日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

12年1月のバックナンバーです。

2012年1月1日 元旦礼拝(降誕節第2主日)

説教:「生きた石、聖なる国民」
聖書朗読:Tペトロ書2章1〜10節(2012年教会標語より)
説教者 : 北川善也牧師

 「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい」(2節)と言われているが、「霊の乳」とは神の御言葉のこと。つまり、「ひたすら神の御言葉を慕い求めよ」と告げているのだ。神の御言葉をそのように言い換えるのは、それが命の源に他ならないからだ。

 我々は、以前は「家を建てる者の捨てた石」、「つまずきの石、妨げの岩」の重要性を知らず、自分本位に生きていた。しかし、赤ん坊が無意識のうちに必死で乳を求めるように、一人一人が不思議な導きによって神の御言葉を必要とする者に変えられたのだ。

 マルコ福音書には、主イエスが子どもを祝福される場面がある。主は、「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」と言われた。

 ここにおいて示されているのは、次の二点ではないか。一つは、大人にすがり付かねば生きていけないことを自覚している子どものように神にすべてを委ねるということ、もう一つは、親から与えられた乳を疑うことなく飲み込む子どものように神を全面的に信頼して生きるということだ。

 昨年3月11日に起きた東日本大震災は、日本全体のみならず世界中の人々に衝撃を与えた。多くの人に今まで自分が立っていた場所が土台ごと押し流されてしまったような思いをもたらした。そして、「神が本当にいるならこんなことはしないはずだ」という声が聞こえてきた。この世に、「神はいない」、「神は死んだ」という絶望的なうめき声が響いている。

 ペトロは、アジア州各地に離散して生きるすべてのキリスト者に手紙を通して語りかけた。その本文は、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)という言葉で始められている。しかし、この手紙の宛先人たちは当時、喜びの中で神を賛美しながら生きていたのではなく、ローマ帝国による厳しい迫害下にあったのだ。

 彼らは、ローマ皇帝ではなく、主イエスを賛美して生きる者となったゆえに厳しい迫害を受けることとなった。昨日まで一緒に生活していた子どもを殺され、悲しみの涙を流している親や毎週共に礼拝していた友を殺され、泣き叫ぶ信仰者たちがそこには大勢いた。

 しかし、そんな人々に向かってペトロは、「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」(3-4節)と呼びかける。すべてを失い、夢も希望も持てない人々に、この世から見捨てられ、十字架に磔にされ殺された御方のもとに来なさいと告げている。彼は、屍の上に屍を積み上げよと言っているのか。

 そうではない。神は、その捨てられた石を甦らせ、主の教会のための生きた隅の親石として据えられた。我々は、「この主のもとに来なさい」と招かれているのだ。神は、路傍の石にすぎない我々を拾い上げ、主イエスという生きた隅の親石に組み込んでくださる。

 そして、主の御体である教会の一部分とされた者は、どんな悲しみの中にあっても神に目を向け、天を仰いで生きる者とされる。なぜなら、そこにこそ生き生きとした希望が蓄えられているからだ。人間の中から生まれる希望は、苦しみによって押しつぶされ、死によって飲み尽くされてしまう。しかし、神が与えてくださる希望は、朽ちず、汚れず、しぼまない。希望そのものが生きている。この希望こそ、神が死者の中から主イエスを復活させられた命なのだ。

2012年1月8日 降誕節第3主日

説教:「死から命へ」
聖書朗読:エフェソ書2章1〜10節
説教者 : 北川善也牧師

 パウロは今日の聖書箇所を、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(1節)という言葉で始めている。ここで「罪」と訳されているギリシャ語「ハマルティア」は、的に向かって射た矢が逸れてしまったという時の「逸れる」が元来の意味だ。また、「過ち」と訳されているギリシャ語「パラプトーマ」は、道を「踏み外す」とか崖から「転落する」というのが原義だ。つまり、「罪」とは本当に狙わねばならない的を逸らして的外れに生きること、「過ち」とは人生の道を踏み外し、歩むべき正しい道から転落してしまうことを言っているのだ。

 「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(2-3節)。我々の人生は、確かにいつでも自分を喜ばせることばかり考え、自己中心的な生き方を貫こうとする「罪」と「過ち」の繰り返しだ。しかも、それは我々が自分の力で正そうとしても簡単に正せるような問題ではない。なぜなら、我々には絶えずサタンが近づき、我々が道を踏み外すよう仕組んでいるからだ。

 そんな我々に驚くべき出来事がもたらされた。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(4-6節)。これほどまでに大いなる恵みがどうして人間に与えられるのか。我々が恵みを受けるにふさわしい行いをして神による高評価を獲得したからだろうか。

 神の憐れみによってもたらされる赦しの出来事だけが、神と人間を本来あるべき対話関係に回復させられる。しかし、人間の力でそれを獲得することは出来ない。なぜなら、罪深い人間の行いによって神が満足されることなどあり得ないからだ。罪の赦しは、神の一方的な恵みに他ならない。そして、我々は神が与えてくださるその恵みをただ受け取るだけの存在だ。

 我々が救いを求めてどんな業を行ったとしても、それを獲得するための働きにはなり得ないが、我々が何かを行う以前に、神はいつでも愛をもって我々の傍らに立っていてくださる。そして、我々がそのような神の愛に気付かされ、神との正しい関係を回復したならば、神の愛がいかに豊かで尽きないものであるかに驚かされるばかりとなる。神の愛は、いつでも我々のすぐ近くにあるのだ。

 我々には何のいさおしもないにかかわらず、神は一方的にこのように豊かな恵みを注いでいてくださる。だから、我々はこの何ものにも代えがたい神の大いなる恵みの御業に絶えず感謝しなければならない。不完全な存在である我々がどんなに頑張ってみても神を満足させることは出来ないが、それでも我々は自分に与えられた人生において神の愛を受けるにふさわしい生活を守る努力をするべきだ。我々の良い行いが救いに直接結びつくわけではないが、救われた喜びによって我々の中から何も生まれてこないとすれば何かが間違っていると言わざるを得ない。

 我々は、誰一人として漏れることなく神の愛に与っている。そして、神は我々がその愛に応えて生きることを何よりも喜んでくださる。だから、我々は神の御一人子、イエス・キリストによって死から命へと救い出された喜びをもって礼拝を献げ、絶えずその感謝を神に表しつつ共に歩み続けたい。

2012年1月15日 オール洛北礼拝(降誕節第4主日)

説教:「見よ、神のこひつじだ」
聖書朗読:ヨハネ福音書1章35〜42節
説教者 : 北川善也牧師

 クリスマスにこの世に来られたイエスさまは、御自分がすべての人の救い主であることをみんなに知らせようとしましたが、自分一人でそれをしようとはなさいませんでした。イエスさまは神さまだから、本当は何でもできるのです。それなのにイエスさまは、神さまの力で何でもしてしまうのではなく、わたしたち人間の力を用いようとされました。誰かが、自分の信じている神さまのことを他の誰かに伝えることを「伝道」と言います。イエスさまは、わたしたちに伝道しなさいと言われました。それは、イエスさまを信じる人たちを伝道によって増やしていくのが神さまの御計画だからです。

 ヨハネは、イエスさまのことを知らない人たちに、「見よ、神の小羊だ」と言って紹介していました。ヨハネは、「見なさい、この御方こそ神の御子、救い主イエスさまです」と言って伝道していたのです。この伝道によってイエスさまを信じた人の中にペトロの兄弟アンデレがいました。

 アンデレは、すぐにガリラヤ湖で漁師をしている兄弟ペトロのところに行き、救い主に出会ったことを伝えました。そして、ペトロをイエスさまに会わせるため連れて行くと、ペトロもイエスさまを信じるようになったのです。

 漁師のペトロは、魚のことや舟の漕ぎ方はよく知っていましたが、それ以外のことは何も知りませんでした。でも、イエスさまは、なぜかペトロを弟子に選び、こう言われました。「あなたはペトロという名前だが、『岩』と呼ぶことにする」。この言葉の意味は、その時にはペトロ本人にも他の誰にもわかりませんでした。

 ペトロがイエスさまの12人の弟子の一人に選ばれ、いつもイエスさまと一緒に過ごすようになったある時、こんなことがありました。イエスさまがみんなの前で、「わたしはこれから十字架にかかって死ぬでしょう。でも、死んでから三日目に復活するでしょう」と言われたのです。突然こんな話を聞いたみんなはびっくりしてしまいました。ペトロは、イエスさまをみんなの見えないところに引っ張っていき、「イエスさま、そんなこと言われたら困ります」と言いました。すると、逆にペトロはイエスさまから、「サタン退け」と言われてしまうのです。ペトロは、どうしてこんなふうに叱られなければならなかったのでしょうか。

 イエスさまは、すべての人を救うという約束を確かなこととするため、十字架にかかってくださいました。でも、イエスさまは、確かに十字架にかかって死なれましたが、三日目に復活し、もう一度弟子たちの前に現れました。

 復活されたイエスさまは、40日間弟子たちと一緒に過ごされましたが、その後、天に昇られ見えなくなってしまいました。弟子たちは不安になり、「イエスさま、戻ってきてください」とお祈りしました。すると、そんな弟子たちのところにイエスさまが聖霊を送り、元気に立ち上がって「伝道者」になる力を与えられたのです。

 こうしてペトロは、最初の教会を建て、その後にも次々と教会を建てていきました。これが、イエスさまの言われた「あなたはペトロという名前だが、『岩』と呼ぶことにする」という言葉の意味でした。つまり、イエスさまは、ペトロに「わたしはあなたに教会の土台となる『岩』の働きをさせますよ」と言っておられたのです。

 イエスさまは、「すべての人をわたしの弟子にしなさい」と言われました。すべての人がイエスさまを信じるようになるのが、神さまの御計画なのです。そして、そのすばらしい御計画のために、神さまはわたしたちを用いようとしておられるのです。神さまは、そのようにしてすべての人を神さまとつながらせ、救いの約束を成し遂げてくださいます。

2012年1月22日 降誕節第5主日

説教:「宴席の尽きない恵み」
聖書朗読:ヨハネ福音書2章1〜11節節
説教者 : 北川善也牧師

 ヨハネ福音書は、今日与えられた聖書箇所に記された奇跡の出来事を行った後に主イエスの伝道が開始されたと告げている。それゆえ、この婚礼の場において行われた奇跡には、何か大切な意味が隠されているように思われる。

 ところが、一読したところでは、この奇跡の出来事は、主イエスがこれから伝道を開始されることを象徴するようなエピソードというよりも、人々の日常生活の中で起こった大変印象的な出来事とも言うべきものであり、なおかつ、この奇跡は、主イエスの母マリアによる、なかば強引とも言える願いに対する主イエスの粋な計らいであるかのような印象さえ受ける。

 しかしながら、我々がここで注意して目を向けなければならないのは、単に水をワインに変えることができる主イエスの驚くべき力であったり、人間の願いはどんなことでも聞き届けてくださる主イエスの優しさなどではない。

 冒頭で述べたように、今日読まれた「カナの婚礼」の奇跡は、主イエスがこれからいよいよ伝道活動を開始なさろうという、言わばスタート地点であるにもかかわらず、その舞台となっている婚礼そのものは終わり間近である。出席していた人々は、飲み物もなくなった宴会に終わりの潮時を感じて、帰り支度を始めていたかも知れない。しかし、祝宴が間もなく終わろうとしているそんな時に、本来なら一番初めの乾杯時に出されるべき最も良質のワインが主イエスによって提供されるのだ。

 それがどんなに意外な出来事であったかが、世話役の人が花婿に対して発した言葉に象徴的に表れている。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10節)。

 主イエスは、すべてが終わろうとしている時に、何を始めようとされたのだろうか。主イエスが母マリアの願いに対して答えられた冒頭の言葉に目を留めたい。主イエスは、「わたしの時はまだ来ていません」(4節)と言われた。しかし、マリアはその言葉が聞こえなかったかのように召し使いたちとの対話に移っている。彼女には、その言葉の意味を全く理解することができなかったのだ。

 だが、主イエスが語られたこの言葉は、「カナの婚礼」の出来事の中心に置かれるべき重要な意味を持っていた。この言葉を中心に据えてこの聖書箇所を読むならば、主イエスにとっての「祝宴」は、終わろうとしているのではなく、反対に今まさに始まろうとしているということがわかる。

 主イエスの本当の力について、母マリアは十分に理解しているとは言えなかった。また、召し使いたちも自分たちの目の前で起こった出来事であるにもかかわらず、奇跡に接しても主イエスがどのような御方であるかを正しく受けとめることができなかった。まして、誰一人として主イエスが言われた「時」とはいったい何のことなのか全くわからなかったのだ。

 人間には、主イエスを正しく理解することができない。それにもかかわらず、主イエスの伝道活動は、主イエス御自身が御言葉を語り、それを聴く者が主イエスを信じ、従うことによって進められてゆく。人々が、一見無意味に思えるような主イエスの命令に従うところで奇跡が起こり、伝道が開始された。我々にとって無意味・無駄と思えるような主イエスの御言葉に従う時、つまり我々が人間の尺度で測った正しさから解放される時、我々はいのちの御言葉を本当の意味で聞き、本当の意味で体験することができるようになる。

 主イエスは、御言葉による伝道によって神の国の祝宴を開始された。そして、我々は、この主イエスの御業に連なることによって神の国の豊かな恵みに与るのだ。

2012年1月29日 降誕節第6主日

説教:「まことの礼拝をささげる場」
聖書朗読:ヨハネ福音書2章13〜22節
説教者 : 北川善也牧師

 ユダヤには年に三回、ほとんどの国民がエルサレム神殿に集まる大々的祭事があり、過越祭はその一つだった。そこでは、いけにえの動物を神に献げる習わしになっていたので、人々は各自で用意した動物を神殿境内に持ち運んだ。この行為は、エルサレム近郊に住む者にとっては簡単だったが、遠路はるばるやって来る巡礼者には容易ではなかった。そこで境内では、巡礼者がわざわざ遠くから持ち運ばなくても現地で調達できるよう動物が販売されていたのだ。

 また当時は、いけにえの代わりに献金も認められていたが、その場合は神殿祭司が指定した貨幣しか献げることを許されていなかった。しかし、当時の貨幣は同国内と言えども統一されていなかったから、巡礼者の中には献金として認められていない貨幣しか持ち合わせのない者もいたのだ。そのような人たちにとって神殿に両替商がいることは大変便利だった。

 だが、やがてこのような商売人たちは巡礼者を食い物にするようになり、弱い立場の人々は異議を唱えることも出来ず、次第にあこぎな商売が常態化していった。

 主イエスは、そんな神殿の状況を見て深い嘆きを覚えられた。そして、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに、『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」と言われた(15-16節)。

 ここには、柔和で謙遜なイメージの主イエスとはいささか異なる姿が描かれている。一見、主イエスがいきり立って大暴れしているように思うかも知れないが、注意して読むと主イエスが鞭で追い払われたのは商売人や両替商ではなく、いけにえとして献げるための牛や羊だったことに気付く。確かに、商売道具をひっくり返すような激しい行動は取られたが、主イエスは決して人間に対して直接暴力を振るわれたわけではない。

 いずれにせよ、このようにして境内から商売人を追い出しても、それは一時的なことであり、彼らはまた戻ってきて同じことを繰り返すだろう。主イエスの行動は、根本的な問題解決にはならない。もちろんこんな仕方で人間の思いを変えられないことぐらい、主イエスは百も承知だったはずだ。ということは、主イエスの行動は、何かを象徴的に示そうとするためのものだったのではないか。

 主イエスは、神殿が「父の家」であると言われたが、まことの神殿はやがて主イエス御自身の体になるということを行動で示されたのだ。つまり、そこではもういけにえの動物は一切必要なくなり、主イエス御自身がまことの献げ物になってくださるということだ。

 ここに、まことの神殿は十字架と復活によって完成する「わたしの体」であると宣言される御方がいる。この神殿では、ただ「霊と真理をもって」礼拝することだけが求められる。すべての人間のため十字架におかかりになったこの御方は死から復活された。「三日で建て直される神殿」とは、主イエス御自身のことだったのだ。

 しかし、我々は注意しなければならない。常に主イエスと行動を共にし、最も間近で教えを受けたはずの弟子たちさえ、主イエスがどのような御方であり、語られた御言葉がどういう意味を持つかを正しく理解するためには、復活を待たねばならなかった。つまり、復活後に起こった聖霊降臨の出来事によって、初めて弟子たちの心に信仰の火がともされたのだ。聖霊の導きなしに主イエスに対する真の信仰は誰も持ち得ない。

 すべての人の信仰を燃え立たせ、救いへと導く神の御計画を成し遂げるため、主イエスは御自分を過越祭で献げられる「永遠の神の小羊」としてくださったのだ。

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