日本基督教団 洛北教会

2011年 教会標語『常に主を覚えてあなたの道を歩け。』(箴言3章6節)

先週の説教 -バックナンバー-

12年4月のバックナンバーです。

2012年4月1日 棕櫚の主日

説教:「主イエスの時が到来した」
聖書朗読:ゼカリヤ書9章9〜10節
     ヨハネ福音書12章12〜19節
説教者 : 北川善也牧師

 聖書は、主イエスの到来を知った群衆が棕櫚の枝を打ち振って出迎えた様子を伝えている。棕櫚の枝は、ユダヤでは昔から勝利のしるしとして用いられた小道具だった。彼らはこの時、勇士の凱旋を迎えるように主を出迎えたのだ。

 しかし、彼らのこのような歓待に対して、「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった」(14節)。ろばは弱さ、低さの象徴だ。ヨハネ福音書は、これが旧約の預言を成就する行為だと告げる。

 「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる」(ゼカリヤ9:9以下)。

 ここに示されているのは、勇猛果敢に戦う英雄としての王ではなく、すべての武器を棄てて争いを終結させる平和の王の姿だ。主は、彼らが期待したようにイスラエルを支配者の手から解放するために来られたわけではなかった。主は、確かに人々を救うためこの世に来られたが、その救いとはこの御方が徹底的に謙ることによって成し遂げられる出来事だったのだ。

 「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである」(17-18節)。

 当時イスラエルはローマ帝国の属国であり、人々は不自由な生活を強いられていた。彼らが「ホサナ」と叫んで主を出迎えたのは、この御方がラザロをよみがえらせた驚くべき力をもってローマを退け、イスラエルをダビデ・ソロモン時代のような栄えある王国に戻してくれると期待したからだ。

 しかし、主がこの世に来られたのは、そのようにして人々を救うためではなかった。主は、すべての人々を本当の意味で解放するため、一人一人の重荷を根本的に取り去ってくださる。人間の自己中心的な思いや神なしでも生きられるという傲慢な思いを打ち砕き、神に立ち帰らせ、神との関係を修復してくださる。そしてそれは、神の御独り子がたったお一人で、すべての人間の罪もろとも十字架にかかって死んでくださることによって成し遂げられるのだ。

 この出来事がなければ、すべての人間の完全な救いは起こらなかった。だからこそ、十字架は我々すべての希望なのだ。十字架は、確かに血みどろの恐ろしい出来事だが、このようにして神の御子の清い血が流されねば我々の罪が拭い去られることはなかった。

 だが、この世はいつまでも暗闇に潜み続けようとする。慣れ親しんだ暗闇を離れ、目もくらむような光の前に出ることを嫌うからだ。だから、この世は光の源である主を消し去ろうとするのだ。

 けれども、神はこのような人間の否定的な思いさえも用いられた。人間がどうあろうとも、神は救いの約束を完成してくださる。神の約束が人間の力によって消し去られることなど決してない。

 「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか」(19節)。このファリサイ派の言葉が表しているように、全世界の人々がまことの光を求めて主の御後に従っていく幻が示されている。十字架におかかりになることによって輝き続ける主の光は誰も押しとどめることが出来ない。その光がすべての人間を生かし導くまことの命の源だからだ。

2012年4月8日 復活日(イースター)

説教:「あの方は復活なさったのだ」
聖書朗読:イザヤ書55章6〜11節
     マタイ福音書28章1〜10節
説教者 : 北川善也牧師

 主イエスの弟子たちは、「わたしは主を信じ、何があっても最後まで主に従う」と皆の前で信仰告白していた。その時の彼らは、嘘偽りなく真心から主に対してそういう思いを持っていたのだ。

 しかし、やがて主の予告通り、十字架の出来事が現実味を帯びてくると、彼らの信仰は揺らぎ始める。彼らは、主が驚くべき奇跡を行うのを見て主を信じた。しかし、そのような信仰は、それまで見ていたものが違う形で見えるようになってくると、途端に弱まり、しぼんでいってしまうものだ。

 弟子たちは、主が優れた指導力を発揮してこの世の王国を復権させてくれることを期待していた。だが、主は簡単に捕らえられ、鞭打たれて、十字架への道を進んでいかれた。すると、彼らの信仰は疑いに変わり、主から離れ去っていく。彼らは、自分たちの主がそんな惨めな死に方をすることなど到底受け入れられなかったのだ。

 主を最期まで見届けたのは弟子たちではなく、二人の婦人たちだった。彼女たちは、主の遺体が墓に葬られて三日目の明け方、墓に駆けつけた。その時、突然大きな地震が起こり、墓を蓋していた大きな石が脇へ転がり墓穴が開いた。そこに天使が現れ、「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(6節)と告げた。

 この出来事を目撃した番兵たちは恐怖のあまり凍りつくが、彼女たちは天使の言葉を聞いて恐れながらも大いに喜んだ。彼女たちは、死に対する恐れをはるかに上回る喜びの予感に満たされた。そして、その予感はすぐに現実のものとなる。彼女たちが、天使の言う通り、弟子たちにこの出来事を知らせるため走っていくと、その途上に主御自身が立っておられたのだ。

 主は、彼女たちに「おはよう」と言われた。これは、「安かれ」(文語訳)と訳されていた言葉だ。主は彼女たちに、「心から安心して喜びなさい」と告げられたのだ。

 それは、死に打ち勝ち、永遠の命によって立ち上がった御方だけが告げられる喜びに他ならない。天地創造の初め、神が「光あれ」と言われると暗闇を光が包み込んだように、全く新しい命の創造を神が成し遂げられたのだ。

 そのような力ある御方が彼女たちの前に立ち、「あなたたちは、もはや死を恐れず、永遠の命を受けて平安のうちを歩みなさい」と告げられた。その後で、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)と言われた。復活の主と出会い、死の恐怖から解放されて、永遠の命を生きる喜びに満たされた者は、その喜びを語る者に変えられていく。そして、その言葉を通して、さらに新しく主と出会う者が与えられるのだ。

 こうして、本当なら主に会わす顔もないような弟子たちを、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言って主が再び捕らえてくださった。そして、「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19)と命じられた通り、福音伝道者として立ち上がらせていただくのだ。

 このように、主は一人一人を捜し求め、出会いの時と場所を用意してくださる。主と出会った者が福音を宣べ伝える者として遣わされていく時、永遠の命を生きる喜びは一層深まり、隣人と愛し合いながら生きる恵みに満ちた豊かな人生へと導かれていく。

2012年4月15日 復活節第2主日

説教:「罪のゆるしの宣言」
聖書朗読:ヨハネ福音書20章24〜29節
説教者 : 北川善也牧師

 「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20:19)。彼らは、大勢の群衆同様、主イエスに対するある期待を抱いていた。それは、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放するため、主がこれまで示された奇跡の力で革命を起こし、地上の王として自分たちを導いてくれるというものだった。

 だが、そんな期待に反して主は十字架にかかって死んでしまった。彼らは希望を失い、同胞であるユダヤ人の敵視やローマ帝国の迫害を恐れて、家に鍵をかけて閉じこもるしかなかったのだ。

 ところが、そんなふうに意気消沈している彼らの前に、復活された主が御自ら近づかれ、彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 弟子たちは、これから福音伝道者として遣わされようとしていた。その福音の中心である「主の平和」は、神の御子以外に与えることの出来ないものだ。それを主から受け取らねば、誰も福音を宣べ伝えることは出来ない。

 そして主は、彼らに「手とわき腹をお見せになった」(20節)。主は、こうして復活の出来事を、十字架の出来事と結びつけて弟子たちに示された。そうしなければ、彼らは信じられなかったのだ。

 人間は見なければ信じられない弱さを持っている。トマスは、他の弟子たちが「我々は復活された主と出会った」と言っても、「私はその手に釘後を見、この指をそこに入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、決して信じない」と復活を認めようとしなかった。

 そんなある日、家に鍵をかけて閉じこもっていたトマスの前に主が現れ、こう言われた。「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。この出会いによってトマスはようやく復活を信じることが出来るようになった。主はそんなトマスに、「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである」と言われた。

 主を失った衝撃に打ちのめされていた弟子たちは、こうして主御自身が近づき、聖霊を与えてくださることによって復活を受け入れ、自信と信仰を回復させられた。

 そればかりか、復活の主との出会いは、彼らが人々に罪の赦しを得させる力さえもたらした。それは、神の御子の十字架のみに起源をもつ力だ。神の御子が、神と人間との間に入って執り成しをしてくださった。そして、この御方が人間の限界である死に完全な勝利を収め、永遠の命の先駆けとなってくださった。それゆえ、人間の罪が赦され、死の壁を突き抜けてゆくという道が開かれたのだ。

 弟子たちが復活の主と出会い、この御方から聖霊を受けることによって、キリストの福音が全世界に拡大していくきっかけが与えられた。主によって約束された永遠の命という何よりも堅固な土台の上に立ち、何があっても揺るがない平安をもたらされた彼らは、ようやく福音伝道の担い手として立ち上がることが出来たのだ。

 復活の主によって始められたこの福音伝道の働きは、やがて弟子たちから使徒パウロへ、またさらなる伝道者へと次々に受け継がれ、二千年の歴史を通じて決して途切れることなく世界中を突き進んできた。その働きが、復活の主による「あなたがたに平和があるように」という言葉をもって始められたことは大変意義深い。

 これは、今我々に語りかけられている御言葉に他ならない。主は、聖霊の働きをもって我々に御言葉を注ぎ、「見て信じるのではなく、見なくても信じる」よう招いておられる。主は、そのようにして我々に必要なものをすべて整え、最も善いものを与えてくださる。

2012年4月22日 復活節第3主日

説教:「豊かな実りを与える主イエス」
聖書朗読:ヨハネ福音書21章1〜14節
説教者 : 北川善也牧師

 既に二度、主イエスは弟子たちに現れ、彼らも「わたしたちは主を見た」(20:25)と言っているにもかかわらず、ペトロは"愛弟子"が「主だ」と言うまで、それが主だと「分からなかった」(4節)。

 また、20章で復活された主と出会った弟子たちには聖霊が与えられ、伝道派遣命令を受けているにもかかわらず、彼らはペトロたちの故郷に戻って漁をしていた。

 ここには、我々が本当に見るべきものをしっかり見据えているか、それを見失ってはいないか、という問いが示されているように思う。そして、本当に見るべきものから簡単に目を離し、日常生活を漫然と送ってしまう人間の弱さが、鏡に映すように見えてくる。

 ヨハネ福音書において、「見る」という言葉はとりわけ重要な意味を持っている。20章から21章にかけての主の復活に関する記事だけに限定しても、マグダラのマリアが復活のしるしである空虚な墓を「見る」、また、弟子たちが復活の主御自身を「見る」というような形で全部で6回使われている。そして、そのいずれも「理解していなかった」という結論に結びついている。つまり、ヨハネ福音書は、「見る」ことと「理解する」こと、すなわち「信じる」ことの関係に注目しているのだ。

 初め、多くの人々は主による奇跡の「しるしを見て、イエスの名を信じ」たが、主御自身は「彼らを信用されなかった」(2:23-25)。確かに、こうして主に従った人々は、この後、主を十字架につけよ、と狂い叫ぶ群衆へと変わっていく。主を「見る」ことと、主がキリストであると「理解」し、「信じ」ることは、直接的につながらないということなのだろうか。

 復活の主は、確かに弟子たちの目に見えるように姿を現された。しかし、それは、誰が見てもただちに主であるとはっきり「分かる」姿ではなかった。復活の主との出会いは、人間が好きな時に、自由意志で所有出来るような手軽なものではない。信仰において、今ここに確かに主がおられると信じられねば、誰も主がそこにおられることに気づくことは出来ない。しかし、その「信仰」そのものを与えるために、主は御自分の方から我々に近づき、御自身を現してくださる。それは、聖霊によって成し遂げられる御業に他ならない。

 弟子たちは、湖の沖で夜通し漁をしても何の収獲も得られなかったが、夜が明け、岸辺に現れた主の言われるまま(それが主だと気付かず!)に岸辺近くでもう一度網を降ろしてみると、思いがけない大漁を与えられた。しかも彼らが陸に上がると、主は彼らのために朝食まで用意して待っておられた。彼らは、復活の朝の光の中、思いがけない形で姿を現してくださった主の御言葉に従い、また主の用意された食卓に招かれることによって、新しい命のエネルギーを豊かに受けることが出来た。

 彼らは、この出来事によって、今自分たちの前におられるのが誰であるか理解した。彼らは、肉眼で見たからではなく、霊的な経験として復活の主が共にいてくださることを信じることが出来たので、もはや「あなたはどなたですか」と問う必要がなかった。

 実は、我々が望む前から、復活の主は一人一人の傍らに立っていてくださるのだ。我々があれこれと考える前から、復活の主は朝の光の中に、我々のために食卓を備えて招いていてくださるのだ。だから、我々はもはや暗闇の中を歩む必要などない。主との出会いへの招きに応え、その主によってもたらされる喜びを、絶えず新たにし続けることが出来れば、何も思いわずらうこともおののくこともない。今日も我々の中心に復活の主をお迎えし、この御方と共にこの世において我々に託されている業をなすため出かけていこう。

2012年4月29日 復活節第4主日

説教:「罪人を新たに生かす神の愛」
聖書朗読:ヨハネ福音書21章15〜19節
説教者 : 北川善也牧師

 復活された主イエスは、湖畔での弟子たちとの朝食後、ペトロに次のように尋ねられた。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。

 これに対してペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えると、主は彼に「わたしの小羊を飼いなさい」と命じられた。この問答は、三度繰り返された。ペトロは、繰り返される主の問いに悲しみを覚えた(17節)。

 彼はなぜ悲しんだのか。それは、主の問いにより、つい先日、主が裁判にかけられている時にとった自分の行動を思い起こさざるを得なかったからだ。その時、彼は事の成り行きを見届けようと大祭司官邸の中庭まで入り込んでいたが、周囲の人々から「あなたはイエスの弟子だろう」と問い詰められた。それに対して、彼は三度「知らない」と繰り返し、主を裏切ったのだ。その時、鶏が鳴いた。彼は、以前主が「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告されたことを思い出し、「外に出て、激しく」(マタイ26:75)泣いた。

 ペトロは、主に会わせる顔もないという心境だった。だが主は、十字架の死からよみがえられると真っ先に彼に現れ、同じ問いをあえて三度繰り返すことによって、彼が三度否認したことを帳消しにされた。こうして主は、彼の裏切りを赦し、彼を愛し続けていることを示された。このような主の徹底的な愛と赦しを受けて、彼は深い懺悔に導かれ、改めて主に従う決心を与えられていくのだ。

 さらに主は、「わたしの羊を飼いなさい」(17節)とペトロに命じられた。主は彼を「人間を取る漁師」にすると共に、「羊の群れを養う羊飼い」にするよう導かれる。主は、人間の弱さを責めるのでなく、その弱さを通してさえ神の栄光が現されるようにしてくださる。使徒パウロが、「わたしは弱い時にこそ強い」(Uコリ12:10)と語ったように、神の栄光は人間の弱さを通して光り輝くのだ。

 主は続けてこう言われた。「はっきり言っておく。あなたは……年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)。ここで「両手を伸ばす」と言われているのは、十字架の横木に腕を縛られている姿を示している。つまり、この言葉はペトロの殉教を予告しているのだ。主は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と命じられた。一度は主を見捨てて逃げ去った彼だが、復活の主と再会し、こんなにも弱く罪深い自分を救うために尊い命を捨てられた主の徹底的な愛に気付かされた。そして、自分も主のために、また主の御体である教会のために十字架を背負って主に従うという決意を与えられるのだ。

 復活の主との新たな出会いは、ペトロの心に大いなる希望を生み出した。それは、主の一方的な愛と信頼によってもたらされた。主を裏切った自らの行いによって傷つき、信仰が土台から崩れてしまったかのように見えた彼だったが、主は決して見放されなかった。

 ペトロは、他の誰より深く傷ついた弟子であると同時に、最も深く主によって愛され、いやされた弟子でもあった。この主の愛の中で、彼は罪の淵を漂う苦しみから完全に解放され、大いなる慰めを受け、喜びと希望に溢れて生きる者に造り変えられていった。

 主は、その人の過ちや罪をいつまでも問い続けられるのではなく、その人の将来において予定しておられる新しい存在へと目を向け、その人をそのように造り変えていかれる。主の愛のまなざしの中でこそ人は造り変えられ、再出発することが出来るのだ。

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