日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

11年10月のバックナンバーです。

2011年10月2日 世界聖餐日・世界宣教の日

説教:「新しい命に生きる」
聖書朗読:ルカ福音書15章11〜32節
説教者 : 北川善也牧師

 実のところ、この弟息子は何がしたかったのか。金を湯水のように無駄遣いして贅沢な気分を味わいたかっただけだろうか。

 子どもが青年期を迎え、「人は何のために生きるのか」というテーマと向き合うようになると、その答えを求めて旅に出る。それは実際の旅の場合もあれば、様々な本を読むことであったりするが、いずれにせよ青年は昔も今も「自分探しの旅」をするものだ。

 この弟息子も、財産家である父のもとを離れ、自分の力でどこまで出来るか知りたかったのだろう。しかし、彼は「自分探しの旅」において、見たくなかった自分の本当の姿を見出すことになる。

 彼は、父から譲り受けた品々をいとも簡単に売りさばき、換金した。こうして彼は家族との関係を断ち、金だけがものを言う遠い国に旅立つ。そして、家族から離れ、何ものにも束縛されない生活の中で、彼は欲望の固まりと化し、破滅の道を転がり落ちていくのだ。

 家族との関係を自ら断ち切った彼が身を寄せる所はどこにもない。彼が自由を満喫出来ると考えていたのは、実は孤独と無関心に満ちた世界だった。彼が頼って訪ねた「その地方に住むある人」(15節)とは、かつての彼の遊び仲間だろう。しかし、そこに信頼関係はなく、彼にあてがわれたのは豚を飼う仕事に過ぎなかった。

 豚は、ユダヤ人にとって汚れた動物だった。彼は、その「豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たそう」(16節)とする状態にまで陥った。このように人間性まで失いかけたが、この経験を通して彼は初めて、「あなたはどこにいるのか」という神の問いかけを聞くに至る。そして、「我に返って」自分の本来いるべき場所が父の家であることを思い起こした。人生の危機に直面して父なる神を思い起こす時、人間には悔い改めが起こり、神に立ち帰る心が与えられる。この時、彼の暗闇のような心に一筋の光が差し込んだのだ。

 しかし、彼は父に向かって、「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(19節)と言う覚悟を決めていた。彼は、自分の帰るべき場所が父の家であることを思い起こすと同時に、罪深い自分の審きを受け容れる思いへと導かれた。それゆえ彼は、息子としてでなく僕として父の家で生きる決意をするのだ。

 「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(20節)。息子が家を出て以来、父は彼の帰還を確信し、毎日外で待ち続けた。息子が父を思い起こすより先に、父は息子のことを片時も忘れていなかった。

 それにしても、なぜこの息子はこんな過剰とも言える待遇で迎えられたのか。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(24節)。神と人間との関係において、神から逃亡し、神との交わりを断つ時、人間は自らを死と滅びの中に投げ込んでいるに等しい。

 しかし神は人間が死ぬことを決して望まれない。人間が神と共に生き、神との交わりの中に居続けることを何よりも望んでおられる。だからこそ、人間が悔い改めて帰ってきた時、失われた子、死んだ子が生き返ったという喜びをもって迎え入れてくださるのだ。

 神は、御子イエス・キリストをこの世に送り、十字架につけられた。それは、すべての人間の罪を赦し、神へと立ち帰らせるために成し遂げられた出来事だった。我々が与る聖餐はそのことを表している。御子の肉が裂かれ、血潮が流されたことによって、我々は神の御前に召し出され、神を父と呼ぶ信仰に導かれて神の子とされた。神は、罪のため「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」我々のために祝宴を開き、喜び祝ってくださる。

2011年10月9日 神学校日・伝道献身者奨励日

説教:「本当に価値あるもの」
聖書朗読:ルカ福音書16章1〜13節
説教者 : 北川善也牧師

 ある金持ちが雇っていた管理人は主人を裏切り、財産を無駄遣いした。解雇は確実だったが、彼は肉体労働する力もなく、物乞いするのはプライドが許さなかった。そこでいろいろ考えた挙句、こう考える。「そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」(4節)。

 彼は、計画を実行に移し、主人に借りのある者を一人一人呼んで、最初の人に「わたしの主人にいくら借りがあるのか」と聞いた。彼は油百バトスの借りがあったが、管理人は彼に「これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい」と言って数字を半分にした。管理人は、他の人々にも同様にして証文を次々書き換えさせていった。

 自分の立場が危うくなったからと言って、こんな振る舞いが許されるのか。いや断じて許されるわけないと誰もが思うはずだ。しかし、「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8節)。我々には、到底納得出来ないこのたとえを通して、主イエスは何を伝えようとされたのか。

 たとえ話の直後、主イエスはこう言われた。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢く振る舞っている」(8節b)。我々は、管理人の「不正」に目が向くが、ここで重要なのは「賢さ」の方だ。主人は、彼の「賢い振る舞い」を見てほめたのだ。

 それでは、彼はどう賢く振る舞ったのか。それは、終わりの日に備えたということだ。彼は、自分の行く末を成り行き任せにしようとせず、最後をベストな状態で終えるための方法を模索した。彼は、何もせずに終わりを待つのではなく、終わりに至るまで出来る限りのことをしようと考えたのだ。

 この世界は、神が定められた決定的な終わりの時、すなわち神の国の完成の時に向かって進んでいる。我々は、その時をただ指をくわえて待てばよいのだろうか。聖書は、我々にあの管理人のように賢く振る舞えと告げている。我々は、自分に何が出来るのか、本当にしなければならないことは何かを考え実行せよと促されている。

 主イエスはまた、「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」(9節)とも言われた。主イエスは、このような言葉遣いで我々がどのようにして生きているかを改めて考えさせられる。誰もが皆、他の誰かに支えられて生きている。それは抽象的な意味ではなく、具体的に誰かのお金や時間や労力が費やされ、その犠牲の上に我々の人生が成り立っているということだ。しかし、誰よりも大きな犠牲を我々のために払ってくださったのは主イエスに他ならない。主の十字架によって、神を愛する愛で裏打ちされた、真の隣人愛がもたらされたのだ。

 我々は、「神学校日・伝道献身者奨励日」を覚えつつこの礼拝を献げている。一人の献身者が神学校を卒業し、牧師として立っていくのは本人の思いだけでは不可能だ。「献身」とは、文字通りその身をそっくり神の働きのために献げることだから、それ以外の部分については他の人に支えられなければ立つことが出来ない。

 私自身、仕事を辞めて神学校に入学した際、そのことを痛感した。アブラハムは、神から息子イサクを献げよ、と言われた時、すべてを献げる覚悟で山に登った。その時、「主の山に備えあり」の御言葉通り、そこには一匹の雄羊が備えられていた。主は、私の思いを越えて、献身者に必要なすべてを備えてくださっていた。

 「献身」とは、牧師になることだけを指す言葉ではない。各自が神の御栄光を現すために生きる、そのことを神はそれぞれの献身として喜んで受け取ってくださる。

2011年10月16日 秋の特別伝道礼拝

説教:「自分をまるごと好きになれ」
聖書朗読:【旧約】士師記3章12〜15節a
     【新約】Uコリント書12章7b〜10節
説教者 : 北川正弥先生(教団駒沢教会副牧師)

 旧約聖書の中で神の民と言われているのはイスラエルですが、そのイスラエルが神様の恵みによって、カナンという豊かな土地に定着し、でもまだ王国にはなっていない、そんな頃のお話です。隣国モアブにエグロンという王様が誕生しました。エグロン王はイスラエルが信仰を失い、弱体化している隙を狙いました。それもモアブと同じようにイスラエルを狙っていた民族、アンモン、アマレクと同盟を結び、同時に攻め込んできます。そのためイスラエルは18年の間エグロン王の支配下に置かれることとなってしまうのです。この苦境の中でイスラエルは神様に祈りました。すると神様が遣わしてくださったのが「士師エフド」でした。エフドは諸刃の剣を隠してエグロン王の王宮に乗り込み、「内密の話がある」といって王に人払いをさせ、一対一になると隠していた剣でエグロンを刺して殺してしまいます。剣でエグロン王のおなかを刺すと、たちまち脂肪が流れ出して、剣を閉じ込めてしまったと聖書には書かれています。イスラエルはモアブを国境の外へと押し出すことに成功、平和が戻ったと言います。

 実はわたしには、初めてこの話を聞いた時からずっと気になっていたことがありました。エフドのことではありません。エグロンという王様のことです。エグロン王は、剣でおなかを刺したら脂肪がその剣を閉じ込めてしまったというぐらい太っていたのです。そんなに太っていたのでは動くことさえ容易ではなかったでしょう。それなのに、彼はエフドと一対一になってしまったのです。これではまるで殺してくれと言っているようなものです。エグロンという王様は、イスラエルを攻撃する時にわざわざ他の国と同盟を結んだりする、とても慎重で賢い人であるはずなのに、どうしてこの時に限ってそんな不用意な振る舞いをしたのでしょうか。

 ところが士師記に関する本を読んでいましたら、こんなことが書いてありました。「聖書にはエフドが左利きだったと書かれているが、ここでいう左利きというのは、何らかの理由で右腕を欠いていたということなのではないか、もしくは右手があっても不自由で使えなかったという意味なのではないか」。これを読んだ時、わたしは長年の疑問が氷解した気がいたしました。もしもエフドの右腕がなかったとしたら、あるいはあっても、明らかに障害があって動かすことが出来ないように見えたとしたら、勝利に驕るエグロン王や周りの者たちが油断したというのも納得出来ます。

 すると、こういうことになります。もしエフドが何らかの理由で右腕を使うことが出来なかったとしたら、彼は決して恵まれた人間とは言えないでしょう。その他大勢の人たちと比べても、はっきりとした欠けがあったのですから。でも、そんなエフドが士師としてイスラエルを救うのです。それもエフドには右手という欠けがあったからこそ、その欠けている部分のおかげで、エグロン王を倒すことが出来たのです。

 皆さんの中に、自分は完全な人間だと思っている方はおられるでしょうか。恐らくはおられないだろうと思います。つまり皆さんは全員、自分には何か欠けがあると感じておられるということになります。でも、エフドの物語はわたしたちに、自分が欠けだと思っているような部分が、実は神様に必要とされているのだと教えてくれています。だからどうか自分をまるごと好きになってください。自分の良いところだけでなく、自分の欠点だと思うようなところも全部含めて。なぜならそれが神様を信じるということだからです。

2011年10月23日 讃美音楽礼拝

説教:「人は神にかたどって創造された」
聖書朗読:創世記1章1〜5節、24〜31節a
説教者 : 北川善也牧師

 「神は光を見て、良しとされた」(4節)。混沌とした闇の中に、神は光をもたらされた。「光あれ」と言って、天地創造を開始された。

 この世を照らす真の光として来られたイエス・キリストの御降誕を覚えるクリスマス。その時に向けた準備期間が今日から始まる。教会暦に合わせて本日与えられたのは、聖書の最初に記されている創世記、天地創造の出来事だ。

 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」。これは、全世界のキリスト教会共通の信仰告白である使徒信条の最初の言葉だ。神による天地創造の御業は、我々が信仰をもって覚えるべき大切な事柄であり、代々の教会はその信仰を言い表し続けてきた。

 この出来事において最も重要なのは、神が造られた全被造物を「良し」とされたことだ。被造物である人間の土台には神による祝福があり、それゆえ我々が目指すべきものも神の祝福に他ならない。

 だが、神がそのように祝福してくださった根拠は、我々の内側にはない。では、何をもって神は我々を「良し」としてくださったのか。それは、ただ造られた御方が全能であるがゆえだ。それ以外に祝福の根拠はどこにもない。

 全能の神が一方的に祝福してくださるからこそ、我々の祝福は決して損なわれることも消え去ることもない。しかも、人間は「神にかたどって創造された」(27節)。これこそ最大の祝福だ。神御自身に似せて造られた我々は本来、神と向き合い対話する存在たるべく命を与えられているのだ。

 ところが人間は、神と向き合って生きるために与えられている自由をはき違え、神から離れ、自分勝手に生きようとする罪の虜となる。こうして人間は、祝福の源である神から自ら離れ去っていくが、そんな人間を神は決してお見捨てにならない。それは、神が人間を御自分の似姿に造られたゆえ徹底的に愛してくださるからだ。

 神は、永遠という次元を生きておられる御方でありながら、あえて限りある時間の中で天地創造の御業を行われた。そして、その時以来、神は御自分が造られたこの世の歴史と直接的に関わっておられる。それゆえ、我々は神の祝福を自分たちが現に生きているこの世界で経験させていただくことが出来るのだ。このような神の祝福がこの世において最も端的に示されたのは、イエス・キリストの出来事によってであった。

 「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロサイ書1:15-20)。

 人間は、神から使命を与えられた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(28節)。これは、神が全被造物に与えられた祝福を守る働きに他ならない。神による祝福を宣べ伝え、保ち続けるために召されている我々は、託されている務めを果たすことが出来るよう互いに祈り励まし合いつつ歩みたい。

2011年10月30日 降誕前第8主日

説教:「和解という救い」
聖書朗読:ローマ書5章6〜11節
説教者 : 上田直宏先生(関西学院教会伝道師)

 私たちには、誰かにとっての敵となってしまうことがある。その生を童話『ムーミンパパ 海へ行く』から理解できる。この物語にはモランという登場人物がいる。多くの者は噂や特性故にこのモランを無視したり恐れたりする。優しいムーミン一家も、程度の差はあれ例外ではなかった。人々に恐れられ敵視されるモランはこの世で誰にも愛された事がなく、独りひたすら明かりを求めていた。

 けれどもある夜ムーミンが一人浜辺でカンテラを灯している時、モランに出会う。ムーミンは、寂しく海水に浸かっているその姿を見ると、なぜかそこから動けなかった。それ以来ムーミンは、モランにカンテラの明かりを見せに行っては、静かに共に過ごすようになる。次第にムーミンはモランが危険でも怖くもないことに気づいていき、またモランも、明かりではなく、ムーミン自身に会いに来るようになる。恐れられていたモランがその嬉しさを、ハミングやダンスをする程に表すようになっていく。ムーミンはモランを、誰からも呼ばれることのなかった呼び方「友だち」と呼んだ。モランに初めて友だちができて、この物語は終わる。

 私たちにとっても何人かのモランがいるだろう。あるいは私たちが、誰かにとってのモランであるかもしれない。また、自分自身の中に見たくないような、私にとってのモランがいるかもしれない。モランは実際は傷つけることはなかったが、私たち人間の場合には、意図してかせずしてか、敵対して傷つけることもある。

 聖書はこの敵ということを、「私たちが、敵であった時」と語る。この言葉は、具体的にキリストの敵であったパウロ自身が痛感していた。彼に悪意があったのか。否。彼は愛する神に喜ばれることを求めて、人一倍善く生きようとさえしていた。それなのに敵となってしまうことが、彼/私たちにはある。神に喜ばれたいとしながら、神を迫害してしまうということが。

 その者のためにこそ、キリストは犠牲となられた。それは人と人との間で考えられるどのような愛や犠牲をとも違う、ただ神の愛の、奇跡。この愛がなければ、十字架がなければ愛が何であるかを私たちは知らなかった。全き信頼の交わりに生きることはなかった。その愛を表した相手のことを「敵」であるとパウロは言う。本当の愛とは、むしろ敵を愛する愛だと。敵こそ全く愛なしで、憎しみの中に生きている者だからである。その者以上に愛を必要とする者があるだろうか。その意味で敵以上に誰が、愛に値するだろうか。敵は敵である故に、愛しても変わる保証はない。敵は相変わらず、主を辱め迫害した。しかし主はあくまで愛するという仕方で、「あなたの憎しみや呪いは、私を傷つけないとい」ということを示された。それは、敵がどうしようと愛することを変えない、力ある愛である。

 パウロはキリストの敵であった。ただし、主の愛によって和解させられた敵である。和解とは、はじめて友だちになる以上のこと。先のことは不安という関係を生きているのではない。キリストは死を、罪を、神への敵意を、全ての否定を越えて私たちを愛し、愛である神と和解させてくださった。関係を結び続けたご自身が、十字架という神との関係から疎外されるという、完全な否定を知ってなお愛しておられる。

 甦って私たちに、友として語りかける方。否定を経て和解した友が「あなたの罪は赦された」と「You Are ALL OK」と言ってくださる。だから、私たちには今、カンテラのようなしるしは見えなくともダンスやハミングを、いや、神を喜び、讃美することさえできる。それこそが、和解して神と共に歩む生。主が十字架によって勝ち取ってくださった、新しい命である。

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