日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

11年11月のバックナンバーです。

2011年11月6日 降誕前第7主日

説教:「あなたを祝福の源とする」
聖書朗読:創世記12章1〜9節
説教者 : 北川善也牧師

 アブラハムは、「信仰の父」と呼ばれ、多くの人の尊敬を集めている。だが、旧約聖書は、彼をただ単にイスラエルの立派な指導者として描き出しているわけではない。逆に、彼の生涯は失敗の連続とも言えるような歩みだった。

 アブラハムは、抜きん出て信仰的に優れた人物というわけではなかったのに、なぜ「信仰の父」と呼ばれるようになったのか。それは、彼が決定的な瞬間に神の約束を受け入れ、その約束をいついかなる時も信じ続けたからだ。

 ある日、アブラハムは神から、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(1節)という命令を受ける。神が示す地とは、彼にとって未知の世界であり、どうやってそこに向かえばよいかさえわからないところだった。しかし、この時彼の心にあったのは、「すべてを造り、すべてを統べ治めておられる神が行けと言われるのだから、必ず神はわたしを守り、進むべき道を示してくださる。だから、わたしはただ神を信じて従うだけでよいのだ」という思いだった。

 アブラハムは、いついかなる時も神の祝福から離れることなく生きた。彼は、神の祝福につながって生きることにより、一切の不安を取り除かれ、与えられた務めを成し遂げる力を得ることが出来た。彼は、リーダーとしての優れた能力を持っていたからイスラエルを導くことが出来たのではなく、いつも神の祝福に捉えられて生きていたからこそ、喜びをもって与えられた務めに取り組み、成功を収めることが出来たのだ。

 神は、アブラハムのこの生き方を義と認められた。神によって義と認められるとは、罪を「大目に見て」赦していただくというようなレベルの出来事ではない。神の御前に「完全な」無罪を宣言されるという驚くべき出来事だ。

 すべてを造られた神によって完全に正しい者と認められる。これ以上に喜ばしい出来事があるだろうか。我々人間は、神によって創造された当初、「とても良い」と言われた存在だ。神は、御自分の似姿である人間を徹頭徹尾愛し抜いてくださる。だから神は、我々が罪にまみれた状態になっていようとも、いやそのような状態だからこそ、御自分に立ち帰り、神の似姿である本来の自分を取り戻すことを望んでおられるのだ。

 アブラハムの物語は、この後も続く。そしてこの先、彼は失敗をたび重ねる。しかし、我々が注目したいのは、神がこうした彼の様々な過ちや失敗を一つ一つ数え上げ、責め立てておられないことだ。神は、アブラハムの人間としての限界を十分知りつつ、彼を守り、御手を置き続けられた。人間の側がどうあろうとも、たとえ神に背を向け、裏切ろうとも、神は決して御手を離さず、御自分に立ち帰らせてくださる。それが、神によって義とされるということだ。神は、それをアブラハムが死に至るまで、彼の弱さや過ちにもかかわらず、貫き通された。そして、この神の義は、アブラハムの死によって途切れることなく、その子孫まで確実に継承されていった。

 時代を経て、今、日本の我々にも、この神による義が届けられている。神の御子、イエス・キリストがこの世に来てくださったクリスマス。それは、神がすべての人間を義とすることを完成されるための出来事だった。イエス・キリストがこの世に来られ、十字架にかかってくださることによって、我々はあらゆるこの世の力をもってしても決して断ち切ることの出来ない神の愛のうちに置かれるようになった。かつてアブラハムに与えられた神による祝福の源は、こうして完全なものとされ、今や全世界に告げ広められて、すべての人々が神の民とされる約束が成し遂げられつつあるのだ。

2011年11月13日 オール洛北礼拝(降誕前第6主日)

説教:「あすのことを思いわずらうな」
聖書朗読:マタイ福音書6章25〜34節
説教者 : 北川善也牧師

 イエスさまは、「思いわずらうな」と言われました。「思いわずらい」は、自分がこうしたいと思っていることが出来なくなると起こります。イエスさまは、こう言われました。

 「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる」(26節)。

 鳥は人間みたいに畑で野菜を作ったり、食べ物を冷蔵庫にしまっておいたりしなくても、毎日ちゃんと食べるものがあるではないか、と言うのです。確かにそうです。わたしたちは、明日食べるものがなかったらどうしよう、と考えてしまいますが、本当に必要なものは神さまがちゃんと用意してくださいます。イエスさまは、次のようにも言われました。

 「野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(28-29節)。

 イスラエルが一番栄えていた時の王、ソロモンはお金持ちだったので、とても高価な材料を使って神殿や王宮を作ったり、とても豪華な衣装を毎日とっかえひっかえ着ていました。けれども、イエスさまは、野山に咲いている自然の草花の方が、ソロモンの建物や衣装より断然きれいではないか、と言われます。確かにそうです。自然の中に咲いている花は誰が手入れしているわけでもないのに美しいですね。それは、神さまの業そのものがすばらしいからです。

 天にあるもの地にあるもの、すべてを造られたのは神さまです。そして神さまは、人間を御自分の姿に似せて造られました。つまり、神さまは造られたすべてのものの中で人間を一番良いものとして造られたのです。だから神さまは、そんなわたしたちをいつでも大切に思い、守ってくださいます。

 ところが、わたしたちはそんなふうに神さまから大切にされていることを忘れて、神さまから離れていこうとします。どうしてかというと、わたしたちは自分を楽しませることが好きだからです。人間は、自分だけが良い思いをしたいという誘惑にいつも引かれていきます。でも、世の中には自分だけが良い思いをすることなんてありません。だから、人間は思いわずらうのです。「思いわずらい」は、人間が神さまから離れてしまうことから始まります。だから、イエスさまは言われました。

 「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」(33節)。

 わたしたちにとって何より大切なのは、神さまの近くにいることです。いつも神さまと一緒にいることを求めて生きる、それがわたしたちにとって何より大切なことだとイエスさまは言われます。そして、わたしたちが神さまと一緒にいるならば、必要なものはすべて神さまが備えられると約束してくださいます。

 わたしたちに必要なものはすべて用意してくださる神さま。その神さまといつも一緒にいるようわたしたちに教えてくださるイエスさま。イエスさまは、そういう大切なことを教えるだけでなく、わたしたちが実際に神さまから離れないようにしてくださいました。もうすぐイエスさまがこの世でお生まれになったクリスマスがやって来ます。イエスさまがこの世に来られたのは、わたしたちがどんな時でも神さまから離れないようにしてくださるためでした。

 わたしたちは、イエスさまの御言葉を聞くことによって、神さまから離れないようにされ、いつも喜んで生きる者とされるのです。

2011年11月20日 降誕前第6主日

説教:「この世を救うまったく新しい力の到来」
聖書朗読:ヨハネ福音書18章28〜38節
説教者 : 北川善也牧師

 今日与えられたヨハネ福音書は、主イエスが十字架にかけられる直前の様子を伝えている。主が総督ピラトの前に連行された時のやり取りがここに記されているが、それは最初から最後までまったくかみ合っていない。

 ピラトは、この御方を理解することが出来なかった。この御方がなぜこの世に来られ、裁かれようとしているのか、そもそもこの御方の語られた言葉の意味が、彼には理解出来なかったのだ。

 ピラトは、今日の聖書の最後のところで、「真理とは何か」とつぶやいているが、それは主が「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言われた言葉の意味がわからず、混乱してしまったからだ。

 真理とは、神御自身を表す言葉であり、真理を示すことが出来るのは神以外にはおられない。主は、我々にその神を知らしめるため、この世にやって来られたのだ。

 そして、主は神の御子でしか成し得ない仕方で救いの御業を行われた。主による救いの御業、それは、この御方が全く罪のない神の御子であるにもかかわらず、人間の罪に対する最も重い刑罰である十字架にかかり、体中の血をすべて流しきって死んでくださることによって成し遂げられた。

 この出来事こそ福音の要に他ならない。十字架においてすべての人間の救いが成し遂げられたことを示すため、福音書は十字架の出来事において頂点を極めている。

 反対に、聖書の最初にはどう記されていただろうか。「イエス・キリストが神の言葉としてこの世に来られた」と告げている。そして、その神の御子は、「恵みと真理とに満ちていた」と記されている。神の恵みと真理は、主によってこの世にもたらされた。それは、次の言葉において如実に表されている。「わたしは道であり、真理であり、命である」。主こそ我々を救いに導く道であり、永遠の命の源だ。この御方において神御自身の真理が示されているのだ。

 「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と主は言われた。すべての人間を永遠の命につながらせるために主は来られた。我々がその約束の中に入れられるためには、主の御言葉、すなわち真理に触れなければならない。

 しかしながら、ピラトの言葉に典型的に現れているように、我々は神の救いの出来事を素直に受け入れることが出来ない。「真理とは何か」というつぶやきは、我々自身のつぶやきに他ならない。

 そのような我々に対して御自分の方から近づき、その答えを示してくださるのが主であり、主こそ我々が神による救いの出来事に触れるための唯一の道なのだ。

がある。人間の弱さや罪深さで覆われた闇のようなこの世で生きる人間に、救いの光が与えられた。この救いの出来事に我々が触れるために必要な聖霊の助けも神は与えてくださった。我々は、聖霊によって真理を悟ることが出来るようになる。主が「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」と約束された通りだ。

 我々は今、聖霊の導きによってこの場に集められている。「まことの礼拝をする者たちが霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」。主は、我々を救いへと導くため、一人一人の名を呼んでここに召し集め、礼拝者としてくださった。礼拝者にされるということは、神御自身と一つにされるということだ。神は、それほどまでに大きな恵みを我々に与えてくださっているのだ。

2011年11月27日 待降節(アドベント)第1主日

説教:「あなたがたは知る。わたしが神であることを」
聖書朗読:【旧約】イザヤ書52章1〜10節
     【新約】ヨハネ福音書7章25〜31節
説教者 : 北川善也牧師

 その時、エルサレム神殿は、仮庵祭を祝うために各地から集まってきた大勢の人で賑わっていた。そこにいた民衆は、主イエスを殺そうとする企てが水面下で進められている気配を察していた。そして、主イエスの命を狙っているのは、最高議会の議員たち、それも民衆の生活に大きな影響力を持つ律法に通じたファリサイ派であるらしいことが推察されている。

 民衆は、主イエスが「神殿の境内に上って行って、教え始められた」(7:14)ことに対して、権力者である議員たちが何の抗議もしないということは、最高議会が主イエスをメシアと「本当に認めた」のではないかと思い始めた。

 だが、この「本当に…」というのがミソで、民衆も「まさか、この男がメシアとは…」と心の片隅で疑っていた。なぜならば、彼らは、主イエスの出身地がナザレであるということを「知っていた」からだ。ナザレというのは、主イエスがこの世における歩みを開始された場所であり、ガリラヤ地方南部にある何の変哲もない辺鄙な村だ。彼らは、確かにそのことを知っていた。そして、それこそ主イエスが「普通の人間」である証拠に他ならないという結論を導き出すわけだ。つまり、彼らの知識によれば、主イエスは自分たちと同じ人間であり、メシアではないということになる。

 彼らのこのような判断を通して、メシア、すなわちこの世の救い主を認めるのは人間の知識であるという「人間中心主義」が強調されている。特にファリサイ派の人々は、自分たちが何でも知っているという態度を示し、大勢の人々を支配下に置いてきた。彼らは、自分たちの知識を絶対的なものとし、知識を身に着けている自分たちと何も知らない民衆とを区別し、民衆を蔑んできた。ここに、人間の知識が大手を振ってまかり通るこの世の姿が示されている。

 しかし、彼らの知識には限界があり、決して絶対的ではない。むしろ、彼らはその知識と誇りによって視点を曇らせ、主イエスと向き合えなくなっている。彼らは、自分の知識という枠の中に主イエスを閉じ込めてしまい、彼らの理解を越えた言葉でお語りになる主イエスに近づくことが出来ない。

 一方、ファリサイ派の人々から蔑まれている民衆の方が、主イエスとの出会いを通して、自分たちなりに考え、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」(7:31)と率直に語っているのは大変印象的だ。

 民衆も主イエスのすべてを理解した上でこのように判断したわけではなかったが、ファリサイ派の人々と違って彼らは主イエスと真剣に向き合おうとしていた。主イエスを通して神の真理に触れるためには、この御方と出会い、また向き合わなければならない。

 我々は、主イエスと出会うことによってどのように変えられるのか。誰もが日常生活の中で自分自身をすり減らすようにして生きている。しかも人間は、自分の知識や能力によって生きていると錯覚する。実際には魂をすり減らし、渇きを覚えているにもかかわらず、錯覚によってそれを忘れて生きる限り、人間は本当のいのちの喜びに至ることは出来ない。

 そんな我々に主イエスは、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(7:37)と告げてくださった。主イエスとの出会いによって、我々は生きた水をいつでも豊かに飲むことが出来るようになる。生きた水とは、聖霊に他ならない。聖霊は、我々を「導いて真理をことごとく悟らせ」(16:13)る。我々は、生きた水である聖霊を豊かに受け、主イエスとの新しい出会いを重ねることによって決して尽きることのない喜びをもって歩む者とされる。

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