日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

11年9月のバックナンバーです。

2011年9月4日 聖霊降臨節第13主日(振起日)

説教:「御言葉はあなたの魂を救う」
聖書朗読:ルカ福音書13章10〜17節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、神の御国の福音を携えて、主にガリラヤ湖周辺で伝道の業に取り組まれた。その北部地域は、特に異教の影響下にあったが、そのような所にも会堂が造られ、礼拝が献げられていた。その日は安息日だったので、会堂にはいつにも増して大勢の人々が集まり、主イエスが福音を語られるのを聞いていた。その中に、18年もの長きにわたって病を負い続けている女性がいた。

 彼女は「病の霊にとりつかれて」いたとあるが、当時病苦はすべて悪霊のなせる業と見なされていた。それでは、人はなぜ悪霊にとりつかれるのか。それは、その人が過去に何か悪しきことを行ったことに対する報いであると考えられていたのだ。

 そんな時代だったから、おそらく彼女は「自業自得」の病苦をこのまま負い続けねばならないとあきらめていたことだろう。しかし、主イエスは、そのような重荷を担っている女性を大勢の人々の中から見出し、御自分の方から彼女に近づかれた。そして、彼女の体にそっと手を置き、ただ一言「婦人よ、病気は治った」と言われた。この一言で、彼女が長年悩み苦しんできた病は即座に癒された。主イエスの口から出た御言葉は、真に力ある御言葉だった。その御言葉を受けた者は、存在そのものが新しくされ、真の救いに向かって歩み始める力を与えられるのだ。

 だが、残念なことにこの救いの御言葉がすべての人に受け入れられるわけではないことをも聖書は示している。この出来事を知った会堂長は、主イエスが律法を犯し、安息日の掟を破ったと弾劾するのだ。会堂長は、神の御子による救いの出来事を正しく受け止めることが出来なかった。

 さて、主イエスはある時、一人の律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねられると、「第一の掟は、これである。『……心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」とお答えになった。律法は、確かに罪深い人間を正しい道に導くための道しるべとなるが、いくら立派に守ってもそれが「神と人とを愛する」という心棒から外れていたら何の意味も持たない。

 主イエスは、会堂長に「あなたがたが安息日に自分の家畜を世話することは罪ではないのに、わたしが人間に対して行った救いの業は罪になるというのか」と問われた。その時、主イエスはこの女性を「アブラハムの娘」と呼ばれた。これは、主イエスが彼女の氏素性を知っていたということではなく、彼女も救いの約束のうちに入れられているイスラエルの民、すなわち神の民の一人であると言われたのだ。主イエスは、神の民を一人残らず捜し求め、確実に救いを与えると約束してくださった。

 主イエスは、この救いの御言葉を、いのちの源である神の御子として発せられた。いのちが踏みにじられ、滅ぼされようとしているこの地上で。サタンが働き、その試みが至る所に満ちているこの世において。

 サタンによってもたらされる死と破壊の恐怖は、主イエスの十字架の死と共に滅ぼされ、主イエスの復活の勝利と共に我々の眼前から消し去られた。それゆえ、我々にとってもはやサタン・悪霊という存在は全く恐れる必要のないものとなった。確かに、この世において我々の前から試みの嵐が絶えることはない。しかし、主イエスと出会い、その御言葉に触れた者は、その試みの向こうで栄光の輝きをもって我々を照らし出している神の御国に焦点を合わせ、希望をもって歩むことが出来る。

 神は、我々を御自分の似姿として創造された。それは、本来サタンには触れることが出来ないような神に近い存在として造られたということを意味する。我々は、「神の似姿」を回復し、救いの恵みを絶えず新しくするために、主の日の礼拝において神の御言葉に触れ、それを自分自身に刻みつけながら歩むのだ。

2011年9月11日 聖霊降臨節第14主日

説教:「主のために生き、主のために死ぬ」
聖書朗読:ローマ書14章1〜9節
説教者 : 北川善也牧師

 我々は、何のために生き、何のために死ぬのか。使徒パウロにとって、その答えは明確だった。それは、「キリストのために」他ならなかった。ここで注目したいのは、彼が「生きるのは主のため」というだけでなく、「死ぬのも主のため」という、最も突き詰めた覚悟をもって生きたことだ。

 彼は、「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」(Uコリ11:23-27)と告白しているが、こんな苛酷な経験をしても、彼が伝道旅行を中止することはなかった。彼が死を恐れず、伝道に全身全霊を注ぐことが出来たのは、死は終わりではなく、新しい始まりだという確信に支えられていたからだ。

 ユダヤ人であることを誇りとし、律法を厳格に守るエリート集団に属すだけでなくキリスト者迫害の急先鋒だったパウロがこのように生まれ変わったのは、ダマスコ途上の出来事(使徒9:1-19)によって主イエスと出会い、自分は主に属する者以外の何ものでもないと強く自覚させられたからだ。

 では、パウロは何をもって自分が主に属する者にされたと断言しているのか。それは、主がすべての人間、すなわち死んだ者と生きている者の罪を赦し、永遠の命を与えるために死んでよみがえられたからだと彼は言う。主は、十字架の死から復活することによって、父なる神の右に座し、全権を委ねられて、全被造物を統べ治める御方として立っておられる。

 「キリスト」とは、メシアというヘブライ語のギリシア語訳で、「油注がれた者」の意味だ。それは、旧約時代の王が即位式で頭に油を注がれた儀式に由来する。つまり、主は我々の王としてこの世に来られたということだ。

 だが、この「キリスト」の出来事は、最初から最後まで、徹底して逆説的な仕方でなされた。主イエスは、貧しい馬小屋の飼い葉桶の中で、大工の子として生まれ、普通の人として生きられた。それどころか、最後は十字架刑という、当時としては最も残虐で恥ずべき刑罰に処せられた。ローマ兵は、十字架上の主に向かい、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(マルコ15:32-33)とあざ笑った。

 人間は、そのままでは主に属する者となることが出来ない。なぜなら、人間は誰もが罪人であり、罪ある目には完全な清さをもって栄光の輝きを放っておられる神の御子を直視することが出来ず、正しく受け止められないからだ。人間は、罪を取り除かれ、主の御前に清くされねば、主のものとなることが出来ない。では、どうしたら我々の罪は取り除かれるのか。それは、神のもとに立ち帰り、神の大いなる愛を真正面から受けとめることによってだ。

 この愛の御業を完成させるため、神は御一人子をこの世へ送り、すべての人間の罪を担わせてくださった。それが、十字架による贖いの業だ。我々は、この十字架によってすべての罪を取り除かれ、清められて、神の子、神の属する者とされるのだ。

 主は、本来高いところにおられる神の御子であったにもかかわらず、御自分を低くしてこの世に来られ、僕としての道をひたすら歩まれた。それは、すべての人間を御自分のものとするために、どうしても避けて通れない道だった。

 こうして主は、十字架によって、罪人である我々を神との交わりに立ち帰らせるだけでなく、神の御国の相続人にまでしてくださった。それゆえ、我々は今や御国が完成する終わりの日の希望をはるかに仰ぎ見つつ、この世の旅路を進めていくことが出来るのだ。

2011年9月18日 聖霊降臨節第15主日

説教:「誇る者は主を誇れ」
聖書朗読:ルカ福音書14章7〜14節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、ここで「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない」とか「むしろ末席に行って座りなさい」と言っておられるが、当然ながらこれは一般常識に関する教えでも処世訓でもない。

 この言葉の直前に記されている、主イエスが安息日に水腫の人をいやされた出来事(14:1-6)に注目したい。この場にいた律法学者やファリサイ派らの関心は、いやしの奇跡そのものにではなく、主イエスが安息日にいやしの業を行ったこと、すなわち律法の掟を破ったことに向けられていた。

 主イエスは、そんな彼らの思いを察知し、「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」と問われた。それは、安息日に愛の業を行うことの是非を問う質問だったが、彼らはこれに答えることができなかった。

 律法学者やファリサイ派らは、安息日の規定を盾にとって主イエスを非難し、また律法を守れない人々が神から遠い存在であると決めつけていた。主は、そのような当時の一般常識に鋭いメスを入れられたのだ。この「一般常識」は元来、神を愛し隣人を愛するための掟が人間中心に解釈され、神の御旨から逸脱し、愛を欠落させることによって成り立っていた。

 そのような掟が字面通り守られることのみを重視していた彼らは、律法について人々に教える立場の自分たちを高位に置き、律法を守ることの出来ない弱い一般庶民を低位に置いて見下していた。主イエスは、こんな彼らの姿を「客に招かれた者たちが上座を選んでいる様子」と重ねられたのだ。

 ここでは、神の尺度を勝手に人間の尺度に変えて自分を正当化し、自らを高位に置いてそれを誇ろうとする者はすべてそのような存在であると指摘されている。

 マルコ10:35以下には、主イエスの弟子であるゼベダイの子ヤコブとヨハネの振る舞いが記されている。彼らはある時、他の弟子たちを差し置いて主イエスに、「栄光をお受けになる時、一人をあなたの右に、一人を左に座るようにしてください」と願った。主イエスは、「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない。あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けるであろう。しかし、わたしの右、左に座らせることは、わたしのすることではなく、ただ備えられている人々にだけ許されることである」と答えられた。

 ここで言われている「杯」「バプテスマ」は、主イエスの受難と十字架を指している。主イエスが求めておられるのは、この世において自分を高めようとする者ではなく、御自分と共に生き、御自分と共に死ぬ者なのだ。

 さらに主イエスは弟子たちに、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は仕える者となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない」と言われた。

 そして、最後にこう言われた。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人の贖いとして、自分の命を与えるためである」。神の御子イエス・キリストがこの世に来られた目的は、十字架にかかって死に、すべての人の罪を贖い、永遠の命を与えるためだった。

 末席に座ったがゆえに主人によって上席へと進められた人とは、主イエス御自身だった。主イエスは、御自分を徹底的に低くし、僕としての歩みを貫かれた。それが主の苦難と十字架の出来事だ。この十字架によって我々の罪が赦され、神の国の相続人とされる約束が成就した。すべての人間の救いとは、真の神が十字架にかかることによって完成した神の一方的な愛の御業だった。このように計り知れない大きな愛を惜しみなく与えてくださる主イエスに対し、我々は感謝をもって従うだけだ。

2011年9月25日 召天者記念礼拝

説教:「わたしたちの生の拠り所」
聖書朗読:ガラテヤ書6章14〜18節
説教者 : 北川善也牧師

 使徒パウロは、人間が生き、また死ぬのは何のためかについて次のように語った。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:7-8a)。

 こう断言するパウロも、元々主イエスの弟子だったわけではない。むしろその全く逆の立場に身を置いていたのだ。彼は、典型的なユダヤの伝統の下に生まれ、その伝統を文字通り自分の身体に刻みつけて生きてきた。やがて、ユダヤの大切な教えである律法を人々に教える立場に就き、その熱心さが高じてキリスト者迫害の先頭に立つようになるのだ。しかし、そんなパウロが迫害のために赴こうとしていたダマスコ途上で復活の主イエスと出会い、自分がこの御方に属する存在以外の何ものでもないと強く自覚させられる事件が起こる。こうして彼は、迫害者から伝道者へと回心するのだ。

 それからの彼は、どんな苛酷な経験をしても、恐れおののき伝道から手を引くことは最後までなかった。逆に福音伝道のためなら死んでも構わないという志を固めていく。パウロが死を恐れず伝道に邁進することが出来たのは、キリストの十字架と復活によって、人間の死は全ての終わりではなく、神の国に向けての新しい始まりとなったという確信を得たからだ。

 そのパウロの伝道旅行によって建てられた異邦人教会の一つがガラテヤ教会だった。しかし、パウロが旅を続けるためガラテヤを後にすると、そこに彼が語った福音とは異なる教えが持ち込まれる。割礼を受けることがキリスト者に必要な条件であると説く者たちが現れ、ガラテヤ教会の異邦人信徒に動揺を与え、彼らを正しい福音から引き離そうとしたのだ。

 キリスト教がユダヤ人の中から起こり、割礼がユダヤ人に不可欠だったことを考えると、割礼の問題がそのように捉えられたのは自然だったのかもしれない。いずれにせよ、当時のキリスト者の多くは、割礼を受けることによって神の民にされると考えていたのだ。

 また一方で、割礼を受けないキリスト者は、一般のユダヤ人から迫害を受ける恐れもあった。割礼の必要を説く指導者たちは、そのような厳しい道ではなく、多くのユダヤ人に理解される道を勧めたという面があったかもしれない。しかし、パウロが宣べ伝えた福音は、そのようなものではなかった。

 パウロは、自分が宣べ伝える福音を「主イエス・キリストの十字架」と言い表した。それは、福音の中心がキリストの十字架以外の何ものでもないからだ。

 十字架は屈辱と呪いに満ちた、本来人間が極力自分から遠ざけようとするものだ。その十字架を、主イエスは我々の罪の贖いのために引き受けてくださった。パウロは、この十字架の福音のみを宣べ伝えてきたのだ。そして、ガラテヤ教会もこの福音を聞いて信じ、信徒の群れを形成していった。

 しかし、人間は十字架から極力遠ざかろうとする。ガラテヤ教会の人々も、十字架の厳しさ・鋭さを避け、甘さ・緩さへと流れていきそうになった。これが人間の本性であり、この本性が我々に罪を犯させる力の源なのだ。

 だからこそ、我々はキリストの十字架から目を離してはならない。パウロは、「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14節)と言っているが、十字架を誇るとは自分の罪を認めるということであり、人間を誇ることを捨て去る道だ。しかし、それによってキリストの愛が我々を包み込み、この世の何ものにも変えられない平安が与えられる。「わたしたちの生の拠り所」は、キリストの十字架に他ならない。

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