先週の説教 -バックナンバー-
10年10月のバックナンバーです。
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説教:「岩を土台として生きる」
聖書朗読:マタイ福音書7章24〜29節
説教者 :北川善也牧師
我々は本当に力弱い存在だ。問題に対応しようとすれば自分の力なさを思い知り、挫折感、焦燥感を深めるばかりで、誰も自分だけを頼りにして生きていくことなど出来ない。すべての人間に決して揺らぐことのない原点が必要だ。
「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」(イザ26:4)。「主はわたしの岩、砦、逃れ場 わたしの神、大岩、避けどころ わたしの盾、救いの角、砦の塔」(詩18:3)。このように、聖書はすべてのものを創造し、すべてを統べ治めておられる神こそ救いの岩であると力強く告げる。
このような絶対的な存在である神とつながっていることがすべての人間に不可欠であることは言うまでもない。この神との出会いは、向こう側から一方的に与えられる神の恵みに他ならないが、だからと言って人間はただそれを受け身で待てばよいという訳ではない。神は、御自分の召しに対する人間側の応答を求めておられるのだ。
聖書が人間は神の似姿に創造されたと言うのは、人間が神の呼びかけに応えるべく創られた存在であるということだ。人間は元来、神との人格的応答関係に置かれていることに気づき、その交わりを回復することによって初めて真の人格を身につける。だが、このような神の恵みも人間側の応答がなければ受け取ることは出来ない。
主イエスは、マタイ5章から山上の説教を語り始められた。この説教は、「心の貧しい人々は、幸いである」という言葉で始められていることからもわかるように、人を縛り付ける律法ではなく、この上ない恵みを告げる福音に他ならない。主は、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」と言われたが、これは福音を聞いて応答する者という意味だ。主は、そのような者こそ「岩の上に自分の家を建てた賢い人」であると言われた。
主は、福音を途切れることなく告げてくださる。神に背を向け、罪を重ねる人間に、絶えず我がもとに帰れと呼びかけてくださる。それゆえ、我々はいつでも主のもとに立ち帰ることが出来るのだ。
主による呼びかけの言葉、それは聖餐において最も明確に示される。我々は、聖餐に与ることによって、罪に染まった古い自分が死に、新しい存在に生まれ変わったというこの上ない恵みを新たにされる。それは、主が十字架において裂かれた肉と流された血潮のみによってもたらされる出来事だ。我々は、聖餐を通して自分自身が主の十字架の死に合わせられ、よみがえりの新しい命に入れられた奇跡の出来事を繰り返し体験する。それゆえ、聖餐は信仰を告白し、洗礼を受けた者が与るのであり、我々は聖餐を大切に守ることによって、すべての人に必要な不動の岩の存在を示していくのだ。
山上の説教を最後まで聞いた人々は、「その教えに非常に驚いた」。これは人間が未知のものに直面した時、自然と現れる謙遜さだ。我々は、神の御前において傲り高ぶりを取り除かれ、まして神を自分勝手に操ろうなどという思いは吹き払われて徹底的に謙るしかなくなる。こうして我々は神が示される道を歩む者とされていくのだ。
そのような道を、本来なら我々の及びもつかない遠い所におられるはずの神が、我々の最も近くまでやって来て、我々の傍らに立つことによって示してくださった。
神の御子が我々の傍らで示し続けておられるのは、罪から完全に解放され、永遠の命につながる道を選ぶか否かの決断、すなわち洗礼によって古い自分に死に、よみがえりの命に与るという決断だ。
洗礼によって、十字架にかかり、死んでよみがえられたキリストが我々と共にいてくださるようになる。すべての人がこのようにして生ける神の子キリストと共に歩む最高の人生へと招かれている。
説教:「あなたを捜す神」
聖書朗読:《旧約》創世記3章1〜9節、《新約》マタイ福音書9章9〜13節
説教者 :小堀康彦先生(富山鹿島町教会牧師)
創世記3章において、決して食べてはならないと言われていた木の実を食べて自ら神との関係を崩壊させる人間。この姿は、今を生きる人間がどのような罪の現実の中を歩んでいるかを示している。
ここで重要なのは、神が食べるのを禁じた木の実がどんなものだったかということだ。それは、食べると神のように全く自由に物事を判断出来るようになる「善悪の知識の実」だった。人間はこうなると、自分に得なことを「善」とし、損なことを「悪」とするようになる。
愛とは、どこかで損を引き受けねば成り立たないものだ。だから、人間が自分にとっての「善」だけで動けば愛の交わりは成立しない。人間は自分勝手な生き方によって本当の愛を失いながら、その生き方を頑なに貫き通す存在であり、聖書はそれを人間の「罪」と呼ぶ。
このように神から隠れ、神なしで生きようとするアダムとエバに、神は「どこにいるのか」と呼ばわる。この時、神は彼らの姿が見えなかったのではなく、「どうしてわたしから逃げるのか。わたしの前に来てわたしとの愛の交わりに生きなさい」と招かれたのだ。
マタイ9章に出てくる徴税人マタイも神によって捜し求められた一人だった。主イエスは、罪の中にある一人一人に「あなたはどこにいるのか」と呼ばわる神の御心そのものに他ならない。主は、「救われたいならここに来い」と言うのではなく、救いを求める一人一人のもとに自ら出向かれた。そして、その御言葉を聞いた者たちは皆、新しく生まれ変わり、神の僕として生きるようになっていく。
主の弟子たちは皆、すぐに御声に聞き従った。それは、主の御言葉そのものに力があったからだ。キリスト者とは、この御言葉に出会ってしまった人々のことだ。主の御言葉は、神から離れ、自分の欲に引きずり回され、自分が何者であるかを見失っている人間を再び神の御前に招き、新しく生まれ変わらせる力を持つ。我々が自らの罪と決別し、新しい人間として生きるためには、この愛に満ちた力ある招きの言葉が必要なのだ。
徴税人マタイは、ユダヤ社会で人々から忌み嫌われ、交わりを断たれた存在だった。そんな彼に主は御目を注ぎ、御声をかけられた。主は言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(12-13節)。
昔観た映画の主人公は、「俺は出世して金持ちになり大邸宅に住んで美人の妻をもらう」と言った。これが彼の生きる原動力であり、確かにそれを手に入れるが、すぐに殺される。簡単に言えばそれだけの話なのだが、自分はこの男とどこが違うのかと思い、嫌な気分になった。自分の願いも彼と大差ないことに気づいたからだ。
主は、そんな自分と出会い、そのような願いから解放してくださった。洗礼を受けてから少しずつ自分の願いは変わっていき、今の自分の願いは「御名があがめられますように。御国が来ますように。御心の天になるごとく、地にもなりますように」の三つとなった。
一人一人に、主は「わたしに従いなさい。わたしから離れてどこに行くのか」と呼びかけておられる。我々は、この主の招きを信頼し、人生の全てを懸けるべきだ。なぜならイエス・キリストは、我々一人一人が神の御前に新しく生まれ変わり、神との関係を回復し、神の僕として生きるため御自分を十字架におかけになったからだ。「わたしが来たのは、十字架によって罪人を招くためである」。神は、こうして全責任をもって我々の人生を引き受けてくださる。
説教:「思い悩むな」
聖書朗読:マタイ福音書6章25〜34節
説教者 :北川善也牧師
「ジェンガ」というゲームがある。細長く平たい板を互い違いに組んで高く積み上げ、下の方から一枚ずつ板を抜き取って上に重ねていくこのゲームは、人間の姿を映し出しているように思える。我々は、自分を上へ上へと伸ばすことばかり考え、肝心の足場が揺らいでいることに気づかずにいる。
人間は、神のように自分の力で何でも出来るという思いを頼りにして生きようとするが、それはジェンガのように自分の足下から抜いた板を上に積み上げるような生き方に過ぎない。そんな自分を消耗するばかりの生き方を続ければ、やがて足場はスカスカになり、音を立てて崩れ去ってしまう。
主イエスは言われた。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)。ここで挙げられている飲食物や着るものは人間生活の基本であり、我々に欠かせないものだ。「衣食足りて礼節を知る」と言うように、人間はこの二つが満たされて初めて他のことを考えられるようになる。
しかし、主はそのようなもののことで思い悩むなと言われる。これは、それらを「自分の力で」獲得しようとして汲々とするなということだ。言い換えれば、我々が思い思いに得ようとする以前に、主が我々の真に食べるべきもの、真に着るべきものを既に用意してくださっているということだ。
主は、「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない」と言われた。そして、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(26-30節)と言われた。
花は、自分がどんな色を身に着けるかどころか生きる場所さえ自由に選べない。種が落ちた場所が崖の上だろうと道端だろうと、花はそこで芽を出し、誰が見ていようが見ていまいが、ほめられようがほめられまいがそこで花を咲かせる。花は、そのようにしか生きられない。しかし、そうやって生きる花こそ美しいのであり、このことからも神に愛され、神御自身に似せて創られた人間に必要なものはすべて神が与えてくださることがわかると主は言われるのだ。
こう言われた上で、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(33節)と主は続けられた。信仰によって思い煩いを取り除かれた人間は、神がすべてを備えてくださっていることを見出し、ただ神の国と神の義を求める者に変えられていく。信仰者には、何でも自分の力で成し遂げようとする汲々とした人生ではなく、すべてにおいて神の御心を思いながら歩む喜びに満ちた人生が与えられる。
このような信仰者が喜びをもって歩むことの出来る道は、神の御子によって備えられた。御子である主は、自分勝手に生きようとして足下がおぼつかなくなっている我々の人生を立て直し、土台を固く据えるため、自らの命を十字架に捧げてくださった。この十字架により、我々は神の御前に立ち帰り、神との本来あるべき関係を回復して、自分の足場を固めることが出来るようになったのだ。
だから、我々はもう何を食べようか、何を着ようかという思い煩いで神が与えてくださった値高い命を費やすようなことをせず、神の御前に立ち帰り、神の愛の只中で神の御栄光を輝かせる生き方へと向かっていくべきだ。そして、やがて来たる終わりの日、「お前はわたしが与えた命をよく生きた」と言ってくださる神の御言葉に希望を置いて歩み続けよう。主は、そのような生き方こそ、我々に与えられた命を最も美しく輝かせる生き方だと言っておられる。
説教:「求めなさい」
聖書朗読:マタイ福音書7章7〜12節
説教者 :北川善也牧師
「求めよ、さらば与えられん」(7節、文語訳)は、キリスト者以外にも知られた有名な言葉であり、これが聖書に書かれたものであることを知らない人さえいるかも知れない。だが、そのままではこの御言葉が人生訓のようなものとして受け止められる恐れがある。このような視点では、聖書の御言葉が語っていることを正しく聴き取ることは出来ない。そこで、マタイ福音書の5章から7章までに記された「山上の説教」を一つの固まりとして見ていきたい。
主イエスによるこの説教集の特徴は、これによって弟子たちや群衆の常識が徹底的に打ち破られることだ。出だしからして「心の貧しい人々、悲しむ人々は幸いである」とある。さらに主は、迫害を受けることさえ幸いだと言われた。人間が本能的に逃げ出したくなるようなことを、主は「幸いだ」と言われ、他にも「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(5:39)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:44)と言われた。
これらからわかるように、主が語っておられるのは単なる人生訓ではない。主は、この説教集を通して、我々が神とどういう関係をもって生きていくのかということを問いかけておられるのだ。
「山上の説教」において、主は「敵を愛せ、このように祈れ、こう断食せよ、天に宝を積め、何を食べようかなどと思い悩むな、なぜならそれらは天の父が既にご存じだからだ」と言われる。主の御言葉は、すべて神との関係において語られ、我々の歩みが神に対してどうであるかが問われている。
11節後半は、「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と訳されているが、この「求める者」は何を求めているのか。ギリシャ語原典には「彼を求める者」と書かれている。つまり、主はここで、「神を求める者」に良き物が与えられると言っておられるのだ。これは、神「に」何かを求めるのではなく、神御自身「を」求めるということだ。そして、ここの並行箇所であるルカ11:13によれば、神を求める者に与えられる良き物とは「聖霊」に他ならない。
「神を求める」、すなわち神の御前に進み出て献げる礼拝によって与えられる良き物とは「聖霊」である。では、聖霊が与えられるとはどういうことか。それは、我々の信仰告白の言葉の中に明確にうたわれている。「日本基督教団信仰告白」の後半部分に当たる「使徒信条」は、初めに「全能の父なる神を信ず」、そして「主イエス・キリストを信ず」、最後に「聖霊を信ず」と告白する。この最後の告白は次のように続く。「我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり…を信ず」。つまり、神が聖霊をお与えになるとは、人間に何か不思議な体験をさせるということではなく、教会をお与えになるということに他ならない。それは、我々の目にはっきりと見える実体としての教会のことだ。
この場所で献げられる一人ひとりの祈りに応えて神は我々と出会ってくださり、この場所で聞かれる御言葉を通して、それぞれの一週間の生活において示された御言葉が確認される、それが教会だ。集まるのも集まらないのも我々次第ではない。我々が信じるよりはるか先に、神御自身がここで我々を待っていてくださる。一切を超えて、今ここで神が我々に直接語りかけてくださる。そのような教会をこそ、神は御自分を求める人々に与えてくださったのだ。
「求めよ、さらば与えられん」。この御言葉は確かであり、我々の前に実現している。神を求める人々の祈りによって存続してきた教会に、我々も今こうして連なっている。そのようなところにこそ、神は聖霊を豊かに注ぎ、我々との出会いの場としてくださるのだ。
説教:「地の塩、世の光」
聖書朗読:マタイ福音書5章13〜16節
説教者 :北川善也牧師
10月31日は宗教改革記念日だ。1517年のこの日、修道士マルティン・ルターが『95箇条の提題』をヴィッテンベルク城の教会の門に掲示した出来事により、プロテスタント宗教改革が幕を開けた。
この提題の第一条は、「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである」と記す。プロテスタント信仰の原点がここにある。悔い改めによって我々は信仰へと導かれ、以後その道を歩み続けるよう促されていくのだ。
ルターは、『キリスト者の自由』の中で「キリスト者とは何者か」という問いに対し、「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない」。また「キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」と相矛盾する答えを述べた。そして、これらをまとめて、「あなたがたは祭司的な王であり、王的な祭司である」と言い表した。彼はこうして、キリスト者が信仰によって王的祭司とされる恵みを大胆に語っている。
ルターは、このようなキリスト者の歩みを「万人祭司」という言葉で表した。これは言い換えれば、「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われた主の御言葉そのものとも捉えることが出来る。
「地の塩」「世の光」とは、何を示すためのたとえだったか。二つの共通点は、どちらもその効果がはっきりと外に現れ出ることだ。塩も光も外に出て、自分と違う性質のものの中に置かれることによって初めてその働きを果たすことが出来る。しかも両方とも、ほんの僅かな量であっても十分な力を発揮する。塩は少量でこそちょうど良い隠し味となり、光も闇の中に置かれるならば、どんなに小さくても希望の光となる。
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」(Tペトロ2:9-10)。
主は十字架にかかり、御自身を我々の罪を贖ういけにえとして献げてくださった。主は十字架上で我々のために執り成し祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。十字架において、主の祭司としての働きは全うされた。この主に対して、我々が感謝をもって応える時、この世における祭司としての務めが我々に与えられ、それぞれの持ち場へと遣わされていく。それは、我々が自分の隣人のために執り成し祈る働きに他ならない。
我々は、ここで自分たちだけのために礼拝を献げているのではない。すべての人を代表し、すべての人のために祈り、礼拝を献げる祭司としての働きを託されている。確かに、今ここで礼拝しているのは一握りの人間にすぎないかも知れない。しかし我々は、家族や友人のみならず、この町、この国に生きるすべての人々を代表し、彼らの救いのために祈り、礼拝する「執り成し手」なのだ。
主は、「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われた。「そのようになれ」と命じられたのではなく、既にそういう存在であると言われたのだ。その根拠は、我々がキリストの真の希望の光によって照らされていること以外の何ものでもない。我々は、この光を受けているからこそ輝けるのだ。共々に、いつまでも尽きることのない希望の光を受け、その光を反射しつつ歩む者であり続けたい。