日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

11年6月のバックナンバーです。

2011年6月5日 復活節第7主日

説教:「いつもあなたがたと共にいる」
聖書朗読:マタイ福音書28章16〜20節
説教者 :北川善也牧師

 今日与えられた聖書に登場するイエス・キリストは、十字架にかかって死なれた後、墓に葬られ、三日目によみがえった姿を示しておられる。そして、この復活された主と出会うことによって、弟子たちの人生は一変させられた。

 12人だった弟子たちが、ここでは11人と言われている。イスカリオテのユダが欠けているのだ。最後の晩餐の席で、この中に御自分を裏切る者がいると、主御自身から宣告された弟子たち。果たしてその言葉通り、ユダが主を売り渡し、これによって主の十字架への歩みは本格化した。しかし、「裏切り者」はユダ一人ではなかった。結果的に、12弟子の中の一人として、主の十字架を最後まで見届けた者はいなかった。主が捕らえられるや否や、弟子たちは一人残らず蜘蛛の子を散らすようにして逃げ去ってしまうのだ。

 しかし、死からの復活を成し遂げられた主は、弟子たちの前に再び現れ、御自分を見捨てて逃げ去った弟子たちを赦された。そればかりか、復活された主は弟子たちに対して、彼らがなすべき弟子としての明確な使命を与えられた。主を裏切った欠け多き弟子たちを再結集させ、対面しておられるのは、十字架の死から復活された主に他ならない。死の力に打ち勝ち、復活の命に輝いている主が今、そこにおられる。そして、この勝利者は、「天と地の一切の権能を授かっている」御方なのだ。

 十字架から逃げ去った自分たちを赦し、復活の姿をもって神の救いの約束が完全に成し遂げられたことを示してくださった主によって、弟子たちはどんなに大きな喜びに満たされたことだろう。しかも、主はそんな彼らに、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という光栄ある任務を命じてくださった。

 だが、ここには少し気に掛かることも包み隠さずに記されている。それは、「しかし、疑う者もいた」(17節)という言葉だ。復活された主を目の前にしてもなお、信じることの出来ない者が弟子たちの中にいたというのだ。

 それでも主は、そんな弟子たちに近寄って来て、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と命じられた。それはなぜか。

 「疑う者もいた」と言われているが、「疑う」とは心が真っ二つに分裂してしまうことだ。つまり、ここで言われているのは、神を信じることと、この世の様々な思い煩いの間で心が定まらなくなってしまった状態のことだ。疑うことなく、常にしっかり神に目を向けることが出来たら、我々の生活はどんなにすばらしいだろうか。しかし、我々の現実はそんなふうにうまくいくものではない。

 主は、弱さ罪深さゆえに自分の方から近づくことの出来ない我々のところへ、御自分の方から近づいて来てくださり、我々を赦すだけでなく、一人一人が果たすべき使命さえも与えてくださる。そして、「いつもあなたがたと共にいる」と言ってくださるのだ。

 主は、どのようにして我々と共にいてくださるのだろうか。我々は、天と地の一切のものを創造し、すべてをその御計画のうちに統べ治めておられる父なる神の限りない愛によって包み込まれている。その神の愛の約束は、天と地の一切の権能を授かっておられる御子なる神、イエス・キリストによって何よりも確かなものとして固くされている。そして、そのような神を信じる信仰は、聖霊なる神によって我々にもたらされ、聖霊によって与えられる信仰のゆえに我々は神がいつも自分たちと共にいてくださるということを信じて歩むことが出来るのだ。我々は、この神を信じ、すべてを委ねつつ最後まで共に歩み続けたい。

2011年6月12日 聖霊降臨日(ペンテコステ)

説教:「"霊"が語らせるままに」
聖書朗読:使徒言行録2章1〜11節
説教者 :北川善也牧師

 主イエスは十字架の上で死んで葬られた後、三日目に墓からよみがえられた。それから40日間弟子たちと共に過ごされた後、天に昇られた。彼らの心には、その時主が語られた言葉が深く刻みつけられた。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使1:8)。彼らは、ひたすら祈りつつこの約束の言葉が成就する時を待ち続けた。

 主と共にいる時には、御言葉の光に照らされ、その光の中で生きる喜びを知っていた弟子たちも、主がおられなくなった今、光を失い、この世の闇に埋没しそうになっていた。しかし、火の消えた蝋燭に再び点火される出来事が起こった。主が彼らに聖霊の炎を送り、約束を成し遂げられたのだ。

 彼らは、既に一つの共同体を形成し、教会としての基礎を整えつつあった。だが、そこにはなお決定的なものが欠けていた。神が土から人を形造り、その鼻に命の息を吹き入れた時、初めて人が生きる者とされた(創2:7)ように、教会に真の命が吹き込まれるためには、聖霊の注ぎが必要だった。

 こうして主は聖霊を通して教会の群れに生きて働いてくださるようになった。その日を境に全てが変わった。三度主を否んだペトロを始めとする弟子たちは、暗闇に逆戻りする力を振り切り、新しい力に満たされ立ち上がった。そして、主が十字架の死から復活されたことを力強く証しし始めた。

 「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(使2:41,42)。ここに新しい神の民としての教会が誕生した。聖霊降臨の出来事を通して、新しい教会の時代、新しい伝道の時代が幕を開けたのだ。

 教会には「イエスは主である」という信仰告白が与えられ、その教会は生き生きと伝道する共同体となっていった。聖霊が満ち溢れる教会には信仰告白する喜びが湧き起こり、そこに新たな人々が増し加えられてゆくのだ。

 初代教会に連なったのは、ユダヤ人だけではなかった。当時、「異邦人」と呼ばれ、蔑まれていた諸民族にも等しく福音が宣べ伝えられ、皆が教会へと招かれた。「すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。聖霊は、世界中に福音を広めてゆく計り知れない力を持っている。

 彼らは聖霊を受け、主が全ての人々を救うため十字架にかかって死なれ、永遠の命をもたらすため墓からよみがえられたことを証しした。この教えを広めようとする教会は厳しい迫害に直面したが、そんな状況下でも教会は熱心に祈りつつ福音を正しく宣べ伝え、洗礼を授け、聖餐を守り続けた。

 こうして年月を経て、神の民は世界中に広がっていった。その結果、まさに地の果てであるようなこの日本にも福音が伝えられ、神の民が起こされた。その歴史の中にあって我々の洛北教会も建てられ、百年以上にわたる歩みを主によって守り導かれてきたのだ。

 この営みは、これからも決して途切れることなく続けられ、終わりの日に向けて確実に神の民が広がってゆく幻が示されている。人間の目で見たら遅々とした歩みかも知れないが、主なる神はこの国にも確かに聖霊を送り、聖霊による御支配のもとに神の民を確実に増し加え、キリストの御体を着実に成長させておられる。

 広がりゆく神の民として、またイエス・キリストというぶどうの幹に連なる枝々として召されている我々は、聖霊の働きによって良き実の結ばれる終わりの日が来たる時を待ち望みつつ共に歩もう。

2011年6月19日 三位一体主日

説教:「心は楽しみ、舌は喜びたたえる」
聖書朗読:使徒言行録2章22〜36節
説教者 :北川善也牧師

 今日与えられた聖書箇所は、主イエスの12弟子の一人、シモン・ペトロによる説教だ。彼は元々兄弟アンデレと共にガリラヤ湖で漁師を営んでいた。そこに主が来られ、彼らに目を留めて「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタ4:19)と呼びかけられたのだ。彼らは、その呼びかけに応えて主の弟子となった。

 それからシモンは、常に最も近くで主による神の国の説教や病人のいやしなどをつぶさに見聞きしてきた。そんな彼はある時、主から「あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」(マタ16:18)と言われた。彼はこの御言葉の奥深い意味を悟ることは出来なかったが、主が一番弟子として扱ってくださることを誇らしく思ったに違いない。彼は、「わたしはどんなことがあっても、いつでもイエス様に従います」と口癖のように言っていた。

 ところが、主が十字架につけられる状況が差し迫ってきた時、ペトロは「あなたもあのイエスと一緒にいたね」と問い詰められると、「そんな人は知らない」と、三度にわたって否んでしまうのだ。

 そんなペトロが、ペンテコステの出来事において聖霊の導きを受け、人々に福音を告げ知らせる者とされた。こうして「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたあの御言葉は成就した。今日与えられた聖書に記されているペトロの説教は、聖霊が降ることによってキリストの教会が誕生した、まさにその日になされた記念すべき最初の説教だ。

 主は、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使1:8)と言われた。その御言葉通り日本の京都で今、我々一人一人は不思議にもこの教会へと招かれ、「イエスは主なり」との信仰を言い表す礼拝を共にしている。主は、聖霊の働きによって我々を導き、「イスラエルの民」、「神に選ばれた者」に造り変えてくださるのだ。

 ペトロは告げる。「このイエスを……あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです」(23節)。主を官憲の手に引き渡し、十字架へと追いやったのは、他ならぬ我々人間の罪の力だ。我々の内側にこびりついた、決して拭い去ることの出来ない罪が主を十字架に釘付けにしてしまったのだ。

 主は、肉体を取ってこの世に来られることにより、我々と同じ痛み苦しみを経験されたが、もし主の命が十字架で終わっていたら、我々の置かれている状況はそれまでと何ら変わることはなかった。

 主は、暗闇のどん底まで降りてきて、そこから我々を復活の力によって真の光の中に引き上げてくださった。我々に与えられた救いとは、そのようにして主御自身が我々一人一人のところに降りてくださることによって成し遂げられた救いなのだ。これこそ我々に与えられている福音に他ならない。

 我々は、この福音の御言葉が主を三度にわたって否んだあのペトロによって語られていることに、そして、その彼が次のように強調していることに注目したい。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」(使2:38)。この「洗礼」こそ、人間の罪深さを自らの経験を通して強く思い知らされていた彼に示された唯一の救いの道だった。

 どんなに我々が罪深い存在であろうとも、主は決して我々をお見捨てにはならない。それどころか我々が漂っている罪の淵であるこの世にまで来てくださり、我々一人一人を捉えて真の光の中へと引き上げてくださるのが、我らの救い主イエス・キリストなのだ。

2011年6月26日 聖霊降臨節第3主日

説教:「キリストの名による洗礼」
聖書朗読:使徒言行録2章37〜47節
説教者 :北川善也牧師

 その時、そこにいた大勢の人たちは皆、ペトロの話しを熱心に聞いていた。ペトロは、神の御子イエス・キリストがこの世に来られ、十字架にかかって死なれることによって、すべての人の罪が滅ぼされたこと、そして、主が死に打ち勝ち復活なさることによって、すべての人に永遠の命を約束されたことを力強く語った。それを聞いた人々は、この御方こそ真の救い主と信じるようになっていった。ペトロは、何千人もの人たちに聞こえるように話した。これは、ものすごいエネルギーを要する働きだ。彼は、元々そのような力を持っていたのだろうか。

 以前、ペトロは主から「あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と言われた時、「わたしは、たとえあなたと一緒に死ななければならないような目に遭っても、あなたのことを知らないなどとは決して言いません」と答えた。それから間もなく、主が裁判を受けている様子を外で伺っていると、彼は近くの人から「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいたね」と問われる。すると彼は、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からない」と答えた。また少しして別の人が「この人はナザレのイエスと一緒にいたよ」と言うと、彼は「そんな人は知らない」と答えた。しばらくしてまた別の人に「確かに、お前もあのイエスの仲間だ。言葉遣いでそれが分かる」と言われた時、彼は「そんな人のことをわたしが知っているはずないじゃないか」と叫んだ。すると、すぐに鶏が鳴いた。

 それからすぐ主は連行され、十字架につけられて殺されてしまう。ペトロには、主を裏切ってしまったという自己嫌悪感だけが残った。常に主の最も近くにいることを赦され、一番弟子として扱われていた彼は、何があっても絶対主と共に生きていくと心に決めていた。その彼が主を裏切ったのだ。

 ペトロは確かに主を裏切ったが、復活された主は御自分の方から彼に近づき、もう一度弟子として主に従うことが出来るようにしっかりと捕らえてくださった。そして、彼に主の弟子として福音を語る力を授けられたのだ。

 こうしてペトロは、大勢の人を前にして福音を語る者とされた。彼は、聖霊によって力を与えられていたので、彼の説教を通して皆が福音を信じるようになった。そして、彼は信じた人たちに、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」(38節)と告げた。

 主の最も近くにいた一番弟子のペトロでさえ主を裏切ってしまった。ましてや我々は、すぐに救い主から目を離し、自分勝手な行いに走ってしまう。我々が神から離れることこそ罪であり、このような罪を抱え持ったままでは、本当に喜んで生きていくことは出来ない。しかも、この罪は自分の力で消し去ることが不可能だ。それゆえ我々は、罪の力から離れ、主に従っていくため洗礼を受けるようにと呼びかけられているのだ。

 「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(39節)。洗礼を受けて罪赦され、神から与えられる聖霊を受けて、いつでも喜びをもって生きられるようになる。この喜びの源は、すべての信仰者に与えられる救いの約束だ。

 神は、すべての人がこの救いの約束に与るため、キリストの名によって洗礼を受けるべき時を示してくださる。神は、一人一人の名を呼んで教会につながらせ、罪を赦してくださる。このようにして、信仰者に数え切れないほど多くの恵みをもたらしてくださるのだ。

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