日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

11年12月のバックナンバーです。

2011年12月4日 待降節(アドベント)第2主日

説教:「明けの明星が昇るときまで」
聖書朗読:【旧約】イザヤ書59章21節
     【新約】Uペトロ書1章19節〜2章3節
説教者 : 北川善也牧師

 ペトロの手紙2で問題となっているのは、異端の偽教師らによって信仰の土台を脅かされている初代教会の状況だ。問題の深刻さは、偽教師らが外からでなく、教会内に入り込み、信徒たちを足下から揺さぶろうとしている点にある。

 異端の代表格はグノーシス主義だが、彼らは「自分たちは既に神の子とされ、救いは完成しているので、後は好き勝手に生きればよい」と主張する。一方、教会の信仰は、洗礼によって確かにキリストの救いにつながれるが、その救いは終わりの日に完成されるのだから、受洗後は好き勝手に生きてかまわないということにはならない。しかし、受洗後間もない信徒たちは、このような自由奔放な教えに魅力を覚え、引きずり込まれる者たちも出てくるのだ。

 我々の救いは、主がこの世に来られ、十字架にかかり、復活を遂げられることにより確立された。その主は、今や天の父なる神の右に座しておられるが、やがて終わりの日に再びこの世に来られ、すべてを完成へと導いてくださる。これこそが我々の福音であり、その大切な柱である十字架と復活、そして再臨の信仰はそっくりそのまま守り続けられねばならない。それゆえ、偽教師らの攻撃が開始された時、初代教会は明確に定式化された信仰箇条を打ち立て、それを礼拝毎に奉ずることによって異端の侵入を防ごうとしたのだ。

 それは、現代の教会も同じだ。我々は、礼拝の度に「教団信仰告白」を告白し、絶えず自分たちが何を信じているのかを自己吟味し続ける。今日、我々は教会創立104周年を覚えて礼拝を献げているが、主はこの群れを百年以上にわたり御言葉と信仰告白によって固く立つよう導き続けてくださった。我々は、何よりもまずそのことに感謝しなければならない。

 この手紙が記されたのは、暗闇の時代だ。迫害や異端の嵐が吹き荒れる中、信徒たちは祈りつつ、ひたすら夜明けを待ち続けた。そのような暗闇を照らす光は、神の御言葉以外にない。「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」(詩119:105)。

 「明けの明星が昇るとき」(19節)とは、夜明けを告げるキリストのとき、すなわち再臨のときを指している。そのとき、現在の暗闇は完全に取り除かれ、神の国が完成する。主の再臨、それはすべての人間を暗闇から輝く光の中へと導く神の恵みの総仕上げのときだ。そして、旧約聖書が指し示すメシア預言や新約聖書に記された使徒たちの証言は、人間をその救いに導く「ともし火」なのだ。

 だからこそ、そのような聖書の言葉は「自分勝手に解釈すべきではない」(20節)。「かつて、民の中に偽預言者がいた」(1節)と言われているが、「偽預言者」とは、「聖霊に導かれて神からの言葉を語った」(21節)人たちとは対照的に、「わたし(神)の命じていないことを、勝手にわたしの名によって語」る者(申18:20)を指す。同様に、教会の時代に入ると「偽教師」が現れて、信徒たちを主から引き離そうとするというのだ。

 我々は「真理の道」を踏み外さぬよう、主の御後を離れずに歩み続けねばならない。そのために、神は我々に聖書を与え、御言葉を通して「明けの明星」を指し示し続けてくださる。暗闇の中を歩む我々にとって、光の完成のときは何よりも待ち遠しいことだ。それゆえ、我々は焦り、安易な救いの道に逸れてしまいそうになる。しかし、主は約束してくださっている。「暗い夜は必ず明け、明けの明星であるわたしが必ずあなたがたのところに行く」。その日まで、我々は主による救いの喜びを忘れ去ることがないよう、主日毎に礼拝を献げ、御言葉に触れ、聖餐の恵みに与りつつ生きるのだ。

2011年12月11日 待降節(アドベント)第3主日

説教:「わたしたちが待つべき御方」
聖書朗読:【旧約】マラキ書3章19〜24節
     【新約】ヨハネ福音書1章19〜28節
説教者 : 北川善也牧師

 旧約聖書には、神が御自分の民イスラエルを救いへと導く約束の言葉が記されているが、その中心には、メシア、すなわち救い主がこの世に来られ、すべての民の救いを成し遂げるという預言の言葉が据えられている。イスラエルの人々は、聖書が指し示すこのメシアの到来を心から待望していた。

 人々は、アンテナを張り巡らし、メシア到来の気配を感じ取るとすぐさま「調査員」を派遣して確認しようとした。今日与えられた新約聖書には、ヨハネという男が荒れ野で行っている活動がメシアと関係するか調べるため派遣された調査員の証言が記されている。

 そもそも、ヨハネはどうしてメシアと間違われるようなことになったのか。それは、彼がユダヤの荒れ野で神の教えを宣べ伝えていたからに他ならない。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。……ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マタイ3:1以下)。

 ヨハネは、どんな権限があってこのようなことを行っていたのだろうか。彼は、自分自身について次のように語っている。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(23節)。

 ヨハネは、自分を「叫ぶ声」と表現した。何を叫ぶ声かと言えば、「主の道をまっすぐにせよ」という言葉だという。彼は、自分が救い主の到来とその歩まれる道の先にある出来事を指し示す働きを託された人間だと言ったのだ。

 すべての人に救いをもたらすため、間もなく救い主がやって来られる。ヨハネの目的は、このことをあらかじめ人々に知らせ、もし来られたら人々がこの御方と向き合い、受け入れられるよう、心の準備をさせておくことだった。

 それゆえヨハネは、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」という問いに対して、「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(25-27節)と答えるしかなかった。

 ヨハネは、徹底して自分自身について語ることを拒絶しているが、それは彼の使命が「見よ、神の小羊」と言って、自分の後から来られる救い主を指し示すことに他ならないからだ。ヨハネという存在は、主イエスと結びついて初めて意味を持つことになるのだ。

 それは、我々の教会も同じだ。我々は、「あなたは何者か」と問われた時、「我々は、主を証しするため、この世に生かされている存在である」と答えるべき群れだ。我々は、すべての人の救い主としてこの世に来られた御方を証しするためこの世に立てられている。

 そして、教会は終わりの日までこの御方を指し示し続ける。救い主がこの世に来られたクリスマス。それは、今から二千年前の大昔に、ユダヤのベツレヘムという遠い所で起こった過去の出来事ではない。それは今、現にここにいる我々一人一人の上に起こっている出来事であり、やがて終わりの日に救いの完成をもたらすために成し遂げられる出来事でもある。ヨハネが主イエスを指し示す人生を貫いたように、我々も主を指し示し続ける。それこそ教会に託された働きであり、その働きの原動力は、我々に与えられている罪の赦しと永遠の命という希望だ。クリスマスの希望を絶えず新しくしつつ、共に救い主を証ししよう。

2011年12月18日 待降節(アドベント)第4主日

説教:「御心を行うために」
聖書朗読:【旧約】ゼカリヤ書2章10〜13節
     【新約】ルカ福音書1章57〜66節
説教者 : 北川善也牧師

 年老いた祭司ザカリアとエリサベト夫妻に待ち望んでいた子どもが与えられる。天使からこれ以上ない喜びの知らせを聞いたにもかかわらず、ザカリアは信じられず、そのために口をきけなくなってしまった。沈黙を強いられたザカリアは、やがて知らせ通りに子どもが与えられる経験を通して、また天使が命じた通りその子をヨハネと名付けることによって、再び口をきけるようになった。

 神は、この事件を通して何を示されたのだろうか。これは、ザカリアが天使によってもたらされた神の御言葉を信じなかった罰というよりも、神に仕える祭司が、常に心を開いて受けとめるべき神の御言葉を信じられなくなった時、祭司として語ることが出来なくなるということを象徴的に示している出来事なのではないだろうか。

 ザカリアは、天使から「あなたの妻エリサベトは男の子を産む」と告げられた時、「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」と答えた。子どもが与えられることは、彼ら夫婦にとって確かに長年の真剣な願いだったし、いつもそのことを祈り続けてきたのだ。だが、いざその告知を受けた時、そのことを真剣に考えれば考えるほど、まともに信じることが出来なくなってしまった(1:5-25参照)。

 天使の言葉を聞いた時のザカリアの冷静で合理的な判断は、人間として当然の反応であったと言えるかもしれない。しかし、そのような人間的な正しさは、神の御前では全く意味をなさない。ザカリアは、神の御言葉を信じないで、何か目に見えるわかりやすい証拠を求めたがゆえに、祭司として語る言葉を失ってしまったのだ。言葉を信じない者に言葉を語ることは出来ない。この時のザカリアは、人間の常識で物事を考え、神の御業を信じることが出来なかった。彼には神の御言葉を受け入れるための時間が必要だったのだ。

 妻エリサベトが男の子を産む時まで、ザカリアの口は閉ざされたままだった。しかし、彼は子どもが本当に与えられ、人間の常識をはるかに超えた神の恵みの大きさに触れた時、目を開かれる。産まれてきた子どもを抱き上げ、今度はいささかも迷うことなく、天使の御告げ通り子どもにヨハネと名付けることによって、ザカリアは語るべき言葉を取り戻した。

 注目すべきなのは、その時ザカリアがどのような言葉を語ったかということだ。それは、彼が口をきけなくなった経緯を説明するような言葉ではなく、ただ神への賛美のみだった。そして、彼の「口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた」様子を見て、「近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった」(64-65節)。

 ザカリアは、神の御業に触れ、神の御計画が天使の御告げ通り行われたことを知った時、神を賛美せずにはいられなくなった。そして、その賛美の力が方々に拡大していった。神への賛美こそが沈黙を打ち破る力となったのだ。

 我々は、クリスマスにイエス・キリストという神の御言葉を与えられた。我々は、この御方を信じ、受け入れることによって、初めて何よりも確かな、本当に語るべき言葉を持つことが出来る。しかも、この言葉は「むなしくは、わたし(神)のもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザ55:11)と言われているように、その言葉自身が生きて働くのだ。

 我々は今、救い主を待ち望むアドベントを過ごしている。その我々が、他ならぬこの自分のために来てくださったイエス・キリストを受け入れる時、我々は心の底から湧き出る喜びをもってクリスマスの賛美を口にする者とされる。

2011年12月25日 降誕日(クリスマス)礼拝

説教:「すべての人を照らすまことの光」
聖書朗読:【旧約】イザヤ書62章10〜12節
     【新約】ヨハネ福音書1章1〜14節
説教者 : 北川善也牧師

 クリスマスは、すべての人に与えられた大いなる喜びの訪れである、と天使は告げた。この喜びは、一体何によってもたらされるのか。喜びの源は、一体何なのか。これを見失ったら、クリスマスは無意味なものになってしまう。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(14節)。クリスマスに神の御子、イエス・キリストが来られた。それは、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」(18節)出来事が成就したということだ。

 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(1節)と言われているその「ことば」が肉となるとは、神が肉体を取られるということだ。それは、時空を超越した存在である神が、我々と同じように肉体を持ってこの世で生活する歴史的な存在となられるという驚くべき出来事だ。

 ベツレヘムの馬小屋で生まれ、ナザレを故郷として成長し、ゴルゴタの丘で十字架にかかって死なれた歴史的存在としての主イエス。この御方において、永遠なる神がこの世に現れてくださった。人間は、イエス・キリストを通して、本当なら触れることの出来ない神に触れられるようになった。

 しかし、このように神が御自分を徹底的に低くして与えてくださった驚くべき恵みの出来事を、我々はどのように受けとめているだろうか。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(1:9-10)。この世の闇は、栄光の輝きを湛えた真の光を受け入れることが出来ない。これが罪に満ちた人間の現実だ。我々が抱えている闇の深さに暗澹たる思いを抱かざるを得ない。

 人間は闇の中に留まっている。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(12節)と聖書は告げる。我々のような罪に染まった闇の子らを、光の子、神の子としてくださる。これこそクリスマスの恵みに他ならない。

 クリスマスとは、このように罪の只中にある人間が神の子として新たに生まれる時でもある。本日、信仰告白式が執り行われるが、洗礼また信仰告白は人間の知恵や努力によってではなく、ただひたすら主イエスに自分のすべてを委ねて従うという、神への全き信頼によって新しく誕生することだ。クリスマスに神がこの世で生まれてくださったからこそ、我々は神から生まれ、神の子とされるのだ。

 神は一人子を世に遣わされた。この神の愛の働きによって、我々は初めて隣人を愛し、隣人のために生きる者とされ、そうして初めて本当の意味で神によって与えられた命を生きる存在となるのだ。

 主イエスがこの世でお生まれになったのは、確かに過去の出来事だ。しかし、その主イエスは、十字架の死からよみがえり、永遠の命について今も生きておられる。主イエスは、このようにして現在の闇の中にも光をもたらしてくださっている。我々の目が闇に遮られ、罪に汚れて見ることが出来ないとしても、この世において光が輝いているのは確かなのだ。この世の闇がどんなに強くても、闇は光に勝つことが出来ない。世界の至るところで闇の力が勝利し、我々は敗北しているように見えるかも知れない。しかし、光は確かに輝いている。そして、闇はこの光を覆い尽くすことが出来ない。

 主イエスは、次のように言われた。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。主イエスは、死からよみがえられた。この勝利の光が、我々をいつも照らし出している。

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