日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

11年2月のバックナンバーです。

2011年2月6日 降誕節第7主日

説教:「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」
聖書朗読:ルカ福音書5章33〜39節
説教者 :北川善也牧師

 今日与えられたルカ福音書において語られているのは、主イエスのもたらされた福音が、この世のいかなる物差しによっても測れない、全く新しいものであるということだ。それゆえ、既存の価値観や生活習慣に固執したり、安住する人は主につまずくと言われる。

 だが、実はそのような体質は誰もが持ち合わせている。主は、「古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである」(39節)と言われたが、これは全くその通りで、我々は自分にとって居心地の良い場所から動こうとせず、自分から積極的に変わろうとすることの出来ない存在だ。

 ここで言われている「断食」は、他人に対して見せる苦行の代表的なもので、それはいわば古い価値観の代表だ。洗礼者ヨハネを「メシア」と捉えたヨハネの弟子たちは、ヨハネによる洗礼ですべてが解決し、それを受けた自分たちは罪が赦され、何をしても自由であると信じた。また、ファリサイ派は、自分の力で律法を遵守することによりすべてが解決されると信じ、そのような力を持つ自分たちを誇った。そして、いずれのグループも自分たち以外の人間が救いに与ることはないと考えた。そのような者たちが、あえて他人に見せるように断食をしていたのだ。

 そんな彼らに看過できなかったのは、主の「掟破り」の行動だった。主は、すべての人々、とりわけ弱く小さな、到底自分の力で罪の赦しを確信することの出来ない人々に対して積極的に近づき、神御自身が真の救いをもたらすという命の御言葉をお与えになった。何よりもその御言葉は、ファリサイ派らが忌み嫌って近づこうともしなかった彼らとの会食という、最も近い、愛に満ちた距離感をもって語られた(5章27-32節)。

 主のそのような行動が何を意味しているか、それを示すために語られたのが、「継ぎ当て」と「革袋」のたとえだった。いずれのたとえも、新しいものは古いものとは適合しないことが語られている。新しい布切れで古い服に継ぎ当てをして洗うと、新しい部分だけが縮み、周囲と馴染まなくなる。また、弾力を失った古い革袋に新しいぶどう酒を入れると、発酵の膨張力で革袋は破れ、革袋もぶどう酒も共に台無しになる。

 それでは、この「新しいもの」とは何を指しているのか。主は、34、35節で、「花婿」のたとえを用いて、御自分の十字架の出来事を予告された。これこそ、主が示された全く新しい福音の最も中心的な事柄だが、同時にこの出来事は「つまずきの石」でもあるのだ。

 人間は、そのような「つまずき」である福音を可能な限り避け、自分が元々保持している価値観や生活習慣のような「古い革袋」を持ち続けようとする。しかし、それは自分が物差しになって物事を計ろうとする人間中心主義に他ならない。そのような行いを続ければ、人間は命の与え手である神から離れ、古びて弾力を失い、いつしか破れ去って朽ち果てるのみだ。

 福音とは、全く新しく、極めて独自のものであるため、人間の常識の枠内にぴったりと収まるようなものではない。むしろ、人間の方が福音に合わせて新しく造りかえられねばならないのだ。

 我々は、福音の持つ新しさをありのままに受け止める者でありたい。しかし、それは人間が自分の力で出来ることではなく、神が聖霊の働きによって成し遂げてくださる神の御業に他ならない。

 我々はこの後、聖餐に与り、主の十字架の出来事の意味を味わおうとしている。主は、我々を洗礼によって生まれ変わらせ、全く新しい存在にしてくださる。そして、聖餐によって絶えず新しい福音を注ぎ、我々を「新しい革袋」として養い続けてくださる。

2011年2月13日 降誕節第8主日

説教:「本当の祝福と安息の与え手」
聖書朗読:ルカ福音書6章1〜11節
説教者 :北川善也牧師

 律法の規定を人間中心に捉えるファリサイ派。そんな彼らに対して、主イエスは「安息日」の掟を通して重要な教えを示された。

 律法の規定に文字通り従えば、主の弟子たちは、安息日に麦の穂を摘むことで収穫の禁を犯し、手でもむことで脱穀の禁を犯し、殻をはぐことで調理の禁を犯したことになる。ファリサイ派はそうした不可解な掟をそのまま守り、違反者を裁くことに心血を注いだ。

 これに対して主は、旧約のダビデの故事を例に引きつつ、安息日は飢えた人が空腹を満たすことを許さない、人間の生を脅かすような掟ではないと主張された。その時、主は決定的な一言を加えられた。「人の子は安息日の主である」(5節)と。ファリサイ派にとって律法は禁止令のリストであり、人間を束縛するための道具に他ならなかった。しかし、主は律法が本来人間の命を守る神の掟であり、人間を真の自由へと解放するのが安息日だと明確に告げられた。

 さて、続いて別の安息日の出来事が記されている。ここでは、先ほどよりエスカレートし、ファリサイ派は主の「安息日破り」を摘発しようと、その一挙手一投足に警戒の目を光らせていた。しかし、そんな中で主は、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」(9節)と言って堂々と手の不自由な人を呼び寄せ、いやしの業を行われた。

 この人は「右手が萎えていた」(6節)。すなわち利き手が使えず、日常生活を確立できずにいた。主は、そのような人を、安息日だからという理由で助けないことが神の御心なのかと問いかけられた。

 安息日は、神による天地創造に由来し、元々仕事を休んで神を礼拝する日として定められた。だが次第に、神礼拝より仕事を休むことに力点が移り、律法が定める安息日の禁止規定は39、その各々に細則が付き、全部で1500余の禁止事項が定められていったという。

 ファリサイ派は、このような律法理解によって、その中心におられる神を忘れ、自己絶対化に陥った。彼らは、安息日を落ち度なく守ることに熱心のあまり、その本来の意味を受け止める柔軟な開かれた心を失ってしまった。それゆえ、彼らは人の苦しみや不安に思いを馳せることなく、ただひたすら安息日の規定が違反されていないかの確認に心血を注ぐのだ。

 しかし、そのような人々が取り囲む中で、主は手の不自由な人に、「立って、真ん中に出なさい」(8節)と言われた。事が行われたのは部屋の片隅ではなく、真ん中だった。主は、堂々と明確な主張をもってこの行動を起こされた。主は、一人一人とこのようにして向き合い、愛を注いでくださる。

 主は、「その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた」(10節)。手の動かない人にとり、手を動かすのは恐ろしいことだ。だが、主は毅然と命じられた。彼は、自らのすべてを主に委ねるか否かの決断を求められたのだ。つまり、「手を伸ばしなさい」という主の言葉は、行為を求める命令ではなく、彼の信仰を問う問いかけだった。

 彼が主の「言われたようにすると、手は元どおりになった」(10節)。萎えていた右手はいやされ、回復した。だが、主は手の回復のみならず、彼を真に生きる者とすることによって、安息日の本来の意味をも回復させられたのだ。

 彼は、人生の前途に夢も希望も失っていた。しかし、その一人を救うため、主は安息日の規定を越え、また、ファリサイ派らの計略にはまる危険を知りつつ、真正面からいやされた。主は、我々にも「手を伸ばしなさい」と呼びかけておられる。これこそ、御自分を十字架にかけてまで我々を愛してくださった主の恵みに満ちた呼びかけであり、招きに他ならない。

2011年2月20日 降誕節第9主日

説教:「御言葉を聞き、忍耐して実を結ぶ」
聖書朗読:ルカ福音書8章4〜15節
説教者 :北川善也牧師

 主イエスは、生ける神の御言葉としてこの世に来られた。そして、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、神の国を告げ知らせた。だが、福音そのものとして来られた主は、この世にとって小さな種のような存在に過ぎなかった。

 主は、栄光に輝く神の御一人子でありながら、最も小さき存在としてこの世に来られた。ベツレヘムという片田舎の馬小屋で、しかも飼い葉桶の中という、最も低く、最も目立たない場所でお生まれになったのが神の御子だった。

 その主の公生涯は、ひたすら小さき者と共なる歩みだった。主は、社会の中で孤立した罪人や病人に対して特に目を注ぎ、世間から爪弾きにされている人たちとの交わりを何よりも大切にされた。

 何よりも、主御自身が苦難の道を選んで歩まれた。神の御子が十字架にかかってくださることによって、我々に真の救いが与えられた。人間を造られた神に背を向け、自分のことしか考えない我々が、神と向き合い、真の救いに至る道はこのようにして備えられた。

 主は、この世に来て、我々に神の国の到来を告げてくださった。そして、御自分の十字架によって、我々が自己中心的な生き方から、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」とされる恵みと希望に満ちた生き方を教えてくださった。

 我々は、その恵みと希望に満ちた神の国を、福音によってのみ知ることができる。つまり、主の御言葉に耳を傾けない限り、我々は神の国に近づくことができないのだ。だから、福音を受け入れる我々の状態が問われることになる。

 主は、「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れて……」(5-7節)と語り始められた。

 我々は、ここでたとえられているように、自分が道端のような心、石地のような心、茨の張った地のような心であり、主が語られる福音を正しく受けとめることができないことを知っている。

 しかし、ここでよく考えてみたい。土地は、どんな土地であっても、初めから種を持っていない。土地は、自分勝手に実を結ばせることなどできない。土地は、外から種を蒔かれることによって、初めて実を結ぶことができるのだ。

 これは、神の御言葉そのものが豊かに実を結ぶ力を持ったすばらしい種であることを示している。そして主は、我々を良い土地と信じて、種を蒔き続けてくださる。我々に聞く耳があると信じて神の御言葉を語ってくださるのだ。

 そもそも、このたとえに登場する種を蒔く人は、実らぬ種があるということなど思ってもいないような仕方で種を蒔いている。彼は、自分が種を蒔いているのが、どんな土地であるかということなど全く問題にしていないかのようだ。この人は、すべての土地が良い土地であり、豊かな実を結ぶと信じて、種を蒔き続けているのだ。

 主は、こんな我々を信じ、我々にも神の御言葉が実を結ぶと信じて、種を蒔き続けてくださる。そして、神の御支配が完成する終わりの日、御自分の民に想像を超えた豊かな収穫がもたらされることを約束してくださっているのだ。

 主は、このようにして神の御言葉の種を蒔いてくださった。弱く小さな土の器である我々人間を信じ抜き、十字架に至るまで御言葉を与え続けてくださった。

 その主が我々に、「聞く耳のある者は聞きなさい」と語っておられる。我々は、主の御声を聞く者となり、主が十字架と復活によって打ち立てられた神の御国に入れさせていただく日を遙かに仰ぎ見つつ、我々に蒔かれている福音の種を共々に成長させ続けたい。

2011年2月27日 降誕節第10主日

説教:「今日、驚くべきことを見た」
聖書朗読:ルカ福音書5章17〜26節
説教者 :北川善也牧師

 律法の掟にがんじがらめにされていた当時の人々は、主イエスが語られる御言葉に生き生きとした命の脈動を感じ、その御言葉にいつまでも触れていたいと思った。そこで、大勢の群衆が主のもとに押し寄せ、主が滞在された家は戸口までびっしり埋め尽くされた。

 4人の男たちがやってきた時には、主に近づくことなど到底できない状況だったが、彼らは何としても主に近づかねばならなかった。彼らの友人が病のため立ち上がれなくなり、生きる希望を失っていた。彼のこのような状態に男たちは心を痛め、彼が救われるために何をなすべきか祈り求めた。

 そして彼らは、友人を救う道が、主に直接お会いして、その御言葉に触れさせる以外にないことを確信した。そこで、彼らは友人を床に寝かせたまま担いで主のもとへ連れてきたのだ。だが、彼らが主に近づくための道は、大勢の人々によって完全に閉ざされていた。

 もはや通常の道で彼らが主に近づくことは出来なかった。だが、それでも彼らは、主と対面し、友人に御言葉が与えられることを祈り求めた。そんな彼らに、普通考えつかないような道が示された。

 水平方向にしか移動できない人間に、神は垂直方向の道を示してくださった。この御方が人間を救い主と出会わせてくださる。

 4人の男たちは、屋根をはぎ、友人を床に寝かせたまま、主の前に吊り降ろした。それは、人々の目から見たら非常識極まりない行動だったが、主は彼らの行動ゆえに病の友人を受けとめられた。なぜなら、彼らが信仰によって示された道に愚直に従ったからだ。

 しかし、そこには、彼らのように主を信じる者ばかりでなく、拒む者もいた。律法学者たちだ。当時の人々は、あらゆる面で律法に縛られ、奴隷のような生活を強いられていた。しかも、律法は非常に細かい規定だったため、一般人には使いこなせなかった。だからこそ、律法学者が幅を利かせ、律法に基づく対処方法を人々に示していたのだ。そして、彼らは主が教えておられるところにも乗り込み、その一挙手一投足に問題がないか厳しく目を光らせていた。

 そんな状況下、主は中風の人に、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。律法学者たちは、この言葉を看過出来ず、心の中で、「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(21節)という思いを抱いた。

 主は、人間の心を神に立ち帰らせ、生かすための律法が、今や人間の手かせ足かせとなっているのをご覧になり、律法をそのような道具として用いようとする律法学者たちに厳しく問いかけられた。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(22-24節)と。

 神の御心は、人間を生かすことにある。神が与えられた律法も、本来人間を縛りつけるものではなく、人間を生かすためのものに他ならない。主は、神の御子として、そのことを明確に示された。

 いみじくもその形が表しているように、人間の水平方向の道を貫く神による垂直方向の道は、主の十字架によって完成された。

 しかも、この場合、神は垂直の道を上から来られるのではなく、逆に、神の御子の方が人間より下にいて待ち受けていてくださるのだ。高くて手の届かないところにおられるのではなく、我々の下にいてすべてを支え、受け止めてくださる神によってすべての人間に救いの約束が与えられた。罪に満ちた人間の贖いと、この世の限りある命が永遠の神の御国に繋ぎ止められる究極の救いが、主の十字架によって完成されたのだ。

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