日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

11年7月のバックナンバーです。

2011年7月3日 聖霊降臨節第4主日

説教:「死者の中から復活されたキリスト」
聖書朗読:使徒言行録4章5〜12節
説教者 :北川善也牧師

 今日与えられた聖書に記されているのは、イエス・キリストの弟子であるペトロとヨハネがユダヤ人指導者たちに囲まれて尋問を受けている場面だ。そこには、「議員、長老、律法学者たち」(5節)が集まっていた。いずれも当時のユダヤ社会において最重要視されていた律法に長け、民衆を教え導く立場にあった人々だ。当時、すべてにおける絶対的な権威は律法にあると考えられていた。また、そこにはイエス・キリストを裁き、十字架へと追いやった「大祭司アンナスとカイアファ」も同席していた。以前の弟子たちなら、こんな状況の中で彼らに睨みつけられたらひとたまりもなく震え上がり、黙り込んでいただろう。

 この出来事がある少し前、ペトロとヨハネはエルサレム神殿で、生まれながらに足が不自由だった男をいやした(使徒3:1〜10)。その出来事が民衆の間で評判となり、彼らが証しする、彼らが発揮した力の背後におられるイエス・キリストを信じて従う者たちが続々と現れた。こうして信じるようになった人々はたいへん大きな群れとなり、信徒の数は男だけでも五千人ほどになったという。

 この新しい動きをユダヤ人指導者たちは見逃すことが出来なかった。それは、イエス・キリストの弟子たちが信じ、宣べ伝えている教え、すなわち「福音」が、自分たちの権威の基である「律法」を脅かす危険なものであると恐れたからだ。彼らは、律法に長けた自分たちこそ神から権威を委ねられた存在であると考え、律法以外の教えを説く者に権威があるなどということは絶対に認めたくなかった。だから、彼らは「お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」(7節)と使徒たちに問いただしたのだ。しかし、彼らは恐れることなく証しし続けた。自分たちはイエス・キリストの御名によって病人をいやし、この御方の十字架と復活の福音を宣べ伝えているのだと大胆に力強く語ることが出来た。

 神の御子であるイエス・キリストは、この世において多くの病人をいやされた。そればかりでなく数え切れないほど多くの善い業を行われた。それは、人々がイエス・キリストの言葉と業を通して真の福音に触れるためだった。ユダヤ人指導者たちは、そのような御方を罪人として裁き、十字架にかけて殺してしまったのだ。

 しかし、神の御子イエス・キリストは、多くの人間の呪いを帯びた死のどん底から帰還し、空虚な墓穴から出てこられた。それから四十日間、弟子たちと共に過ごされた後、天に昇り、見えない姿になられたが、天から聖霊を遣わして、御自分が生きて彼らと共におられることを示された。そして、御自分のなさった善い業が、今度は御自分を信じる者たちを通して行われるように託されたのだ。

 ペトロとヨハネら弟子たちは、以前は臆病で、イエス・キリストを見捨てて逃げ去ってしまうような弱く小さな存在だった。しかし、今は尋問されても恐れず尻込みもしない。そして、何の力も持っていなかった彼らが、今は病人をいやし、善い業を行うことが出来るようになっている。このこと自体が、まさにイエス・キリストが生きて我々と共におられる証拠に他ならないと彼らは証言するのだ。

 イエス・キリストは、今も生きておられる。そして我々を支え、励ましてくださる。我々が教会につながり、信仰に至って、善い業に励み、試練に耐え、伝道を行い、生き生きした日々の歩みを進める者へと変えられるのは、我々の力によるのではない。それは、我々のために十字架にかかって死なれ、墓に葬られて三日目によみがえられたイエス・キリスト御自身の力以外の何ものでもないのだ。

2011年7月10日 聖霊降臨節第5主日

説教:「聖書が告げる主イエスの福音」
聖書朗読:使徒言行録8章26〜40節
説教者 :北川善也牧師

 キリスト教会の歩みは、初めから迫害や分裂という逆境の中で進められてきた。使徒たちへの迫害(5:17以下)が始まり、異邦人キリスト者ステファノの逮捕(6:8以下)、殉教(7:54以下)が起こった。さらにエルサレム教会に対する大迫害が起こり、使徒たち以外全員が方々に逃げ去ってしまうのだ。

 そんな教会の厳しい状況下にあって、神から伝道の働き人として立てられたのがフィリポだった。彼は使徒たちの一人ではなく、彼らの働きを補佐するため殉教者ステファノと共に立てられた七人の異邦人のうちの一人だった。彼らはいずれも、「"霊"と知恵に満ちた」(6:3)人たちだった。ペンテコステの時に降った聖霊の力は、教会の中で着実に異邦人伝道に向けての準備を進めていたのだ。

 フィリポは、自分の意志ではなく「主の天使」(26節)によって遣わされた。これは、別の箇所で「"霊"」(29節)や「主の霊」(39節)と言われているように、聖霊のことだ。

 フィリポは、聖霊によって「南へ向かい、エルサレムからガザへ下る道に」行くよう促された(26節)。そこは寂しい道、人間との出会いなど期待できないような荒涼とした場所だったから彼は大いに躊躇しただろう。だが、ここにはこのような所にこそ神の御業が働くということが示されている。

 フィリポは、そこでエチオピア女王の高官である宦官と出会う。彼は女王に仕える高官としての名誉を手にしていたが、他方で身体に欠陥を持つ者として蔑みの対象でもあった。彼は異邦人だったが、何かをきっかけとして聖書の中に真実があることを感じ取り、求道者となった。聖書から自分のような者でも必ず神の民の一員に加えられるとの希望を与えられ、思い切って遠く離れた聖地エルサレムへの巡礼の旅を試みたのだ。

 だが、エルサレム神殿に彼の居場所はなかった。律法によると、身体に欠陥を持つ者は「主の会衆に加わることはできない」(申命23:2)とされていた。つまり、彼は神殿内に入ることすら許されていなかったのだ。彼は、自分が神の祝福からいかに遠いところにいるかを思い知り、大きな落胆を味わいつつ自国への帰途に着いた。

 しかし、主はこの宦官に目を留め、彼を祝福に導くためフィリポを遣わされた。それは主イエスの「見失った羊のたとえ」に重なる。主はたった1匹の羊を最後まで捜し回る御方だ。他の99匹を野原に残して1匹を捜しに行くなど人間の常識ではばかげている。だが、この伝道を命じたのは聖霊であって人間ではない。聖霊は、父なる神、御子なる神と一つなる神だ。

 宦官はイザヤ書53章を朗読していた。フィリポは、ここから説き起こして福音を語る。「神は、確かにあなたのような異邦人を神の民として招いておられる。しかし、あなたが神の民とされるのは、エルサレム神殿によってではなく、十字架にかかられた主イエスによってだ。この御方こそ、多くの苦しみ、矛盾の中で喘ぎ苦しむ人間を救いに導くため、この世に遣わされた神の御子に他ならない」。

 フィリポによって御言葉が説き明かされ、キリストによる救いの恵みで満たされた宦官は即座に洗礼を志願する。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」(37節)。彼自身「障害」と思っていた一切の思い煩いは、十字架の福音の前に跡形もなく消え去り、彼はこれまでとは全く違う、喜びに満ちた人生の旅路を新しく歩み始めた。

 主は、宦官が歩んでいた「寂しい道」の途上で彼と出会われた。「こんな私など神に救われるはずがない」と思っていた一人の人のために、主は教会を動かし、伝道の働きを行わせ、救いの恵みを確実に運んでいかれるのだ。

2011年7月17日 聖霊降臨節第6主日

説教:「すべての人が神に召されている」
聖書朗読:使徒言行録11章1〜18節
説教者 :北川善也牧師

 エルサレムの初代教会は、「異邦人も神の言葉を受け入れた」(1節)という報告を聞いた。ユダヤ人キリスト者を主な構成員とする彼らにとって、この報告は衝撃的だった。なぜなら、当時ユダヤ人社会では、異邦人は「清くない物、汚れた物」を食しているゆえ彼ら自身も汚れており、神がこんな者たちに祝福を与えられるはずがないと見なされていたからだ。

 エルサレム教会の人々が聞いた報告とは、使徒言行録10章の出来事を指している。ユダヤのカイサリア地方で警備の任務を担っていた「イタリア隊」の百人隊長コルネリウスは、異邦人でありながら一家揃って聖書の神を受け入れ、求道生活に入って、熱心に礼拝を献げていた。そんなコルネリウスと使徒ペトロが出会い、キリストの福音を説き明かすことによって、彼ら一家全員に信仰が与えられ、受洗に至ったのだ。

 だが、この報告を聞いたユダヤ人キリスト者の中には、ペトロを非難する者がいた(2節)。それは、彼が「割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」(3節)からだ。なぜ生粋のユダヤ人だった彼は、こんな大胆な行動を取ることが出来たのか。

 コルネリウスと出会う前、ペトロは「革なめし職人シモン」の家に滞在していた(9:43)。彼がなぜこの家を選んだか理由は記されていないが、革なめしは、律法の掟によれば、汚れを帯びた職業とされ、ユダヤ人たちの中で差別を受けていた。つまり、ペトロがそのような人の家に滞在したこと自体、既に彼の上に新しい導きが始まっているしるしだったのだ。

 そして、ペトロは革なめし職人の家に滞在していたある時、律法で禁じられている動物を食べよと神に命じられる幻を見た。神からの命令とはいえ、彼はそれを到底受け入れられず拒否するが、神は「わたしが清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない」(9節)と告げられる。ユダヤ人ペトロにとり、異邦人を受け入れるということは、このような禁じられた動物を食べるのと同じくらい戸惑いを覚えることだったのだ。

 ペトロが幻を通して経験したように、初代教会において律法に定められた食物規定と清浄規定の克服は大きな課題だった。キリスト者には、律法を越える救いの約束、福音が与えられているにもかかわらず、人間はいつも神との約束より自分たちが定めたことの方に目を向け、いつの間にか人間の掟を神の掟の上に置いてしまう。

 しかし、神はそんな弱さを持った我々を、それでもなお信仰へと導くため、特別な賜物を送ってくださる。神は、コルネリウスの信仰に応えてペトロを遣わされた。このペトロは、自分の意志で異邦人の所に赴いたわけではなかった。彼は、聖霊の力によって押し出され、また、聖霊の助けによってキリストの福音を語ることが出来るようになり、コルネリウスを始めとする多くの異邦人を洗礼へと導いていくのだ。

 「わたしが話しだすと、聖霊が最初わたしたちの上に降ったように、彼らの上にも降ったのです」(15節)。ペトロら初代教会の基礎となった使徒たちが経験したペンテコステの出来事。これと同じ聖霊降臨が、異邦人コルネリウスとその家族の上にも起こった。

 こうしてキリストによる福音は、ユダヤ人以外の人々にも広くあまねく宣べ伝えられ、やがて世界中に広がっていく。そして今、日本の京都にいる我々もここでキリストの福音を共に聞き、主が我々の傍らに立って救いの道を備えてくださっているという約束を示されている。ペンテコステに教会を立ち上げた聖霊の働きは、教会を導き続け、今ここにいる我々の上にも確かに起こっているのだ。

2011年7月24日 聖霊降臨節第7主日

説教:「もう泣かなくともよい」
聖書朗読:ルカ福音書7章11〜17節
説教者 :北川善也牧師

 人類の歴史は、死の支配のもとにあるように思われる。3月11日に起こった東日本大震災では、わずか数分間の地殻変動によって一万を超える命が失われた。

 すべての人間が逃れたくても逃れられない死がある。死の大きな流れが、家族や友人や人間の積み上げてきたものすべてを一瞬にして押し流してしまう。

 ナインの町の内側で、人々は活気に満ちた生活を営んでいたが、そこにも必ず死が襲い来ることを人々は改めて思い知らされていた。人々は、「一人」から「一つ」となった若者の体を棺に収め、町の外の死者の世界に運び出そうとしていた。死者は、町の中での生活の営みから外れ、虚しく門の外に運び出されるしかないのだ。

 そんな死の不安と悲しみに覆われたナインの町に、主イエスはやって来られた。主は、愛する一人息子を亡くした母親に目を注がれたが、それだけでなく彼女と行動を共にする大勢の人々にも注目された。皆が彼女に同情していたが、それはこの死の出来事は自分の身にも必ず降りかかるという死への不安に囚われていたからだった。

 一人の若者の死によって衝撃を受けたのは、母親だけでなくこの町の人々すべてだった。死は他人事ではなく、誰も逃れることの出来ない人間の現実に他ならない。

 「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」(13節)とあるが、この箇所の前半部を、口語訳聖書は「主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ……」と訳していた。

 「深い同情を寄せられ」という表現は、四福音書の中で主イエスについてのみ用いられ、原語であるギリシャ語は「はらわたがよじれるような痛みをもって」という激しい心の動きを表す言葉だ。

 イエス・キリストにおいて我々が生きる世界の只中に姿を現された神は、人間と同じ肉体をもって実に鋭い感覚で人間の現実を受け止めてくださった。このようにして、神は人間の現実に寄り添い、激しく心を動かされるのだ。

 町の門を外に向かって進む葬列を見据えてまっすぐに近づかれた主イエス。その主は、誰も逃れることの出来ない死という現実の只中に置かれている人間に寄り添い、心動かされる神だった。そして、何よりもこの神の御子御自身が十字架において死なれたのだ。人間と同じ死の現実の只中に、主御自身も踏み込まれたが、この死は、我々の死とは決定的に違う死だった。主の死によって、死そのものが死に絶えたからだ。

 主は、若者を死から復活させられた。死によって母親の手から奪い取られた若者を取り戻し、「イエスは息子をその母親のもとにお返しになった」(15節)。一人の若者が、死のどん底から引き上げられ、再び生きる者とされて母親の手に帰された時、人々はこの神の力に畏れを覚えつつ、神を賛美せずにおられなくなった。この出来事によって、一人の若者の死だけでなく、すべての人間の死が葬られるという神の恵みの出来事の先触れが示されたからだ。だからこそ、この出来事はナインという小さな町に留まることなく、「ユダヤ全土と周りの地方一帯に広まる」ほどの大きな歴史的事実として人々の心に刻まれていくのだ。

 死の現実に直面し、人間は自分の無力さを思い知らされる。しかし、主イエスはそのような人間の現実の只中に来られ、「もう泣かなくともよい」と呼びかけて新しい命の道を示し、そこへと導いてくださる。この何よりも大きな喜びの源は、主の十字架に他ならない。この十字架により、我々にとって最大の問題である死は完全に乗り越えられた。だから、我々はこの十字架から目を離さず、十字架に向かってひたすら突き進まれた主に従って歩まねばならない。

2011年7月31日 聖霊降臨節第8主日

説教:「互いに重荷を担いなさい」
聖書朗読:ガラテヤ書6章1〜10節
説教者 :北川善也牧師

@キリスト者として他者に対して取るべき態度――〔1〜5節〕
・《“霊”に導かれて生きているあなたがた》……「霊の導きに従って生きる」(5:25)とは、自己中心主義を脱し、神中心主義に生きること。それは、罪人である自分のために、十字架で身代わりとなって死んでくださったキリストに従って生きることに他ならない。《罪》=「脱線する」の意。本来、神中心であるべきなのに人間中心に脱線している我々。そんな我々を歩みを回復させるためキリストは十字架にかかってくださった。

・《あなた自身も誘惑されないように》……しかし、この世の歩みにおいては、試みによって信仰からの脱落を促す悪魔の攻撃と、そのような試みへの屈服という落とし穴が絶えず我々を待ち受けている。〈あなた〉=単数形であることに注意。この言葉は、我々一人一人に告げられている。

・1節から2節への移行は、唐突な感じを否めないが、5:13-14を再録し、「隣人愛の奉仕」というキリスト者のキーワードを強調している。《愛によって互いに仕えなさい》――《互いに重荷を担いなさい》……キリスト者となったから、洗礼を受けたから、「完成」ではない。キリスト者には「既に〈霊の人〉でありながら、未だ〈霊の人〉ではない」という二重の実存状況があり、不完全さや弱さから自由ではない。それゆえ、他者に愛をもって接し、互いの苦しみを担い合う必要がある。

・《キリストの律法》……しかし、それは単なるノルマではない。主が「最も重要な掟」によって示された、「律法全体の要約としての隣人愛」(ロマ13:8-10)を指している。すなわち、この掟は「祈りの共同体」によって成し遂げられると約束されている。

・《自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができない》……人がキリスト者となることも、また何よりも「霊の人」として愛の行いをなすのも、すべては神からの一方的な恵みの賜物に他ならない。罪人である我々が十字架で身代わりとなって死んでくださったキリストに導かれて生きる者とされるのは、我々の力によってではない。だから、ただ与えられている恵みに感謝し、それを人に誇るべきではない。
A「肉」ではなく「霊」をよりどころとする――〔6〜10節〕

・《神は、人から侮られることはありません》……神に対する「侮り」=他人に対して善を行わないこと。すなわち、「最も重要な掟」(マコ12:28以下)に背くこと。

・《自分の肉に蒔く者》……自己中心主義の「古い人」に生きる者。そのような人の刈り取るものは《滅び》と言われている。

・《霊に蒔く者》……神中心主義の「新しい人」に生きる者。そのような人の刈り取るものは《永遠の命》と言われている。

・《たゆまず善を行い》、霊に蒔くことに《飽きずに励んでいれば》、世の終わりにおける神の裁きの時に永遠の命に入れられるという約束が与えられている。

・それでは、罪人にすぎない我々がなぜ善を行えるのか。それは、キリストに香油を注ぎかけた罪深い女(ルカ7:36-50)のように罪を赦されたことの自覚による。罪赦された自覚が深ければ深いほど、我々は感謝に溢れる。何よりも、キリスト御自身が「インマヌエル」(神は我々と共におられる)の神としてこの世に来られた。そのキリストの十字架によって、我々の罪は完全に赦されている。その赦しを約束された御方が、いついかなる時でも我々と共にいてくださる。だからこそ、我々は罪に脱線した歩みから態勢を立て直し、主の十字架の道に従う者とされていくのだ。神は、このような恵みを一方的に与えてくださる。我々を、この限りなく豊かな恵みで包み込んでくださる神に感謝しよう。

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