日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

11年1月のバックナンバーです。

2011年1月2日 新年礼拝(降誕節第2主日)

説教:「常に主を覚えてあなたの道を歩け」
聖書朗読:箴言3章1〜12節
説教者 :北川善也牧師

 今年の教会標語として選ばれたのは、旧約聖書・箴言の御言葉、「常に主を覚えてあなたの道を歩け」(6節)だ。ここには、短いながらも信仰者が絶えず立ち帰るべき事柄が端的に示されている。

 我々は、真人間になろうとして罪の世界から離れようとするが、いつまでもそこに引き戻そうとする力と戦い続けねばならない存在だ。我々は確かに罪の渦巻く世の中で生きており、完全に罪から離れて生きることは困難だ。罪は、いつでも我々を底なしの泥沼に引きずり込もうと狙っている。

 そんな我々に箴言は告げる。「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ」(1節)。この「教え」とは、神がその意志と目的をもって人間の生活を導くために与えられた教えのことであり、すなわちそれは神の御言葉、聖書のことと言って良い。

 それゆえ、この「教え」を忘れず、心に納めるならば、「命の年月、生涯の日々は増し 平和が与えられる」(2節)と言われる。命の年月を定めたり、「平和」、つまり神の救いをもたらすことが出来る御方は神以外におられない。

 しかし、我々自身が罪から離れられないため、いつでも創造者にして絶対者である神から離れて生きようとしてしまう。我々が、いついかなる時も神の御言葉に聴き従うにはどうしたらよいのか。

 「慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び 心の中の板に書き記すがよい」(3節)と言われている。この「慈しみ」は、旧約において大変重要な言葉だ。これは、神が主語となる場合、「不変の愛」を意味する。それは、神が人間と結ばれた契約のことであり、それに基づいて神は罪に染まりきった、どうしようもない人間をも決して見捨てることなく救ってくださるのだ。一方、「慈しみ」は人間が主語となる場合、神の愛に応えようとする人間の「信仰」を意味する言葉となる。

 神は、不変の愛をもってすべての人間を救うと約束してくださった。だから我々は、信仰をもって神に従い、この救いの約束を受け取らねばならない。そのために、我々は自分の心に御言葉を刻みつけ、神への絶対的な信頼をもって従うよう教えられている。

 「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け」(5-6節a)。信仰者の歩みにおいて大切なのは、神に対する絶対的な信頼であり、そこに人間の分別(妥協)が介入する余地は一切ない。

 勿論こうした生き方によって、自分の人生における自由と責任を、全部神に押しつけ、捨て去ってよいと言われているわけではない。人間は、自由で責任ある存在として生かされているがゆえ、自分で決断し、判断し、その結果を受け入れねばならない。しかし、だからこそ人間は自分だけを頼りにして生きていくことなど出来ないのだ。もし我々が、本当にすべてを自分一人で決断せねばならないとしたら、そこには失望と悲惨が待ち受けているという他ない。

 我々は、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼ら」ずに生きることにより、人生における何よりも確かな道を備えられる。また、たとえ人生における一大事に直面しても、足下が崩れてしまう恐れを抱くことなしに、大胆に立つことができるようになる。

 「常に主を覚えてあなたの道を歩け」。我々は、このようにして神中心の生活を送ることによって、何よりも確かな希望で満たされ、その希望は決して絶えることがない。しかも、主は我々が献げる礼拝を何よりも喜んでくださる。そして、我々が献げるよりもはるかに多くの恵みをもたらしてくださる。この新しい年も、神への礼拝を中心とした生活を守り、希望に満ちた歩みを進めたい。

2011年1月9日 オール洛北礼拝(降誕節第3主日)

説教:「神はわけへだてなさらない」
聖書朗読:使徒言行録10章34〜48節a
説教者 :北川善也牧師

 イエスさまは、「疲れた者、重荷を負う者は誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。イエスさまは弱っている人の内側から不思議に湧き出る力を与えてくださいます。

 そのイエスさまは、すべての人を救うという御自分の約束を世界中の人々に伝えるため、12人のお弟子さんを用いられました。このお弟子さんの中にはいろんな人がいましたが、特に有名なのは漁師をしていたペトロです。

 ペトロはある日、湖畔で仕事をしていると、そこを通りかかったイエスさまから、「わたしに着いてきなさい。人間を取る漁師にしよう」と呼びかけられました。とても不思議な言葉でしたが、ペトロは兄弟と一緒にすぐ網を捨ててイエスさまに従っていきました。

  ペトロは、いつでもイエスさまの近くにいましたが、ある時こんなことがありました。イエスさまが突然みんなの前で、「わたしは、十字架にかかって死ぬでしょう」と言われたのです。これにはみんなびっくりしてしまいました。ペトロはイエスさまを離れたところにお連れして、「イエスさま、そんなことを言われては困ります」と言いました。すると、逆にペトロはイエスさまから、「サタン退け」と大目玉を食らうのです。

 イエスさまの十字架の出来事は、誰も認めたくないことかも知れません。ペトロと同じように、もしかしたらわたしたちもイエスさまが十字架につけられて死んでしまうお話なんて聞きたくないと思うかも知れません。でも、イエスさまは確かに十字架にかかって死なれ、墓に葬られて三日目によみがえられました。そして、もう一度ペトロたち12人の前に現れて、こう言われました。「わたしはいつまでも生き続けて、すべての人を救うと言ったあの約束を必ず成し遂げますよ」。こうして、すべての人が救われるという神さまの約束は、イエスさまの十字架によって本当になったのです。

 お弟子さんたちは、このイエスさまの出来事を世界中の人々に伝えなくてはならないという気持ちを持ち始めましたが、初めはなかなか立ち上がれませんでした。イエスさまは、よみがえられた後、しばらくすると天に昇られて見えなくなってしまいました。お弟子さんたちはまた不安になって、みんなでお祈りしました。すると、そのお弟子さんたちに聖霊が降り、元気に立ち上がってイエスさまのことを世界中の人々に伝えていく力が与えられたのです。

 ペトロは、神さまのことをまったく知らない外国の人のところに行き、一生懸命イエスさまのお話しをしました。ペトロは、自分の話なんか誰も聞いてくれないと思っていたかもしれません。でも、ペトロがイエスさまのお話しをすると、不思議なことに大勢の人たちが信じて従って来ました。これは、もう人間の力を超えた神さまの御業と言う他ありません。神さまが聖霊の力によって、大勢の人たちにイエスさまを信じる心を備えてくださったのです。

 さて、それから二千年たちました。今、わたしたちがいる日本は、ペトロから見たら遠い外国ですが、そこにもイエスさまのことが伝えられ、ここにいるわたしたちもイエスさまに従っていこうとしています。考えてみたら、このことはとても不思議なことです。

 イエスさまは、すべての人をわたしの弟子にしなさいと言われましたが、そのため誰にも分け隔てなく聖霊を与えてくださるのです。そのようにして、すべての人がイエスさまを信じるようになるというのが神さまの御計画です。

 このすばらしい御計画のために、神さまはわたしたちを用いられます。わたしたちにイエスさまのことをお話しできる力が与えられるよう一緒に祈りましょう。

2011年1月16日 降誕節第4主日

説教:「わたしは罪深い者なのです」
聖書朗読:ルカ福音書5章1〜11節
説教者 :北川善也牧師

 人生には、夜通し働いても一匹の魚も捕れず、疲れ切った状態で網を洗うような現実がある。

 その朝、群衆は神の御言葉を求めて主イエスのもとに大挙してやって来た。それは、主が異邦の地、ガリラヤで伝道された成果とも言えるだろうし、当時の人々が迷える小羊のような状況に置かれ、いかに救い主を求めていたかを表しているとも言えるだろう。

 いずれにせよ、群衆が敏感に感じ取ったように、主の説教には神の御言葉が充ち満ちていた。それは、今までに誰も聞いたことがない神の御国の真理を語る救いの御言葉だった。それゆえ、人々は主を湖に追い詰めるようにして神の御言葉をひたむきに求めた。

 主は、そこに二艘の小舟があり、傍らに徹夜の漁から帰った漁師たちがいるのをご覧になった。彼らが力なく網を洗う様子からも漁果が思わしくなかったことは明らかだった。主は、そのうちの一艘に乗り込み、持ち主であるシモンに岸から少し漕ぎ出すよう頼まれた。そして、主はその舟の中から群衆に向けて説教を語られた。

 主はこうして、殺到した群衆と距離を取られたが、シモンとは一対一の至近距離に近づかれた。しかし、彼は徹夜の漁を終え、何の成果も得られずに疲れ果てたところへ主が舟に乗ってこられたのを感謝するどころか、ありがた迷惑と感じたのではないだろうか。

 そんなシモンに追打ちをかけるように、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)と主は命じられた。これは、彼が驚き呆れるような言葉だった。漁の常識では、最も魚が捕れる時間帯は真夜中であり、その逆が朝なのだ。だから、漁師は、朝、沖に出て網を降ろすなどということは普通しない。何よりもその時、彼は徹夜の漁で疲れ切っていた。

 しかしシモンは、「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節)と答える。彼の知識や体験に照らせばそれは全く無意味な行為だったが、主の御言葉に突き動かされ、彼は疲れを忘れて再び沖へ漕ぎ出し、網を降ろすのだ。

 するとその途端、おびただしい魚の群れがかかり、網は破れそうになった。これは、明らかに異常事態であり、シモンの知識や体験の領域をはるかに超え出た、神の一方的な恵みの出来事だった。

 このような大漁という恵みを与えられたシモンらは、喜ぶより先に畏れおののいた。彼は、主の足もとにひれ伏し、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節)と告白する以外なすすべがなかった。

 シモンは、主の御言葉に従うことによって大漁の奇跡を体験した時、自らの内面に深く沈潜し、罪の告白へと導かれていった。そしてその時、それまで「先生」と呼んでいた御方に対して、彼は「主よ」と呼び方を変えた。彼は、この恵みの出来事を通して、神への畏れを呼び起こされ、自らの罪深さに目を開かれた。そして今、自分の目の前におられる御方こそ自らの罪を取り除かれる真の救い主であることに気付かされたのだ。

 そんなシモンに対して、主のさらなる祝福が与えられる。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)。夜通し働いても一匹の魚も捕れないようなむなしさや何の役にも立たなかった網を洗うような愚かさに満ちた人間生活。主は、そのただ中に来られ、我々に「恐れることはない」と語りかけてくださる。こうして真の救い主と出会い、信仰者とされたシモンは、一気に伝道献身者の道へと導かれていく。

 神の御言葉に従う決断を与えられた時、我々はこの世において何も恐れず生きる者に変えられる。主は、そのようにしてこの世の思い煩いを取り去り、我々を希望に満ちた歩みへと導いてくださる。

2011年1月23日 降誕節第5主日

説教:「キリストに結ばれて豊かにされる」
聖書朗読:Tコリント書1章1〜9節
説教者 :北川善也牧師

 使徒パウロは、コリント教会の人々に「神の教会」と呼びかけている。ここで共に生きるよう召されているのは、神によって招かれ、神のものとされた人々だ。

 「主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」(2節)召されているのが教会であり、その一人一人は、神によって招かれている。そして、その者たちは「聖なる者」とさえ呼ばれる。

 我々は、自分のどこを見渡しても自分が聖なる者であるという実感は湧いてこない。しかし、大切なのは我々の実感ではなく、神が既に我々をキリストとの交わりの中に招いてくださっているという事実以外の何ものでもない。

 教会は、ギリシア語で「エクレシア」と言うが、その原意は「呼び出された者」だ。我々は、主によって招かれ、その交わりに入れられることによって、聖なる者、神に属する者とされるのだ。

 「御名を呼び求める人」とは、礼拝や祈りにおいて主に感謝し、求め、願う人のことであり、神によって呼び出された者がそのように変えられていく場所が教会だ。

 パウロは、コリント教会の中に争いがあることを知り、心を痛めつつこの手紙を書いた。その争いとは、めいめいが「わたしはパウロに」、「わたしはアポロに」、「わたしはケファに」、「わたしはキリストに」などと言い合う党派争いであり(12節)、人間崇拝だった。

 パウロはそんな彼らに、「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」(13節)と問う。パウロは、教会が本当に見るべきなのは人間ではなく、キリストの十字架のみであることを熱く語った。

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(18節)。コリント教会のある者たちは、救い主のしるしを十字架ではなく、目に見える栄光の姿に求めた。またある者たちは、十字架の上で死んだ者を救い主と呼ぶのは愚かなことと見なした。

 つまり、彼らは常に人間の知恵を基準とし、あらゆる事柄を知恵によって計ろうとしたのだ。だが、それは現代の我々も同じだ。何か問題が生じた時、我々は知恵によって解決の道筋を探ろうとする。

 問題は、その時求められているのがどんな知恵かということだ。コリント教会の人たちは、「知恵ある人」、「学者」、「この世の論客」を教会に求め、それによって問題解決を図ろうとした。そんな彼らに、パウロは「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています」(23節)とはっきり告げる。この御方こそ、神の力であり、神の知恵であると。

 この世は、知恵で神を知ることが出来ない。もし強引にすべてを知恵で解決しようとすれば、信仰は不要となり、限られたエリートだけが平安を得ることとなる。

 コリント教会には、そのような知恵者中心の、熱狂的な雰囲気が漂い始めていた。それに対してパウロは、我々が終わりの日に与えられる救いの恵みの豊かさを証しし得る唯一の根拠は、「神は真実な方」(9節)であるという信仰に他ならないことを強調する。

 パウロは、神の約束に対する確信のすべてを、神御自身の「真実」(誠実さ、忠実さ)に置く。つまり、神による救いの根拠は、人間の信仰や神への忠実ではなく、神の人間に対する一方的な愛なのだ。そして、それこそイエス・キリストの十字架の出来事に他ならない。

 神は、このようにして問題解決の道を与えてくださった。今やすべての人間が真の命に与り、大いなる希望のうちに生きるよう招かれている。我々一人一人を、このようなイエス・キリストとの交わりの中に導き入れてくださる神に感謝しつつ、共に歩みたい。

2011年1月30日 降誕節第6主日

説教:「わたしたちは神の民」
聖書朗読:Uコリント書6章14節〜7章1節
説教者 :北川善也牧師

 「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」(14節)。使徒パウロは、キリスト者は未信者のような生活をしてはならないと言う。これは大変厳しい言葉だ。。

 パウロがこのように語らねばならなかった背景には、コリント教会特有の事情があった。当時のコリントは、商業都市として繁栄していた反面、道徳的に退廃していた。教会もその影響を免れず、多くの問題を抱えていた。パウロは、洗礼を受けキリスト者とされた人々が、信仰以前の生活に逆戻りするのを看過できなかったのだ。

 だが、ここで一つ疑問を抱く。パウロのように、誰よりもキリストによる罪の赦しを確信していた人が、なぜこれほど厳しい言葉を告げるのか。それは、彼自身の教えと矛盾するのではないかと。

 罪の赦しは、キリストの十字架の死という犠牲なくして与えられることのなかった神の恵みだ。それゆえ、この恵みを示され、罪赦された者は、罪の問題に無関心でいられないだけでなく、かえって自分の罪に敏感になっていく。

 だから、無意識にせよ、いつまでも罪の生活に留まっているとしたら、その人は十字架の意味を正しく理解していないことになる。

 コリント教会の一部の人々は、罪の赦しを誤解していた。罪は赦されたのだから、自分は何ものにもとらわれない自由な存在だと。しかし、パウロは彼らが主張するそのような自由は真の自由ではなく、逆に欲望に支配された奴隷状態だと断じた。パウロが他の箇所で述べたように、「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるため」(Tテサ4:7)に他ならない。

 「あなたがたは…不釣り合いな軛につながれてはなりません」。軛とは、二頭の家畜をつないで仕事をさせるための道具だ。では、これはキリスト者が未信者と共に働いてはならないという意味だろうか。パウロは、そんな分離主義的主張をしているわけではない。

 旧約には、「牛とろばを組み合わせて耕してはならない」(申22:10)とあるが、パウロが語るイメージはこれだ。力のバランスが取れないもの同士が一つの軛を共にすれば、動きに歪みが生じ、前進することすらできなくなる。

 キリスト者はキリストを拠り所とするが、未信者は違う。このように相互の土台が異なっている限り、両者は軛を共に出来ない。しかし、だから未信者と交わらないようにせよということではない。ここでは、一度キリストのものとされた人間が、あたかも自分がキリスト者でないかのように装ったり、未信者と同じように振る舞うことの問題点が述べられている。

 何よりも、我々には本当に軛を共にすべき唯一の御方がいる。主は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」(マタ11:28-29)と言われた。何より大切なのは、主の軛を負い、主と共に歩むことに他ならない。

 コリント教会の最大の問題は、主と共に歩むのを忘れたことだ。我々は、主と共に歩まねば不義の中にありながらあたかも自分が正しい者であるかのような錯覚に陥る。だが、主と共に歩む者は、主の足下にひれ伏し、ひたすら自らの罪を懺悔する者とされる。

 そうして主と共に歩む者は、「生ける神の神殿」に変えられていく。主は、我々のような貧しく小さな存在を通して語り、また働いてくださる。神の恵みが我々を通して示され、人々が神のもとに立ち帰る御業が成し遂げられるのだ。「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(16節d)。神は我々を生かし用いつつ神の御国を完成へと導いてくださる。

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