先週の説教 -バックナンバー-
11年5月のバックナンバーです。
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説教:「復活の主イエスが引火する」
聖書朗読:ルカ福音書24章13〜35節
説教者 :北川善也牧師
夕暮れの中、二人の弟子たちがエルサレムからエマオへ向けて歩みを進めていた。彼らは、自分たちの主イエスが十字架で死なれたことに深い絶望感を覚えていた。エマオは、エルサレムから見て西方の町だ。つまりこの時、彼らは沈みゆく夕日を追いかけながら、暗闇に向かって進んでいたのだ。
彼らは次第に暗くなっていく夕闇の中、この間にあった主の十字架の出来事について語り合っていた。この時の彼らの思いは、暗く落ち込み、どうしようもない失意と絶望感のどん底のような状態だったに違いない。彼らは、足取りも重く、すべてが終わってしまったという思いによって支配されていた。あたりが夕闇に包まれていく情景に、彼らの悲しみや虚しさがそのまま表れていた。
そんな彼らに、いつの間にか一人の人が歩み寄ってきた。彼らもそのことに気づくが、それが誰であるかはわからなかった。彼らは、その人にエルサレムで起こった出来事について語り聞かせた。そして、主が復活して生きておられるという天使の告知を聞いたという女性たちの証言についても語ったが、彼ら自身はそのことを心から信じられないでいたのだ。
すると、今度はその人から彼らが話を聞くことになった。その話とは、聖書全体に記された主イエスについての説き明かしだった。それでも、彼らはその人の正体を知ることが出来なかった。しかし、日も暮れたので彼らは宿を取り、なおも先を進もうとするその人にも休むよう呼び止め、共に食事の席に着いた。その時、祝福してパンを裂くその人の姿を見て、ようやく弟子たちは、この人こそ復活された主であったと気づくのだ。
この出会いの体験について、弟子たちは次のように証言している。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。「心が燃える」とは、絶望に支配されていた心の中に新たな希望が備えられ、生きる力が与えられたことを示している。自分たちが見つめている、やがて消えゆく夕焼けの空と同じような心にそっと寄り添うように近づいてこられた主イエス。この御方から聖書の御言葉に示された主御自身の証しを聞くことによって、彼らは絶望から希望へとその歩みを大きく変えられた。
すべてが終わった、そのような思いに囚われ、希望を失い、うなだれて歩んでいる時、そっと寄り添うように近づいてこられた復活の主。この御方に伴われることによって、弟子たちは絶望から希望へと進みゆく方向を変えることが出来た。そして、彼らは後々までこの時与えられた希望に生き続け、新約聖書を書き残した。彼らの心に与えられたのは、素早くパッとつき、激しく一気に燃え上がるような火ではなく、ゆっくりつき、長時間にわたって燃え続ける炭火のような火だった。こうして彼らの心に決して消えない希望の火がともされた。そして、この火によって、弟子たちは新しい人生へと歩み出すことが出来たのだ。
なぜこの火にそれほど大きな力があるのか。それは、この火が厳しい受難と痛み苦しみの極みである十字架によって一度は消えてしまったが、神の御計画のうちに、新たな命と希望の源として、永遠に消えることのない火としてよみがえって燃え続けているからだ。
このような火が我々にも与えられている。復活の主との出会いによって、終わりとしか思えない出来事が新しい始まりに変えられていく。復活の主が我々に「引火」して、我々に永遠の火をともしてくださる。そのようにして、我々の決定的な終わりを始まりに変えてくださるのだ。イエス・キリストによる、そのような大いなる希望を仰ぎ見つつ共に歩みたい。
説教:「心の目を開く聖なる御言葉」
聖書朗読:ルカ福音書24章36〜43節
説教者 :北川善也牧師
エマオ途上で復活された主イエスとの出会いの時を与えられた弟子たちは、エルサレムへと戻り、他の弟子たちと共に主の復活について話し合った。そこでは、「わたしには信じられない」、「いやわたしは信じる」など様々な声が上がったことだろう。主の十字架から逃避した後、何とか再会を果たしていた彼らの間に、またもや分裂の危機が訪れていた。
すると、その真ん中に、突然、復活の主が姿を現された。そして、「あなたがたに平和があるように」と言われた。復活された主が、弟子たちの前で最初に語られたのは、秩序を失い、信仰さえ揺らぎかけていた彼ら一人一人の上に、「神の平和があるように」という執り成しの祈りの言葉だった。
ついで、主は御自分の手足を弟子たちに見せられた。そこには、十字架に打ちつけられた生々しい釘跡が見えたことだろう。それだけでなく、主は弟子たちに焼き魚を食べる様子まで見せられた。そもそも健康な体を持っていなければ食べることなど出来ない。十字架の上で体中の血を流しきって死なれたはずの主が、生命力に満ちた御姿をもって現れ、御自分が亡霊のような存在ではなく、かつてと全く同じ肉体をもって復活されたということを示されたのだ。
しかし、主が完全な体をもって復活されたことによって示された何よりも大きなことは、弟子たちの罪を完全に赦されたということだった。これまで弟子たちは、いつでも主と共に行動し、主と共に食事をしながら生活してきた。そこには、愛に結ばれた交わりがあり、平和に満ちた団らんがあった。
しかし、ユダの裏切りによって主が捕らえられ、他の弟子たちも皆、主を見捨てて逃げてしまった。そのようにして彼らが一人残らず逃げ去った結果、主は十字架につけられて殺された。弟子たちの逃避によって、主と彼らの交わりが断ち切られ、平和な団らんが破壊されたのだ。彼らが復活の主を見た時、亡霊ではないかと疑うことしか出来なかったのは、自分たちの犯した罪に対する自責の念によって押しつぶされそうになっていたからではないだろうか。
主は、そんな弟子たちの真ん中に立ち、「ここに何か食べ物があるか」と問われた。すると、彼らは即座に焼いた魚を一切れ差し出した。主が来られたのは、彼らの食卓の真ん中だったのだ。しかし、そこはもはや、かつてのように平和に満ちた団らんではなかった。おそらく、彼らは皆、うつむき力なく食事していたことだろう。そんな食卓に主は来られ、あっけにとられている弟子たちの目の前でムシャムシャと焼き魚を食べられた。このようにして、主は弟子たちの食卓の真ん中に立ち、「神の平和があるように」と祈り、復活の完全な体をお見せになって、彼らに対する赦しを示されたのだ。
こうして主と弟子たちとの食卓は再開された。やがて、主が天に昇られ、御姿が見えなくなった後も、彼らは主と共なる食事を聖餐によって守り続けた。それから二千年後を生きる我々も主日礼拝において聖餐を守ることにより、主が我々の罪を完全に赦してくださったこと、そして今も我々と愛の交わりを続けていてくださることを信じて生きることが出来る。
主は言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」(38-39節)。我々は、すぐにうろたえ動揺し、また疑い迷いに囚われやすい弱く小さな存在だ。主は、そんな我々の真ん中にいつでも立ち、心の目を開く御言葉を与え、信仰へと導いてくださる。我々一人一人の罪を取り去るため十字架にかかり、神の平和を完成してくださったイエス・キリストの御後に最後まで従っていきたい。
説教:「わたしは命のパンである」
聖書朗読:ヨハネ福音書6章34〜40節
説教者 :北川善也牧師
主イエスは、真の羊飼いとして、迷える羊である我々を最後まで捜し続けてくださる。たとえ我々がどんな弱さ、無力さを味わっている時でも、いやそのような時にこそ主は我々に寄り添い力を与えてくださる。主は、何のために我々を捜し求めてくださるのか。
「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(39節)。主がこの世に来られたのは、すべての人々に永遠の命を得させ、すべての人々を終わりの日に復活させるためだった。
今日与えられた聖書の少し前には、主が五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で満腹にさせる出来事が記されている。人々は、こんな奇跡を成し遂げた御方こそ自分たちの王にふさわしいと考えた。だが、彼らがそう考えたのは、この御方が神の御子であると信じたからではなく、この御方が自分たちの空腹を満たしてくれたから、つまり自分たちにとって都合の良い力を持っていたからに他ならなかった。彼らの思いを主御自身も見抜かれ、「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と言われた。
我々は、このような人々の姿を他人事として見ることが出来るだろうか。ここに描かれているのは、我々皆が例外なく抱えている姿だ。我々が注意せねばならないのは、主を自分の願いを叶えてくれる道具と捉えてしまうことだ。
自分の求めや願いにそのまま応じてくれる神を信じることを「ご利益宗教」と言うが、そのような信仰の根底には、自分の期待に応えてくれる限り信じるという前提がある。これをキリスト教に置き換えれば、「自分の欲求を満たしてくれるなら、主を信じる」という信仰になる。そうすると、我々人間の方が神より上に立ち、神は自分の願いを叶えるための道具に過ぎないということになる。
そして、そのような信仰を持っている人は、信仰の対象が自分の願いを叶えてくれないと見切った瞬間、別の何かに簡単に乗り換えていくだろう。我々がこの世で生きていく際に求めようとするものは、常に自分を中心にして考えた時に必要と思うものばかりだ。
このような人間に対して、主は「わたしが命のパンである」(35節)と言われた。主は、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(33節)とも言われた。「世」とは、人間を指す言葉であり、それは「罪のゆえ命を失っている人間」のことに他ならない。主は、そのような人間に真の命を与えるため、「命のパン」として天からやって来られたのだ。
主は、この世に命を与えるため、御自分を惜しみなく与えてくださった。神は、愛する御一人子を十字架につけることによってすべての人間に新しい命を与えるという約束を成し遂げられた。我々は、このような主との愛の交わりの中で生きなければ、与えられた命を本当の意味で生きることが出来ない。だからこそ、主は我々一人一人をその愛の中に招き入れるため、何度も「わたしのもとに来なさい」、「わたしを信じなさい」と呼びかけ、迷い出た羊を徹底的に捜し求めてくださるのだ。
主は、信じる者たちを「父がお与えになる」(37節)と言われたが、これは信仰が人間の力ではなく、父なる神の恵みによって一方的に与えられるものであるという意味だ。神が一方的に与えてくださる信仰によって、我々はイエス・キリストこそ自分の救い主と信じる信仰を心に刻みつけ、この御方に従い続けることが出来るのだ。
説教:「互いに愛し合いなさい」
聖書朗読:ヨハネ福音書15章12〜17節
説教者 :北川善也牧師
イエスさまは、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(12節)と言われました。「おきて」は命令ですから、嫌でも従わなければなりません。でも、イエスさまの命令は、「互いに愛し合う」ということでした。これなら簡単に守れそうです。
でも、実際にわたしたちはこの命令を守ることが出来ません。わたしたちは、さっきまで仲良くしていた友だちともすぐにケンカして口もきかなくなってしまいますし、周りの人たちのことより自分のことばかり大切に考えてしまいます。「互いに愛し合う」、つまり、自分の周りにいる人に目を注ぎ、大切にするというのは、実はとても難しいことなのです。
なかなか「互いに愛し合」えないわたしたちのためにイエスさまは、神さまの子どもである御自分にしか出来ない特別なことをして、本当の愛を教えてくださいました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)。イエスさまは、御自分から進んで十字架にかかって死ぬことによって、誰も真似することが出来ない大きな大きな愛の御業を成し遂げられました。それでは、イエスさまが命を捨てるとまで言われたお友だちとは一体誰のことなのでしょうか?
イエスさまは、「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14節) と言われました。つまり、「互いに愛し合う人」がイエスさまのお友だちということです。でも、イエスさまは、愛し合うことが出来ないわたしたちのために十字架にかかって愛の御業を成し遂げたと言われました。それでは、互いに愛し合えないわたしたちは、どうしたらイエスさまのお友だちになることが出来るのでしょうか?
イエスさまは、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。……わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節)と言われました。「しもべ」というのは、自分よりも強い人のもとで言いなりになっている人のことです。自分たちはイエスさまの「しもべ」だと考えていた弟子たちにイエスさまは、「あなたたちはわたしの僕ではなく友だちです」と言われたのです。
わたしたちは、「互いに愛し合う」という簡単そうな掟も、実際には守ることが出来ません。そんなわたしたちが互いに愛し合い、イエスさまのお友だちとされるよう、イエスさまはわたしたちを御自分と同じ神さまの子どもに変えてくださるのです。では、どうしたらそうなれるのでしょうか?
イエスさまの十字架によって、わたしたちは神さまの子どもとされ、完全な自由を与えられました。神さまの掟を守ることが出来ずに真っ暗な闇の中にいたわたしたちは、イエスさまを信じることによって神さまを太陽のように仰ぎ見て、いつも明るい光の中にいる者に変えられるのです。そして、いつも神さまの光の中にいれば、わたしたちも神さまの掟に従えるようになるのです。このようにして、わたしたちは神さまを愛し、隣人を愛するという神さまの掟を守る者に変えられていくのです。
イエスさまは、「互いに愛し合いなさい」と言われました。「互いに」ですから、これは相手がいなければ成り立ちません。しかも、わたしたちは相手の気持ちを変えることが出来ません。それでは、わたしたちは相手の気持ちが変わるまで待つしかないのでしょうか?そうではないのです。
イエスさまが、御自分から進んで十字架にかかり、十字架の上で自分ではなくみんなのために祈られたように、神さまの子どもとされたわたしたちは、自分から進んで隣人を愛する者になるのです。イエスさまは、十字架の上でそのために祈ってくださいました。
説教:「アメイジング・グレイス」
聖書朗読:ルカ福音書7章1〜10節
説教者 :北川善也牧師
「アメイジング・グレイス」という讃美歌の作詞者ジョン・ニュートンが登場する同名の英国映画を観た。この映画は、すべての人の人生が「驚くべき神の恵み」に包まれていることを示していた。
「驚くべき恵みよ、何と美しい響きだろう
わたしのような者まで救ってくださる
かつては迷えるわたしが、今は神に見出され
何も見えていなかったわたしにも、
今は見える」(英詩1節直訳)
ニュートンは、信仰深い母の愛を一身に受け、恵まれた幼児期を過ごした。母は、この一人息子が牧師になるよう祈ったというが、彼が7歳になる前に病死する。
彼はやがて地中海貿易の船長だった父と共に航海に出るようになるが、船員のすさんだ生活の影響を受け、退廃した生活に堕ちていく。彼をこの人生の闇から引き上げたのは、彼が22歳の時の難船の体験だった。この危機の中で、ニュートンは母の死後初めて必死に祈った。哀れなならず者となり神を捨てた彼を、神はなおも愛し危機から救い出してくださった。
だが、その後彼は25歳で奴隷貿易船の船長となる。当時の英国で奴隷貿易は合法であり、貴族社会を支える原資だった。しかも英国の身分制度は神が定めた秩序であり、これを脅かすことは許されないと考えられていた。驚くべき恵みにより信仰を回復したニュートンだったが、奴隷を虐げている自分に対してまだ目を開かれていなかったのだ。しかし、病に襲われ船長職をあきらめざるを得なくなった彼は、牧師になる決心をする。
彼は1764年、39歳で田舎町オウリニーの教会に牧師として赴任する。そして、1772年、「アメイジング・グレイス」を生み出す。この曲には、彼が奴隷貿易に関わったことに対する深い悔恨と、それにも関わらず赦しを与えた神に対する感謝が込められているのだ。
しかし、この「驚くべき神の恵み」はニュートンに留まらず、そこから拡大していく。1780年、彼は転任しロンドンのセント・メアリ・ウルノス教会の牧師となるが、そこには若き国会議員ウィリアム・ウィルバーフォースがいた。
1785年、岐路に立たされたウィルバーフォースがニュートン牧師に、「神への道に進むべきか、政治の道か」と相談した時、ニュートンは神の為「海から奴隷船を一掃せよ」と激しく語り、奴隷貿易廃止の闘いへと彼を押し出した。
こうしてウィルバーフォースは、最初は英国内の奴隷貿易廃止を提唱、次に奴隷解放のため議員生命を捧げた。彼の提案は何度も否決されるが、あきらめず働きかけ続け、20年後に奴隷貿易廃止法案が議会を通過。その直後ニュートンは死去する。やがて1833年7月にウィルバーフォースも死去するが、それから一ヶ月後とうとう「奴隷制廃止法」が成立した。
罪人の目を開き、喜びに満ちた人生へと導かれるのは神御自身に他ならない。彼は、ニュートンと共にこの「驚くべき神の恵み」を原動力にして常識を覆す闘いに最後まで挑むことが出来たのだ。
彼らの姿が、今日与えられた聖書に登場する百人隊長と重なる。彼は、当時罪人と見なされていた異邦人だったが、自らの罪を自覚し、神を畏れる人とされた。彼は、異邦人でありながら忠実に律法を守り、神を礼拝するようになった。そして主イエスを知り、この御方を真の救い主と信じるに至ったのだ。彼は、病で死にそうな部下のためにユダヤ人の長老たちを主のもとへ遣わし、助けを求めた。
彼は、主御自身が神の御言葉として生きて働かれることを信じ、委ねることが出来た。「ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」という彼の切なる祈りの言葉に対して、主は驚くべき御業をもって答えられた。罪人を悔い改めへと導き、その祈りに耳を傾けてくださる主に最後まで従っていきたい。