先週の説教 -バックナンバー-
10年11月のバックナンバーです。
10年11月のバックナンバーです。
説教:「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」
聖書朗読:ルカ福音書3章1〜14節
説教者 :北川善也牧師
人生はしばしば旅にたとえられる。旅にはあらかじめ目的地が定められているものだが、もしこの目的地が明確になっていない場合、旅は先行き不透明で方向の定まらない迷走状態に陥っていく。
自分は何のために生きているのか。自分はどこから来てどこへ行こうとしているのか。人間のそのような迷いの中から哲学が生まれ、様々な宗教が生まれてきた。
キリスト教をそのような「教え」の一つとして捉える人もいる。だが、キリスト者とはキリストの「教え」に感銘を受けた人ではなく、生ける神の御子キリスト御自身を受け入れた人のことだ。我々は、形式的には人を介して「キリスト教」と出会ったかも知れない。だが、そのようにして我々をキリストとの出会いへと導いたのは、神の御業以外の何ものでもない。
我々は、キリストを頭で理解しようとする限り、いつまでも受け入れられないかも知れない。しかし、この御方に素直に従っていく思いを与えられた時、我々は本来歩むべき道を見出し、確かな目的地に向かって人生の旅路を進めることが出来るようになるのだ。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」(4-6節)。
これは、主が公生涯を開始なさる前の時代にあって、人々が迷うことなくこの御方の到来を待ち望むよう導く、いわば先駆者としての働きを託された洗礼者ヨハネを示した旧約聖書・イザヤ書の言葉だ。そこには、「ヨハネの役割は、救い主が来られる前に道を整え、その道筋をまっすぐにすることであり、主御自身が来られた時、人々が皆、迷うことなく主と出会い、神の救いを仰ぎ見るようにさせることだ」と告げられている。
誰も皆、ある人が語る御言葉を通して真の救い主との出会いを与えられる。そのようにして何よりも確かな土台を据えられた人生は、この世の激しい揺さぶりを受けても決して動じない。高ぶる心を静められ、真の神の救いを仰ぎ見ているからだ。これこそがキリスト者に与えられる恵みであり、これ以上大きな恵みは他にない。
ヨハネの洗礼を受ければ御利益に与れると考えて近づいてきた人々に彼は厳しい言葉をぶつける。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」(7-8節)と。これは、心鈍い者たちの目を真の救い主に向けさせるための言葉だ。彼が指し示そうとしているのは、まだこの世に来ておられないキリストであり、この御方が担われる十字架の出来事に他ならない。これこそが御言葉を取り嗣ぐ者に課せられた務めだ。
それは、人々の人生に明確な進路を指し示す働きだ。御言葉を語る者の務めとは、ひたすら十字架の主を指さし、すべての人をそこへと導くことだ。そのようにして主に結ばれつつ人生の旅路を歩む者の先には神の御国が待ち受けている。こうしてキリストと共に歩む者は、永遠に神を喜び、ほめたたえる神の民とされるのだ。
一人一人の人生には痛み、苦しみ、悩みなどの重荷が変わることなく続いているかも知れない。しかし、そんな我々の人生の最も奥深くにおいて神の御手が生きて働き、支え導いてくださること、そして人生の旅路の先に永遠の神の御国が待ち受けていることを、神の御子が十字架の出来事によってはっきりと示してくださった。
この救いの出来事を真正面から捉える時、我々はもう何も迷うことはない。キリストにあって土台を固く据えられ、キリストと確かに結ばれた者として、ただ信仰の道を最後まで歩み通すだけだ。
説教:「すべての人は、神によって生きる」
聖書朗読:出エジプト記3章1〜6節
説教者 :北川善也牧師
神さまは、エジプトで奴隷として苦しめられているイスラエルの人々を救うためのリーダーとしてモーセをお選びになりました。
モーセは、エジプトの奴隷だったイスラエル人の家に生まれましたが、エジプトの王が「イスラエル人の男の赤ちゃんをみんな殺せ」という恐ろしい命令を出したので、赤ちゃんを助けたい一心のお父さん、お母さんによって小さな舟に乗せられ、川の流れのないところにそっと置かれました。すると、そこに水浴びしに来たエジプトの王女が赤ちゃんを見つけて育てました。神さまが不思議な仕方でモーセの命を助けたのです。
大きくなったモーセはある時、いじめられていたイスラエル人を守ろうとしてエジプト人を殺してしまいました。それを知ったエジプトの王ファラオはモーセを殺そうとしますが、モーセはミディアンという外国に逃げていきました。誰もモーセのことを知らないこの土地で、モーセはエジプトの王を恐れる必要もなく、結婚して幸せな家庭を持ち、羊飼いとして平和に暮らしていました。
そんなある日、羊の群れを連れてホレブという山にやってきたモーセは不思議な光景を目にしました。小さな木に火が付いているのに、いつまでたっても燃え尽きないのです。それは、モーセを神さまの方に向かせようとする神さまの御業でした。燃える木に近づいたモーセに神さまは、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました。
そして、「わたしは愛するイスラエルの人々が苦しんでいるのを見て、彼らをエジプトから救い出すことにした。その大事な働きをモーセ、あなたにしてもらう」と言われました。モーセは驚いて、「わたしのような者に、どうしてそんなことができるでしょうか」と言いました。だけど、これはモーセが神さまの方を向いて言った言葉ではありませんでした。モーセは、エジプトに戻ったら自分がどんな目に遭うか考えたら怖くなってこのように言ったのです。
わたしたちは人生の中で、いろんな経験をします。それは、決してうれしいことや楽しいことばかりではなく、時には失敗して自信をなくしてしまうようなことだってあるはずです。そんな時、人間は嫌なことや苦手なことから逃げようとしてしまいます。モーセにとって、エジプトというのは思い出したくもない場所でした。ここでやってしまった大失敗が今でもモーセの心に大きな傷として残っていたからです。けれども、神さまはそんなモーセを、エジプトで神さまのための大事な働きをする人としてお選びになりました。
神さまが、「イスラエルの人々を助け出すためにエジプトへ行け」と言われた時、モーセは神さまを見ずに、エジプトを見て恐れていました。神さまはそんなモーセに、「恐れるな、わたしがあなたと共にいる」と約束してくださったのです。すべてのものを創り、すべてをご存知である神さまが「いつもあなたと一緒にいるよ」と言ってくださったので、モーセはもう神さま以外の何ものも恐れる必要がなくなりました。
もうすぐクリスマスがやってきます。神さまの子どもであるイエスさまがこの世に来てくださり、わたしたちみんなに「いつでも、どんな時でも神さまがあなたと一緒にいてくださいますよ」という約束を与えてくださいました。この約束があるからこそ、弱いわたしたちも、神さまから本当の力を与えられて力強く生きていくことが出来るのです。わたしたちもモーセのように、いつも神さまだけを見上げて、神さまの子どもとして歩んでいきたいと思います。
説教:「現在を突き破るキリスト」
聖書朗読:Tコリント書15章20〜28節
説教者 :北川善也牧師
使徒パウロは、キリストの福音伝道者としてめざましい働きをした。彼は同胞であるユダヤ人ではなく、自分と全く異なる基盤や背景をもつ異邦人への伝道に専念し、長期間・長距離にわたる伝道旅行を三度行って、多くの異邦人教会を立ち上げた。
コリント書はそのような教会の一つに宛てられた手紙だ。パウロはここで、信仰の柱となる福音の内容を何とかして伝えたいと願い、必死の思いで語っている。彼にとって福音とは、主の復活に他ならなかった。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。……最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(15:1-5)。
パウロは、主の12弟子に名を連ねてはいなかった。つまり、彼は主の教えを直接受けていなかったのだ。にもかかわらず、彼が主の復活こそ福音の中心であると語り続けた原動力は、「(復活された主が)最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れた」(15:8)という体験だった。
「わたしは、神の教会を迫害したのですから……使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(15:9)というパウロの出自は、使徒言行録9章により具体的に記されている。彼はかつて「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」(1節)、「この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行する」(2節)実行部隊のリーダーだった。
そのパウロが、迫害の旅の途上で驚くべき経験をする。「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである』」(3-6節)。
パウロは、このたった一度の衝撃的な出来事により、迫害者から伝道者へという一大転換をもたらされた。しかし、それ以前から彼が主と出会う準備は着々と進行していたのではないか。彼がむち打ってきたキリスト者の口から出る祈りの言葉や迫害下にあっても礼拝を守り続けるキリスト者の姿を通して、彼の中で少しずつ主の存在は大きくなっていった。迫害者パウロに蒔かれた福音の種は確実に成長を遂げ、あの日、すなわちダマスコ途上において、主が爆発的に現れ出られたのだ。こうして誰よりも福音を受け入れないような者に驚くべき力が働き、大変革がもたらされた。これこそ主の復活の力だ。
まもなくクリスマスだが、この喜ばしい主の御降誕は十字架の出来事と直結している。本来最も高いところにおられるはずの神がこの世に来られ、誰一人漏らすことなく救いに導くという約束を成し遂げるため、十字架におかかりになったのだ。
さらに、十字架において死なれた主は、墓に葬られて3日目によみがえられた。この復活により、主を信じる者の死はすべての終わりではなく、永遠の命の出発点に変えられた。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)。
主の復活は、人間が知恵を尽くしたら納得出来るような事柄ではない。我々に復活の信仰をもたらすのは神の御業以外の何ものでもないのだ。
パウロの回心時同様、主は我々を覆っている罪の現実という殻を突き破って一大変革をもたらし、信仰へと導かれる。主は、そのため一人一人に様々な仕方で種蒔きをしてくださる。主御自身が種を蒔き、芽生えさせてくださるからこそ、我々は主の復活の証人となることが出来るのだ。こうして、神はすべての人間を永遠の命に与らせ、神の御国の栄光を仰ぎ見る者へと変えてくださる。
説教:「キリストこそわれらの救い」
聖書朗読:エレミヤ書33章14〜16節、 ルカ福音書21章25〜36節
説教者 :北川善也牧師
教会暦では、今日から待降節に入る。代々の教会は、この日をもって新しい年の始まりとしてきた。それは、御子の御降誕を待ち望むこの時期に、主が再び来たりたもう終末の希望を重ね、その時に向けて焦点を定め直すためだ。
我々は、信仰により永遠の命に与り、終わりの日に完全な形で到来する神の国に入れられるという大いなる希望を示されている。
しかし、ルカ福音書21章は、主が終わりの日に審判者として来られると告げる。その日には、キリスト者も例外なく裁きの座に立たされる。だから、「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意し」(34節)、「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)と言われている。日々祈りつつ終末に備え、信仰を健やかに保つべきことが示されている。
一方、エレミヤ書33章は、「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる」(14節)と告げる。代々の教会は、この旧約の民に対する預言の成就をクリスマスの出来事に見出してきた。愛に満ちたもう神は、救いを待ち望むすべての人間のため、この世に御子を遣わしてくださった。
「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる」(15節)。打ち倒され、朽ち果てていくしかないようにしか思えないところから、神は全く新しい希望を芽生えさせてくださる。ここに、厳しい現実の中で生きる我々の再出発、再起をもたらすという約束が示されている。
我々は、解決不能としか思えない問題、納得しがたい不条理な出来事に囲まれ、日々嘆き悲しみに囚われている。しかし、主は「公平と正義をもって」(15節)この世のすべてを治められる。創造者であり、混沌から秩序を産み出される神は、造られたすべてを計画のうちに愛をもって導かれるのだ。
それゆえ、神の「名は、『主は我らの救い』と呼ばれる」(16節)。この旧約の預言は、そのまま新約に響いていく。マタイ福音書1:18以下の「イエス・キリストの誕生の次第」において、主の天使がマリアの夫ヨセフに次のように告げる。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。イエスという名は、「神は救い」という意味を持つ。旧約の預言によって示された、すべての人が罪から解放され、神の国の平安のうちに生きるという救いの約束は、我々の常識を超えた神の計画のうちに、イエス・キリストにおいて成し遂げられたのだ。
ルカ福音書は、主が再び来られる終わりの日を、「あなたがたの解放の時」(21:28)と告げる。この「解放」とは、身代金を払って奴隷を買い戻すという意味で使われる言葉だ。ここでは、神の救いの御業は、そういう仕方で成し遂げられると言われている。それがイエス・キリストの出来事だ。つまり、我々の救いはキリストとの出会いによってもたらされる。
アドベントは「接近する」という意味を持ち、「冒険の旅」という意味のアドベンチャーと語源が一緒の言葉だ。待降節とは、過去の出来事を思う時ではなく、我々が主と本格的に出会う旅の途上にあることを確認する時なのだ。
主は、終わりの日に審判者として来られる。しかし、主はその時に向けて、すべての人間を救うために全力を尽くして執り成してくださっている。だからこそ、我々は今、この救いの完成に向けて働いておられる恵み深い主に感謝をもってお応えし、神の民としてふさわしい歩みをするべきである。