先週の説教 -バックナンバー-
12年3月のバックナンバーです。
12年3月のバックナンバーです。
説教:「光の子として歩みなさい」
聖書朗読:エフェソ書5章6〜20節
説教者 : 北川善也牧師
ここでパウロは、神に対して反逆することを人生の目標としているような人間を指して、「不従順な者たち」と呼んでいる(6節)。神への反逆とは、神と向き合うことを拒否し、自己中心的に生きることだ。それは、せっかく届いている神からの招待状を自ら破棄するような生き方に他ならない。
パウロが自らの生活規準を「主イエス」に置いていたことは、彼の書簡から明確にわかる。しかし、そんな彼にとっても「不従順な者たち」の生き方は他人事ではなかった。彼は、「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者」(5:5)の行いが、自分と無関係だと考えているのではなく、これらがかつては彼自身の生き方に他ならなかったという事実を踏まえて語っているのだ。
パウロは、主との出会いを経験するまで、光を持つどころかそれを他の人々から奪い取ることによって満足感を得ていた。彼は闇の人だったが、あのダマスコ途上の出来事(使徒9:1以下参照)によって主との出会いを経験し、回心を与えられ、暗闇を広げようとする迫害者から、自分が受けた光へと人々を導く伝道者に造りかえられたのだ。それは彼にとって、闇が終わり光がそれに取って代わるという一大転換の出来事だった。
パウロの身に起こったように、キリストの光はすべての人間に対して働き、その中に多くの実を育て成熟させる力を持っている。なぜならキリストの光には新しい生命を与える力があるからだ。それが十字架の力であり、復活の力だ。この光によってのみ人間は神の御旨を悟り、それを受け入れることが出来るようになる。
こうして信仰者は、光を受けると死んでしまうような暗闇の世界から完全に切り離されていく。日陰で育った業は実を結ばないので、闇から収穫する者は一人もいない。主が語られたたとえ話を思い起こす。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍……にもなった」(マタイ13:3b-9)。
主によってとらえられた人間は、光の子として造りかえられ、その歩みによって自ら闇を照らす存在となることができる。だが、光の子とされることは、単純ではない。それは、キリストの光によって自分自身の罪に満ちた内面が照らし出され、明らかにされるということだ。そのようにして、鏡に映された自分の罪深さを直視し、悔い改めに至った時に初めて、人間は光の子としての神の賜物を受けとることができるのだ。
キリストから輝き出で、人間の罪を示し、人間を罪から引き離す光、すなわち我々を神と一つに結ぶこの光なくして誰も目覚めることはできない。この光によって悔い改めが起こり、神の御前に進み出る思いが与えられる。
「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(18b-20節)。礼拝において献げられる賛美は、光の子とされた喜びを主に向かって歌う行為に他ならない。
教会は、父なる神に向かい、キリストの御名によって感謝する。主の御名において、我々は自分たちの身に起こるすべてのことを神が恵みの御業としてくださるという確信を与えられ、すべてに感謝することが出来るようになる。
説教:「この方こそ、わたしたちの神です」
聖書朗読:ヨシュア記24章14〜24節
説教者 : 北川善也牧師
ヨシュア記最終章に記されているのは、ヨシュアがこれまでのイスラエルの歩みを振り返りつつ民の信仰復興を促すように語った言葉と、それに対する民の応答だ。
ヨシュアは、イスラエルをエジプトの奴隷から導き出した偉大な指導者モーセの従者の一人に過ぎなかった。だが、約束の地カナンを目前にしてモーセの命が尽きようとする時、民を最後まで導く後継者としてヨシュアが指名されたのだ。当時彼はまだ若者で、モーセに従えば何とかなるという思いでいたから、突然そんな大役が降りかかってきたことに心底おののいた。しかし、神はそんなヨシュアに対して、「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」(1:9)と告げ、立ち上がらせた。
モーセからバトンタッチしたヨシュアは、奇跡の御業により激流のヨルダン川を渡ってカナンに入り、先住民との戦いにもことごとく勝利し、すべてにおいて神の恵みのうちに歩むことが出来た。ヨシュアは今、その仕上げとして、イスラエル12部族それぞれに住まうべき土地を分け与え、その役割を果たし終えようとしていた。
だが、ヨシュアの役割はそれだけではなかった。彼に託された最大の使命は、何よりイスラエル全体が主なる神への信仰を守り通すよう教え導くことだった。だから、彼はここでイスラエルの救いの歴史を語り直し、そのすべてが神の御業であったことにもう一度民の目を向けさせようとしたのだ。
イスラエルの民は、40年にわたって荒れ野を彷徨する間に主なる神を離れ、異教の神々に近づいた。ヨシュアは、彼らに偶像を取り除き、主なる神に立ち帰るよう命じた。そして、彼自身は「わたしとわたしの家は主に仕えます」との信仰を明確に言い表した。
ヨシュアは民に、「もし主に仕えたくないというならば、……仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」(15節)と告げた。それでも民は、主なる神に対する信仰を明確に言い表した。しかし、ヨシュアは「あなたたちは主に仕えることができないであろう」(19節)と冷徹に告げる。
主なる神は、人間が自由に選び、好きな時に仕えることが出来る、人間の掌中に収まるような御方ではない。神は、人間が選択する存在ではなく、それゆえ人間の二心など受け入れられない御方だ。我々は、自分に与えられているすべてがこの神の恵みによるものであることを忘れてはならない。
神は、そのような信仰を求め、もしそうしないなら「一転して災いをくだし、あなたたちを滅ぼし尽くす」(19節)と言われるまで人間に熱情を向けられる。それは、神が人間に献身の生き方を求めておられるからに他ならない。
献身とは、神から受けたすべてを神へお返しすることだ。ヨシュアは、イスラエルの民の献身は「完全」でなければならないと警告した。彼は、神に完全に仕えるためには、偶像や罪に汚れた生活から離れる必要があることを明示した上で、改めて民を信仰告白へと導き、彼ら自身をその証人にさせた。神が求められるのは、口先だけではなく、心の最も奥深くからなされる信仰告白に他ならない。
だから、我々は信仰告白する時、いつも心から「わたしたちの神、主にわたしたちは仕え、その声に聞き従います」(24節)と言い表せるよう、祈り求めねばならない。主は、我々が祈り求めるものを必ず与えてくださる。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7:7-8)。
説教:「わたしたちに油を注いでくださったのは、神です」
聖書朗読:Uコリント書1章7〜12節
説教者 : 北川善也牧師
コリント教会は、パウロの伝道によって立てられた。伝道者の働きによって教会が立つということは、その人が神の恵みに忠実に応えたことの印に他ならない。その人がどんなに優れていたとしても、神を思わず自分のために働いていたとしたら、主の御体である教会は決して立たない。
教会は、決して罪のない理想的な人間の集まるところではない。主イエスが、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2:17)と言われたように、教会はいやされねばならない者たちが集う場所だ。
そういう者たちは、何によっていやされるのか。それは、無条件に神の恵みを受けていることに気付かされることによってであり、逆にそれを忘れた時、信仰は崩れ、教会は混乱に陥る。パウロは、混乱に陥りつつあるコリント教会が「もう一度恵みを受け」(1:15)て固く立つようになるため何とかして現地を訪ねたいと強く願った。
だが教会側は、自分たちがいつまでもパウロの手ほどきを受けねばならないような立場ではないと思うようになったためか、パウロの要望を拒絶した。そこで、パウロは、コリント訪問を断念せざるを得なくなってしまったのだ。
ところが、今度はその決断に対して別の批判が起こった。パウロがあんなにコリント訪問を希望しながらすぐに止めたのは、結局本気ではなかったからに違いないというような非難だったようだ。
それにしても、愛情を注いできた教会の人々から様々な中傷を浴びせられたパウロの心境はどんなだっただろうか。もう彼らとは一切関わりを持つまいと怒るのが普通だろう。しかし彼は、深い孤独と苦痛を経験させられたにもかかわらず、コリント教会との関係を断ち切ろうとはしなかった。
「神は真実な方です。だから、あなたがたに向けたわたしたちの言葉は、『然り』であると同時に『否』であるというものではありません」(1:18)。神の恵みとは、ある状況においては「然り」だが、他の状況において「否」となるようなものではない。たとえ人が幸福だろうと不幸だろうと、それは神によって備えられた状況なのだと彼は捉えている。「この方においては『然り』だけが実現したのです」(1:19)。それは、神が我々の状況がどのようであろうとも、「それでよい。わたしから離れずに生きよ」と言って全面的に肯定してくださるということだ。
我々の心は不安定で絶えず揺れている。それは、自分の正しさに確信が持てないからだ。自分がどんなに正しいと思っていても、他人に受け入れられないと我々はたちまち不安に陥る。そんな我々は、主によって「わたしがあなたの罪を赦したのだから、もう何も恐れなくてよい。わたしがあなたの神となり、あなたをわたしの民とするのだから、安心して生きよ」と究極的な肯定を与えられている。
この肯定は、主の十字架によって完成した。だから、十字架の出来事に触れた者は、自分の罪を直視し悔い改めに至る。それは、神が我々のすべてを認め、丸ごと受け入れてくださるからこそ出来ることだ。パウロが、コリント教会の人々の中傷に耐えられたのは、主の十字架以外に目を向けなかったからだ。彼は、自分を正当化しようとしたのではなく、罪人である自分を憐れんで受け入れてくださる主にのみ依り頼んだのだ。
人間の魂は、自分という存在を全面的に受け入れられるまで安定することが出来ない。そんな我々は、神が御子の十字架において我々の罪を赦し、すべてを受け入れてくださったことを知ったなら、これ以上ない安定を獲得し、平安のうちを歩むことが出来る。
説教:「小さな一粒が生む豊かな命」
聖書朗読:ヨハネ福音書12章20〜32節a
説教者 : 北川善也牧師
過越祭の巡礼者の中に何人かのギリシア人がいた。彼らは、弟子のフィリポに主イエスと会わせてほしいと懇願した。ギリシア人は、当時のユダヤ社会における異邦人の代表格だ。そんな彼らが、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」(21節)と訴えているのは驚くべき姿だと言える。
なぜ彼らは主イエスとの対面をそのように求めたのか。彼らは、主がこれまで方々でなさった奇跡の御業を何らかの形で知った。そして、そのような力を持った御方がこの世の王となり、自分たちを導いてくれることを望んだのだ。
彼らがそのように考えた主イエスとは、実際どんな御方だったか。主はこの先、民衆を混乱に陥れた疑いで告発され、裁判を受ける。人々は、力ある王を戴くことを望んでいたが、主がそのような御方でないと見切るや、掌を返すようにして十字架へと追いやる。
この世の常識では、主イエスが受けられた苦難や十字架は、とても輝かしい栄光と見ることはできない。我々の感覚では、コンクールでの一位獲得、試合での勝利、商売での成功のようなものが栄光だ。だが聖書は、そんな光り輝く世界ではなく、暗闇を担いつつ苦しみもがき、しかしその暗闇の中で輝く光こそ主の栄光だと語る。
「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)。
もし一粒の麦が地に蒔かれねば、つまり十字架の出来事がなければ、すべての人間の救いは実現しなかった。この世に蒔かれた一粒の麦は確かに死んだが、その死によって命の実りが成就した。
我々の命は、多くの犠牲の上に成り立っている。我々は、多くの人々による有形無形の様々な支えがなければ生きられない存在であり、人間一人の命には、莫大なコストがかかっている。その中でも我々一人一人のために払われた最大のコストは、主イエスの十字架における犠牲に他ならない。
我々の自己中心的な生き方、神から離反する心、そうした罪を担うため、主は御自分の血を十字架上で流してくださった。それは、神の御子の命によって支払われたあまりにも大きな犠牲だった。
「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。主は、ゲツセマネの園でこう祈られた。
主イエスは、たった一人で苦しみと闘い(27節)、しかしその孤独の中にあって父なる神の御栄光が現されることをひたすら願い(28節)、その御業を御自分の十字架によって成し遂げられた。
主は言われた。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25節)。「自分の命」とは、人間生来の罪に染まった状態のことで、そういう命を愛するとは、罪の生活を無反省に続けていくこと。一方、それを憎むとは、その人が自分の利益よりも神に従う生活を大切にする決断を与えられるという意味だ。
それは、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」(26節)というキリストの僕としての生き方に他ならない。
主は、光の中を歩むことと暗闇に留まることのどちらが人生における最良の道かという問いを我々に投げかけておられる。そして主は、「光のあるうちに、光を信じなさい」(36節)と言って、新しい生き方を選ぶよう、すなわち暗闇を抜け出し、光の中を歩むため信仰に生きるよう促しておられる。