日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

11年4月のバックナンバーです。

2011年4月3日 受難節第4主日

説教:「栄光に輝く主イエス」
聖書朗読:ルカ福音書9章28〜36節
説教者 :北川善也牧師

 多くの病人をいやし、12弟子を選び、神の御国の福音を宣べ伝えられた主イエス。この御方に付き従う12弟子を始めとする大勢の人人が神の御国を先取りするような信仰共同体を形成しつつあった。

 主は、この共同体に連なる人々を前にして、御自分がやがて苦難を受け、十字架上で殺されること、しかし死んでから三日目に復活することを予告された。

 そして主は、十字架につけられる直前、ゲツセマネの園で血の汗をしたたらせながら、御自分の十字架によってすべての人が救われるため、執り成しの祈りをされた。すべての人の救いは、この神の御子の祈りによって固くされた。

 今、主は弟子のペトロ、ヨハネ、ヤコブを伴って山の上で祈っておられる。その祈りの言葉は、ゲツセマネの祈りのように聞こえてはこないが、それは少しずつ姿を現し始めた信仰共同体が、御国の完成する時まで導かれていくことを求める祈りだったに違いない。

 すると、「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」(29節)。しかもこの時、主はモーセやエリヤと共に語り合われたという。一体何が起こったのだろうか。

 モーセは、BC1300年頃活動したイスラエルの指導者であり、エリヤは、BC800年頃活動したイスラエルの預言者だ。彼らは共に、主が来られるより千年近く前の人間だから、この三者会談は幻としか言いようがない出来事だった。

 モーセは、イスラエルの民を代表して、神から契約の言葉、「十戒」を与えられたことから、旧約の「律法の書」を表す人物とされる。一方、エリヤは、律法に従わず、偶像礼拝に走ったイスラエルの王らを糾弾し、命を狙われながらも神の預言を語り続けた、旧約の「預言の書」を表す人物だ。

 旧約聖書は、「律法の書」と「預言の書」の二つに大別されるが、今、それぞれを象徴するモーセとエリヤが現れ、主と会見している。これは、何を意味するのか。

 旧約聖書は、たとえれば、夜更けから明け方にかけての、朝日が昇り来るのを待ち望む時間帯だ。旧約は、神の御国が完全な形で実現する終末の希望を語ると同時に、その御国を来たらせる救い主メシアをひたすら指さしている。

 そして今、旧約の代表者モーセとエリヤが主と対面することで、神の御国が確実に近づいたことを証ししている。主は、旧約の律法を成就する御方であると同時に、旧約の預言の言葉が指し示している救い主メシアに他ならない。

 だからこそ、この出来事が起こるや雲が彼らを覆い、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神の御声が響いたのだ。

 振り返れば、主が公の御生涯を開始なさるにあたり、ヨハネから洗礼を受けた時も神の御声が地上に響き渡った。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これは、父なる神が御子と共に、この世における救いの御業を成し遂げるという宣言だったのだ。

 すべてのものの造り主にして、全知全能の神御自身が御声を響かせて、神の御国に向かって進む道筋を示してくださっている。その道はただ一つ。神の御子、イエス・キリストに従う道のみだ。

 しかもこの御方は、我々から遠く離れた手の届かないようなところではなく、我々の傍らにいつでも共にいてくださる御方なのだ。

 主は、我々が信じられないでいる時も、主に近づきがたい思いに囚われている時も、自ら我々の方に近づいて、信じることが出来るよう働きかけてくださる。

 主が自ら我々に近づき、御言葉を与えてくださる。そのようにして、主は我々の恐れ、疑い、迷いを取り去り、信じる者としてくださる。我々をそのようにして救いへと導いてくださる主に、最後の最後まで従っていきたい。

2011年4月10日 受難節第5主日

説教:「キリストは永遠の救いの源」
聖書朗読:ルカ福音書20章9〜19節
説教者 :北川善也牧師

 「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た」(9節b)。これは、神が御自分の造られた地を人間に貸し与えておられることを告げるたとえ話だ。創世記1:27,28が告げるように、神は人間をこの地上の管理者とされた。しかし、この世界の主人は我々ではない。天地の創造者である神がすべての支配者に他ならない。そして、神の被造物である人間は、神の御前から離れては生きていけない存在なのだ。

 先ほど紹介した創世記は、その先で最初の人間アダムとエバに対する次のような神の言葉を記している。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16,17)。なぜ、神はあえて人間の罪意識を芽生えさせるような「ただし」以下の言葉を加えられたのか。しかも、神はその禁断の果実を「園の中央」(3:3)という一番目につくところに置かれた。そして、結果的に人間は禁断の果実に手を伸ばしてしまう。

 もし、神が人間をロボットのように言いなりの存在にしたければ、「ただし」以下の言葉は告げられなかっただろう。しかし、神は人間を、御自分の姿に似た存在として造られた。すなわち、自由な、主体性を持つ存在として造られた。それゆえ、人間は自分で考え、自分で判断し、自分で選ぶことを赦されている。これこそが人間の尊厳であり、神の恵みによる「ただし」に与る根拠なのだ。

 しかし、実際のところ、人間はすべてを自分で選び取ることは出来ない。その最たるものが「終わりの日」だ。人間は、神から貸し与えられているぶどう園をいつ返却せねばならないのか。聖書には、「その日、その時は、誰も知らない」(マルコ13:32)と記されている。では、我々はその日がいつ来るか、不安を抱えつつ歩み続けねばならないのか。そのような不安におののいている我々のために、主イエスは来てくださった。

 ぶどう園の収穫を精算せねばならない終わりの日。その審きの日を恐れおののきつつ待つしかない我々を救うため、主は十字架にかかって殺された。しかし、その捨てられた石が、死からよみがえられて「隅の親石」となられた。この十字架の死と復活の出来事により神の救いが完成し、我々は一切の恐れから解放された。我々の人生は、今やイエス・キリストによって固く基礎づけられている。

 神が我々にぶどう園を貸し与えてくださるのは、主の十字架によって我々の罪が赦されているからだ。神の御言葉に触れ、自らの罪と向き合い、悔い改めへと導かれ、神の御前に立ち帰ることによって、我々は真の救いに与ることが出来る。そして、その救いを確かなものとするため、主は我々一人一人に御言葉を与えてくださる。

 我々が神の国の収穫の日に向かって積極的に歩むことの出来る何よりも確かな保証は、主の十字架に他ならない。そして、その希望によって生かされているからこそ、我々は現実に身の回りで起こっている罪と戦いながら生きていくことが出来る。神の救いの歴史は、罪の現実の力がいかに大きく見えても、確実に約束の神の国の完成に向けて進められている。

 我々は今、イエス・キリストの十字架の死と復活によって固く据えられた土台の上に立っている。このことのゆえに、我々は罪の赦しと永遠の命という、何よりも大きな希望に確信を持って生きることが出来る。だからこそ、我々はこの救いの出来事を確実に自分のものとし、そこから押し出されていく者となりたい。そして、この力を自らの身に帯びて罪の現実と戦い、人々に福音を宣べ伝え、喜びと感謝をもって、約束の神の国に向かって歩む者でありたい。

2011年4月17日 棕櫚の主日

説教:「御心のままに」
聖書朗読:ルカ福音書22章39〜53節
説教者 :北川善也牧師

 今日与えられた聖書箇所は、主イエスが十字架にかかられる前のクライマックスとも言えるオリーブ山での祈りの場面だ。ここは他の福音書では、「ゲツセマネの祈り」と呼ばれている。39節に「いつものように」とあるから、主はこの場所での祈りを習慣としておられたのだろう。その祈りの場に弟子たちを伴われ、彼らにも祈ることを命じられた。この時、主は弟子たちから少し離れた所で祈られた。注目すべきはその祈り方だ。当時は立ち上がり、天に向かって手を上げて祈るのが普通だった。それを「ひざまずいて祈った」ということからも、この時主が立ち上がれないほどの苦悩に見舞われていたことが推し量れる。

 主は、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)と祈られた。主が願われることは何でも可能だったはずだ。だからこそ、これまで力ある御業を数々成し遂げられたのではなかったか。そんな主が苦しまれるとはどういうことなのか。

 そもそも祈りとは何なのか。神が全てを御自分の御心のままに支配しておられるなら、祈る意味はあるのか。祈る前から神は我々の願いを御存知であるとも言われている。しかし、主が苦悩の姿を通して我々に示されたのは祈りの本質、すなわち祈りによって変えられるのは、事柄ではなく、祈り手自身であるということなのだ。

 44節にあるように、主は「苦しみ悶え、汗が血の滴るように」して、「御心のままに行ってください」と祈られた。神の独り子として、貧しい者、弱い者に寄り添い、寸暇を惜しんで人々と接せられた主。忠実に父なる神に仕え、その御心にひたすら従って歩まれたこの御方の進むべき道として与えられたのは、人々の罪の身代わりとなって十字架で死ぬことだった。愛し抜いた弟子たちにも裏切られ、何よりも父なる神に見捨てられたかと思えるほどの苦しみが今、目の前にある。そんな中で主がなされたのがこの祈りだった。

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」

 我々が祈るのは、祈りによって我々自身が変えられていくためだ。確かに、我々は自分の願望を神に求める。それは苦しみからの解放の願いだったり、病気の癒しの願いだったりする。それはそれで切実な願いだ。その切実な祈りの中で、我々は徐々に自分自身の醜さや罪深さに気づかされていく。そして、祈りそのものが力をもって我々を深め、成長させ、生かし導いていくのだ。祈りにはそのような力が秘められている。なぜなら、我々がイエス・キリストの御名によって祈る時、必ず聖霊の助けがもたらされるからだ。

 我々は苦悩し、痛み傷つき、自分自身ばかりか神まで恨むことがある。そのような時、我々はひたすら人生の答えを求めているのだ。しかし、生きることとは答えのない旅だ。必死で求めても答えが得られないことは往々にしてある。主は苦しみ悶えつつ、「この杯を取りのけてください」と祈られた。しかし、主の祈りはそこで終わることなく、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という、父なる神にすべてを委ねる祈りに到達された。

 我々が苦しみの中にある時、この時の主と同じ境地になることはなかなか出来ない。しかし、祈ることは出来るはずだ。主が祈られた祈りを口から発することは我々にも出来る。そうすることによって、祈りそのものが力をもって成長し、神の御心に委ねる歩みへと我々を導いてくれるのだ。

 何よりも我々がいついかなる時でも祈ることが出来るように、そして、その我々の祈りが神の御心に沿った、神に受け入れられるものとなるように祈り続けたい。

2011年4月24日 復活祭礼拝

説教:「キリストと共に生きる」
聖書朗読:イザヤ書54章11〜14節、ルカ福音書22章39〜53節
説教者 :北川善也牧師

 誰もがすべての終わりと捉えて恐れる死も、主イエスによって救われた者には恐れる必要のないものだ。それは、主の十字架と復活によって生かされているからだ。

 日本基督教団信仰告白の後半、「使徒信条」において、「(主は)十字架につけられ、死にて葬られ」と告白する時、信仰者はその意味を次のように捉える。死なないはずの永遠なる神が、肉体を持ち、人となって死なれた。その死によって“私”は救われた。なぜなら、真の救い主である御方が人間の死を死んでくださったからだ。

 これこそ我々が神より与えられている何よりも大きな慰めであり喜びだ。主を信じる者には、もう本当の死は残されていない。確かに肉体は必ず滅びるが、死によってすべてが終わり、虚無の世界に飲み込まれ、永遠の孤独に支配されることは、もはやあり得ない。

 主は、十字架上で息を引き取られる際、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(46節)と祈られた。この祈りには、「人の子」として死という現実を恐れつつ、「神の子」として父なる神をどこまでも信頼する思いが表れている。

 だが、主の死なれた死がいくら特別だったとしても、もしそれが死で終わっていたら、我々はこの出来事に希望を見出せなかっただろう。それは、「やはり神の子も死ぬのか」という絶望を産み出す出来事になってしまう。しかし、主が神にすべてを委ねて死を受け入れられたのは、それが死で終わるものではなかったからだ。

 「マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たち」(10節)はいつも主と共に行動し、12弟子らが主の死を前にして一人残らず逃げ出した後も、主が息を引き取られる時まで、一部始終を見届けていた。

 それは、彼女たちの信仰が強かったからというより、「主がまさかこんな死に方をするとは…」という茫然自失のあまり、その場に立ち尽くすしかなかったからだ。彼女たちは、主の御遺体が十字架から取り下ろされ、墓穴に納められるまで、ただ力なくうなだれて見届けるしかなかったのだ。

 そんな彼女たちは、主が墓に葬られた後、安息日を挟んだ三日目のまだ薄暗い早朝、墓へと急いだ。それは、主の御遺体を少しでも早く香油で清めたいという思いからだった。だが、墓の前に据えられた大きな石は脇に転がされ、暗い墓穴がぽっかり口を開けていた。

 彼女たちが中に入ってみると、主の御遺体がなくなっていた。お慕いしていた主が亡くなった今、すがりつく対象として残された主の御遺体すらも失われ、彼女たちは途方に暮れるしかなかった。

 そんな彼女たちに天使が遣わされ、驚くべきことを告げた。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(5-7節)。彼女たちにもたらされたのは、冷たい死との対面ではなく、主が死に勝利されたという喜ばしい知らせだった。こうして主は、死の向こう側に突き抜けていく永遠の命の道を示された。

 そして、この希望のメッセージを受け止めた彼女たちは、死の暗闇に目を向けるのをやめ、希望の光に照らされた喜びの知らせをこの世にもたらす者となっていく。

 これこそキリスト者の生き方であり、教会の歩みに他ならない。その証しとして、教会における葬儀では讃美を歌う。悲しみに沈むのではなく、神の救いを喜び歌う。我々は、主の復活の命に生かされ、復活の希望のうちに自分の霊を神の御手に委ねることが出来る。

 神の御子が十字架における死と復活によって、死を終着点から出発点に変えてくださった。我々が見るべきものは、暗い墓穴ではなく、主がもたらされた輝かしい復活の勝利以外の何ものでもない。

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