日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

12年2月のバックナンバーです。

2012年2月5日 降誕節第7主日

説教:「神はわたしを一人にしてはおかれない」
聖書朗読:ヨハネ福音書8章21〜30節
説教者 : 北川善也牧師

 多くの人は、自分に都合のよい神を作り上げ、この地上に絶対確かなものなど存在しないのに、それを手に入れようと躍起になる。偶像のようなわかりやすいものばかりでなく、お金や地位などこの世において高い価値を持つと考えられているものがその対象となる。「下のもの」に価値を見出そうとする人は、この世のもので満足してしまい、上から来られた救い主を信じる信仰に至らない。主イエスは、そのような人間に対して、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」(21節)と言われた。

 しかし、主に従って生きる人間はそうではない。地上の真只中で信仰をもって生きる。それは、主イエスを信じることにより「下のものに属する」ことから救い出され、「上のものに属する立場のもの」とされているからだ。信仰者は、「下のもの」から逃げ出さず、それとの関わりの中で生きる。それが信仰者に課せられた務めだからだ。信仰者は、神なき世に積極的に出ていき、伝道しながら生きることを求められている。

 キリストに従って生きる者がそのような力を持ち得るのは、「見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ」(Uコリ4:18)信仰によって支えられているからだ。本日読まれた聖書の舞台は、エルサレム神殿の境内だ。ヘロデ王によって再建・修復されたこの神殿に訪れる誰もがその豪華さに感嘆した。当時のユダヤ人は、この神殿こそ地上に存在するものの中で何より「確かなもの」と考えていたに違いない。そして、神殿で神と向き合い礼拝を献げるのではなく、建物としての神殿を見上げることで安心するようになっていたかも知れない。しかし、この神殿を指して主イエスは、「はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マタ24:2)と言われた。

 この時、主イエスは「見える確かさは崩れ落ちる」と言われたのだ。反対に「神の国の確かさ」と御自分の「神の御子としての確かさ」を強調された。主イエスが話されたのは、徹頭徹尾そのことだった。だが、最も身近にいた弟子たちを含め、誰一人としてその言葉の意味を正しく理解出来なかった。「それは初めから話しているではないか。……わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」(25-26節)。この言葉は、我々にも鋭く突きつけられている。「あなたは何を確かなものとしているか」と。

 我々は、主イエスが御自分の御体であると言われた教会に集められている。教会は、建物のことを言う場合には見える存在だが、主の御体と言った場合には見えない存在だ。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)。

 その教会で毎週日曜日、我々は主が復活された朝を覚えて礼拝を献げる。十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえられた主イエスが御自分の御体をもって示してくださった何よりも確かな永遠の命を信じ、十字架の贖いによって確かにこの私の罪が赦されたことを信じて礼拝を献げる。

 その礼拝は、常に聖餐卓を囲んで献げられる。礼拝の根拠は、聖餐式において確かにされる主の十字架の出来事に他ならない。聖餐において、我々は「見えない」御方の姿を見、神が我々と共にいてくださる、インマヌエルの出来事を体験する。この「神が共にいてくださる」という体験の確かさだけが、我々にとって何よりも大切なまことの「確かさ」に他ならない。我々は、この確かさを何よりも大切にして生きてゆきたい。

2012年2月12日 降誕節第8主日

説教:「主イエスの御言葉に従って歩む」
聖書朗読:ヨハネ福音書5章1〜18節
説教者 : 北川善也牧師

 ベトザタの池には5つの回廊という、「モーセ五書」すなわち完全な律法を連想させる「縁起物」があり、さらに池の水が動いた時真っ先に池に入ると病気がよくなるという伝承があった。そこで、ここは医療に見放された人々もあるいはいやされるかも知れないと最後の望みを託す場所となり、大勢の病人が集まって来ていた。

 そこに主イエスが来られ、その中の一人をご覧になった。彼は、38年も病気で苦しんでいた。主は「その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」(6節)。この問いは、彼の急所をえぐったことだろう。いやされたい一心で当時考え得る限りの医療を試した彼は、それに伴い大金を注ぎ込んだはずだ。しかし、何をやっても成果は出ず、心身共にすり切れた挙句、そこに横たわるしかなかった彼の心は絶望感に満ちていたのではないか。

 「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)という彼の言葉には、いやしだけでなく隣人からも見放された絶望感が滲み出ている。

 主イエスが見出されたのはそういう人の姿だった。主は、そのような彼の心の内を見抜いて「良くなりたいか」と問われたのだ。それゆえ、この問いによって、あきらめきっていた彼の心に救いを求める熱い思いが取り戻された。

 それに続いて主イエスは、これまで38年間彼を縛りつけていた病床を、今日からは自分自身で担って歩けと命じられた。救いとは現実からの逃避ではなく、現実との妥協やあきらめでもない。自分を奴隷のように捕らえていた現実を、逆に担って歩き出すことを可能とするのが神の救いなのだ。

 人間を滅ぼすような現実を担って歩むこと、それはまさに主イエスが担われた十字架の姿に他ならない。主の十字架によって、神と離反して生きる人間の罪の赦しが成し遂げられ、また主が十字架の死に勝利されることによって初めてすべての人間の救いが完成した。だからこそ、主の御言葉には、大いなる力が溢れている。

 だが、この救いの御業は、いやされた本人を含め誰からも正しく理解されなかった。「その日は安息日であった」(9節b)。安息日の規定は律法によって微細に定められており、「床を担ぐ」行為も禁じられていた。それは、荷物を運ぶ労働行為と見なされたからだ。

 彼は、ユダヤ人たちから「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」(12節)と尋ねられたが、この箇所において「床を担ぐ」という言葉が三度繰り返されている(10、11、12節)。同じ言葉を三度繰り返すのは、ユダヤ社会で重要なことを強調する際の決まり事だ。この場合、本人たちは無意識のうちに繰り返したのだが、それによって彼ら自身が病人が床を担いで歩き出した救いの出来事の重要さを強調している。

 「しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった」(13節)。彼は、病がいやされたことで我を忘れ、その御業を行われたのがいかなる御方か、またこの御方による救いの出来事がどんな意味を持つかというところまで至らなかった。

 救いは、神の御言葉によって成し遂げられる。主イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17節)と言われた。創造の初めに「光あれ」と言われた主が安息日の主となってくださった。創造主は、まどろむことなく救いの御業を行ってくださる。主は、この私にその救いをもたらしてくださった。その確信を与えられ、最後までそれを貫き通すことが出来るならばいかに幸いなことだろう。

2012年2月19日 降誕節第9主日

説教:「主イエスの御業に参与する」
聖書朗読:ヨハネ福音書6章1〜15節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスは、エルサレムの都ではなく、ガリラヤ地方、すなわち異邦人として蔑まれていた人々の住む「暗闇の地」を主たる活動拠点とされた。主は、100匹の羊の群れから迷い出た1匹を、99匹を残してまでも捜し求められる。貧しく小さな魂の叫びを聞き上げ、救いの御手を差し伸べられる。

 主は今回、湖を渡ってさらなる辺境の地に赴かれた。大勢の群衆が主に従って来ていた。彼らは、主がそれまでに行われた数々の奇跡を目撃し、自分もその御業に与りたいと願っていたのだ。

 だが、彼らは目に見える主の御業に惹かれて来たのであって、その本当の意味を知る者は、この時点ではまだ一人もいなかった。しかし、いずれにせよ彼らは救いに飢え渇いていたからこそ、こんな辺境の地まで、しかも主がどこへ向かおうとしておられるかも知らぬまま黙って従って来たのだ。

 主は山に登り、御自分に従って来た群衆をご覧になった。彼らは、猛烈な飢えと疲労に襲われており、もしこのまま彼らを解散させたら途中で行き倒れる者が続出することが予想される状況だった。

 主による救いの御業は、人間生活とかけ離れたところではなく、極めて具体的な人間の命の問題に目を向けて行われるということが示されようとしていた。飢えた群衆にとってパンに与ることは、この時最も重要な事柄だったのだ。

 主は行動を開始された。男だけで五千人に及ぶ群衆に草の上に腰を下ろすよう命じられると、主はパンを手に取り、感謝の祈りを献げた後、人々に分け与えられた。魚も同様にして分け与え、すべての人々の空腹は満たされた。わずか大麦のパン五つと魚二匹しかなかったのに、人間の理解を超えた神の御業によって、群衆は飽き足りるほど食べることが出来た。

 彼らはこの後、主の死と復活の出来事を目撃することによって、信仰の目を開かれ、この時行われたパンの奇跡の本当の意味を知ることになる。彼らはその時、あの山上の忘れがたい光景を通して、神の国において連なるべき天の祝宴の様子を見出すのだ。

 残ったパン屑で12の籠が溢れたというが、主はそれほどの溢れる愛を込め一人一人にパンを分け与えられた。この「命のパン」は、やがて主が自ら肉を裂き、血を流しつつ、十字架におかかりになることにより、信じる者一人一人に与えられた命に他ならなかった。

 ところが、パンに与った群衆は、主イエスを力ある指導者と見て、自分たちの王に仕立て上げようとする。これは、彼らが主を支配し、操縦しようとする魂胆の表れだった。神は、真の救いを与えるため、人間に無条件の信頼と服従を求められる。それに反して人間は、自分の幸福を達成するためには神さえ支配しようとする。これこそが人間の罪の恐ろしい実体だ。

 主は、一人で山に退かれ、五千人の給食の奇跡の真の意味は誰にも知られることのないまま、罪に満ちた人間だけが取り残され、暗闇が彼らを包み込んでいった。罪は、人間が目先の幸せや物質的な満足を追求することによって始まる。この先の箇所で主が次のように語っておられる通りだ。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)。

 しかし、主イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(35節)とも言われた。主が与えてくださる命のパンとは、主御自身であるということを心に刻みつけねばならない。そして、主の十字架の死と復活のゆえに、我々が真の命につながれていることを覚え、この信仰に固く立ちつつ最後まで歩み通したい。

2012年2月26日 受難節第1主日

説教:「主はわたしたちのうちにおられる」
聖書朗読:出エジプト記17章1〜7節
説教者 : 北川善也牧師

 出エジプト記は、BC1300年頃、エジプトの奴隷だったイスラエルの民がモーセによって導き出された出来事を記す。これは、神から与えられた恵みに満ちた出来事だったはずだが、救われて約束の地へ向かい荒れ野の旅を始めた人々はすぐに不平不満を並べ出す。肉を恋しがり、水を求める彼らの愚痴は、「こんなことなら救われない方がましだった」という思いにまで進み、やがて彼らは神の約束に信頼できなくなって罪を剥き出しにした争いを開始する。

 その挙げ句、これまで主の戒めを守ってきた彼らの口から、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」(7節)という神の存在を疑問視する言葉さえ飛び出す。人間は、自分の思いを果たすためなら、自らを生かし導いておられる神の存在すら否定しようとする。そればかりかマリオネットのような神を作り出して、思うままに神を操ろうとさえする。

 しかし、このような民に対して神は救いの御業を示される。神はモーセに、「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」(6節)と告げ、その通りに彼が杖で岩を打つと水が迸り出た。

 神は、御自分から離れ去ろうとする人間をどこまでも追い求め、真の救いに導こうとしてくださる。人間は、本来神と向き合って生きるべき存在であるにもかかわらず、罪のゆえ神に背を向けて生きようとする。人間は、たとえこの世でどんなに満ち足りていたとしても、神から離れて生きている限り暗闇の中にあり、飢え渇きを逃れることはできない。自分の力で神に立ち帰ることができない人間に神御自ら近づき、救いの御手を差し伸べてくださるのだ。

 我々は、「主は我々の間におられるのか」という旧約の人々の問いに対してどう向き合うべきか。新約のマタイ福音書は、クリスマスの出来事を次のように記す。マリアの婚約者ヨセフは、彼女の婚前の妊娠を知った時、悩み苦しみ縁を切ろうとするが、その時主の天使が現れて次のように告げた。

 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1:20-21)。

 そして、マタイはこのことが起こったのは、主が旧約の預言者を通して言われていたことが実現するためだったと記し、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(イザヤ7:14)という御言葉をもってその証拠を提示する。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味だ。

 主イエスは「インマヌエル」の出来事を成し遂げるため、やがて苦難の道を進み、十字架に向かって行かれた。十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活された主イエスは、再び弟子たちの前に姿を現し、次のように告げられた。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18-20)。

 主イエスは、このようにして「インマヌエル」の出来事を完成された。イスラエルの民が水を巡って争い、その挙句「主は我々の間におられるのか」と発した問いに現れているように、人間はどこまでも自己中心的な罪を抱えている。しかし、そんな人間の罪を十字架によって贖い、いつも共にいるとの御言葉を与えてくださるのが主イエスだ。この御方が「渇きたる者よ、わが与うる いのちの清水を 来り飲め」(讃238番2節)と我々を値なしに招いてくださる。

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