日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

10年12月のバックナンバーです。

2010年12月5日 洛北教会創立103周年記念礼拝(待降節第2主日)

説教:「命の源なる神の御言葉」
聖書朗読:イザヤ書55章1〜11節、ルカ福音書4章14〜21節
説教者 :北川善也牧師

 今日与えられたルカ福音書には、主イエスがその公生涯の最初に、郷里ナザレで伝道された様子が記されている。

 主はベツレヘムでお生まれになったが、ヘロデによる2歳以下の男子を皆殺しにせよという命令から逃れるため一旦エジプトに避難され、その後ガリラヤのナザレで「お育ちになった」(16節)。

 主が「いつものとおり安息日に会堂に入った」(16節)のは、生まれ故郷の人々と共に懐かしい会堂にお入りになったということで、そのこと自体何ら特別なことではなかった。また、その礼拝中に主が立ち上がり、聖書を朗読するため前に進み出た時も、ごく普通にイザヤ書の巻物が手渡された。

 しかし、主の口を通して聖書が読まれた瞬間、その場の空気が一気に変わった。それは、次の御言葉だった。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである」(18節)。

 主が公の生涯を開始された時、最初になさったのは洗礼を受けることだった。主が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から響いた(3:22)。その後、「イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りに」(4:1)なり、「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(4:14)。

 このように、洗礼をお受けになって以来、主はいかなる時も聖霊に満たされ、お語りになる言葉からは聖霊の働きがあふれ出てきた。こうして主の口から出る御言葉は、ことごとくその通り成し遂げられていくようになったのだ。

 それゆえ、旧約の預言の言葉も主を通して語られ、人々が「耳にしたとき、実現した」(21節)。貧しい人々、弱きを覚えている人々に対する救いが、その時、確かに実現したのだ。しかも、その実現の時を、主は「今日」と言われた。これは、神の救いが今、この時に起こっているという「救いの現在性」を明確に表している言葉だ。

 こうして、聖書に記された神の言葉が、我々に直接語りかける時代が到来した。「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:11)。この神の御言葉は、主によって成し遂げられた。救い主の到来は、すべての人間を救う決断をされた神の確固たる意志に基づいてもたらされた。

 この救いの出来事を、すべての人々にあまねく宣べ伝えるため、神は「過去」の過ぎ去った言葉ではなく、「現在」の生きた命の御言葉をもってお語りになる。

 だからこそ、我々は、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされず(Uコリ4:8)、体を殺しても、魂を殺すことのできないものを恐れることなく(マタ10: 28)、いついかなる時でも立ち続けることが出来るのだ。我々は、神の御言葉によって本当の命を与えられ、どんな時でもイキイキと生きる者にされていく。御言葉が暗闇を照らす一筋の光となって、我々の歩みを支え導いてくれる。そして、この光の源こそ神の御子、イエス・キリストに他ならない。

 我々は、まもなく主の御降誕を覚えるクリスマスを迎えようとしている。この日、我々を支え導く命の御言葉が、具体的な形をとってこの世に現れた。旧約聖書が指し示す救いの出来事が、イエス・キリストによって実現した。この恵みを豊かに味わい知るため、その備えの時であるアドベントを心静かに、祈りつつ過ごしたい。

2010年12月12日 待降節第3主日

説教:「神の愛によって新しくされる」
聖書朗読:ゼファニヤ書3章14〜17節、ルカ福音書1章5〜25節
説教者 :北川善也牧師

 老祭司ザカリアが一人で神殿の務めに就いていると、突然天使が現れ、次のように告げた。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」(ルカ1:13-14節)。

 だが、彼の妻エリサベトは不妊の女であり、「彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」(7節)。だから、ザカリアは、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)としか答えようがなかった。彼は、天使を通して示された神の啓示をそのまま受け入れられず、人間の常識で判断することしか出来なかったのだ。

 ザカリアが信仰をもって神に応えるためには、しばらく黙想の時が必要だった。それゆえ、ヨハネの誕生まで、彼の口は閉ざされる。

 聖書には、不妊の女性が子どもを授かる話がしばしば出てくる。旧約の、アブラハムとサラとの間にイサクが与えられる出来事は特に有名だ。年老いて子どもがなく、とっくにあきらめていた彼らのもとに神の使いが現れ、子どもが与えられるという約束をもたらす。

 彼らも、ザカリアとエリサベト夫妻も、子どもを授かることは常識的に考えたら不可能であり、この問題を前にして人間はただ無力でしかない。しかし、このような絶望的としか思えないところに、神は明確な御言葉をもって新しい命の誕生を告げられるのだ。

 イスラエルの初代族長アブラハムは、神から「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」(創世13:16)という約束を与えられた。しかし、その後のイスラエルは罪を繰り返し、典型的な人間の弱さを示し続けた。そのようなイスラエルを真の悔い改めに導き、御自分の民としてつなぎ止めていく御決意を表すため、神は次のように告げられた。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え 産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは 夫ある女の子供らよりも数多くなると主は言われる」(イザ54:1)。

 ここで語られている不妊の女のイメージは、無から有を、暗闇から光を創造される人智を越えた神の働きを表している。そして、そのような神の働きの中で最も偉大な出来事がこれから行われようとしているのだ。それは、すべての人間の救いを成し遂げるために、神の御一人子がこの世にお生まれになる出来事に他ならない。

 天使のお告げを受けた時のエリサベトの喜びは、いかばかりだったか。しかし彼女は、「身ごもって、五か月の間身を隠」さねばならなかった(ルカ1:24)。それは、彼女の宿した命が彼ら夫婦のものではなく、すべての人間を救いに導くための道しるべとして大切な役割を果たす命だったからだ。

 神は、人間には不可能としか思えないことを成し遂げられる。たとえ人間が絶望の淵に陥っているような時にも、いやそのような時にこそ、神は御力をもって働かれ、救いの御計画を示してくださる。

 これこそが神の民の希望であり、教会に集められている我々の希望だ。神は、救い主が再び来られるその日に備えて、すべての人間を悔い改めへと導き、神の御国に入れるための備えを着々と進めておられる。神はそのために教会を立て、そこに集う者たちを真の救い主を指し示す働きへと向かわせてくださるのだ。我々を救いへと導き、その御用のために用いてくださる神に感謝しつつ、待降節の歩みを共に進めていきたい。

2010年12月19日 降誕祭礼拝

説教:「主の力は地の果てに及ぶ」
聖書朗読:ミカ書5章1〜3節、ルカ福音書2章1〜20節
説教者 :北川善也牧師

 主イエスは、ユダヤのベツレヘムという田舎町の馬小屋、しかも飼い葉桶の中でお生まれになった。主は、よりによってなぜそんな生まれ方をなさったのか。

 マリアと夫ヨセフは、ガリラヤのナザレからはるばる旅をしてベツレヘムにやって来た。その時、マリアの胎の子はいつ産まれてもおかしくない状態だった。そんな彼らが過酷な旅を余儀なくされたのは、当時ユダヤ地方一帯を治めていたローマ皇帝アウグストゥスが、全領土民に先祖の町で住民登録せよとの勅令を発したからだ。

 国中の誰もが先祖の町に帰る旅を始めたため、どこの宿屋もすぐに満室となった。出産の時期が迫っていたマリアは、早くロバの背中から降り、手足を伸ばして休みたかったが、夫ヨセフが訪ねる宿屋はいずれも満室だった。

 業を煮やした彼は宿屋に、「客室が無理なら馬小屋でかまわないから、何とか泊まらせてほしい」と頼み込んだ。こうしてようやく二人の休息場所は確保されたが、そこは家畜の糞尿などの様々な異臭漂う、薄暗い場所だった。

 主はこうして、我々の常識を越えるような場所でお生まれになった。だが、このことにはとても大きな意味が秘められていた。主は、たとえどんな悲惨な状況下にいる者も、どんな悲しい思いをしている者も、必ずそこから救い出し、一人残らず神の御国へ導くという神の強い御意志を示すため、この世のどん底とも言えるような状況の中でお生まれになったのだ。

 そのことを端的に表しているのが、羊飼いたちに起こった出来事だ。羊飼いは、羊が寝ている夜中にも、狼などに襲われないよう目を覚まし、見張っていなければならない、大変過酷な労働だ。

 一方、羊飼いにはローマの住民登録令が適用されなかった。なぜなら、彼らはローマ市民として認められていなかったからだ。彼らは、卑しい立場の者と見なされ、他の人々と共に暮らすことが出来なかった。羊飼いたちは、暗闇の中をさまよう存在だったのだ。

 そんな彼らが夜中に羊の番をしていると、急に周りが明るくなり、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(11節)という天使の声が響いた。すべての人間を救うために起こったクリスマスの第一報は、誰からも認められず、暗闇の中で生きていた羊飼いたちにもたらされた。

 羊飼いたちは、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」(10節)という天使の言葉に励まされ、その驚くべき内容をしっかりと記憶に留めた。そして、天使が去るとすぐに立ち上がり、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15節)と言って出かけた。

 羊飼いたちは、ベツレヘムの馬小屋でマリアとヨセフ、そして幼子イエスを捜し当てた。彼らは、見たことがすべて天使の言葉通りだったので、大いに喜び、神をあがめ、賛美しながら帰っていった。

 しかし、彼らはただ帰るのではなく、自分たちが体験したことをすべて人々に知らせた。彼らは、自分たちが受けた恵みの大きさを語らずにはおれなかったのだ。

 そして、羊飼いたちの話した内容は聖書に記され、二千年後の我々にも確かに伝えられている。彼らは、自分たちが体験したことのすばらしさを大いに喜び、神をあがめ、賛美した。つまり、彼らは礼拝をしたのだ。また、その後、彼らはその喜びを人々に伝えるために出かけていき、伝道をした。

 こうしてクリスマスの出来事は世界中に伝えられていき、その喜びは今、我々のところに届けられている。今度は、我々が人々を救い主との出会いの場に招く番だ。

2010年12月26日 歳末礼拝(降誕節第1主日)

説教:「救い主の生まれる場所」
聖書朗読:マタイ福音書2章1〜12節
説教者 :北川善也牧師

 ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエス・キリストのもとを最初に訪ねたのは、「東の博士たち」だった。当時、ユダヤ東方の異邦の地において、占星術の学者はエリートであり、インテリだった。そして、「ユダヤ人の王としてお生まれになる方」を待望するユダヤ人たちがローマ帝国の発展と共に各地へ広がっていたので、異邦人の学者たちもそのお方の存在を知り、探し求めていたのだ。このように、異邦人さえもが「ユダヤ人の王」を訪ねてきたことは、この時、実際の王座に就いていたヘロデにとって大変な脅威となった。彼は本来、王座に就くにはふさわしい人間ではなかったが、ローマ皇帝に取り入ることによって、王としての称号を手に入れていた。だから、もし「本物」が現れたら、彼は居場所を失うことになるかも知れないのだ。

 お生まれになった主イエスを、この先待ち受けているのは、十字架の出来事であるが、主は十字架につけられる直前、ローマ総督ピラトから「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問された時、「わたしの国は、この世には属していない」と答えられた。そして、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(ヨハネ18:37)と宣言された。

 ヘロデは、このようなお方をこの世の価値観でしか捉えることが出来なかった。そのため、平然と「メシア殺し」を実行に移そうとするのだ。そして、彼が呼び集めた祭司長や律法学者たちも、ヘロデの悪だくみを知りながら、メシアがどこで生まれることになっているか旧約聖書を調べて彼に荷担する。彼らは、主イエスが「メシア」であると捉えることまでは出来たのに、なぜ平気で殺すことを考えるのだろうか。当時、ユダヤの民衆に対して多大な影響を与える特権を手中に収めていた彼らは、主イエスではなく、ヘロデをこの世の王として君臨させ続けることによって現在の自分たちの立場を守り続けようとしたのだ。

 一方、東方からやって来た占星術の学者たちはどうだったか。彼らは、メシアについての知識はわずかしか持ち合わせていなかったが、王や祭司長、律法学者たちよりもはるかに強くメシアを待望していた。異邦人である彼らが、最も大切な宝物をメシアに捧げるために携えていたことからも、その思いはひしひしと伝わってくる。

 そんな彼らのひたむきさが、誰にでも等しく見えるはずの夜空の無数の星の中に、ひときわ明るく輝く希望の星を見出させたのだ。そして、彼らはその星を見失わず、その星に導かれて、主イエスを礼拝する者として歩んでいく。

 我々を取り巻く環境は様々だが、皆それぞれ目の前には厳しい現実が立ちはだかっている。そんな状況の中にあって、我々はこの世の価値観に囚われ、知らず知らずのうちにその枠の中でがんじがらめにされてしまっている。我々は、このような状態のままでいたら、神から与えられている命を輝かすことが出来ない。我々の命は、希望の源である主イエスを見出し、このお方を全身全霊を込めて礼拝するために与えられている。

 だからこそ、主の栄光はすべての人々の上で等しく輝いているのだ。それを求めていない時には気づくことが出来ないかもしれないが、意識的にせよ無意識的にせよ、我々の命を本来あるべき姿で輝かせることを望んでいる人は、夜空にひときわ明るく輝く希望の星を示され、その星に導かれて、命の源であり、真の救い主であるお方との出会いを与えられるのだ。

 主は、暗闇の中で救いを求めている人に、一筋の光を示してくださる。この光の方に向かって進み、光の中に入れられることを望む者には、イエス・キリストによる真の救いが用意されている。

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