日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

11年3月のバックナンバーです。

2011年3月6日 降誕節第11主日

説教:「五つのパンと二匹の魚」
聖書朗読:ルカ福音書9章10〜17節
説教者 :北川善也牧師

 主イエスは、弟子の12人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになり、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わされた(9:1-2)。

 その直前まで、ただ主の近くに付き従い、主がなさる奇跡の御業を見ているだけの存在だった弟子たちに、今や主より特別な力が授けられ、彼らの手によって人々のいやしが行われるようになった。

 彼らは、おそらく意気揚々と出かけていったことだろう。そして、行く先々で自分たちが主と同じようないやしを行えるということに驚き、興奮を覚えたに違いない。

 旅から帰ってきた弟子たちは、「自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」。しかし、その報告を聞かれた主は、「彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」(10節)。

 弟子たちの報告は、「自分たちの行ったこと」を主張するものに過ぎず、彼らを用いて働かれた神に対する畏れを伴わなかった。

 この時、主と共にベトサイダへ向かったのは、12弟子だけではなかった。大勢の群衆が救いを求めて、主の後を追ってきていた。主は、「この人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(11節)。

 しかし、日が傾きかけると弟子たちは、「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)と主に願った。彼らは、群衆を疎ましく思っていたのだ。

 主は、そんな弟子たちに、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)と言われた。これは、本当の意味で人間を生かす働きをしなさいという命令に他ならない。だが、弟子たちは極めて現実的な発想から、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(13節)としか答えられない。そこには、確かに男性だけで5千人、女性や子どもを合わせればその倍近い人々がいた。

 弟子たちがうろたえていると、主は「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」(14節)と言われた。そして、主は「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」(16節)。主は、この業を通して人間が生きていくために必要な「命のパン」の与え手が誰であるかを明確に示された。

 このようにして主が示されたのは、十字架上で裂かれる御自分の御体だった。主が自らの肉を裂き、それを分け与えることによって、すべての人間の救いが完成した。

 十字架なくして、我々の罪が赦され、永遠の命に与るという約束は成し遂げられなかった。この御業は、弟子である彼らには決して行うことが出来ない。それどころか、彼らは主と絶えず行動を共にしていたにもかかわらず、十字架の出来事を正しく受け止め、直視することが出来なかった。

 主が命を懸けて神の御国へ招いてくださっているにもかかわらず、我々はこの世の価値観から目を離すことが出来ない。そればかりか、我々は主を信じていると言いつつ、主を自分たちが望むこの世の王に仕立て上げようとさえしてしまう。我々は、主に対して真剣に向き合わず、自分勝手な歩みを続けている限り、主が命賭けで与えようとしておられる神の御国に近づくことなど出来ない。

 弱く小さな存在である我々が、神と向き合い、神に立ち帰るため、主は十字架にかかってくださった。そして、自らの肉を裂き、与えることによって、絶えず我々に神の御国を指し示してくださるのだ。主からしか与ることの出来ない「命のパン」を受け、共々に神の御国に向けて歩んで行きたい。

2011年3月13日 受難節第1主日

説教:「荒れ野の四十日」
聖書朗読:ルカ福音書4章1〜13節
説教者 :北川善也牧師

 主イエスは、公の歩みを始めるにあたり、ヨハネから洗礼を受けられた。ヨハネが人々に授けていたのは「悔い改めの洗礼」であり、罪に染まった人間には必要不可欠だったが、なぜ罪なき神の御子がこれを受けねばならなかったかは説明がつかないように思われる。

 主がすべての人に罪の赦しを得させるための代償として苦難の死を遂げられることは神の御計画だった。主は、そのような生涯を開始する際、御自分が罪人である人間と共に徹底的に歩む決意を示すため、洗礼を受けられたのだ。

 それゆえ、主が洗礼を受けられた時、罪人である人間が受けた時とは全く異なる出来事が起こった。その時、「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(3:21-22)。

 そして、この聖霊の導きによって主が最初に取られた行動が、荒れ野に出て、悪魔の誘惑を受けることだったのだ。主は、まずすべての人間にとって最大の課題である悪魔の誘惑に立ち向かわれた。

 主は悪魔から、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3節)と嗾けられた。人間は、生まれながらにして腹が減ればすぐ食物を求める存在だが、求めるのは食物に限らない。人間は、自分の欲求を満たすために絶えず頭を働かせ、そのためにあらゆる手段を講じる。しかし、主はこの誘惑に対して、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(4節)と言って退けられた。

 欲望を完全に退け、信仰を貫き通す生き方は、人間には到底不可能だ。しかし、そのような生き方を成し遂げ、そこへすべての人間を導こうとなさるのが神の御子なのだ。主がそれを有言実行出来るのは、主御自身が神の御言葉そのものであるからに他ならない。

 次に、悪魔は主を神殿の屋根の端に立たせ、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」と煽った。これは、主が十字架にかけられた時の人々の言葉と似ている。

 「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ」。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい」(マタイ27:39以下)。このような悪魔的な言葉を人間が語っていることに戦慄を覚える。ここには、悪魔によって簡単に支配される人間の弱さが映し出されている。人間は、こうしていとも簡単に主の十字架を軽んじるのだ。

 しかし、主の十字架は、このようにあからさまに軽んじられるばかりではない。主がこれから御自分の身に起きる十字架の出来事を弟子たちの前で語った時、ペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめた(マタイ16:23以下)。ここには、無意識のうちに主を押さえ込み、自分が神になろうとする欲望が見え隠れする。何よりもそれは、主の十字架を否定する思いだった。それゆえ、主はペトロを、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者」と厳しくお叱りになった。

 主は、悪魔の誘惑と真正面から戦い、それらにことごとく勝利された。主は、こうして人間の弱点を克服する道を備えられたのだ。

 だが、悪魔の誘惑はこれで終わってはいない。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」(13節)とあるように、悪魔は主のもとを離れたが、依然としてこの世に存在し、人間に魔の手を伸ばし続けているのだ。

 しかし、主は我々が悪魔の誘惑を受ける時、「その誘惑はわたしも受けたが、あなたのために勝利しておいた」と言って、支え励ましてくださる。主は、既に完全な勝利の道を開いておられる。

2011年3月20日 受難節第2主日

説教:「神の指」
聖書朗読:ルカ福音書11章14〜26節
説教者 :北川善也牧師

 主イエスがヨハネから洗礼を受けられた時、天から聖霊が降り、父なる神の御声が響いた。聖霊を受け、父なる神に押し出されて、主の公生涯は開始された。その主が最初に取り組まれた業は、悪魔の誘惑を受けることだった。

 主は、悪魔の誘惑が、すべての人間の深刻な問題だからこそ、まずこれに取り組まれた。今日の聖書箇所に記されているのも、悪魔の問題だった。主のもとに悪霊に取りつかれて口の利けない人が連れてこられたが、主はその悪霊を即座に追い出された。大勢の群衆はこれを見て驚いたが、中には、この出来事を悪霊の力によるものと決めつける者たちもいた。

 主は彼らの心を見抜き、こう言われた。「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(17-18節)。悪霊が仲間の悪霊によって追い出されるなら、悪霊は相打ちによって滅び去るはずだが、本当にそうだろうか。

 悪魔が次々繰り出す誘惑をことごとく退け、完全な勝利を収められた主は、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(20節)と言われた。主は、神の指を持っておられるからこそ、悪魔に勝利し、苦しめられている人間を即座にいやすことがお出来になるのだ。

 主は、また次のようにも言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:20-21)。主がこの世に来られ、悪魔から完全な勝利を収めることによって、神の国は確実に近づいた。その神の国が、既に我々の間にあると言われている。だが、それでもこの世の悪が消え去り、神の義で満たされる状態ではない。我々は、神の国が完全に実現する時まで、悪魔の策略と戦い続けねばならないのだ。それは信仰を守り抜く戦いだ。

 では、悪魔の策略とは何か。それは、我々を主の十字架から遠ざけることだ。主は、我々に罪の赦しと永遠の命をもたらすため、十字架にかかってくださった。我々がその十字架から離れることは、永遠の命から離れるのと同じことだ。だから、我々は、神の国が完成する終わりの日まで信仰を貫き通さねばならない。『主の祈り』にあるように、「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈りつつ歩まねばならない。

 主が来られることにより、神の国は「既に」近づいた。だが、主が十字架の死から復活を遂げ、天に昇られて以来、神の国は「未だ」完成していない状態のままだ。しかし、主は御自分が再びこの世に来られる時、神の国が完全な形で実現すると約束してくださった。

 しかし、そのために我々は信仰の戦いを戦い抜かねばならない。罪に満ちた困難なこの世にあって、弱い土の器である我々にそのような戦いが可能だろうか。

 我々がそのような戦いを貫くことは不可能だ。だが、主は、我々と世の終わりまでいつも共にいると約束してくださった。それは、我々が戦わねばならない悪魔との戦いを、既にことごとく戦い抜き、そのすべてに勝利された主による聖霊の助けが、いつでも我々と共にあるということだ。完全なる勝利者である主が、土の器である我々に聖霊を注ぎ、信仰の器、神の器に生まれ変わらせてくださる。

 主は「神の指」をもって、すなわち神の絶対的な力をもって人間を苦しめる悪と戦い、勝利してくださるのだ。今、我々の眼前にある病も苦難も不幸も、やがてはこの勝利に完全に飲み込まれ、すべてが恵みの出来事に変えられていく。これこそ我々に与えられている何よりも大きな希望だ。

2011年3月27日 受難節第3主日

説教:「十字架を背負って主に従う」
聖書朗読:ルカ福音書9章18〜27節
説教者 :北川善也牧師

 主イエスが赴かれる所では、どこでも力ある働きが現れ出て、病が癒され、悪霊が追放され、力も希望も失っていた多くの人々に全く新しい生活をもたらした。主との出会いによって一人一人の人生が確かに変えられていったのだ。

 そんなある日、主は弟子たちに問われた。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」(18節)。弟子たちは、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『誰か昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」などと答えた。

 「洗礼者ヨハネ」は、主に先立って荒れ野で悔い改めの洗礼を授けていた人だが、彼はやがて来られる主のことを、「わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」(ルカ3:16)と告げていた。

 「エリヤ」は、旧約聖書・列王記に登場する預言者だが、この人は「火の旋風に包まれ、火の馬の引く車に乗せられ、天に上って行」くという不思議な去り方をした。それゆえ彼は、終末時に重要な役割を果たすと語り継がれていた。

 主との出会いによって大きな恵みを受け、新しい生活をもたらされた人々は、自分たちが経験したインパクトある奇跡の御業に目を奪われ、このお方を正しく受けとめることが出来なかった。

 これは弟子たちも同様だった。彼らは、主をどのように見ていただろうか。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)という主の問いに対して、ペトロは即座に「神からのメシアです」と答えた。「メシア」とは、「油注がれた者」の意で、人が王、祭司、預言者などの重要な職務に就く時、その人の頭に油が注がれたことに由来するが、時を経て、民全体を救うために来られるダビデの子孫が「メシア」だという信仰の言葉に変わっていった。

 当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、人々はイスラエルをこの状態から解放してくれるリーダーを待ち望んでいた。つまり、彼らにとって自分たちをローマの支配から解放してくれる存在こそが「メシア」だったのだ。

 この意味で、弟子のペトロによる「神からのメシア」という信仰告白も、この時点ではこの世の価値観で計ったものでしかなかった。主が求めておられるのは、十字架の道をひたすら低くへりくだって歩む神の御子を真の王として仰ぎ見る信仰に他ならない。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という主の問いは、ペトロだけに向けられたものではない。これは、弟子たち全員、いや彼らのみならず、すべての人間に対する問いかけだ。

 我々も主への応答を求められている。主は言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(23-24節)。

 ここで言われている「命」とは、神から与えられた一人一人の賜物のことだ。この「命」は、主に従って生きる時、我々の思いを超える仕方で輝きを与えられ、「地の塩、世の光」としての大切な働きを担うために用いられていく。

 このようにして、神は我々を御自身との関係の中に置いてくださる。そして、時空を超越し、永遠という時を生きておられる神と関係を持つことによって、我々の命は「永遠」と結びつくのだ。

 今やすべての人にこの約束がもたらされた。我々の「命」は、主に従うことによって永遠のものとされる。御自分の命を献げるために十字架へと進まれる主の道こそ、我々が従う道なのだ。我々は、このようにして自己中心ではなく、神中心の生き方を絶えず更新していかなければならない。

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