日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

10年9月のバックナンバーです。

2010年9月5日 聖霊降臨節第16主日【振起日】

説教:「神へのささげもの」
聖書朗読:マルコ福音書12章35〜44節
説教者 :北川善也牧師

 我々の内側には、いつ溢れ出してもおかしくないくらいに罪が充満している。我々は普段、それを必死で押さえつけているが、何かの拍子でそれが漏れ出すと、簡単には押し戻せない勢いでどす黒い罪が溢れ出してしまうのだ。

 聖書には大勢の信仰の先達が名を連ねているが、今日の聖書に出てきた「ダビデ」もその一人だ。彼は、羊飼いの家に生まれた8人兄弟の末息子で、容姿と才能に恵まれ、サウル王の王宮に召し抱えられた。そして、そこで政治的な手腕を振るい、サウルに次ぐ王位を手にして、統一王国イスラエルを建国するに至るのだ。

 だが、ダビデにはそんな輝かしい英雄的な面の裏に、覆い隠したくなるような罪深い面があった。彼は、部下ウリヤの美しい妻バト・シェバを我がものとするため、ウリヤをだまして殺害した。この罪は、彼の人生にぬぐい去ることの出来ない暗い影を落とした。

 このようなダビデの罪深さは、その後のイスラエルの歩みにも着実に受け継がれていった。彼に続く歴代の王たちは、偶像礼拝から離れず、神に対する忠誠と自国民に対する正義を忘れ、その罪は増大の一途を辿っていく。

 詩編51編には、ダビデが詠んだとされる深い悔い改めの詩がある。そこで彼は、「神よ、わたしを憐れんでください 御慈しみをもって。……あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し 御目に悪事と見られることをしました」と告白している。イスラエルの王として立てられたダビデは、罪人の頭でもあった。つまり、ダビデというのは、罪を背負ったすべての人間を代表する名前なのだ。

 さて、主イエスは次のように言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、……やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」(38-40節)。主は、このように言うことで律法学者という特定の人々だけを批判されたのだろうか。いやそうではない。人間は誰でも人から褒められることを喜び、人から認められないことに腹を立てる存在だ。

 そして、人間は人から褒められるためにしばしば自分を装う。これが進むと、自分の内側にあるものを覆い隠し、表面を取り繕ってごまかすようになる。主は、このような欺瞞的な態度を指して、「長い衣をまとって歩き回ること」云々と言っておられるのだ。そんな人間は、「やもめの家を食い物に」するようになるという。つまり、弱い立場の人々に愛を向けるどころか、踏みにじるような態度で接するようになるというのだ。

 さらに、このような者は、「見せかけの長い祈り」をするようになるという。これはもう、人を欺く行為を超えた神を欺く行為に他ならない。このようにエスカレートしていくのが人間の罪なのだ。

 こうして人間の罪について立て続けに述べられた主は、神殿で献金する人々に目を移された。そこには大勢の金持ちが現れ、たくさんの献金を捧げていた。金持ちが大金を捧げる様子は確かに目立ち、皆が注目したことだろう。しかし、主はそこにではなく、一人の貧しいやもめに目を注がれた。

 彼女が捧げたのは、最小貨幣のレプトン銅貨2枚だったが、それは「持っているすべて」、すなわち生活費全部だった。文語訳でここは、「即ち己が生命の料をことごとく投げ入れたればなり」と訳されている。つまり、彼女は自分の命そのものを捧げたのだ。

 しかし、主はそれを見逃さずにしっかり受け止められた。何よりも、「己が生命」を十字架にかけ、最大の献げものとして神の御前に差し出されたのは主に他ならない。こうして、我々の中に充満している罪は、主の十字架によって完全に受け止められ、罪そのものでしかなかった土の器が、値高き神の器に変えられていくのだ。

2010年9月12日 聖霊降臨節第17主日

説教:「すべてを主イエスに」
聖書朗読:マルコ福音書14章1〜9節
説教者 :北川善也牧師

 主イエスがある人の家に招かれ、食事を共にしていた、その最中に事件は起こった。「一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた」(3節b)のだ。

 彼女の行動を目の前で見た弟子らは怒りを露わにする。だが、彼らの怒りは、冷静で計算高いものだった。彼らは、この香油が300デナリオン(D)以上の価値を持つことを瞬時に嗅ぎ取った。当時、労働者の日当が1Dだったことからすると、300Dは約1年分の賃金になる。また以前、主が5千人に食事を分け与える奇跡を起こされた時、5千人分の食事は200Dに相当すると言われていた。すると、単純計算で300Dあれば、7500人に食事を施せることになる。

 頭の中で素早く算盤を弾いた彼らの行動は、我々も日常的によくやることであり、一般的にはそれが普通の反応だろう。それだけでなく、旧約時代の価値観に「施しの業は罪を清める」という考え方があり、貧しい人々への施しは高く評価されていた。「この香油は300D以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに」(5節a)という彼らの言葉は、心の中から素直に出てきたものだったのだ。

 しかし主は、「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ」(6節)と言われた。この言葉は、「子供の祝福」の場面(マルコ10:13以下)を思い起こさせる。主の祝福を受けるために子どもらを連れて来た人々を叱りつける弟子らに、主は「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(10:14b)と言われた。これらは、弟子らの間違いを指摘し、彼らの無理解を暴き出す言葉だった。

 弟子らは、「主に香油を注ぐことは無駄遣いだ」と言うことで、自分らが主を軽く見ていることを無意識下に露呈させた。それに対して彼女の行動は、ただ主のみを見上げ、迷うことなく成し遂げた神の御旨にかなうものだった。

 ナルドの香油は通常、少量を整髪などのために用いたが、死者を葬る際、その全身に塗り清潔にするためにも用いた。この時、彼女は無論、前者の意味で主に香油を注いだのだが、知らないうちに後者の機能をも働かせていたのだ。

 こうして、彼女が主の頭に香油を注いだことは、全ての人間の救いを完成する「十字架」を指し示す行為となった。では彼女はどうしてそれを察知出来たのか。彼女は、主との対面の時が与えられることを祈り求めていた。それゆえ、彼女は主がおられる場所を知り、主のみそばに近づき、十字架を指し示す働きを与えられたのだ。

 彼女が、祈りによって示された行動を迷わずに行ったことは、彼女の最大限の信仰告白として受け止められた。だからこそ、主は彼女を、「この人はできるかぎりのことをした」(8節a)と賞賛されたのだ。高価な香油を一度に使い切ることは、お金さえあれば何度でも出来るかも知れない。しかし、彼女はあり余る中から少しずつ捧げたのではなく、持っているすべてを一度に捧げ尽くしたのだ。

 主は、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」(9節)とも言われた。だが、この行為は彼女が自分の思いつきで勝手に行ったものではなく、祈り求める彼女に対して神が恵みとして示されたものだった。信仰告白も、そして献身も、その賜物は全て神によって備えられる。

 この出来事は、我々が何を、何のために献げるのかという問いの答えを明確に示している。神によって与えられている命を、神の栄光を現すために用いる生き方が一人一人に必ず用意されている。

2010年9月19日 聖霊降臨節第18主日《先輩の日》

説教:「主イエスによって贖われる」
聖書朗読:マルコ福音書14章12〜26節
説教者 :北川善也牧師

 主イエスは、十字架につけられる直前、弟子たちとの最後の晩餐の席で、御自分の十字架によってすべての人の救いが成し遂げられることをはっきり告げられた。

 過越の食事のメインは屠られた小羊の肉なのだが、福音書はそのことに一切触れていない。福音書記者は、そうすることによって大切な事柄を語ろうとしている。それは、主御自身が屠られる小羊になられたということだ。しかも、犠牲の小羊は毎年過越祭の度に繰り返さねばならなかったが、神の御子による犠牲はたった一度で永遠の効力を持つものとなった。

 この食事にはもう一つの意味があった。それは、弟子たちがやがて主のされたようにパンを裂き、主の食卓の給仕となって主の死を告げ知らせる重大な役目を担うということだ。彼らはこの場に欠かせぬ存在だった。彼らは、ここで主がなさったことを記憶に刻みつけねばならなかったからだ。

 しかし、弟子たちは主と共に食事に与り、直ちにその意味を悟った訳ではなかった。聖書が告げているのは、イスカリオテのユダの裏切り行為だけではない。常に主と行動を共にしていたペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、主に伴われてゲツセマネの園へ赴くが、主が悲しみもだえつつ祈っておられるそばで眠りこけてしまう。

 さらに、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言ったペトロは、主が裁判を受けておられる最中、主の予告通り三度にわたって主を否認してしまう。こうして弟子たちは一人残らず主を見捨てて逃げ去るのだ。彼らの姿から、平気で神に背を向ける身勝手な人間の罪を見出す。しかし、これは我々一人一人の罪に他ならない。

 主が、神による究極の救いを示すために行われた最後の晩餐は過越の食事と重なっていた。これは、イスラエルの民が奴隷とされていたエジプトから神によって救い出された「出エジプト」の出来事を覚えて行われる、イスラエルにとってとりわけ重要な祝祭だった。

 主は、この食事を通して、すべての人が罪と死の奴隷状態から解放される十字架の出来事を指し示された。それだけでなく、主によって備えられた食卓は、この世の罪が滅び去り、神の御支配が完成する神の御国における祝宴を告げ知らせる出来事でもあった。

 「使徒言行録」に注目すべき記事がある。十字架によって主のもとを逃げ去った弟子たちに、復活の主との再会の時が与えられる。やがて聖霊による力を受けた彼らは、信仰の土台を固く据えられ、主の伝道命令を実行に移し始める。こうして築かれていった初代教会において繰り返し守られたことの中に、普通の食事とは区別された「パン裂き」と呼ばれる礼典があった。これは、彼らが主を裏切った夜の記憶と密接に結びつく、痛みを伴う食事だった。

 こうして「パン裂き」は、キリスト教会における重要な礼典として守り続けてこられた。これは、神の御国における祝宴の先取りでもあるがゆえ、これに与ることによって罪の汚れが潔められ、罪の重荷から解放される。なぜなら、神の平和で満たされている神の御国がそこに実現するからだ。

 我々のこの世における旅路には、なお多くの艱難があり、この世の悪が消え去ることはない。しかし我々は、主が再び来られる時、それらすべてに完全な決着がつけられ、神の御国が完成するという信仰を与えられ、それによって何よりも大きな平安を得ている。この平安をより確かにするためにも、我々は聖餐に与り、信仰を固くしつつ、主の再び来たりたもう時に備えねばならない。そのためにも、すべての人が主によって定められた聖餐に与ることが出来るよう、洗礼・信仰告白へと導かれることを心から祈るものである。

2010年9月26日 召天者記念礼拝(聖霊降臨節第19主日)

説教:「神の意志」
聖書朗読:マルコ福音書14章32〜42節
説教者 :北川善也牧師

 主イエスは、ゲツセマネの園に向かわれる際、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を伴われた。主は、さらに少し先まで一人で進み、地にひれ伏して祈られた。それはただの祈りではなく、御子と父なる神との壮絶な対話だった。

 旧約・創世記に次のような場面がある。アブラハムは、二人の若者と息子イサクを連れて神が命じられた場所に向かうが、二人の若者を目的地がまだ遠い地点で待たせ、息子と二人きりで先に進む。

 目的地に着いた時、イサクが「献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と問うと、アブラハムは「献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答える。この時、彼は献げものが愛する一人息子以外にないことを知りつつ、心をかきむしられるような思いをしながら、それでもなお神を信頼し、すべてを委ねる覚悟を決めたのだった。

 主は、ゲツセマネにおいて、確かに「杯が取りのけられる」よう願われたが、祈りの中心はあくまでも「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」だった。御子の祈りは、父なる神の意志がすべてに先行し、絶対であることを前提にしていた。

 たった一人で激しい戦いをしておられる主のそばで、選ばれた三人の弟子たちは眠りこけていた。眠気とはほど遠い緊張感を漲らせていたはずの主を最も近くで目にしながら眠りこけてしまう彼らの姿は何を物語っているだろうか。

 この時、彼らは厳しい現実から目をそらし、誘惑に身を任せる道を選んでしまったのだ。主がもだえ苦しみながら、「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われる言葉をはっきり聞きながら、目をつぶり、現実逃避してしまう彼らの姿は、我々自身を映し出している。

 主は、そんな彼らに「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(38節)と言われた。この「心」は、「霊」とも訳すことの出来る言葉が元になっている。つまり、彼らには神の意志に従う霊が与えられているのだが、人間の弱さゆえ肉体的誘惑がそれに勝ってしまうことが指摘されているのだ。

 ところで、聖書には「三度」という数字が頻出する。主の三度の受難予告しかり、ペトロが三度主を否認する出来事しかり、そして、ここに見られる弟子たちの三度の居眠りしかりだ。聖書において、「三度」物事が繰り返される時、それはどうやっても覆せない、変更不能の事柄を表している。つまり、主の御受難もペトロの否認も必ず起こり、弟子たちの居眠り、すなわち主の十字架からの逃避も避けられないということだ。

 しかし、だからこそ、主は彼らに対して何度も「目を覚ましていなさい」と呼びかけられた。「目を覚ます」とは、「常に主と共にいて、主との交わりの中に身を置いている」ことに他ならない。

 そんな状況の中で、主はたった一人で「時が来た」と言って立ち上がってくださった。ペトロの否認や弟子たちの逃避、いや人間のすべての罪を、主はたった一人で引き受けてくださった。

 何よりも、主が血の汗をしたたらせて祈り抜かれたからこそ、神への執り成しは完遂し、「時が来た」のだ。今や、主がすべての人間の罪を贖うため、十字架におかかりになる時がやって来た。

 主は、すべての人に「目を覚ませ」と告げられた。それは、我々が罪赦され、永遠の命につながれるため、主との交わりの中に身を置き続けるということなのだ。

 「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」(Tテサロニケ5:10)。どんな時でも我々と共に歩み、恵みをもたらしてくださる主の御言葉に絶えず聴き、祈り続けたい。

バックナンバー