、愛、主の平安を頂き、我々は、ありがたいなあとか、もう一度やり直してみようと思うとともに、周りへと目を向けさせて頂けるのではないかと思う。

 共に主に在って一致し、教会に集うことの出来ない方々への配慮を尽くしつつ、群れに与えられた神の赦しと平和を週ごとに味わい、礼拝より押し出され、「ここには、私たちの平和があります。主は私たちの平和です」と、喜びを伝える和解の務めへと遣わされて参りたいと願う。

2010年8月8日 聖霊降臨節第12主日

説教:「神の国を受け入れる人」
聖書朗読:マルコ福音書10章13〜16節
説教者 :北川善也牧師

 主イエスが、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と弟子たち自身の答えを求めた時、ペトロは「あなたは、メシアです」と即座に答えた。だが、その直後に主が御自分の苦難の歩みと十字架の死を告げられると、ペトロは主をわきへ連れ出しいさめた。その時、主はペトロに「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱りつけた(8:27以下)。

 「ペトロの信仰告白」とも言われる出来事と主の強烈な叱責が直結している事実は、誰よりも多くの時間を主と共に過ごし、誰よりも豊かにその教えを受けていた弟子たちでさえ、なかなか主を理解出来ない様子を生々しく伝えている。

 しかし、主はこの出来事をきっかけとするかのようにガリラヤ伝道に区切りをつけ、エルサレムへと向かう旅を始められる。エルサレムで主を待ち受けているのは、御自身が予告された十字架の出来事に他ならない。

 主の一行がその旅路についてからも以前と変わらず大勢の群衆が集まり、主はその道々でも神の国の福音を宣べ伝えられた。そこに、主に触れていただくため、人々が子どもたちを連れてやって来た。

 主の特別な力は多くの人々の知るところとなっていたので、親たちは自分の子どもにそういう御方の祝福を受けさせたいと考えたのだろう。彼らは、主を正しく理解していたわけではなかった。彼らは、主から祝福を受けることで、自分の子どもの将来に少しでも安心を得たいという程度の思いで来ていたのだ。

 その意味では、この時、弟子たちが彼らを叱ったことは、ごく当然の判断だったと言える。弟子たちは、そのような身勝手な者たちによって、主の集会が妨げられてはならないと考えたのだ。

 ところが、主は弟子たちに対して憤られ、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」と、彼らが考えていたのと正反対のことを言われた。

 弟子たちは、絶えず行動を共にしている自分たちこそ主に一番近い存在であり、それゆえ自分たちは神の国にも近いと考えていた。そんな自分たちを囲むようにして、大勢の群衆が主の教えを聞こうとして集まっているが、弟子たちにしてみれば、主と彼らの距離が自分たち以上に近くなることはありえない。ましてや、そんな彼らが連れて来た子どもなどはもっと遠いところにいると彼らは考えた。

 しかし、主が「子供たちをわたしのところに来させなさい」と言われた時、弟子たちの価値観は音を立てて崩れ去った。主から一番離れていると思っていた存在が一番近いということは、逆に一番近いと思っていた自分たちが、実は一番離れているということになるからだ。

 弟子たちは、主に近づこうとする親たちを退けようとした。それは、親たちが主の言葉を聞くためでなく、ただ自分の子どもの幸せを願い、いわば自己中心的な思いでやって来たと見なしたからだ。

 では、弟子たち自身はどうだっただろうか。少し先に次のようなエピソードがある。ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、主に「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(10:37)と願った。彼らは、主がこれまでなさった数々の奇跡の力をもってローマ帝国の支配を終わらせ、イスラエルの真の支配者として立ち上がってくださると信じた。そして、そうなった暁には自分の地位を高くしてほしいという非常に利己的な理由で主に近づいたのだ。しかも、他の弟子たちも彼らの訴えを聞いて腹を立てたと記されている。つまり、弟子たち全員が同じように考えていたのだ。

 しかし、彼らはこの後、もっと強烈な仕方で自分たちの利己心をさらけ出すことになる。主が十字架にかかる前の晩、彼らは主を見捨てて逃げ去るのだ。しかも、一番弟子のペトロは、人々に問い詰められて、三度も主を否んでしまう。

 こうして、主の最も近くにいるという弟子たちの思いは、あっけなく崩れ去る。彼らはこの経験を通して、自分たちほど主から離れた存在はなかったこと、また、自分たちほど主の近くいるのがふさわしくない存在はなかったことに気づかされる。

 しかし主は、すべてご存じの上で、そんな彼ら一人一人の名を呼び、みそばに置いてくださった。あの時、主が子どもたちを呼び寄せ、御自分の一番近くに立たせて祝福されたようにだ。主は、一人一人の子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福されたように、最後の晩餐直後に弟子たち一人一人の足元に屈み込み、足を洗われた(ヨハネ13:1以下)。

 ここにおいて、主の一番遠くから一番近くに呼び寄せられた子どもたちの姿が他ならぬ弟子たち自身と重なってくる。主は、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われた。この御言葉には、一番遠くにいる自分を呼び寄せてくださる主を受け入れることが神の国を受け入れることであり、そのようにして主のみそばに置かれた者は本当の意味で自分自身を受け入れて生きる者とされることが示されている。そして、主の弟子とされた者たちは、神の子どもとされ、この上ない恵みと平安のうちを感謝と喜びに満たされて生きていくことが出来るのだ。

2010年8月15日 聖霊降臨節第13主日

説教:「ガリラヤの風」
聖書朗読:マルコ福音書16章1〜8節、1章14〜15節
説教者 :太田 稔執事

 「『既に』と『未だ』の間」。これは「神の国は既に来た、しかし未だ完成はしていない」という私たちの生きている今を表現する言葉だ。

 神の国が既に来たとは何故わかるのか。それは、イエスの御降誕がその意味であり、主が、神の国の福音を宣べ伝えて「時は満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1・14〜15)と言われたからだ。

 それでは、「神の国完成の時」とはどんな時か。フィリピ2・10に「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまづき、すべての舌が『イエスキリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」とある。救いの完成の時には、天地こぞりて信仰告白をするということだ。

 天に昇られる前に、主は「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣ベ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16・15)と言われたが、これが私たちの「伝道する根拠」であり、今が「伝道の時」なのだ。

 知人を教会に誘う時、教会のことを説明する時、クリスマスに比べ、十字架と復活の話はしにくいものだ。イエスのことを「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰告白し、主から、「わたしはこの岩の上に教会を建てる」そして「天の国の鍵を授ける」とまで言って頂いたペトロでさえ、十字架という言葉に躓き、「サタン引き下がれ」とのお言葉を頂いてしまった。2008年に来て頂いた中野実先生は、伝道に際して「十字架に付けられたキリスト」を取り除くとキリスト教ではなくなってしまうと言われたのを思い出す。私たちも伝道に際し、十字架・聖餐式の意味を説明する言葉を持ち合わせたいものだ。イースターの日が毎年変わること、礼拝が日曜日に守られる理由、イースターエッグの説明も!

 ところで本日与えられたマルコ1・14〜15の御言葉では、3つのことが語られている。

 「時は満ちた」とは、神の御計画の成就の宣言。洗礼者ヨハネの時代が終わり、最後の時が始まったということ。

 「神の国は近づいた」とは、神の御支配が始まったとの宣言。14節の「宣べ伝える」という元の言葉は、王の重大な意思を伝えるという意味の言葉。ここではイエスが「神の名代」として「神の救いの御意志」を伝えておられるのだ。具体的には、これから展開される主の歩みに示される。ペトロやパウロは、Tコリント15・13以下などで「主は私たちの罪のために死んでくださった。そして甦って下さった」と言い換えている。神の御支配が私たちに迫ってきている。私たちに行動を迫っているのだ。

 「悔い改めて福音を信じなさい」悔い改めるとは、今のままではだめということだ。自分の「罪」を認めて悔い改める。180度転換し、神の方に向き直るということ。すなわち「洗礼」を迫るのだ。ただそれは、戸口まで来ておられる主を受け入れるだけでいいのだ。

  本日のもう一つの聖書の個所は、主の御復活の朝の記事だ。空虚な墓の中で驚いている婦人たちに「あの方は復活なさって・・・あなたがたより先にガリラヤへ行かれる・・・」との言葉があった。

 御復活の主が、死に勝利された主がガリラヤ伝道を始められたとの読み方がある。そして今日も伝道されているというのだ。加藤常昭先生もペトロやパウロの力強い説教も、毎週の説教も15節と同じことを語っていると言われる。

 主の神の国への招きの言葉が今日もガリラヤからの風として吹いてくる。いやこの風は、この礼拝堂に御臨在の主が運んできてくださったのだ。このよきおとずれを共に受け止めよう!

 追)この秋はヴォーリズの話を通して多くの方を教会に誘いたい。

2010年8月22日 聖霊降臨節第14主日

説教:「すべては主のもの」
聖書朗読:マルコによる福音書12章1〜12節
説教者 :大濱計介執事

 ぶどう園と農夫の譬で理解しにくい点が二箇所あり、一つは農夫たちはなぜ僕を次々と殺し、最後には主人の跡取り息子までをも殺すような理不尽なことをしたのか、もう一つは主人は僕が殺されているのになぜ次々僕を送り、最後には跡取り息子までを送ったかである。双方常識的にはしないこと、そうなる前に次の手を考えるのが普通である。

 しかしこの譬が、祭司長たちに向って話されていることからするとその疑問が見えてくる。主人とは主なる神、農夫たちとはイスラエルの指導者、僕とはイスラエルに送られた預言者、跡取り息子とはもちろん主イエス・キリストである。譬から読み取ればこうなる。神はイスラエルを深く愛されたが、イスラエルはそれに答えず勝手気ままに振舞った。神はそれに失望し、諦めることなく次々預言者を送り、主なる神の許に立ち返るように警告された。しかしイスラエルがそれに耳を傾けることはなかった。そこで神の独り子キリストなら耳を傾け、主の許に立ち返るだろうと期待され、最後に独り子を送られたが主の言葉に耳を貸さず十字架に架けてしまった。

 彼らの犯した罪とは何だろうか。それは神の存在を無視し、否定したことにある。何度も主の許に立ち返るように呼びかけられている主の御心に思いを馳せることなく、自らの欲望に身を任せ、したいようにしてきたのは神を否定していたからである。その結果ぶどう園は異邦人に、主キリストに繋がる主の教会へ連なる者へ貸し与えられることになった。

 現代に生きる我々は、主と正しい関係が築けているのだろうか。現代社会は、個を尊重する社会で、個人の自立を求め、個を大切にするよう説く。その中で皆、自分の幸せ、生きがいを掴むために他を構っている余裕はないと、自分ばかりを見て幸せ探しをしている。

 幸せは物質的豊かさや社会的地位でなく、豊かな人間関係を築くことによって生まれる。しかし現代社会は人間関係を重視しない社会で、そうしたことを教えようともしない。

 主につながる我々もそうした社会に生きていて、無意識にその考えに染まっている。それは神に関係ある領域と、関係ない領域があるとする二分法の考え方である。自分のことはすべて自分が解決することと考え、主との関係に目を向けず、主を意識の外へ追いやってしまう生き方である。つまり信仰は信仰、日常は日常と信仰生活と日常生活の二分法で生きる生き方である。我々は、そうした生き方を無意識に送っていないか反省しなければならない。それは主の御心を否定する生き方である。

 この世は主なる神が造られ、管理を我々に任されている世界である。この世の全ては創造者である主のものである。主は、十字架の出来事により我々の罪を贖い、大きな愛で我々が主の許へと立ち帰るのを待ち続けてくださっている。我々はその主のもとに立ち帰り、主こそ真の主であると告白し、主に栄光を帰さねばならない。

 この世の全ては主のものであるということは、自分が自分自身のものでなく、我々の存在の全てが主のものということである。我々は、主のものとなることの平安を知り、主のものとなることの中に真の幸いがある、主のものとなって生かされたいと願う者でありたいと思う。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得ることを待っておられる主の許に立ち帰る者でありたいと願う。

2010年8月29日 聖霊降臨節第15主日

説教:「神を愛し、隣人を愛する」
聖書朗読:マルコ福音書12章28〜34節
説教者 :北川善也牧師

 「愛」という言葉が世にあふれている。ストレスや不安が増す一方の現代にあって、ますます人々が愛を必要としている表れだ。

 だが、ある作家が出した『現代語裏辞典』で、愛は「すべて自分に向ける感情。他へはお裾分け」と定義されている。この世にあふれている愛の多くは、自己中心的な感情に他ならない。このような愛は、相手が自分にとって価値があり、自分を喜ばせてくれるからこそ向けられる愛であり、もしも相手にそのような価値や喜びを見出せなくなったら途端に冷めてしまう。こんな愛を求め続ける限り、真の平安を得ることは出来ない。

 さて、ここに一人の律法学者が登場する。彼は、律法の専門家としてそれなりのプライドを持っていたはずだ。そんな彼が群衆をかき分け、必死で主イエスの前に進み出、「あらゆる掟のうちで、どれが第一か」と問うた。当時のユダヤには、全部で613の戒めがあったという。彼も、こんなに多くの価値観の中で本当に大切なものを見失いつつあったのだ。

 彼に対して主は、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。……力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(29節)と答えられた。

 主は、ここで質問の純粋な答えとしては必要のない言葉を加えられた。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である」だ。これは、この掟が真に主なる神によって与えられたものであることを確信し、それを真剣に受け止めて生きようとする者にしか意味を持たない言葉だ。主は、そのように宣言してから掟について語り始められた。

 ところで、この時、主が第一に挙げられた「……力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という掟は、当時のユダヤ人が毎日暗唱していた、誰もが知っている有名なものだった。だが、律法の専門家である彼は、この答えを聞き、「先生、おっしゃる通りです」と言って、心の底から感動し、その見事さをほめたたえた。

 このように聞く姿勢こそ、主が言われたように「子どものように神の国を受け入れる」姿勢に他ならない。そして、このような姿勢で聞いたからこそ、彼は主が答えられた戒めを、全く初めてのように聞き取ることが出来たのだ。こうして不思議な導きによって彼は主の御前に召し出され、主の御言葉を聞き、主を受け入れた。そんな彼に主は、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。

 主は、「神を愛すること」と「隣人を愛すること」の二つを、最も重要な掟として示された。律法学者が求めた答えはたった一つだったにもかかわらず、主が二つを挙げられたということは、これらが互いに切り離すことの出来ないものであることを示している。

 ここで「愛」と訳されているのは、ギリシャ語の「アガペー」だ。これは、無条件の愛、見返りを求めない愛を指す。どこまでも自己中心的な我々がこのような愛を持つことは困難だ。だが、忘れてならないのは、主がこの掟を告げられる前に「イスラエルよ、聞け」と言って、信仰への立ち帰りを促してから語り始められたことだ。

 我々が愛するより先に、まず神が我々を愛してくださっている。この神の愛は、御子イエス・キリストがこの世に来られ、十字架にかかって死なれるという形で明確に示された。これほど大きな神の愛を知った者は、この愛によって生かされ、神を愛し、また隣人を愛する者へと変えられていく。神を愛し、隣人を愛する愛は、信仰によって生み出される。そして、信仰は神の一方的な愛の恵みとして我々に与えられるのだ。

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